1、八月と失業とまずい飯(その一)
「今回は済まなかったね、ディルさん」
ひげ面の男は、薄く染みの残るコックコートごしに、肩をすくめた。
笑顔で、愛想良く、極めて丁寧だ。
とても社交的な態度に、ディルは同じぐらいの愛想で笑い返した。
「気にしないでください。こういうことは慣れているんで」
「……俺としても残念なんだ。君のような経験豊かな」
「ですから。気にしないでください、慣れているんで」
気まずい沈黙が下りた。
薄暗い店内には、活気のない冷えた空気が漂っている。
テーブルクロスの敷かれたテーブルは六台あり、その一番厨房寄りに置かれた場所で、二人は対面していた。
店の出口付近に置かれたケーキ用の陳列ケースから、静かにモーター音が流れてくる。
カウンター越しに見える厨房では、いくつかの寸胴鍋が下からの火にあぶられ、蒸気を吹きながら、くつくつと食材が煮えていた。
「奥のブロード」
「ん?」
「仕上げの調整がいりますね。あれだとソースでもスープでも、少し弱い」
「あ……ああ。分かった、やっておくよ」
気の抜けた返事に、なけなしの愛想が尽き果てた。
床に置いたカバンを拾い上げ、立ち上がる。
「それじゃ、失礼します。お疲れさまでした」
彼も立ち上がり、手を差し出す。
儀礼的に、ディルも自分の手を差し出した。
握手。そして振り返ることもなく歩き出す。
店の扉を抜けると、空を見上げ、彼は毒づいた。
「あんな味で満足してるから、三流なんだよ」
その声をさらうように、暑さを含んだ風が肌をなぶった。
洗いざらしの綿のチュニックは、今の空模様を映したような青。その下の素肌は、盛り上がる夏の雲のように白い。
そして、街路に面した店の大窓に向けられる、尖った口吻。
『シェフ募集。年齢二十二歳から。経験者優遇。
試用期間二か月、能力により短縮在り。
給与は応相談のこと。リストランテ「ナポリターナ」』
張り出された紙は真新しく、日に焼けた様子もない。
インクの様子からも、書かれたのはごく最近だと想像できる。
幸い、窓にはカーテンが掛かっていて、開店までは開かない。
だから、募集要項を不機嫌に見つめるディルの姿を、店長が見ることなかった。
癖のない銀灰色の髪と、クリーム色の角。細められたまぶたの間に、金色に輝く瞳。
細いマズルは、不満と怒りに歪められていなかったら、十人並の美形と言えるだろう。
波打つ気持ちに合わせて、背中の翼が緩やかに開閉する。
怒ったときのディルの癖だった。
「どうせ、こんなことだろうと思ったよ」
鼻息を押し出すと、怒りはもう消えていた。
残ったものは、奇妙に冷えて、むなしいばかりの空虚感だけ。
踵と一緒に、しなやかな尾をひるがえすと、今度こそ後も見ずに歩き出した。
駅前に続く歩道には、たくさんの『ヒト』が行きかっていた。
季節は夏のさなか。身に着けている服装も、みな軽装だ。
目に鮮やかな柄物のシャツ、薄い色のショートパンツという組み合わせが多い。
それよりフォーマルな格好をしているのは、近くのオフィスに詰めている連中だろう。
さすがにスーツは身に着けておらず、ワイシャツか控えめな柄の半そでだった。
街路の両脇には、比較的こじんまりとした建物が並ぶ。景観統一のため、壁の色はクリーム色で統一されていて、二階のベランダには緑の鉢植えが、まばらに置かれていた。
『おはようございます。午前十時になりました。ニュースをお伝えします』
歩いていく道の先に、大きなスクリーンが見える。
映し出されたのは、薄いピンクの肌を持つキャスターの顔だ。
『フェオリア自治政府は先日の統一政府会議において、惑星の総人口を二十億を越えたと発表。二十か年計画における目標を達成したと宣言しました』
何やらめでたい話なんだろうが、自分にとっては興味のない話題だ。ニュースを読む彼女の方は、そこそこ気を引かれた。
深みのある声と、切れ長の目、なめらかな鼻筋。
ほんの少し、不機嫌が遠ざかる。
