表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
唄を聴かせて  作者: 亜耶
3/3

後編

 あなたは、頑張って。

 そうすればきっと、いつか、救われる日がくる。


 だから、後悔しない道を選んで。

 



 私は、後悔なんてしていないから――



    ◇◇◇




 一人の少女は、雪原を疾走していた。親のような存在である青年の言いつけを守り、一度として後ろを振り返ることなく、一心不乱に走り続けていた。

 点々と雪に埋もれかけた布の切れ端。それを追い続ける少女、ルビィの脳裏には、あの日――ラズリに救出される前の出来事を思い出されていた。


 珍しい動物や、迫力のある芸を仕込まれた子供、そして希少価値の高い『唄い人』を各地で見せてまわっていた、名もない見せ物小屋。

 そこには、本来ならこの年頃の子に与えられる愛情の類など、一つもなかった。だから知らなかったのだ。そして、知らなかったからこそ、疑問にも思わなかった。そこでの生活が、人としていかに無情であったかも、自分がどれほど愛情に飢えていたのかも。




     ◆




「唄え! どうした、早く唄うんだ!」


 身なりの整った男の罵声が飛ぶ。周りで芸の練習をしていた鎖で繋がれた子供達の視線が、同じ場所に向けられる。そこには一つの檻があった。


「ごほっ、……声が、出ませ……ん」


 酷く掠れた声が辺りに響く。それと同時に声の主は大きく咳き込んだ。


「何だと!」


 怒気を含んだ声で叫びながら、男は手にしていた鞭をしならせる。


「唄えないだと? 馬鹿を言うな! いいから唄うんだ!!」


 男は顔を真っ赤にしながら、鞭で檻を打った。鈍い金属音が轟く。

 それから耳を逸らすかのように、子供達は自らの芸に打ち込み始めた。誰かが犠牲になっている間、自分達は平穏を得ることが出来る。子供達は本能でそれを知っているのだ。

 そしてそれは最近毎日のように繰り返されていることだった。


「無理……で、す。ごほっごほっ」


 檻の中で咳き込むのは、『唄い人』だ。年の頃で言うなら十五、六歳くらいの、外見だけ見れば十分に成熟した、美しい『唄い人』だった。その傍らにはまだ幼い『唄い人』が震えながら隠れていた。


「唄え! 唄うんだ!」


 男は知っていた。

 『唄い人』の寿命は短い。成人する前に、大抵の『唄い人』は死んでしまうことを。

 『唄い人』は金の卵だ。確かに元手はかかるが、この商売はそれの何倍もの収益を得られる。なくてはならない商売道具なのだ。

 加えて、男がここまで躍起になるにも理由があった。寿命の近い『唄い人』の変わりとなる新しい『唄い人』――檻の隅で縮こまり震えている少女に問題があるのだ。


「くそっ、最悪だ! 死にかけと粗悪品じゃ、どうにもならん!」


 高い金をはたいて買った新しい『唄い人』は喉を痛めた粗悪品だったのだ。なぜきちんと確認しなかったのか悔やまれたが、すでに遅かった。


「…………はぁ、はぁ……」


 大きく咳き込み崩れる『唄い人』を見下ろしながら、男は大きく息を吐いた。




「ルビィ」


 狭い檻の中で、胸を大きく上下させ呼吸する『唄い人』の傍らで、少女がぽつりと呟いた。それは今まさに命を終えようとしていた『唄い人』の名前だった。

 少女にとって年長であるルビィは、姉であり母親でもあった。声が嗄れた少女は、見せ物小屋の主に辛く当たられることも多かったが、そんな時も彼女は身を挺して庇ってくれたのだ。


