娘だけがわかっていない件について
マリグレーテ・ディトリッヒは居間でお茶を飲んでいるところだった。
そこに娘のグレイがいそいそと近づいてきた。
白いブラウスに長めの紺のスカートとすっきりとした恰好し、
最近気に入っているらしい濃い緑地に金色の糸で幾何学模様のある大きなリボンで
美しい銀色の髪をきっちりと後ろにまとめている。
仕事にでも行くかのようないで立ちだ。
ディトリッヒはその疑問をすぐに問いかけた。
「グレイ、今日は外出の予定なの?」
「母様、今から神殿に行ってまいります。今日はルカイン様に
神殿で古典神学文字について教えてもらう予定なんです。」
ああ、ルカインとの学びは今も続いているのだったか。
10年前に自ら手配した家庭教師と娘の交流が未だ続いていることに
今更ながら驚くディトリッヒであった。
「ルカインは最近はどうなの?聖騎士としてたしか…。」
「5年になります。母君。ルカイン様は最近はたいそうお忙しいらしいのです。」
最近、娘の中で母親に丁寧語をしゃべるのが流行りらしい。ちょっと背伸びをしたい、というところだろうか。
そう思っていると、いきなり、グレイはざっくばらんになった。
「母様、聞いて!
今日は私ちょっと早めに神殿に行くつもりなの。だって、
最近、神殿の図書館に着くまでにとても時間がかかるんだもの。」
神殿の図書館は神殿の入り口から大聖堂の脇を通り、さらに奥へと進んで
ちょこちょことした通路を通らなくてはならない。
が、そんな数時間も前に行かなくてはならないような道のりではないはずだけれど、
とディトリッヒが問いかけると、
グレイはさらに言いつのる。
「最近、私とルカイン様が図書館への通路を歩いていると、必らずっていうほど、ルカイン様のお知り合いの方々が声をかけてくるの。最初はルカイン様のお友達が久々に会ったので、声をおかけになっているんだと思ったんだけど、そうでもないみたい。だって、挨拶だけなら、すぐ終わるはずでしょう?
でも、なぜかエンエンとどうでもいい話をルカイン様に持ち出すの。
昔、アカデミーではこうだった、ああだった、とか、しかもそんな私の知らない昔のことを私に問いかけてくるのよ。失礼な人が多くて、ちょっと嫌なの。この前なんて、私の髪をつまんで、私の髪の色を冷やかしたのよ!」
なるほど。その髪型はその無礼者ども対策なわけだ。
ディトリッヒはなんとなく状況が分かってきた。
「なので、ルカイン様を図書館の貴賓室で待っていることにするの。そうすれば、失礼な人にも会わないし、よくわからない話を聞くこともないでしょう?」
「グレイ、おそらく、またその無礼者たちとは鉢合わせすることになると思うよ。」
「え?」
ディトリッヒは理由を説明はしなかった。したところで、グレイは納得しないだろうし。
その代わりこの屋敷で一番こわもてで堅物な侍女をグレイのお供として神殿に行かせることにした。
グレイが出かけるのを見送りながらディトリッヒは嘆息する。
男どもが偶然を装って神殿で待ち伏せをしてまで彼女に会おうとするほどにグレイが美しくなるなんて!
はじめて彼女を見たときは我が城の台所のネズミのほうがまだ美しいと思ったものだったのに。
「これから、グレイへの想定外のコンタクトが多くなりそうだね。」
執事のルアンがうなずく。
「侍女たちにこれまで以上に注意深く見守らます。…騎士も配置いたしますか。」
ディトリッヒは思案する。
「いや、まだ大丈夫だろう。ああ、うちの大魔法使いを起こしてきてくれないか。
あの子と相談したほうがよさそうだ。」