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6、過去と後悔とアイスコーヒー

 その日の朝のことは、今でも覚えている。

 洗いざらしのコックコートと、角を隠す背の高い帽子を身に着け、厨房に入る。

 待っていたのは、異様な出迎えだった。

 スタッフ全員、誰一人として身動きせず、厨房の作業台を囲むように突っ立っていた。

 顔は天井に向け、白い帽子が作業台の上に載せられている。

 そこにいるドラゴンも、ヒューも、誰一人として、僕を見なかった。


『みんな、何やってるんだ』


 その時の僕は叫んだだろうか、いつもより柔らかく諭しただろうか。

 ひとりひとりの肩を叩き、あるいは、柄にもなく胸倉を掴んだかもしれない。


『もう始業時間なんだぞ』


 どんなことをしても、誰一人、動こうとしなかった。

 そして僕は、事務所に向かった、はずだ。

 あるいは社長の私室に行ったのかもしれない。


『店長、あいつら――』


 僕の言葉を店長は、いや、師匠は黙って聞いていた。

 そして、こう言った。


『ここはな、子供の遊び場じゃねえんだ』


 その時のことは、はっきり覚えている。

 僕は、師匠を怒鳴りつけた。

 子供はあいつらだと、そんなことを言われるのは筋違いだと。そして、あいつらを全員店から追い出すべきだと。


『お前、ちょっと修行に行ってこい』


 それが、師匠の答えだった。


『三年、いや一年でいい。うち以外の店で勤まったら、帰ってくるのを許してやる』


 納得いかなかった。

 それでも、納得するしかなかった。

 彼は僕の師匠で、上司で、社長だったから。

 そして僕は、ウニベルツァーレを去った。



 目を覚ますと、ディルはけだるい体を起こして、部屋を見回した。

 ワンフロアの手狭な室内。テーブルの上には食べかけの総菜や、ワインのボトルが雑然と並んでいる。


 そうだ。何もかも面倒になり、途中で買い物をしてだらだらと飲み明かしていたんだ。

 空にした瓶の一本を目に留め、舌打ちする。

 適当に選んだその一本は、三万デナリ越えの白。何かの祝い事にでも飲むつもりで、うちのセラーにしまい込んでおいたものだ。


 最悪だった。

 台所に立って水をカップに汲むと、ぬるい液体を飲み干す。

 なにもかもが最悪だった。

 幸いにも、二日酔いはない。それでも最悪な気分には変わらなかった。

 一番最悪なのは、自分の中に強烈な負い目があることだった。


「最悪だよ」


 あれは全部、ひとつも僕のせいじゃない。

 彼女が勝手に期待して、暴走した結果の産物だ。僕が来なくても、破綻する未来は変えられなかった。


 大体、彼女が最初から素直に話してくれたら――。

 ため息をつき、ディルはバスルームに向かった。とにかくシャワーでも浴びて、すっきりしよう。

 シャワーヘッドからほとばしる湯を首筋に受けながら、昨日のことを思い返す。


 あの昼まで僕は店にいて、気持ちよく仕事をしていたはずだ。

 それなのに、今はこうして飲みすぎのだらしない不快を、お湯に流すに任せている。

 僕は悪くない、何一つだ。


 自分にできる限りをした。料理を作り、あの店に客を呼び込んだ。

 縁もゆかりもない店と経営者に、できるかぎりの協力と指導をしたはずだ。

 そして、彼女が望むとおりに、自分の作ったレシピさえ譲り渡したじゃないか。

 急ごしらえにしては、上出来の仕事のはずだ。


 そこまで考えて、白いドラゴンは諦めたように湿った個室から抜け出た。

 タオルで水気をふき取りながら、ふと洗濯かごをに目をやる。

 店で借りたコックコートが、まだ一着残っていた。本当なら昨日の晩に洗って、今朝までに干しておくつもりだったものだ。


 少し迷って、そのまま洗濯機に放り込む。

 かちり、という音が響き、あわててコートのポケットをまさぐると、小さな鍵が一つ転がり出てきた。

 店のスペアキー、さすがにこれは早めに返さないとならない。


「本当に、最悪だよ」


 絞り出すように、ディルはうめいた。

 それでも、やるべきことは決まっていた。



 昼の駅は、やはり暑かった。