『この宣言に際し、トフォドラス首相は「我々の祖先がはぐくんだものが実を結んだ。大変喜ばしいこと」と声明を発表しています』
その後、モニターに写されたのは、平板な顔立ちの男の姿だ。
芝生に設けられた演説台で、アナウンサーが要約した声明を述べている。
声明を発表する『彼』と、ニュースを読み上げた『彼女』。
すべらかな顔と四肢を持ついわゆる『ヒュー』。
そして、ディルや彼女のような、翼と尾と、尖ったマズルを持つ『ドラゴン』。
それがこの星の上で生きる『ヒト』だった。
それが当然の事として生きてきたディルにとって、過去のヒトたちがどうとかいう問題は、割とどうでもよかった。
おそらく、往来を行き来する大半の群衆にとってもそれは同様で、ニュースは世間の動きへと話題を移していく。
『昨日、マレーネサーキットにて、サラマンダー・ブレイズ、マレーネGPが開幕。会場は詰めかけたファンで賑わいました』
今度はどこまでも広い空間が写され、無数に突き立った高い柱の間を、ドラゴンたちが飛翔する姿が現れた。
世界的に人気の飛翔競技、サラマンダー・ブレイズ。子供たちにとってプレイヤーは憧れの存在であり、ディルも昔はそれなりに関心があった。
『予選一位の記録で本戦出場を決めた、シエル・エアリアルのライル・ディオス。前回のネグラスタGPに引き続き、マレーネGPでのポール獲得が期待されています』
特徴的なボディースーツに身を包んだ青いドラゴンが、インタビューのマイクに囲まれている様子が映し出された。全身に企業のロゴやステッカーが貼られた姿は、文字通り空飛ぶ広告といった風情だ。
誇らしげにレースの展望を語る様子を、ディルは視界から追い出して、足を速めた。
どこへ行くというあてもなかった。
見ていたくなかっただけだ。自分より一つ年下の青年が、輝いているさまを。
「どうするかな、これから」
勤めていた店は、ついさっき追い出された。
たった三か月分の給料。それが、あの店で獲得したディルの報償のすべてだ。
アパートの家賃、水道光熱費、毎日の食事。考えれば考えるだけ、先の展望が細っていくのを感じる。
貯金もないわけじゃないが、それだって切り詰めてどうにか、という程度だ。
何もかも、うまくいっていない。
そんな気持ちを、夏の日差しが容赦なくあぶった。
白は光を吸収しないから涼しいだろう、なんて羨ましがられることがある。
とんでもない話だ。
光を反射するから目はちかちかするし、体色に関わりなく翼の内側に熱がこもるので、ろくなことがない。
結局のところ、ドラゴンにとっても、夏は暑いだけだ。
こういう時はどこかのカフェか小料理屋にでも飛び込んで、アイスコーヒーかスプマンテでも呑みつつ、やり過ごすに限る。
オープンテラスになっている一軒にあたりをつけ、看板のメニューを確かめた。
「グラス一杯、八百デナリか」
駅前通りの相場は、大体こんなものだ。人通りが多い分地代も高いから、料理も飲み物も高値をつけることになる。
店の奥にあるワイン用の冷蔵庫に視線を向け、イライラしながら店から離れた。
全て安手のテーブルワイン。儲けたい気持ちはわからなくもないが、あれでは吹っ掛けすぎだ。自分ならグレードを一つ上げて、同じ値段で出すだろう。
「ああ……くそっ」
何もかもが、うまくいかない。
暑くて、仕事もなくて、金もない。
逃げるように、ディルは建物の隙間のような、細い小路に入り込んだ。
夏の輝きと熱をはらんだ表通りと違い、裏路地は思った以上に涼しかった。
涼しい木陰をさしかける庭、朝の湿った空気の残る家の影、足元には近くの川から引いた流れがあって、水草や小魚が見えた。
観光と見栄えは表通りに任せ、裏は町に住む者のオアシスとして整備した、と言ったところだろうか。
この三か月間、仕事のことで頭がいっぱいで、こういう散策をしていなかった。
もう少し余裕があったなら、この辺りを何日もかけて開拓していたはずだ。
まあいいさ、時間はたっぷりある。
ディルは笑い、行く手の路地を眺め、歩き出す。
