01
そこは、王城から少し離れた北の森の中にあった。
鬱蒼と生い茂る森は日中でも薄暗く、基本的に人の出入りは禁止されている。というのも、そこは年中雪の降り積もる森であるからだ。
中は迷うほどに入り組んでおり、入ったが最後凍死してしまうか飢えて死んでしまうから。
「ルドベキア様、着きました」
あるよく晴れた日の昼下がり、森の前に豪奢な馬車が止まった。
馬車には国花が描かれており、王家の馬車であることを示していた。馬車から降り立ったのは、端正な顔立ちをした大柄な男。
肩幅は広く、背は高い。
男は非常にガサツで、常に周りを圧倒するような雰囲気を醸し出していた。
「ああご苦労。___なあ、本当に行かなきゃダメか?」
男___ルドベキア___は、困ったように頭をガシガシと掻いた。硬そうな銀髪が乱れる。
男は今まさに森へと足を踏み入れようとしていた。
「そりゃァ、ボクらだってあんなとこ行けって言われたら逃げたくもなりますけどねェ、ルドベキア様が任命されちまったんだからしゃーないじゃないですか。逃げちゃァダメですよ?」
気の毒そうに苦笑しつつ、馬車の御者は無慈悲にもルドベキアの背を押した。……森へと。
不意を突かれたルドベキアはよろめき、たたらを踏みながら森へと足を踏み入れた。
「おい急に__」
「じゃあまァ、お達者でェ!」
急に押すな、そう言いたかったルドベキアは軽やかに馬車に乗り込んだ御者と、走り去った馬車に唖然とする。
しばらく口を開き、見えなくなった馬車の方向を見ていたルドベキアは、再度頭を掻いてため息を吐いた。
「しゃあね、行くか」
立ち止まっていても仕方ない。
迎えは来るはずもないし、あの御者の言う通り国王陛下に言付かったのは自分だった。
「しっかし……本当にあるのかねえ、雪の塔」
雪積もる森の丁度中心にあると言われる、雪の塔。その中には幽閉されたお姫様が住んでいる。
「無かったら俺は野垂れ死だぞ?……ああまあ、それを王は狙ってるのかもな」
頭を軽く振ると、ルドベキアの髪からむくりと獣耳が顔を出す。ルドベキアは俗に言う、狼男だった。
「しっかしさみぃなあ」
すんすん、と鼻を鳴らし、入り組んだ森を進んでいく。微かな生活の匂いがどこからか流れてきていた。
しばらく歩くと、灰色の塔が見えてきた。
石造りの塔は高く、長い。どうして森の外から見えないのか不思議なほどに高いそれは、どうやら目くらましの魔法がかけられているらしい。
塔に近づくと、丁度正面が出入り口だった。
扉を開けると、ギシギシと軋んだ音を立てる。
入ってすぐに螺旋状の階段があり、誰かがカツンカツンと音を立てて降りてくる音がした。
それから、何か軽い金属が擦れ合う音も。
「誰でしょうか?」
まさか、お姫様か?
