月にのぼる
テンズの家でスープをご馳走になったイラは、暗くなりつつある外を見て席を立った。
「もう行くんですね」
テンズの言葉にイラはうなずく。
「夜は負魔も活発になりますから。それに、二人きりのほうが都合がいいでしょう」
自分がもうすぐ死んでしまうこと、死んだら別の女性のもとで生活をすること。これから話すことを考えるだけでミアの泣きそうな表情が脳裏をよぎる。テンズの胸は苦しくなった。
「……もう行っちゃうの」とミアはイラの外套の袖を掴むと、顔を合わせずに言う。
イラは屈んでミアの頭をなでる。
「これから一週間、同じ時間に毎日来るよ」
「ほんとっ!?」
「本当。だから寂しくないでしょ?」
「うん!」
袖を離してミアは喜ぶ。イラはミアの頭を数回なで、「それでは、そろそろ」と踵を返した。だが、戸外の前で立ち止まると思い出したように老人に問うた。
「最近、空を流れる七つの光を見ませんでしたか」
「ああ。見ましたよ」
「七つの光のうち、この近くに消えたものはありませんか?」
「東のラスタルジアの方へ消えたものがありました」
「そうですか……ありがとうございます。スープ、とても美味しかったです」
扉が開き、凍てた空気がながれこむ。
暗闇に消え行く青年にミアは「また明日!」と叫び、テンズも「また明日」と続いた。
イラは少しだけ振り向くと微笑んで、「ええ」と答える。その微笑みを見た老人は、どこか悲しげな笑みだと思った。
何か言葉をかけようと老人は逡巡する。しかし、それを拒絶するように戸外が閉まり、暖炉の薪が大きくはぜた。
× × ×
それから、老人は六日間生きた。
イラが家を去ったあと、気まずい思いをしながらもミアに自分が死ぬことを伝えると、涙ながらにミアは「うそつき!」と叫んだ。
なおも機嫌の悪いミアに、老人は雪の止んだ日、一緒に森を散歩しようと誘った。
杖を突いていようと、老いた自分が雪上を歩くのは危険と知っていたが、老人はかまわなかった。
晴れた日、一人家の外へ出る老人を見て慌ててミアがついてくる。
久しぶりの太陽を浴びた雪は二人の目にまぶしく照った。
散歩途中、紅い目をしたうさぎが二人の前に現れる。するとそれを見たミアは「イラだっ!」と言い、老人も「そうだね」と笑った。
次の日も、また次の日も二人は森へと赴いた。
ある日は、雪の降るこの時期限定で見られる動物を見ようと、弁当を携えて一日中森に籠り、また、別の日は、凍りついた湖の水面をながめて、ミアの将来について語ったりした。
身を刺すような寒さ、徒歩での長距離の移動など、どれも老人の身にこたえが、無邪気に笑うミアを前に老人はそれを表にだそうとはしなかった。
死ぬまでの間、ミアには笑顔でいてほしかったのだ。
そして老人が死ぬ前日、二人は森の中で異質な雰囲気のある、拓けた場所へと足を運んだ。
「ここは……?」
森の奥まで歩いたせいか、ミアは不安げに周囲を見回す。
「エレナが最後にいた場所だよ」
「お母さんが……」
「私がこの場所に来たとき、ちょうどこの位置にペンダントがあった」
「ペンダント……?」
老人は静かにうなずき、赤い宝石のついたペンダントをミアの首へと掛ける。
「とても似合っている。まるでお姫さまのようだ」
「お姫さま……」
「ああ。ミアお姫さまだ」
お姫様、という言葉が嬉しかったのかミアは蕾が開くようにして笑う。満面の笑みだ。
「それはエレナの形見なんだ。形見って知ってるね?」
「お母さんの大切なもの」
「うん。そうだ。でも、それだけじゃないんだよ」
きょとん、とした顔でミアは老人を見上げる。
「お母さんの想い、思い出が詰まっている。それを着けていたお母さんは覚えてるね?」
「うんっ!」と力強くミアはうなずく。
「なら大丈夫だ。いつでもお母さんに会える。会いたくなったらペンダントを見なさい。悲しくなったらペンダントを見なさい。きっとお母さんの笑う顔や、楽しかった思い出が思い出せる」
「でも……」
ミアは暗い表情をしている。