 南に面する大通りは、ハレーションを起こすほどの明るさで、人々から輪郭を奪い取っている。


 コックコートを返したら、さっさと帰ろう。

 通い慣れた道を行き、いつもの角を曲がろうとする。

 そんなディル目の前を、竜便のドラゴンが追い越していった。


「おっと、ごめんな」


 あいまいに頷き、その場で立ち尽くす。

 彼はどこに行くのか、配達なのか、その帰りか。そして、あの道の先にある、アリシアの店に行くのだろうか。

 彼女は、営業を開始しているのだろうか。時刻はもう十一時を回っている。


 客は、店の事情など知るはずもない。

 ある日突然、店のスタッフが全て入れ替わり、味が全く変わってしまうことさえ、普通に起こるのが飲食という世界だ。


 だから、彼女しかいないあの店が『昔』に戻ったところで、驚くに値しない。

 その理由を、客が知ることがないだけで。

 ディルは小路に入らず、そのまま歩み去った。


 僕は何も悪くない。

 そうだ、僕はこれまでも、誠実にやって来たはずだ。

 アリシアは経営者だ。だから、雇った僕に事情を説明する責任がある。それを果たさない相手に従う必要はない。


 今まで辞めた店だって、大なり小なり、言うべきことがあった。

 自前でブロードを作るくらいなら、どうしてきちんと味を決めて出さないのか。

 出来合いの食材を使うなら、もっとコスト計算に気を使うべきだろう。

 ヒトの技術を金で買うのだから、最初から見合った金額を出せ。

 自分の扱いに不満があるなら、ふさわしい技術を身につけてから言ってくれ。


「僕は……」


 立ち尽くした体から、嫌な汗が流れていた。

 こんなにひどい気持ちになったのは、初めてだった。

 吹き出す汗と一緒に、重い不快感がとめどなく溢れていた。

 過去にも不満はあった、吐き出してしまえば、それでけりの付くものばかりだった。

 それなのに、どうして今になって。


「そこの君、大丈夫かな」


 背中から掛けられた声に、振り返る。

 そこには、昨日とうって変わった、ラフな格好のグラントが立っていた。

 サングラスこそ変わらなものの、花柄のシャツに白いハーフパンツ、サンダル履きで頭には麦わら帽子。昨日のいかめしいスーツ姿とは、別人だった。


「気分が悪そうだが、私の事務所で涼んでいかないか?」

「いえ、その……」

「そこら辺の、まずくてうるさいカフェに入るより、有意義な環境を約束しよう」


 彼はすぐそばの建屋を指さした。


『不動産仲介業 バーンズ』


「金融業じゃ、なかったんですね」

「はっは、なるほど。確かに昨日のやり取りなら、そう思われても仕方なかったな」


 浅黒い顔に、思いもよらない笑顔を浮かべて、グラントは差し招いた。


「うちもアイスコーヒーには自信があってね。ぜひ君の舌で、審判していただきたい」


 重たい気持ちがわずかに拭われるのを感じて、ディルは頷いた。


「はい、僕で良ければ」


 彼の事務所は、確かに静かで、落ち着いた環境だった。

 窓際の応接スペースは防音が効いており、社員たちは時折私語をすることもあったが、穏やかに作業を続けていた。

 出されたアイスコーヒーを一口すすり、思わず事務所の中に視線を走らせる。

 開け放たれた給湯室のすみに、柱時計のようなガラス機材が置かれているのが見えた。


「なるほど、水出しコーヒーですね」

「私の趣味でね、退勤前に仕掛けていくのが日課さ」

「八時間物ですか。この味、僕は好きです」


 時々、こういう趣味人がいて、こっちが驚かされることがある。余りある時間と熱意でプロを超える技を持つ人々だ。


「君も災難だったね」

「僕が……ですか?」

「あの子は昔から、ああいう性格なんだ」


 その言葉が指し示す人物は一人しかいない。つまり、このヒトは。


「知り合い、だったんですか」

「アリシアの父親とは、古い友人だ。彼女のことは小さいころから知っている」


 アイスコーヒーは程よいほろ苦さで、麦を炒ったような香りをほのかに感じる。

 まるで、目の前の人物のような、口当たりの良さがあった。


「君はどんな経緯であの店に? あの子とはいつ、知り合ったのかね?」 