そう予想したルドベキアを裏切り、使用人用の服に身を包んだ40ぐらいの婦人が降りてくる。白いものが混じり始めた黒髪を後ろに引っ詰め、キャップをかぶっている。
彼女はおそらく、乳母だ。
「この塔にいるという姫さんの護衛及び監視を言付かった、ルドベキア・ロワラットだ」
乳母は少し驚いた顔をして、目を見開いた。
「本当に来たんですか。わたくしはマリワナ・キャニス。姫さまの乳母をしております」
この国では、乳母よりも騎士や兵士が優遇される。そのため、マリワナは頭を低くして名乗った。
「ミセス・キャニス。貴女の言葉の真意は?」
「真意?このような深い雪の森に来るなんて、物好きもいたものですね。という意味ですよ」
マリワナはルドベキアの後ろへ回り、彼がまだ閉めていなかった扉を閉めた。扉が閉まると、石でできた塔の中は薄暗くなった。
あんな森の中でも、扉が開いていると光が入るのかと妙なところに感心する。
「ロワラットさま、どうそこちらへ。いつまでもこんなところにいられては困ります」
腰に吊るしたカンテラを手に持つと、マリワナは何事が呟いて日を灯した。
「あら、驚いていらっしゃる?」
「ああ。宮廷魔術師やその手の研究所以外に魔法を使えるものがいたとは」
マリワナはくすりと笑った。
「この力のために、わたくしはこの塔へと送らられたのです。力を持たぬ者は、ここではすぐに凍えてしまいますから」
ならば、幽閉された姫さまは……
問おうとしたルドベキアは、早歩きで進み始めたマリワナの後を追うために口を閉ざした。
マリワナはどこまでも階段を上った。
彼女が一歩登るたび、低めのヒールが付いた靴が音を立てた。それから、カチャカチャと金属がぶつかる音もした。
カツン……カツン……
ジャラ、ジャラ、……
時々壁に扉があったが、そちらを見向きもしない。
ルドベキアは狼の耳を澄ましたが、物音は何も聞こえてこなかった。そう言えば、彼女はこの耳に何も反応しなかったな、と思った。
「ミセス・キャニスは俺について何も尋ねないのだな」
「尋ねて欲しいのですか?」
「……いや、そういうわけではない」
別段、ルドベキアは聞いて欲しかったわけではない。ただ、誰と接しても驚かれる彼の正体について何も反応しなかったのが気に食わなかっただけである。
気に食わなかった?
そうか、気に食わなかったのか。
「ここへ来る者はみな、訳ありです。特に、姫さまの身近に配置される者は。ですから、その方々がどのような姿格好、生い立ちや特異性を持っていてもそんなものか、と言ったところです」
「……そんなものか」
「ええ」
カツン、とマリワナは最後の石段を踏んだ。
左側には大きな扉。
マリワナは腰回りからカンテラを外した時のように、鍵束を取り出した。それらは金属か擦れ合う音を立てて揺れ、その中から迷うことなく1本鍵を取り出すと扉の鍵穴を回した。
黒い扉は来るものを拒むかのごとく頑丈そうだった。
「男手が来てくださって助かりました。この塔にある扉は、どれもこれも重いのです。さあ、どうぞその扉を開いてくださいな」
マリワナは一歩ずれ、ルドベキアに扉の前を譲った。
ノブを触ると、とてもではないが長く握っていられないほど冷たい。骨の芯までも凍ってしまいそうだ。
「姫さまがお生まれになった日、真夏の王国に雪が降りました。姫さまをお産みになられた王妃さまは、全身が凍え、凍傷に。姫さまを取り上げられた産婆は、姫さまを抱いた腕が凍ってしまいました」
なんだ、それは。
「それゆえ、姫さまは国に害を為す者としてこちらへ幽閉されているのです」
さあ、扉を早く開けてくださいな。
マリワナは無表情だった。その目になんの感情もない。
ルドベキアは彼女の表情が恐ろしかった。
彼は狼男だと言うのに。彼の一族は人々に恐れられていた。しかし、彼が害を為さない限りは受け入れられていた。
彼には力があった。
しかしどうにも、このマリワナは恐ろしい。
ルドベキアは扉をゆっくりと開いた。なんて事のない、少し重いだけの扉だ。
だと言うのに、彼にはそれが重くて仕方なかった。
「どうもありがとうございます。ここは姫さまの部屋です」