「……おじいちゃんやおばあちゃんにも会いたいよ」
老人の死の告白が嘘ではないことを薄々感じてはいるのだろう。ミアは唇を強く結んで、泣きそうな表情でつぶやいた。
「なら、寝る前にでもいい。目を閉じたらおばあちゃんや、おじいちゃんの顔を思い出せばいいんだ。毎日同じようにやれば、大人になっても嫌でも思い出せる」
「本当……?」
「ああ。本当だよ。だから」
老人は願いを口にする。
「悲しい顔をしないで、私が死ぬまでミアは笑顔でいてくれ」
× × ×
森にひっそりと佇むテンズの家が可視できる距離になった頃、今回この場所を訪れるきっかけとなった依頼人――セルシアとともに雪道を歩いていたイラは、空を見上げた。
淀んだ空から、舞うように小粒の雪が降っている。
「雪、降ってきましたね」
セルシアも同じように空を仰ぎ、白いため息をついた。
「まったく、ここら辺は雪が多くて困る。雪というのはどうしても好きになれない」
「僕は好きですけどね、雪。新鮮ですし」
「雪みたいな髪したやつが言うセリフか?」
「この髪色と雪は関係ないでしょう」
こうして話しているうちに、二人はドアの前に立っていた。
イラは後ろのセルシアを見る。
「……安心しろ。分かってる」
ぶっきらぼうにつぶやいて、セルシアは顎で扉を開くよう指示をだす。
イラは扉を二回叩く。
返事がない。
もう一度叩こうとしたところで、ゆっくりと扉がひらいた。
「……イラお兄ちゃん」
中から現れたミアは、はかなく微笑んだ。どこか憔悴している。視線をミアからベッドへ移す。そこにテンズの姿はなく、灰色の砂がきらきらと光っているだけだった。
〝晶砂〟――人が死んだあとに残る砂だ。
「私ね、おじいちゃんにスープを作ったの。そしたらおじいちゃん、美味しいって言ってくれて」
「うん」
「おじいちゃん、ゆきね草を使ったスープが大好きなの! 心が温まるっておいしそうに食べて」
「うん」
「あとね、おじいちゃんと動物を見たの! うさぎとかりすとかたくさん!」
「うん」
「あとね、あとね……」
ミアの顔が悲しみに歪み、頬に一粒の涙が伝う。するとそれを皮切りに涙は一粒、また一粒とながれだし、今まで堪えていた感情が溢れ出すように声をあげて泣きだした。
「抱いてやれ」とセルシアが言う。彼女は優しく微笑んでいる。
躊躇いながらもイラは屈むと華奢な身体を抱き寄せた。
ミアもイラの背に手を回し、顔を胸に埋めて鳴き声をあげる。
震えるミアを抱いてイラは思った。
老人と同じように、この少女の震えを、悲しみを忘れることはないだろうと。
雪が本降りになるまで、ミアは入口で泣き続けた。
× × ×
ミアが落ち着きを取り戻したのは日が暮れた頃であった。夜になると雪は止み、雲間からは半分に欠けた月が覗いた。
老人とミアの残した轍を頼りに拓けた雪原へ出ると、ミアは手に持ったビンの蓋を開いて、自分の手のひらに砂の山を作った。
空になったビンを足元に置く。
山のある左手に右手を添えて、天へ捧げるように頭の上へ両手を持っていく。
そのとき、強い風が吹いた。
すると中に入っていた灰色の砂は、月光を受けて淡く光って、風に乗って月へとのぼる。
それを見ていたセルシアが言った。
「老人は、きっと綺麗な心の持ち主だった。とても美しい晶砂だ」
「うん」とミアは満足げにうなずく。
「だって、私のおじいちゃんだもの」
そういって、ミアは微笑んだ。
× × ×
それからミアはセルシアに引き取られることになった。思い出の残る森の家はそのままに、麓の街エレガスナへと引っ越したのだ。
セルシアの仕事場兼自宅でもある二階建ての家は、一階を仕事場、二階を自宅とした、エレガスナではよく見る家屋だった。
依頼を終え、しばらくの休息に疲れを癒したイラは、次の目的地をエレガスナから東、ラスタルジアと決めた。
七つの光を追って旅をするイラには、情報収集が欠かせない。エレガスナで最も情報通で縁のあるセルシアに別れの挨拶と報酬、ついでに情報を貰おうと彼女のもとへ訪れると、途中、街の女の子と仲良さそうに遊びに興じるミアの姿を見た。