「……まだ、出会ってそれほど経ってません。ほんの二週間くらい前です」


 正直、自分の中で気持ちを煮立てるのは、飽き飽きしていたところだ。

 ディルは淡々と、これまでの経緯を語った。


「なるほど。それは、うん、大変に面白い」

「渦中にいる僕たちにとっては、笑いごとにもなりませんけどね」

「僕たち、か」


 グラントはグラスを口に当てながら、目を細めてこちらを見た。

 歳の割に子供っぽい、つやっとした輝きがあった。


「とはいえ、彼女はこのバーンズ不動産の顧客であり、私的なつながりで滞納を誤魔化そうとした不良債務者だ。社長として当然、しかるべき処置をすることになる」

「分かっています。彼女はあんなことをするべきじゃなかった」

「……君は冷静だね。そして、生真面目だ」


 真面目だ、というのは、たびたび言われ続けてきたディルへの人物評だ。

 融通が利かない石頭、という陰口も聞いていたが。


「それで、これからどうするつもりかな」

「……どうもこうもありませんよ。彼女の店に、借りていた備品を返す、それだけです」

「その後は?」


 飲み干したグラスをテーブルに置き、ディルは立ち上がった。


「おかげで、いい暑気払いになりました。そろそろ、僕はこれで」

「この辺りは日差しが強いからね。道端で考え事をするのは、お勧めしないよ」

「ありがとうございます」


 脇を通り過ぎるとき、彼は思い出したように付け加えた。


「サウス・サンセレストのランディングポートを使ったことは?」

「ありません。空は苦手なんで」

「明日の朝、八時ぐらいに行ってみるといい。面白いものが見られるかもしれない」


 一体、何の話だ。

 いぶかしんで振り返るディルに、グラントはにこりと笑った。


「それは、どういう意味ですか?」

「さてね。意味があるかないか、判断するのは君だよ」


 彼は手を振り、テーブルの上に投げ出されていた新聞を読み始める。

 社長業特有のぞんざいさに、なんとなく師匠のことが思い出された。

 結局、ディルは軽く会釈すると、事務所を後にした。



 ランディングポートは、空の玄関口だ。

 外観は金属製のフレームがむき出しになった巨大なビルのようで、二十メートルくらいの高さで建築されるのが基本とされている。


 その役目は、ドラゴンの飛行の補助。

 最上階と中層階にそれぞれ設けられた射出用カタパルトと、着陸のための着陸施設、周囲の気象情報の発信や、近隣の航空管制を一手に引き受けている。

 ポートの周囲にはある程度の開けた空間を設けることが定めらており、大抵の場合、公園として開放されていた。


 ディルにとってはあまり縁のない場所だ。学校卒業と同時に飛ぶことからも遠ざかっていたし、航空免許も大きめの買い物で、身分証として使うのがせいぜいだ。

 解放された門を抜けると、中の盛況ぶりが見えてきた。

 軽食を出す屋台や子供用の遊具、座って休憩できる据え付けのテーブルや椅子、木陰の下にしつらえられたベンチ。


 時間がまだ早いせいか、行きかうヒトの群れには偏りがあった。ポートを利用する通勤者や竜便のスーツをつけたものが大半で、公園に憩うヒトの姿はまばらだ。

 そのドラゴンが目立つ集団の中に、彼女はいた。


「おはようございます、トラットリア『ヴォーノ』です!」


 往来に立って、手にしたチラシを配るアリシアの姿に、白いドラゴンは大急ぎでその場を離れた。

 声が遠ざかり、立ち姿として見えるギリギリまで下がると、手近な木の影に隠れて様子をうかがう。


 手にしているチラシはおそらく手製。手渡された者たちの反応は様々で、そのまま受け取っていくもの、断って通り過ぎるもの、内容も見ずに捨てるもの、様々だ。

 だが、問題はそこではない。

 彼女はいつから、この日課を始めたのか。


『ちょっと別件で遅れると思う。先に入っててもらってもいい?』


 新メニューを始める前日、彼女はそう言っていた。

 そして毎日毎日、店の始まる三十分前に出勤していたはずだ。

 つまりこれが、初動から続いた客の入りの理由。


「なんだよ……それ」


 気が付くと、彼女は足早に公園を去っていった。