広い部屋だった。
1番奥には暖炉があったが、火は入っていない。右側には大人が優に4人は寝れるだろう広い寝台。
左の壁際には幾つものクッションが散乱し、人形が一体クッションに埋もれていた。
「姫さんは……?」
「こちらです」
マリワナはクッションまで歩いて行った。
そして、彼女は薄青のドレスを纏った人形を持ち上げた。
「この方が、姫さまです」
銀糸のような長い髪、伏せられた瞼、長い睫毛。陶器の如く白い肌。細い手足、小さな体躯。
白い頬はうっすらと赤く、小さな唇は愛らしい桃色。美しい鼻梁、眉、切り揃えられた前髪。
身じろぎひとつしない少女は儚げで、とても生きた人間には見えなかった。
マリワナは彼女を寝台へと連れて行き、座らせた。
姫はふるりと瞼を震わせ、目を開けた。ドレスの薄い青よりも薄い、白に近い青の瞳。
「……?」
軽く首を傾げると、さらりと髪が揺れる。
ルドベキアは見惚れた。神の作る芸術品のような少女に魅入った。
「この方が姫さまです」
言い聞かせるようにもう一度言った。
「名前は?」
「ございません。王に認められない子供はいないも同然。名など、誰が付けましょう?」
ルドベキアは少女が心配になった。
しかし、少女はまるで自分のことが話されているわけではないように何も反応しなかった。
「この間、3歳になられたばかりです。
口は聞けません。声帯、舌などの機能には問題がなく、単純に言葉を教えられていないのです。わたくしは姫さまの前では一切口を開きませんから」
今日ばかりは特別ですが、とマリワナは続けた。
「乳母は間も無く用済みになります。ですから、この塔の決まりを覚えてくださいね」
「用済み?」
「はい。元々姫さまが5歳になる頃には、わたくしこの森を出られる予定でしたから」
「ミセス・キャニスがいなくなれば、姫さんの面倒は誰が見るんだ?」
「さあ。わたくしは存じ上げません。それに___どうでも良いことです」
マリワナは無感情に姫を見た。
どこか憎らしげに。
❄︎ ❄︎ ❄︎
ひとつ、姫さまの前で喋らないこと
ふたつ、姫さまに同情しないこと
みっつ、姫さまに最低限しか関わらないこと
よっつ、姫さまを塔から出さないこと
いつつ、姫さまに余計なことを教えないこと
ルドベキアはそれ以外、似たようなことをずらっと項目に並べて教えられた。
それから、と付け加えられ、まだあるのかとうんざりする。
「こちらをどうぞ」
マリワナは腰に付けた鍵束から、綺麗な鍵と古びた鍵をひとつずつルドベキアに渡した。
「いずれは全てお渡しいたしますが、今はこちらのみを。ひとつはロワラットさまのお部屋の鍵です」
「もうひとつは?」
「姫さまの足枷の鍵です」
「足枷?」
今2人が話しているのは、広間のような場所だ。
姫の部屋の下にあり、家具は椅子と机ぐらいしか置いていない。姫の部屋の半分ほどの大きさで、石壁が剥き出しのここは寒い。
「ええ。姫さまが歩けるようにならないように」
ルドベキアはぐる、と喉の奥で唸った。
なんて酷いことをするのか、と憤慨もした。
「同情してはいけません」
ルドベキアは押し黙った。
マリワナはしつこいぐらいに同情するなと言う。
「____ふん。……で、何故俺に渡す?俺は姫さんの足枷を解いてしまうかもしれないぞ」
「いいえ、あなたは鍵を開けません」
「何故だ」
「仮に貴方が鍵を開いた場合、貴方は罰せられてしまうでしょう。最も残酷で、無慈悲な方法で」
マリワナは確信に満ちた声で言った。
ルドベキアは気に入らなかった。鍵を2つ乱暴に奪い取り、部屋を出る。扉は重かった。
どうしてこんなに重いんだ、と悪態を付きながら部屋を出た。
「ロワラットさま、姫さまの元へ行ってはいけませんよ」
冷たい声だ。
お前が1番無慈悲じゃないか、あの子にとって残酷で、冷たい。そう言うのは簡単だった。
しかし、ルドベキアは拳を握り締めた。
数年にせよ、彼女は1番近くにいる同僚だ。
塔に人はおらず、きっと唯一の同僚だ。
彼女と険悪になるのはなるたけ避けたかった。
「俺は王より、姫さんの身辺警護と姫さんの監視を言付かっている。これは仕事だ」