そっけない建屋の間で、花のように自己主張する店舗を見るのは、とても楽しい。
雑貨屋の軒先につるされた小鍋やフライパンが、風に揺れる。
そういえば、家のソースパンも持ち手が怪しくなって大分経つ。そろそろ買い替えた方がいいだろうな。
しゃれた窓枠とアーチの掛かったドア。期待を込めて近づき、がっかりする。
どうして美容院って奴は、カフェやレストランに外観を寄せてくるんだろう。
涼しい空気の中、行く手から、揚げ物や肉の煮込みの濃い匂いが流れてきた。
地元密着の総菜屋は、太ったドラゴンのおかみさんが切り盛りしている。少し迷って、ガム抜きの炭酸水と、もつのトマト煮サンドを買う。
「うん……いいな」
雑に扱われたバケットはパサついていたが、かえって、もつ煮の汁気とうまみを吸ってくれている。味に関してはこれで十分、むしろあのレストランより、こっちの方が上かもしれない。
食べながら、今は眠りについている小さなバーの前に向かい、ガラス越しに眺めた。
いい店だ。
小ぶりだが適度な奥行があって、整理も行き届いている。棚に並べられた瓶のラベルを確かめ、店主の目利きぶりを心の中で称賛した。
値段はそれなり。今の懐具合では常連になるのは望めないが、一度は表敬訪問したいところだ。
なんだ、いい街じゃないか。
自分にもう少し運があったら、さっきの総菜屋で朝食を買って出勤し、帰りにここのバーで一杯やりながら疲れをいやす、なんてこともできたろう。
そんなことを考えていると、胃袋が自己主張を始めていた。
さっきのサンドイッチでは足りない、もう少し入れてもかまわないぞ、と。
気が付けば、通りの光景はだいぶ静かなものに変わっていた。店の数は少なくなり、あったとしても休業か、夜の営業のみという状態だ。
表通りには、ファストフードやチェーンのレストランがあるのは分かっている。
とはいえ、いい気分の締めくくりを、ありきたりな味で終わらせるのは、納得がいかなかった。
一軒だけ、開いている店が目についた。
赤いレンガの壁、年季の入った窓枠とあせたガラスの質感。少し近づいて裏手の換気扇を確かめる。排気口の周り、手入れしても落ちないほどになった油じみがある。
十年か十五年か、そのぐらいだろう。年季はそこそこ入っていた。
「どうするかな……」
ここに入るのは、はっきり言って賭けだ。
この手の店は多少味がまずくても、値段や人付き合いの関係で『生き残ってしまう』ことがよくある。
反対に、都会の喧騒と高い地代を避け、お値打ちの逸品を出すことに苦心する老舗である可能性も捨てきれない。
結局、ディルは店の扉を開いた。
『ランチセット六百デナリ』
その張り紙が、最後の一押しになった。
「い、いらっしゃいませー!」
若干上ずった呼び声。
厨房の方から駆け出てくるのは、自分より頭一つ低いヒューの女性だ。栗色の長い髪を束ね、大ぶりなコックコートを身に着けている。
「お客様は何名様でしょうか!」
「……ひ、ひとり、です」
「はい! それではこちらの席へ!」
子犬みたいな愛想と笑顔を振りまいて、テーブルへ案内してくれる。
促されるままに席に着きながら、ディルは心底、後悔していた。
この店は、きっと駄目な方だろう。
六百デナリのランチというのはかなり格安で、夜の仕込みを含めて、材料費を計算しなくては付けられない値段だ。
それなのに、店の中に客がいない。
すでに時刻は十一時を回り、早い所なら休みになっている職場もあるはずなのに。
何より、この店には独特の空気が流れていた。
人気もなく落ちぶれ、世間から見捨てられかけた店にある、空虚さだ。
店の活気は厨房から始まる。
ガス台やオーブンの火、鍋から立ち上がる湯気、まな板で食材を切る音。フライパンで煽られ、じうじうとつぶやきながら調理される食材たち。
そして、やってくる客たちが思い思いに食事をし、言葉を交わし、やがて家路につく。
そういう積み重ねが気配として残り、店の雰囲気を作り出す。
だが、ここにはそれがなかった。