 店の開店までには、まだ時間がある。おそらくまた別の場所で、あのチラシを配るつもりだろう。

 ディルはふと、ごみ箱に捨てられたチラシを拾い取った。

 そこには、いつの間にか撮影されていたボンゴレの写真と一緒に、店の場所と営業時間やメニューが書かれている。


 出版編集を経験した者の手によるそれは、素人目にもいい出来だと理解できた。

 自分の店に、人を呼び込みたいという意志の表れだった。


「どうして最初から、言ってくれなかったんだよ」


 めまいのするような気分だった。

 このチラシのことを知っていれば、グラントへの対応も違っていたかもしれない。


『あの子は昔から、ああいう性格なんだ』


 どんな気持ちで彼は、アリシアのことを評したのだろう。

 この二週間余りのことを、思い出す。

 彼女は、僕の働く姿を、奇麗だと言った。


 誰もが指摘されるのを嫌がる提案を、真面目に受け取った。

 自分の感情に素直で、思ったことを口にすることをためらわない。

 そのくせ、一番最初に告げるべきだった借金のことは、ずっとひた隠しにした。

 お店に人を呼び込むチラシの事も、今日までずっと知らなかった。


「別に、知る必要なんて、ないだろ」


 いつもなら、そう考えるのが当たり前だった。

 料理人は料理をするのが仕事で、スタッフの都合などはどうでもいい。店の運営に関わらないことを気にする必要なんてなかった。

 合わない個人パーツはそれなりに処置し、使えなければ取り換えればいい。


 それが仕事であり、大人の対応というもの、だったはずだ。

 でも、あの店は、なにかが違う気がした。

 ディルは手にした袋に詰め込んだ、コックコートに視線を落とす。


「……バカか、僕は」


 確かにバカな話だ。

 それでも、このざわついた気持ちを何とかする方法は、一つしかない。

 木陰から出ると、白いドラゴンは歩き出した。



 店に戻ると、アリシアはそっとため息をついた。

 カバンをレジの下に入れ、それから手早く着替えを済ませる。それでも、溢れてくるのはため息だけだ。


 昨日は最悪だった。

 押し寄せる客と、うまく行かない調理。折角来てくれたお客さんも、かなりの数出て行ってしまった。


 このままでは、元通りになってしまう。

 むしろ、一度良くなった分、今度こそ本当に、見捨てられた店になってしまう。

 それでも、何とかしなくてはならない。

 自分で勝手に始めたことだ。だからこそ、最後まで自分でやり遂げる。


『そういう立派な台詞は、ちゃんと経営者をやってからにしてくれ』


「ほんと、そうだよね」


 笑うしかなかった。

 この店を立て直したのは、わたしじゃない。今だって、彼が好意で残してくれたレシピにすがっているだけなのに。


 わたしはいったい、何をしようとしていたんだろうか。

 この十か月の間、ひたすらあがいて、無意味な行為を繰り返していた。最初は同情してくれた人も、結局は離れていった。


 分かっている、自分には料理の才能がない。

 火にあぶられていくフライパンを見ると、それ以外が目に入らなくなるし、鍋が噴きこぼれて初めて、パスタが茹ったと気が付くほどだ。

 手伝いの料理人を雇うことは、できなかった。

 雇うお金も無かったし、なにより時間がなかった。


『君のお父さんとの契約でね、この店は今月中に処分する』


 グラントさんに、待って欲しいと言ったのはわたしだ。本来なら十か月も前に無くなっていたはずの、この店を続けるために。

 何のために?


「お父さん……」


 最後まで、お父さんは何も言わなかった。

 この店を続けた末に、内臓のあちこちが悪くなっていたことも、病院に緊急搬送された時に、初めて知った。


 わたしが就職して、ようやく仕事に慣れたころには、もう色々と手の施しようがなくなっていたのだと、主治医の先生から聞いた。

 優しくて、わたしのことをずっと応援してくれていたお父さん。

 でも、自分に関することは、一言も口にしなかった。


「どうして、何も言ってくれなかったの」


 わたしでは助けにならなかった? 

 自分の病気で心配をさせたくなかった?

 なにより、このお店のことをわたしに言い残さなかったのは、どうして?

