プロローグ
『貴女の望みはなんですか?』
『恋がしたい』
その問答が以前の最期の記憶だった。
正確にいうと、記憶の一部分であり、断片である。
わたしは、それまである国を統べる執政者だった。
いくつもの国々が覇権を争い、数百年に亘って戦乱を繰り返し。数々の戦と、万を越す犠牲との上にもたらされて成り立った世界。
それを平定した女帝、それがわたしの前世である。
齢十五のときより戦場に立ち、二〇にして宰相となり、三〇である一国の主となった。
五〇を超えて数々の賢人を囲い、七〇で帝を宣した。
一〇〇を数えて隠居に至るも、一二〇にして再度招かれ、一五〇で戦乱の世を制した。
およそ普通の人間が三度の人生を送れるような年月を、ただひたすら、自身の信ずる国家と臣下と臣民のために費やし、世の平定を見た。
そこにはなんの後悔もない。やり遺したことなど、ひとつもない、はずだった。
ただそれでも。今際のときとは、こういうものか、と想い知らされる。過去の記憶が、散々に、現れては消え、現れては消えていく。
齢二〇〇をして死にゆくわたしの身体。
世界を統一して、臣民のために平和を手に入れた。
そこに、望むべくものは、これ以上にあるのだろうか?
女帝、なんて立場上、この世界に存在するほとんど全てのものは手に入ったはずだ。
山海の珍味も、極上の酒も、金銀財宝も、美男美女も、土地も、宮殿も、所望すればなんでも手に入った。
もちろん、かつて権力を担った烏合のものどもが、奢侈に過ぎて身を滅ぼしたのは、広く知るところである。
だからわたしは、それらをほとんど欲することなく、節制して国政にあたった。
それでもなお、およそ総ての欲求――食欲、金欲、支配欲など――は充分すぎるほど得ていた。
ただひとつだけ。人間が、というか、この世の全ての生物が持つ、子孫繁栄という欲求には寄与しなかった。
つまり、生涯独身で、処女だった。二〇〇年に亘り、それを貫き通してしまった。
戦乱という期間がわたしの人生の半分以上を占め、その戦乱も半数以上が主役は男だった。
わたしのような女など、本来ならば権謀術数のひとつとして嫁に出されはすれど、戦場に出ることなど稀有な例である。
それが王家の家に産まれ、周囲は男だらけの兄弟ばかりで、ほとんど男として育てられた。
剣を学び、戦略を修め、魔法を手に入れた。
なまじっか戦場での働きが評されて、部将として戦争に身を投じた若き頃。それが当時のわたしにとって正義であり、総てだった。
男なんて要らぬ。情欲など枷に過ぎぬ。男女の恋愛の隙を突かれ、攻撃され、滅んでいった国主のなんと多いことか!
そう考えれば考えるほど、当時のわたしは、言い寄る男どもを払い除け、無駄に持ち寄られる縁談を無下にした。
今にして思えば、なんたる浅はかなことであったろう。
臨終に際して最期に出る願望が、恋をしたい、なんて。いくらでも機会はあったのだから、さっさと済ませておいて、もっとましな言葉を吐けられれば良かった。
『では、貴女の望みはそれでいいのですね?』
はて。
そういえば、ここはどこだっただろう。
ぐるりと周囲を見渡す。最後に目を覚ましたのは何ヵ月前か。
当時いたはずの、いつも周りに侍る医者たちの姿は見えぬ。
心配性の大臣も居らぬし、暑苦しいが忠義に厚い将軍も見当たらない。
いつもの、無駄に宝飾を散りばめ、寝るだけなのにだだ広い寝所ではなかった。
目に入るのは白くぼんやりとした景色だけだ。
わたしはどこに寝そべっているのか。身体が宙を浮いているような感覚でいる。
ふわふわと身体が軽く、上質な寝床よりさらに心地好い。
そんな空間に、わたしは若かりしころの身体で、産まれたままの姿でいた。
『ここは死後の世界』
訝しんで辺りを見回すわたしに、声の主は言った。
その声の主の姿は見えない。
『貴女は生前、多大な功績を遺しました。ひとにとっても、我らにとっても。だからその死を悼んで、ここに、貴女の望む次なる生を与えんとします』
死後の世界、など聞いたことがない。
人間は死んだら、土に還るのみ。長い年月を経て大地と同一になり、草木となり、生き物となって、またさらに長い年月を以て、再び土に還る。
ただその繰り返しである。
だから、聞こえてくる声の主のことは、ひとつの理解も及ばぬ。
次なる生など、存在しない。
『貴女の世界では、後の世で云う宗教というものは、まだ存在しなかったから、我々を認知できないのは当然です。我々は、後の世で云うところの、神です』
カミ、などという単語は聞いたことがなかった。
だが、どうやら頭の中に直接語りかけてきているらしい相手のことは、ただならぬ存在だろう。
漠然とではある。明確に言葉を用いて説明などできぬ。
しかし、声の主が、わたしなどひとつの世界の統治者ごときでは、到底理解し得ぬ存在であること。それだけは認知できた。
『我々には、貴女の望みを叶えるべく、次の生を与えることができます。その死は明らかに惜しい。
――もう一度聞きます、貴女の望みはなんですか?』
相変わらず、声の主の正体は知れない。そもそも人知の及ぶところではないらしい。
ただその優しく、どこか遠い昔に亡くなった母を思い出させる声には、懐かしむものがあった。
わたしは再び、最初に、ほぼ無意識で口にしてしまった願望を答える。
『恋がしたい。それが、わたしの最期の望み』
嘘はない。
次なる生が本当に用意されたとしても、たといそうでなくとも。
二〇〇年という、普通の人間の五倍はあったであろう人生で、やり遺して、さらに悔いるのはそれくらいだ。
願わくば。もし付属して知り得るならば。次なる生の前に、わたしの治めた国と人民とのその後が知りたい。