「ルビィ」


 もう一度呼ぶ。

 その声に、ルビィは時間をかけて息を落ち着かせ、微笑んだ。


「私……もう、終わり……みたい」


 ルビィの白く細い指が、少女の頬に触れた。少女の深い青色の瞳には涙が浮かんでいる。


「……でも」


 はらりと落ちた滴を拭い、ルビィは続けた。


「あなたは、頑張って……。そうすればきっと、いつか、救われる日が……くる」


「ルビィ……」


 少女の顔がくしゃりと歪む。

 そんな少女の細い体を、同じく細い腕でルビィは抱き寄せた。


「だから、後悔しない道を……選んで」

 

 あの時ああすることが、唯一の道だったから、とルビィは小さく呟いた。それはまだ彼女が幼い時に選んだ道――貧しい家族を救うために自ら進んだ、今に至るまでの道のり。


「ルビィ……?」


 少女の呼びかけは、すでにルビィの耳には届いていなかった。そして、虚ろな瞳をを虚空に向けて、ルビィは微笑み呟いた。


「……お兄ちゃん……」




 母親を失った少女が、母親の言葉通り救われたのは、その三日後のことだった。

 そして名前を与えられる。

 ルビィ、と――。




     ◆




 ぴたりと、ルビィは足を止めた。 あの時聞かされた言葉を頭で反芻させながら、同時に口に出してみる。



「こうかい、しない道」


 ますます雪は激しくなっていた。早くしなければ、布の切れ端が雪に埋まってしまうことも、時間の問題だった。

 距離で言えば、ルビィはまだ半分も踏破してはいない。立ち止まる隙などないはずだった。しかし、少女はここにきて初めて後ろを振り返った。


「ラズリ……」


 促されるままに、一人雪原に残してきた青年の名前を呟く。

 行け、と声を荒げた青年。それはこの一年間の生活の中で初めてのことだと言えた。けれど、その時のラズリの目と同じ目を、ルビィは見たことがある。

 姉であり母親でもあった『唄い人』ルビィの死に際の瞳。それと同じだったのだ。

 ルビィは踵を返し、走り出した。

 それは青年ラズリへと続く、後悔しない為の道のりだった。




「……おかしなものだ」


 ラズリは呟いた。

 本来なら極寒であるはずの世界で、温度を感じることが出来ないのは、随分と不可思議だった。

 雪の上に横たえているにもかかわらず、冷たさを感じることのないラズリにとって、それはまるで羽毛の詰まった布団のように柔らかく感じられたのだ。

 しかし、体は寒さにかじかみ思うように動かない。仕方なく、ラズリは静かに体を横たえていたのだった。


「もう、着いただろうか」


 ぽつりと呟く。

 無事家に辿り着き、施設へ向かってくれていればいいのだが。 暗闇の中、辛うじてまだ生きている聴覚は、激しい風音を聞き取っている。それだけで、今の天候は容易に想像することが出来た。