イラの存在に気づいたミアは女の子にちょっと待ってて、と告げると小走りでイラのもとへと駆けてきて、腰のあたりに抱きついた。
「もう行っちゃうの?」
「うん。東のラスタルジアに行くんだ」
それを聞いたミアは悲しげな表情を浮かべるも、「……そっか」とつぶやいた。「また会えるよね?」
「もちろん。僕が怪我したらミアちゃんに治してもらうんだ」
「まかせてっ! イラお兄ちゃんのために頑張るんだから!」
「頼もしいね」
ミアの頭をなでていると、女の子が遠くでミアの名前を叫んだ。
「お友達が待ってるよ」
「うん……またねっ」
「またね」
手を振りながら女の子のもとへ駆けてゆくミアを見送ると、イラはセルシアのもとへ訪れる。
彼女は複数の書類に目を通しているところだった。
「報酬と別れの挨拶、それに情報を貰いに来たよ」
セルシアは書類から目を上げると、後ろで一つに結われた赤髪をほどき、ぽりぽりと頭を掻いた。
「……淑女がそのように頭を掻くのはいかがなものかと」
「なんだ、口説いてるのか」
「たしかにセルシアは魅力的な女性です。しかし僕なんかじゃ釣り合いませんよ」
「……よくいう」
セルシアはイラに二枚の紙を差し出す。
「報酬受け取り証明書だ。サインを」
机上にあったペンを拾い、イラはサインを書き入れる。一枚目を書き終え、二枚目の紙に途中までサインを書いたところで手を止めた。
「『婚約同意書』って書いてありますが」
「……ちっ。あと少しだったのに」
紙を回収するセルシアにイラは苦笑する。セルシアは気づいていないが、イラがセルシアを魅力的と言った言葉に嘘はない。
艶やかな肢体に麗しい容姿は男の煩悩をくすぐるには十分で、大雑把な性格をちらつかせながらも気遣いのできる一面や、たまに見せる母性、優しさなどはイラの心を惹いている。
しかし、彼女はまぶしすぎる。
そのためイラは彼女に釣り合わないと口にした。
「これが報酬の金だ」
手と同じくらいの麻袋が投げられる。イラはそれを受け取ると数枚の金を取り出して、袋を机に置いた。
「これで十分だよ。残りはミアちゃんとの生活費、または学校に通う金として貯金するといい」
「金に困っているようにみえるか?」
「もしもの備えだよ。それに、僕は色々とセルシアに世話になってるから」
イラの真摯なまなざしに見つめられ、セルシアは「わかった。わかった」と降参とばかりに両手をあげた。
「……この色男が。ミアもお前と結婚するー、とか言ってたぞ」
「じゃあミアちゃんが大きくなるまで死ぬわけにはいきませんね」
笑って答えたイラに対して、セルシアの表情は優れない。が、何事もなかったかのように表情を戻すと「夜道で背中を刺されないよう注意するんだな」と揶揄して笑った。
「次に行くのはラスタルジアか?」
「ええ。馬車で行く予定です」
「光を追って旅……か。あの光の影響かわからないが、ラスタルジア周辺の負魔、また、負魔に侵された晶獣どもが狂暴になっていると聞く。気をつけろよ」
「わかってますよ。それじゃあ、そろそろ行きます。セルシアも体調管理に気をつけて」
セルシアは机の横を通りイラと対峙すると、抱擁を交わした。竹馬の友である二人は、いつも別れを惜しむように抱擁する。
互いの体温と鼓動が溶け合って、セルシアの呼吸がせつなげになる。
近くで感じる想い人の匂いに胸は焦がれて、まるで匂いを染み付けるようにセルシアの抱擁は過激になる。
しかし、イラは名残惜しくも身体を離した。
「すこし太りました?」
彼女に甘えないための軽口だった。
あのまま彼女と抱擁を続けていたら、きっと自分は彼女に弱さをさらけ出し、また彼女もそんな自分を受けいれてくれただろう。だが、それではダメだとイラは胸中でおのれを嫌悪する。彼女を傷つけてしまった、彼女を拒絶してしまったと。
不安に揺れる瞳でセルシアを見る。
彼女は笑っていた。一抹の悲しみも感じさせない満面の笑みで。
「よけいなお節介だ」と言った。