四台あるテーブルのうち、自分が着いたもの以外、客の意思で動かされた形跡がない。 店側の都合で整えられた無意味な正確さが、示されているばかりだ。
ガラス張りの冷蔵庫に入ったワインやドリンクのボトルも、出番を待ちくたびれ、ラベルの一部がわずかにふやけていた。
長い事、だれも寄り付かなかった劇場、あるいは手入れのされていない庭のように、ヒトと活気を思わせるものもなく、さびれている。
その沈黙に近い世界で、さっきの女性が、必死になっている音が聞こえてくる。
「うわぁ……」
それがディルの率直な感想だった。
料理学校に入ったばかりの素人でも、ここまでひどい音を出すものはいないだろう。
たどたどしい包丁の音。無駄に開け閉めされる冷蔵庫の扉。フライパンに投入された何かが、激しく油跳ねを起こした。
「ひゃあっ!?」
今すぐ飛んで行って、叫んだ彼女の代わりを務めたくなるのを、必死に抑えた。
次第に漂ってくる匂いから、おそらくハンバーグを作っているということは分かる。
そして、一向にフライ返しを入れる音が聞こえないことも。
おいおい、ちょっと待って。
フライ返しを入れておかないと、こびりついて――。
「あ、あっ! あぅ……」
結果は見ないでも分かる。慌てて何とかしようとしたせいで、こびりついた部分と本体のハンバーグが割れてしまい、形が崩れたのだ。
必死にこそげ落としながら、裏返しにして焼こうとする姿さえ見えるようだ。
テーブルに肘をつき、ディルは両手で顔を覆った。
これは、生涯に一度あるか無いかの、大外れだ。
店構えこそ年季は入っているが、それを担当する者が、致命的な下手くそだった。
どうしてこうなった。理由はいろいろありそうだが、正直知りたくもない。
「お、お待たせしましたー」
待ってない、断固として。
そう思いながら顔を上げれば、出てきたのは予想通りの代物だった。
型崩れして、二つに割れたボロボロのひき肉の塊。
百歩譲ってミートボールか何かだとしても、あからさまに焦げ付いたところをはぎ取って、そのままお出ししました、としか見えない。
隣に飾られた人参のグラッセとインゲンは、意外ときれいな形で並んでいる。
その秘密は、この付け合わせが冷凍物だからだ。省力化したい店の厨房に卸される、レンジであっためて使う代物。
だから、一緒に供されたサラダが雑そのものでも、不思議とは思わなかった。
レタスを包丁で切らなかったのは立派だが、手でちぎるにしても、せめて大きさはそろえて欲しい。
最後に、インスタントのコンソメスープが目の前に置かれたところで、とうとうディルは音を上げた。
「ごめん。やっぱりいいです。代金は払うけど、廃棄しておいてください」
「……う」
その顔に強いためらいを浮かべて、それでも彼女は必死に反論してきた。
「た、食べてもいない人から、代金は受け取れません。お金は」
「……そういう立派なセリフは、まともな料理を出してからにしてほしいな」
口から、思った以上の怒りが漏れていた。
財布から硬貨を取り出し丁寧に並べると、苦言を付け加えた。
「僕はこのお店に栄養補給をしに来たわけじゃない。料理を食べに来たんだ。お金と時間と、期待を込めて」
「は、はい」
「空腹を満たしたいなら、ファストフードにでも行くよ。でも、こういうお店を出しているヒトに、ここでしか食べれない料理を要求するのは、間違ってるかな?」
夏の日差しにあぶられた、重いいら立ちが、背中に戻ってきていた。
こんな子が平然と、料理以下のものを出しながら店をやっているのに、自分は。
「……ごめん、言いすぎた。ともかく、お代は置いてくから」
「あ、あの!」
「別に気にしなくていいよ。この店のことはもう」
「違います!」
すがりつくように近づいてきた彼女は、ディルをまっすぐに見据えて言った。
「この店を、助けてもらえませんか!」
ということで、ホントはもっと早めに投稿したかった作品。
potatoと世界観が同じ、というか、時間軸的には二年ぐらい前に起こったエピソードです。