 実際、ラズリが家を飛び出した時点よりも、天候はだいぶ荒れている。

 目印は埋もれていないだろうか、この風に吹き飛ばされていないだろうか、そんな思いが巡ったが、動くこともままならない今、ただ無事着いてくれることを祈るばかりだった。


「……今眠れば、死ぬな」


 先程から絶え間なく襲いくる睡魔に、ラズリは独りごちた。

 日々病状が進行することから、白化病の患者は眠ることを酷く恐れると言う。しかし、ラズリのこの状況で眠ることは死に直結することを意味していた。


「ごめんな、ルビィ。もう俺は、迎えに行けそうに……ない」


 見えない瞳に浮かぶのは、ルビィの泣き顔。迎えに来てね、と涙を流す少女の顔だ。

 ごめんな、ともう一度呟く。意識はすでに朦朧としていた。

 その時だった。

 嗄れた声が、暗闇に響いた。それは――ルビィの声。

 ラズリは、ふふ、と自嘲気味な声を漏らした。


「……幻聴だけは、はっきり聞こえるんだな……」


 もうその機能すら果たしきれていないと言うのに、ラズリの耳ははっきりとその声を聞き取った。

 聞こえるはずが、ないのに。

 ルビィはここから逃がしたのだ。そろそろ家に着いていてもおかしくないだろう。そうして施設に向かうのだから。

 だとすれば、これは願望なのだろうか。


「……はは……」


 笑いが込み上げた。

 ここにきて、ラズリは恐怖を感じていた。死ぬことが、こんなにも恐ろしい。ルビィの面影にすがってしまうほど、こんなにも。

 混濁していく意識の中、ラズリは呟いた。


「…………ルビィ」





 降りしきる雪の中、幾分頬を紅潮させ、ルビィは雪原に立ち尽くしていた。ぼろぼろになった藍色のワンピースをぎゅっと掴み、肩を上下させながら、白い息を吐き出す。


「ラズリ……!」


 降り積もった灰色の雪の合間から見えるのは、どこまでも白い青年――ラズリだ。


 ルビィは屈み、小さな手を真っ赤にしながら、ラズリの体の半分以上を覆う雪を掻き出した。雪は若干ではあるが弱まっていた。しかし冷え切った二人の体を埋めていくには十分だった。

 それでもなお、ルビィは諦めなかった。倒れたまま、ラズリの手を取り力の限り強く握り、掠れる声でその名前を呼び続けたのだ。




 やがて、あれほど激しかった風雪は止み、辺りには静寂が訪れた。そこには、ラズリの姿も、ルビィの姿もない。

 鈍色の雪は、そこにあった全てのものを覆い尽くしていた。





 酷く息が苦しい。

 そんな思いで、青年は意識を取り戻した。思わず咳込むと、幾分か呼吸が楽になる。目を開けると依然として、暗闇ばかりが広がっていたが、意識を失う前の朧げな記憶から、彼は今、自分が置かれている状況を思い出した。


「生きて、る……のか」


 死を覚悟した筈だった。暗闇の中、かすかに聞こえた幻聴にすがり、息絶えるのだと、そう思っていた筈だった。

 それなのに、なぜ――そう心の中で呟き腕に力を込めた瞬間、どさり、と音がした。その音を、ラズリの耳は確かに捉えた。

 彼は、それに触れた。視覚を失ったラズリがそれが何であるのか確かめる術は、それしかなかったからだ。

 そして、息を飲んだ。


「…………!」


 その手に触れたもの――それは、雪などでは決してない。その形を、輪郭を確かめる為に、彼はその何かを腕に抱きしめる。

 その輪郭を、ラズリは知っていた。


「そんな、まさか」


 思わず、自分の記憶を疑う。

 知っていてはいけないのだ。この場所にいるはずがないのだから。

 しかしそんなラズリの思いと裏腹に、それを強く抱きしめれば抱きしめるほど、確信してしまう。それが誰であるのか、思い知ってしまう。


「嘘だ……」


 どうして。

 どうして。

 どうして――。

 ただそれだけを繰り返す。

 言った筈なのに。振り返ってはいけないと、確かに。


「ルビィ……っ!!」


 ラズリの咆哮が、鈍色の雪原にこだました。

 その時、ルビィの紫色に変わった小さな唇がわずかに動いた。


「ラ……ズリ……」


 静まり返った雪原で絞り出される、かすかなかすかな声。しかしそんなルビィの声は、ラズリの耳には届かない。冷え切った少女の体を抱き涙を流す青年が、その少女の声に気付けるには白化病の症状は進行しすぎていたのだ。そしてルビィもまた、体を動かす力もないほどに、衰弱しきっていた。


