愛する日常 1
「よう、イリアス!」
練習場の扉を潜るなり声を掛けてきたのは同僚の一人、以前酒場でセシリアの噂について教えてくれた人物だ。
人好きのする笑みで近づいてくる彼は常より浮かれた様子をしている。
「アーノルド何かあったのか、随分機嫌がよさそうじゃないか」
家族思いな彼のことだから何か家族に喜ばしいことがあったのだろう。
「わかるか? 今日長男の誕生日なんだ。 カミさんが張り切って料理を作ってるから、帰るのが楽しみだよ」
幸せそのものといった様子の彼を見ているとこちらも幸せな気分になる。
「それはいいな、なら今日は怪我させないように気をつけなきゃな」
にやりと笑って剣を手にするとアーノルドは声を立てて笑った。
「はっはっは、前みたいな稽古じゃなくて八つ当たり、っていうような事はしないでくれよ?」
「今日は大丈夫だ」
今思うと本当に八つ当たり以外の何物でもなかった。少しだけ申し訳なく思う。
あの時は気が立っていたから、手加減するどころじゃなかった。
僕の答えにアーノルドが笑む。
「彼女と上手くいってるみたいじゃないか」
「どうかな?」
関係は良好だけど上手くいっていると形容するような関係でもない。
改めて考えると僕とセシリアの関係は何だろう。
友人と呼べなくもないけれどその呼称は物足りない。愛情を交感するような親密な間柄ではないし、中途半端な関係だ。
「さんざん浮名を流してきたお前がなあ」
「笑うか?」
自嘲するように笑う。情けないと笑う奴らがいることも知っている。
だけどアーノルドは穏やかな顔で笑むだけだった。
「真剣に大切にしたい相手には誰だってそんなもんさ」
俺だって昔は色々あったんだと笑う。
真摯に彼女に向き合えばそれだけでいいんだと、貴重なアドバイスに感謝して少し本気で相手をした。
土まみれになった制服に抗議されたけれど黙殺して練習場を後にする。
微笑ましそうに諭されて照れくさかったから誤魔化したのは秘密だ。
アーノルドを転がしてから書類仕事を片付けて戻ったら随分遅い時間になっていた。
屋敷に戻るとセシリアが迎えてくれる。
「イリアス様、お帰りなさいませ」
「ただいま、セシリア」
まっすぐ僕の下に歩いてくるセシリアは異常を感じさせないほどに落ち着いた所作で僕の前に立った。
知らない人間が見たら誤魔化せそうなくらい彼女は視界を取り戻しているように見える。実際はそうでないことは知っているけれども。
「今日気が付きましたけれど、ここの噴水は本当に大きいですね」
私の国なら広場や神殿の庭にある大きさです、と笑う。
わずかに戻った視界で屋敷を散策しては新しい発見を僕に話してくれる。
優しいだけの関係も悪くない、そう思うのは失うのを怖がっているからか。
「セシリア、よかったら今日も僕の為に歌ってくれないか」
彼女が断らないのを知っている、ずるい自分。
心地よい関係を崩さないように少しだけ距離を縮める。
うれしそうに笑う彼女が気づかないくらいささやかな距離で構わない。
子守歌を聴きながらセシリアの手を撫でる。
くすぐったそうにしながらも手を払うことはしない。
その距離の心地よさに目を細める。
眠りに落ちながらも手が離れようとするのを止める。
眠るまででいい、傍にいるこのひとときだけでいい、僕だけを見ていてほしい。
歌うセシリアは美しく、全てのものを慈しむような表情をしている。
天使や女神が本当にいるのなら彼女のような存在なのかもしれない。
そう思えてしまうほど歌っているときの彼女は俗世とは隔絶した雰囲気をし、掴んでもすり抜けてしまいそうな儚さがある。
それでも僕は手を伸ばす。
振り払わない彼女の優しさに甘えて。
(キミが好きだ)
言ってしまいたい―――。
困らせたくない―――。
相反する想いは切なさと同時に甘い喜びをもたらす。
好きだと自覚してから日毎に強まるこの想いはいつか溢れてしまうんだろうか。
その時が来るのを待っているのか、怯えているのか。自分でもわからない。
今はただこの手を取っていられればいい。
そうして自分をごまかす。嫌われるのを怖がっている自分を。