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幸せな夢を見ていた。あの頃の懐かしい夢を。
ーーおかあさま、だきしめてほしいの、子守り歌を歌って。
アリスが母にお願いした。母は柔らかい笑顔で微笑んで、
優しく抱き締める。
母の穏やかな匂いに包まれてアリスがウトウトとしはじめた。
頭を優しく撫でてくれていた母が、次第にアリスの髪をグシャグシャに
し始め、ついには髪を引っ張った。
ーーおかあさま、やめて! 痛い!
次に顔を見たときは、鬼のような形相で。
凍てつくような憎々しい視線をこちらに向けた。
ーーあなたなんか、わたくしの子じゃない! お母様と呼ばないで!
(どうして! おかあさま!)
「ぁ、おかぁ……っさまぁ」
そっとアリスの頬を冷たい手が触れた。気持ち良さそうに
穏やかな顔をする。
(ああ、おかあさまなんだわ)
「お……かぁさま」
安心して深く眠りのそこへ誘われていった。
(ここは?)
アリスの見知らぬ場所だった。近くには、誰もいなくて、心細くて起き上がる。
あの公爵邸よりも遥かに高価な調度品で、素朴ながら、おしとやかな
気品に溢れる部屋だった。
(たしか、夢かどうかは、ほっぺをつねって確かめるのだっけ……。)
恐る恐る手をほっぺに持っていき夢だと言い聞かせながら、力強く引っ張る。
「ぃた!……」
右の頬がじんじんと痛む。多分赤くなっているだろう。
(これは、夢じゃない……。逃げた方がいいわね。)
そうと思ったアリスは扉の前にたち、開けようとした。しかし
ゆったりと勝手に扉が開いていっている。呆然とその様子を眺めていたアリスだが、
またゆったり扉がしまろうとしているのに気づいて慌てて外に出た。
(あれは、魔術? ……でも魔力の残滓はなかったわ。っそれよりも早く状況を
理解しなくては。)
よく母と妹の理不尽な目にあっていたアリスである。
早く状況を確認し終えないと命の危険に関わることもあった。
(かなり広大ね。このような土地あったかしら。)
頭の中でこの世界の地図が出てくる。アリスが今走っている
この森は山に近い地形のような気がする。
それでたしか、インぺリスト帝国が一番領地が広いが、山がちな地形で
山脈が四つもあったはずだと思い出す。
走りながら辺りの地形をみて判断しようとするが、どうもここは、
アリスが目覚めた建物と同じ敷地内にある庭のようだ。
美しく整えられていて、野性味が感じられない。
庭師特有のきれいな切り方をしている。
(思い出してしまう。冬なのに雪が降っているなか
外が気に入らないからって枝の整備をさせられたこと。
外は吹雪で景色なんて見えなかったでしょうに。)
あのときは、ガチガチになりながらも頑張った。そのあと手は使い物にならない
し、高熱はでて、次の日の仕事ができなかった。
それでも、日課の公爵邸のすべての掃除と食事だけは作らされた、と地獄の
思い出が次々と出てくる。
(ぁ……やだ……思い出したくない)
ふと、湖が見えたところで足を止めた。湖には傷だらけの
自分が映っている。
ふと思ったのだ。
(なぜ、そんなに必死に生きようと私はしているの?)
バカだったわ、と笑いが漏れる。別に生きている意味なんてない。
あの時は逃げ出すことに集中していたけれど、その後なにができるかまでは
アリスも考えてなかった。そして、母や妹の影から
怯える毎日を過ごすことになるだろうとも。
(そう、お母様に殺されるのではなくて、自分で死を選ぶの)
陽に照らされて、光っている湖を陰りのある目で見た。
なにか熱に浮かされたようにゆっくりとした動きで
湖のほうに向かっていく。
(少しの間水に浸かれば……楽に)
アリスは少しずつ湖の中に浸かっていく。足から、太もも、
お腹、首まで浸かったところで、思いきり腕を引っ張られた。
「っ命を、粗末にしてはダメだ!」
湖の岸まで、引き上げらたアリスは、いきなりで何が起こったか
わからなかった。
ゆっくりと後ろを振り返ると、翠碧の男の子だった。
が、髪は、肩で、切り揃えられていて、女の子に見えなくもない。
(男の子、であっているわよね)
「ぁお名前……ぉききしめも?」
まだ、喉を痛めているらしくうまく声がでなかった。
それを無視し、態度だけは堂々とする。弱味を見せたら
終わりだということをアリスはいやというほど知っている。
「申し遅れてすまない。僕はインぺリス帝国皇太子アルベルトという」
「ぁら、わたしを不敬罪ぃで……ころぉします?」
うまく言えていないが、そこを無視してアリスは態度だけは自信満々で話す。
少し、アルベルトは訝しげにアリスを見る。でも、アリスの自信満々な態度を見たせいか
なにも言えなかったようだ。
(不敬罪で死ぬのもわるくないわ)
自殺するのを邪魔されたアリスは不敬罪で殺される方向に
変えた。アルベルトは少し驚いた様子で言った。
「そのよううなことはしない、僕の方が礼儀に欠いた行いをした」
それを聞いたアリスは目論見が外れるがそれでもなんとか不敬罪で殺して
もらうことをあきらめなかった。
そのまま、勢いをつけてアルベルトの襟をつかむ。身長差もあり、
持ち上げられなかったがこれでも十分不敬だろう。
「こぉれなぁら……どうです、ごほ、ごほ!」
驚き、固まっているアルベルトを一瞥して、うまく言えていないが、話す。
頑張って言ってはいるが、もうそろそろ喉が限界だ。
ちょうど端に人が駆けつけてきているのが見えた。
(ちょうどいいわ。この殿下はなにもされていないとはぐらかしそうだし、
証人になってもらいましょう)
より、強く力を込め、少なくともアルベルトが逃げられないようにする。
「き、きゃぁあああああ! 皇太子殿下ぁ! 皇女殿下?!」
(皇女?)
不審に思ったアリスが小声でアルベルトに聞く。
「皇女殿下って誰のことです?」
少々咳き込みながら訪ねるのを心配そうにみている
アルベルトはアリスが尋ねている内容に困惑の表情を
見せた。
なんで、そんな表情をしているの、そう聞こうとしたアリスだが
先程の人によってアルベルトと引き離されてしまう。
「なにをなさっておいでなのです!」
なにか、焦ったようにその人は言う。
「全身が濡れておられるではないですか! お部屋にいらっしゃらないし。」
(なにを……言っているの?)
今度はアリスが困惑する番だった。なにを話しているのかもわからない、
ーーそう、まるで、誰かと間違えているみたいに。
もし誤字脱字などがありましたら、お知らせしてくれると幸いです。