「ごめんね……、いいつけ、やぶって……」


 体をぐったりと横たえたままのルビィの青い目から、涙がこぼれた。しかし頬を伝い落ちる涙に、ラズリは気付かない。


「でも、『ルビィ』に……言われたから。あきらめないでって……」


 弱々しい声でなおもルビィは言葉を紡ぎ続けた。それは悲しい記憶の断片に残る、彼の人の言葉。諦めないでと微笑んだ、母でもある自分と同じ名を持つ人の言葉。

 小さな唇から白い吐息が漏れる。

 霞む視界には、自分を抱く青年ラズリの姿が微かに映った。


「ラズリ……ごめんね。ルビィの声じゃ、だめなんだ……」


 救い養ってくれた白い青年。彼が病を患っていることは、ルビィにも分かっていた。

 何度試してみたことだろう――眠るラズリの耳元で唄うことを。それでも青年の病状の進行に変化はなかった。病はどんどんラズリの体を蝕んでいったのだ。


「ルビィの唄じゃ……だめなんだ」


 粗悪品と罵られた記憶が脳裏を巡る。

 唄い始めた途端、表情を曇らせ野次を飛ばした見世物小屋の客達。鞭で打たれた体は痛くて、喉は限界で。けれどそれを訴えることも許されなくて。

 そんなところから助け出してくれたのは青年ラズリに他ならなかった。


「ラズリを、たすけられたら、良かったのに……」


 溢れる涙は誰の手にも拭われることなくこぼれ落ちた。息も絶え絶えに絞り出されたルビィの声は、静寂に包まれたその場所であってもなお、雪に吸い込まれ消えていく。

 消えた言葉は、願い。

 それは容易なものであるはずだった。たとえ彼が既に白化病を発症した後であったとしても、正常な唄声であれば進行は最小限に食い止められたはずだった。けれどそれはルビィの嗄れた声では決して叶わない、途方もない願いだった。

 それでも諦められなかった。

 もしかしたら、と。


「ラズリ……もう一回だけ、ルビィの唄……聴いて」


 ルビィは目を閉じた。

 あの日、伸ばされた白い手を思い出す。反射的に唄おうとしたルビィの頬をそっと撫でたその手。もう唄わなくていいのだと告げた優しい声。細められた青みがかった銀色の瞳。


「――――……」


 紫色の小さな唇がわずかに開いた。そこからかすかにこぼれるのは、旋律――生きるために声が嗄れるまで唄ってきた唄。しかしその声はそれまで以上に嗄れ、自分自身にすら届かないほどに弱々しいものだった。

 それでも懸命に少女は声を絞り出した。これが最後だからとでも言うように、その唄に、その声に、全てを込めた。


 やがて、その唇から音のない空気だけが吐き出されるようになったその時、ルビィの頬に温かい雫が降ってきた。





「……帰ろう」


 ラズリはルビィの体を抱え立ち上がった。視界は依然として闇に包まれている。しかし意識を失う前に感じていた目眩は消えていた。


「帰ろう、俺達の家に」


 一歩一歩足を踏み出す。降り積もった鈍色の雪に足をとられ、幾度となくよろめきながらも、ラズリは進む。その方角が合っているかも分からず、ただひたすらに歩き続けた。

 すでに日は高く昇っていた。しかしラズリにはそれを知る術はない。ざくざくと足音を鳴らしながら歩を進めたその雪原には、一人分の足跡がどこまでも続いている。

 ふと、耳に残る旋律を口ずさんでいることにラズリは気が付いた。脳裏に浮かんだその旋律はひどく懐かしい、そんな思いに駆られるものだった。

 初めて手を差し延べた時、ルビィは唐突に唄い始めた。見世物小屋での教育によるものであることはラズリにも分かっていた。嗄れた声で唄われた拙い旋律――それはあまりに痛々しく残酷な現実だった。だから言ったのだ。もう唄わなくていいのだ、と。もう唄うな、と。それは約束でもあった。

 たった一度だけ聴いた唄――その唄をラズリは口ずさんでいた。まるでもう何度も聴いたことがあるかのように、一音一音をはっきりと覚えていることが不思議だった。

 思わず目頭が熱くなった。見えない目から涙が溢れる。喉が詰まった。


「――……っ」


 結局これは自己満足でしていた行為の結果なのだ。そんな分かりきった事実がラズリの脳裏に浮かんでいた。そして分かりきっているからこそ、激しい後悔が胸に渦巻いた。もし家を空けていなければ、もしもっと早くこの仕事を辞めていれば、もし始めから施設に預けていれば――。