 答えもないまま、私は投げ出されてしまった。

 だから――。

 その時、からりと音を立てて、店の扉が開いた。



 上げた視線の先、戸口に白い姿が立っている。

 白いドラゴンは店内を見渡して、こちらに近づいてきた。


「……鍵とコックコート」

「え?」

「借りてたものを、返しに来た」


 手にした袋が突き出され、その場で立ち尽くす。

 本当は受け取りたくなかった。そうすれば、今度こそ本当に関係は終わってしまう。

 それでも、裏切り同然の行為をしたのはこっちで。


「どうして」

「え?」

「どうして、何も言ってくれなかったんだい」


 彼はあきらめたように袋を降ろし、その代わりに問いかけてきた。

 確かに、それを聞くのは当然だろう。

 でも、なんて言ったらいいのか。

 わたしだって、今の今まで、まともに考えられないまま来たのに。

 とりあえず、分かっていることは。


「怖かったんだと、思う」

「僕に断られるのが?」

「本当のことを言ったら、たぶん、付き合いきれないって、言われると思ってた」


 見る見るうちに、彼の眉間にしわが寄っていく。

 とはいえ、いまさら隠し立てをしてもしかたない。


「最初からディルは、プロの人として接してて、お金のこととか、契約の事とかも、きちんとしてたから」

「給料のことは?」

「お店を売ったお金で、必ず払うつもりだった。それは誓って、本当だよ」


 彼は盛大に、深く深く、ため息をついた。

 それから、ポケットの中から、一枚の紙切れを取り出した。

 うちの店のチラシ、わたしのお手製の奴だ。


「確認するけど、これ、初日から撒いてたのかい?」

「う、うん。その……なにか、まずかった、かな」


 彼はどうにも形容しがたい顔で、うなっていた。

 強いて言うなら『ぐぬぬ』って感じで。

 それから、顔を引き締めてわたしに尋ねた。


「グラントさんとの契約は?」

「個人的な借金を抜けば、家賃は六か月分滞納してる。そもそも、今月中に二十万デナリ払えないと……」

「昨日までの売り上げは?」

「えっと、ちょっと待って」


 大急ぎで帳簿を持ってきて、ディルに手渡す。

 彼は細かい数字を目で追いながら、呪文でも呟くように、内容を吟味していた。


「ここ二週間の売り上げが、一日平均二万デナリ前後、大雑把に計算して、純利は三千ぐらいかな」

「えっと、つまり?」

「このまま営業を続けても、目的の金額には届かないってことだよ」


 分かっていたことだが、彼の発言は常にシビアだ。

 同時に、納得のいかないこともあった。


「材料費やお店の維持費は仕方ないとして、そんなに手元に残らないの?」

「君のことだから、仕入れ先の買掛金も溜まってると思うんだけど、どうかな」

「……そ、その通り、です」


 ディルの手前、最近の仕入れは無理して現金払いしてたけど、本当はいろんなお店に買掛金という『借金』が溜まっている状態だ。

 彼は怒った様子もなく、淡々と事実を積み上げた。


「本当はもう少し、利益率を高く計算しても良かったんだけど、そういうことだから色々差し引いた。で、借金返済に充てられるのが、一日約三千デナリ」

「それじゃ……やっぱりこの店は……」


 わたしの言葉を聞き終わる前に、彼は上着を脱ぎ、コックコートに袖を通す。

 帽子をかぶり、前掛けを整えてから、言った。


「僕は最初、この店をどうやって軟着陸させようかって考えてた」

「軟着陸って……その、この店を閉めるってこと?」

「素人考えのお店屋さんごっこ。そうしたほうが君のためにもなると思ってた。けど」


 白い指が指し示したのは、わたしの作ったチラシだった。

 そして、少しだけ口元を緩めた。


「そういうものを作って、自分から配り歩けるヒトなら、もう少しだけ付き合ってもいい……そう思った」

「ディル……」

「勘違いしないで。僕の考えは変わってない」


 彼は厨房に入り、カウンター越しにわたしに向き直った。


「借金をなるべく返済して円満に経営を終了させること、それがベストだ。こんな借金まみれのいい加減な店、続けても誰も得をしないからね」

「すごく言い返したいけど、何もかもごもっともです、はい」

「でも、もし万が一、二十万デナリ払えたなら」


 ディルは笑っていた。

 照れたような、はにかんだ顔で。


「そのまま、ここで働いてもいい、とも思ってる」


 どういう気持ちの変化があったのかは分からない。

 やり残した仕事を片付ける、そういうプロ意識が強かったのだろう。

 それでもわたしは、嬉しかった。


「もちろん、大歓迎だよ」

「そうと決まれば、さっさと店を開けようか」


 彼は店の外に顔を向けた。

 開店を待って、こちらを眺めるヒト達が何人か見える。


「それと」


 手元を準備しながら、珍しく歯切れの悪い声で、付け加えた。


「昨日、店に出なくて、ごめん」


 アリシアは頷き、笑顔で返した。


「戻ってくれて、ありがとう」

水出しアイスコーヒーはおいしいですね

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