1、八月と失業とまずい飯(その二)
「嫌だ」
そう告げられた彼女の顔は、なんとも言えない顔をしていた。
強いて表すなら『ぐぬぬ』だろうか。
「そ、その、なんで」
「なんでって、見ず知らずの、料理未満の代物を出してきたヒトの頼みだよ? 聞くわけないじゃないか」
「そ、それでも、どうかっ!」
「大体、助けてくれって、僕に何をさせるつもりなんだい?」
少し考えて、彼女はのろのろと、答えを口にした。
「さっき、料理の話をされたときに、ピンと来たというか」
「なにが?」
「多分あなた、料理人、ですよね。プロの」
やっぱり余計なことを言うべきじゃなかった。ため息をつきつつ、ディルは女の子の意思をくじくために、率直なところを口にした。
「一か月、三十万デナリ」
「――は?」
「僕を雇うつもりなら、そのぐらい用意してほしい。値下げ交渉には応じないよ」
やはり、こういう時に効くのは金の話だ。実のところ、前の職場では手取り二十万ぐらいで妥協したが、本来なら最低でもこのぐらいは欲しい。
一瞬、うつむいた彼女は、顔を上げて宣言した。
「わ、分かりました。払います」
「――は?」
「三十万デナリで、あなたを雇います」
いったい、これは何の冗談だ。
この店の経営状態では、払いきれないだろうと踏んだのに。
顔を紅潮させてこちらを見つめる彼女に、ディルは言葉をつづけた。
「ぶ……分割も、滞納もなしだ。一月働いたら月末には満額だよ?」
「も、もちろん!」
「少しでも遅れたら、その時はすぐに辞めさせてもらう。もちろん、どんなことをしても働いた分は払ってもらうからね?」
「当然です!」
冗談じゃない。こんな地雷案件、絶対に関わってられるか。
とはいえ、望んだ金額を払うと言われた以上、こっちからは引き下がれない。
なんとか相手に、断らせるよう仕向けないと。
「君、いつからここで働いてる?」
「……そろそろ、十か月になる、かな」
「今月の売り上げは?」
「あなたが、初めて、です」
聞けば聞くほど、嫌な話がどんどん出てくる。
素人が壊滅寸前まで追い込んだ店を立て直すなんて、どんな苦労が待っていることか。
「僕は料理人であって経営者じゃない。手伝うのは料理まで、それ以外は全部、君にやってもらうよ?」
「は、はいっ」
「僕が良いものを作ったとしても、お客さんが来なかったら売り上げもない。それでもいいんだね?」
「はい」
そこまで言って、ディルは考えを変えた。
十か月も掛けて評判を落とした店だ、そう簡単に客は戻ってこない。自分の給料も含めれば早くて二か月後、経営が立ち行かなくなって潰れるだろう。
その間、この店は自分の自由になる。
どうせ何の予定もない身だし、すぐに新しい職場を探す気にもなれない。この店をキッチンスタジオ代わりに、新しい料理を考えるのもいいだろう。
「仕方ない、給料の話を出したのは僕だしね」
「それじゃ……!」
「店に入るのは明日からでいいかい?」
「は、はい! 私はアリシア、アリシア・フォルネーラです」
差し出された片手を見て、ディルはわずかにためらい、それから握り返した。
「ディリルゥイナ・パルフィータ、ディルでいいよ」
きりが良くなかったので分割投稿です