 ラズリは涙を止めることが出来なかった。彼の頬を伝って落ちた雫は、ルビィの頬に落ちていく。ぽたぽたと止めどなく落ちていくそれは、まるで雨のようにルビィの顔を濡らした。

 その時、少女の目がかすかに開いたことに、彼は気付かなかった。


「……ルビィ」


 堪え切れず立ち止まり、ラズリは腕に抱える少女の名を呼んだ。髪を撫で、涙を流したまま見えない眼で天を仰ぐ。


「ごめんな……」


 それは謝罪の言葉――今まで救い出してきた『唄い人』にかけてきたその言葉を、最後に救えなかった腕の中の少女に捧げた。


 ルビィにラズリの声はすでに届いていなかった。涙を流す彼の悲痛な表情も見えなかった。それでも少女は、微笑んだ。笑みを浮かべたまま、音のない唄を唄い続けた。

 ラズリの耳にもまた、その唄声は届いていなかった。ルビィの笑顔も見えなかった。そして彼は、再び唄い始めた。唄いながら、歩を進めた。





   ◇◇◇





 やがて、唄声は消えた。

 鈍色の雪原に長く続いていた足跡も途切れた。その途切れた足跡の先にラズリは倒れていた。その腕には抱き抱えられたままのルビィの姿もある。

 ラズリはかろうじてまだ生きていた。しかし彼の体は、ついに限界を迎えていた。歩き続ける力はおろか、起き上がる力さえも彼には残っていなかったのだ。


「『ハク』だ!」


 そんな彼に投げ掛けられた言葉は、その姿を侮蔑する声だった。ラズリは首を持ち上げその声の主を見上げる。


「おっ! そいつは『唄い人』じゃねえか。ん……死んでるのか、ちっ、使えねえな」


 そこにあったのはそれなりの身なりをした太った男の姿だ。その背後にはこぢんまりとした建物がある。男は下品な笑みを浮かべラズリを足蹴にしたかと思うと、ルビィの髪を掴み上げ、死んでいると分かると乱暴に放った。


「どけどけ! 商売の邪魔だ! さて、買い主はまだか……」


 男は封書を手にし、落ち着かない。その顔面はニヤニヤと緩みきっている。

 ラズリは見えずとも確信していた。皮肉なものだと思う。もう最後と決めていたはずなのに――それでも彼にはそれを見過ごすことは出来なかった。

 腕に力を込め、懐にしのばせた刃の柄に触れる。起き上がる力はない。だからこそ力を振り絞り、声のするほう目掛け刃を放った。それは見事に男の体に突き刺さり、短く呻いて地面に倒れ込んだその巨体は、ぴくりとも動かなかった。


「……やったか」


 しかしラズリもまた、動けなかった。全ての力を使い果たし横たえた体には、もう何の力も入らなかった。その虚ろな瞳に映ったのは、開け放たれた建物の奥に置かれた小さな檻。その中にいるのはやはり『唄い人』の少女だった。

 少女は格子の間からラズリを見つめていた。突如として現れた白い人間に戸惑っていたのかもしれない。それでもやっと状況を理解したのか、少女は立ち上がり格子に駆け寄った。ガチャガチャと金属音を鳴らし、檻から出ようとその方法を模索する。その音はかろうじてラズリの耳に届いていた。


「ごめんな、もう動けないんだ……」


 彼は暗闇の先にいるだろう『唄い人』の少女にもその言葉を告げた。この仕事は全う出来そうにない――意識さえ、もう失ってしまいそうだった。


「情けないな……やっぱり最後はこんなザマだ。ルビィ、俺を恨んでるだろう……。俺と一緒に過ごしたこと、後悔してるだろう……」


 鉛のように重くなった腕で、ラズリはルビィの亡骸を探す。その指先がルビィの腕に触れ、そして小さな手を探し当てた。その手を掴みラズリは目を閉じると、そのまままどろみに身を委ね、今度は二度と覚めることのないだろう眠りにつこうとした――その狭間で、彼は唄声を聴いた。