代わりにそんな言葉を吐き、階段を上るために足を石段に掛けた。
「では、わたくしは止めません。ロワラットさまのお部屋はこのひとつ下の階にご用意しました」
返事は返さず、荒々しい所作で階段を上った。
帯刀した剣がガシャガシャと不快な音を立てる。こんなにも音を立てて歩くなど、剣を帯刀したての見習いじゃないのだから、みっともない。
そうは思えど、やはりその歩みは止まらなかった。
マリワナは扉の鍵を掛けていなかった。
大きな黒い扉は重く、姫1人では開けられない。
「いやそもそも、足枷があるなら必要ないじゃないか!扉の鍵なんぞ!」
ルドベキアが吠える。塔に反響した獣の唸り声は、自身で意識した以上にうるさかった。
扉を開くと、中では去る時と同じように姫が寝台に座っていた。その目は閉じられ、やはり身じろぎひとつしない。
ルドベキアは、どうしようという考えもなしにここへ来ていた。
己自身でも思うほどに浅慮なことをした。
「ああくそ!」
バタバタと足音を立てる。ガシャガシャと剣と鞘がうるさい。しかしそんなことはどうでもいい。
早歩きて姫の前に跪いたルドベキアは、少々乱暴に姫の手を取った。
数多の貴婦人にそうしたように、小さく白い手の甲に口付けを落とす。
「姫さん……ああいや、姫さま。俺……じゃなかった、私はルドベキア・ロワラットと申します。
姫さまの護衛騎士として本日よりお仕えいたします。いつ如何なる時でも、私の忠誠を貴女に」
正しいやり方も、美しい言葉遣いもすっかり忘れてしまった。
あまりに締まりなく、あまりに格好悪い。
それにルドベキアは護衛騎士ではなく、見張りが主な仕事だった。しかしどうでも良いことだった。
たとえ姫の身を犯す悪党が1人もいないとしても、俺は彼女の身を守る護衛騎士となろう。
ふとルドベキアが姫を見上げると、姫は眠そうに瞼を開いていた。そして、薄青の瞳を細め、ふわり、と笑った。
小さな顔に咲いた、小さな花。
ルドベキアが行った行動が正しいかなんて知らない。けれども、彼にとってのたった1人のお姫様は笑ってくれた。
なので、すべては正しいことだと思い込むことにした。罰則なんて知ったことか。
名前もつけない、いない者として扱われる姫ならば、連れ去って逃げるのも良いかもしれない。ルドベキアはまだ会って数日も経っていない姫に対してそう思うほど傾倒していた。
絆されている、自覚はあった。
❄︎ ❄︎ ❄︎
姫は確かに喋らなかった。一言も発さないし、そもそも人形と見間違うほどに基本動作が少ない。
淑女___と言うほどの年齢でもないが___のドレスの裾を捲るなど、騎士精神に反する。
そうは思えど、彼女の足枷を確認しないわけには行かず、躊躇いがちにスカートの裾を持つ。
「姫さん、その……足枷を見たいんだが」
姫は軽く首を倒す。横へ、それから前へ。
理解したわけではないだろうが、ルドベキアの意図は理解したようだった。両足を軽く持ち上げ、手伝ってくれる。
ルドベキアはほんのちょっとだけ裾を持ち上げた。
そして、眉を潜める。
「なんだこれは」
あまりにも太い足枷は黒っぽい色をしていて、細く白い足を拘束している。輪の部分は小さく、姫の足首ぴったりに嵌っているようだった。
鎖の部分は短く、両足を揃えてしか座ることが出来ない上、立ち上がることもままならないだろう。
すぐさまルドベキアは鍵穴に差し込んだ。躊躇うことなく回す……はずだった。
「合わない……?」
マリワナが間違えた物を渡したのか。
真意は定かではないが、とにかく開かなかった。ルドベキアが間違えたのかともう1つの鍵を試してみたが、やはりそれも合わなかった。
不意に耳辺りに何か、触れられているような感じがした。見上げると、姫が楽しそうにルドベキアの獣耳を触っている。
「……ああ、俺は狼なんだ」
がぅ、と吠えてみる。
姫は一瞬驚いた顔をしてから、笑った。
「___……」
姫が口をパクパクとさせる。
空気は出入りするが、声は聞こえなかった。
声の出し方も知らないのだろう。そう思うと、姫のことが一層哀れになった。
ルドベキアはまず、彼女に言葉を教えることにした。
そうして、塔の上での生活が始まった。