『それはできません。ただひと言、その後を告げるとしたら、人間の世には、栄枯盛衰の理があります』
それはそうだ。誰にしろ平等に生と死は訪れる。人に限らず、動物だって、国家だって。
あまりにも当然で、酷薄な答に、わたしは笑った。
泣きながら、笑った。
余りにも当然だが、やはり、わたしの国は滅びるのだ、という真理を受け入れるには、わたしはまだ若すぎるようだった。
『望みは変わらない。もし、本当に可能であれば、恋ができる次の生を所望したい』
ひとしきり泣いて笑った後で、わたしはより強い口調で念を押した。考えは変わらぬ。
大臣や将軍たちはなんと云うだろうか。
身を賭して国のために投じてきたわたしが、そんなことを望んだと知ったら。蔑み、罵るに違いない。
『貴女の名誉にかけて伝えます。貴女の部下たちは、決して、貴女に対してそんな想いは持ちません。ただひたすら、貴女の次の人生を喜ぶでしょう』
ああ、なんの根拠もない。なんの根拠もないはずただが、その優しい声は、それが真実であると信じて疑えない。あるいは、わたしが信じたいだけか。
『――最後に、確認します。貴女は、恋ができる人生を送りたい、で間違いありませんね?』
『くどい。そこまで念を押されると、恥ずかしくなってくる。その願いで、間違いはない』
二〇〇にもなって、まるで生娘に対するような質問に――いや実際に生娘で間違いはないのだが――、羞恥の念が芽生える。
だからそういう感情を圧し殺して、固い決意をあらわにした。
『次なる生の器は、用意してあります。貴女はこれまでと違った人生を歩みます。
そこには、いままでとは違った艱難辛苦が待ち受けているでしょう。
でも、ひとつの真実を伝えておきます。
貴女は、いえ、人間は誰しも、死するときここに来るのです』
それは、また失敗しても大丈夫、ということか。
いや、それは考えまい。
失敗しても良い、なんてあるはずがない。特に生涯、なんて大それたものには、やり直しなど効かないのだ。
『良い心構えです。必ずや、貴女は幸せを掴めるでしょう』
声の主は、わたしの心境を慮って云う。
声に隠った優しさと思われる感情は、直接脳に響くものだった。
『では、これで一時のお別れです。最後に、言っておきましょう。
貴女は我々にとって多大なる功績を遺しました。
よって、この度の転生で、我々の恩恵を授けます』
『恩恵?』
『はい。今までの貴女の記憶を、産まれてから数年後に返しましょう。本来であれば、次の生では、以前の記憶は蘇りません。その理由は、後々分かるでしょう。
また、貴女に生前と変わらぬチカラとココロを与えましょう――チカラとココロも、今は分からぬ概念でしょうが、それも、貴女なら大した時間を経ずとも認識できるはずです』
声の主が言っている意味は、半分も分からぬ。
唯一、記憶が返還される、というのはある程度理解できた。
考えれば、次の、おそらくは全く新しい生に、今の記憶は不要であろう。
恋愛をするのに、血生臭い、戦乱の記憶は似つかわしくはあるまい。
『心配に及びません。貴女の次の生では、国政や政治には全く関わらないものとなります。故に、記憶があっても、使わなければ意味はありません』
『では、何故わざわざ記憶を残してくれるのか』
正直、記憶を喪失するのは恐怖がある。
わたしに内包されるのは、忌まわしいものばかりでない。
素晴らしい家族や仲間、部下たちとの記憶は、おそらく現世でしか獲られぬものなのだ。
それを喪わずに済むのは、有り難い話ではあるが、訊かねばならぬ。
何事も、うまい話には裏があるものだ。
『貴女の輝かしくも素晴らしい記憶は、何事にも変えがたいものです。それは、きっと、次にも活かせるものです。
残念ながら、我々の力をもってしても、記憶に関しては、要らないものだけ忘れられる、ということはできません。全部無くすか、全部残すか、だけなのです。
我々とて全能ではないと、ご承知おき下さい』
ならば、全てを残す他はあるまい。それは理解した。
自身においても、後世に語り継がれる功績を少しは遺したと自負している。
だったら、ご褒美として、受け取っておいて間違いはなかろう。
『承知した。わたしから訊きたいことは、もうない。
元よりこの身は滅びて土に還るはずのものだ。次なる生を頂戴するなど、思ってもみなかったこと。
感謝の言葉しかない。それも、地上のどんな言葉を以てしても、形容しきれぬ感謝だ』
『――我々も、世界の理の通りにしているだけです。感謝など要りません』
そう告げると、声の主は、これで話は終わりだという風になった。
云うべきことは云ったし、訊くべきは訊いた。そんな感じである。
相変わらず姿形は見せないが、どこかそういう雰囲気が漂った。
『では、これでしばしのお別れです』
『ああ。また死んだら、よろしく頼む』
周囲の白い世界が、段々と稀薄となっていく。
元々からして薄らしたものであったが、より確実に、消えてなくなっていくようである。
次なる人生とは、どんなものであるか。
また、恋愛とはどんなものであるか。
わたしの不安と、僅かばかりの期待は、それで全てだった。
ただ言えるのは。
新たに迎える人生を、必ずや素晴らしいものに! という決意めいた想いだけは、本物であった。
段々と意識も薄れる。
記憶にはないが、赤ん坊が母親に寝かし付けられる感覚とは、こういうものなのか。
抗いきれぬ睡魔が、わたしの意識を深い眠りに誘っている。
『――それと、最後に。
次もうまくやって下さいね』
薄れ行く意識の端っこで、そんな言葉が聞かれた気がした。