 近く、遠く、響く唄声。

 それはルビィの声によく似ていた。いや同じ――そのものだった。少なくとも、今まさに眠りに落ちようとしていたラズリにとっては。





   ◇◇◇





「……唄、声……」


 夢か現か、ラズリには区別はつかない。だからこそ眼を開けた先にあったその姿に目を見開いた。


「ルビィ……?」


 そこにはいつもと同じ笑顔を浮かべたルビィがいた。金糸の髪を揺らし、お気に入りの藍色のワンピースを着た少女は、海のように深い青色の瞳を細め楽しげに唄っていた。その声は嗄れていない。


「ルビィ」


 ラズリは立ち上がると、少女の元に駆け寄りその体を抱きしめた。その小さな体は温かい。そしてその時にやっと、彼は目や耳はもちろん全ての機能が正常な働きをしていることに気付いた。


「ラズリ」


 青年の腕からひょっこりと頭を出し、名前を呼ぶ。


「ルビィはラズリのこと恨んでなんか、ないよ。それに後悔だってしてない」


 その声にラズリは顔を上げた。しかし目の前にいたのはルビィではなかった。

 金糸の髪と海のように深い青色の瞳、そして藍色のワンピースを着てラズリの正面に立っていたのは、『唄い人』。けれどその姿はおそらくルビィより十は上だろう。それは美しい、優しい笑みを浮かべた『唄い人』だった。その唇が、動く。


「私も、後悔なんてしてないから――ね、お兄ちゃん」


 その『唄い人』が放った言葉にラズリの心臓は跳ね上がった。

 今、彼女は何と言った?

 彼女は、まさか――。


「ルビィ……っ!?」


 しかしそう叫んだ瞬間には、すでにルビィは少女の姿に戻っていた。


「……ルビィ、だったのか?」


「ラズリ、ラズリ」


 小さく呟いたラズリの服の裾をルビィが引く。慌てて彼は笑みを向けた。少女の頬はほんのりと紅潮しているようだった。


「ねえ、ルビィの唄を聴いて。ねえ、ラズリ」


「唄を?」


 ルビィは懇願するようにラズリを見上げる。ラズリはすぐに答えることが出来なかった。痛々しい嗄れ声が耳に蘇る。けれど同時に、先程の楽しそうに唄うルビィの笑顔が脳裏に浮かんだ。

 ラズリは、ゆっくりと頷いた。


「ルビィね、ずっとずっと、ラズリに聴いてほしかったの」


 それはルビィのただ一つの願い。

 込み上げる涙を堪え、口を開く。その声を旋律に乗せ、何度も唄い続けた唄を唄う。

 優しい音色に包まれたその場所で、ラズリはその唄に耳を傾けた。それはずっと聴いていたくなるような、優しく不思議な旋律だった。


「……聴かせてくれ、ずっと――」


 唄声を邪魔しないように、ラズリはそっと囁いた。





    ◇◇◇





 鈍色の雪がしんしんと降りしきるある日、一人の『唄い人』の少女が人買いの元から保護された。

 檻に閉じ込められていた少女は、唄を唄っていた。救出されたその後も、唄うことを止めなかった。

 それは人買いの店の前で眠るように死んでいた白化病の青年と、同じく眠るように死んでいた同胞に向けられた鎮魂歌だと人々は噂したが、その真相は誰も知らない。





               了

最後まで読んでいただきありがとうございます!

感想・ご指摘等いただけたら嬉しいです(ここまで読んでいただけただけでも大満足ですが)

それでは、また次回作もよろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