深淵卿の夏休み編 七番目のお嫁さんは不定形
すみません! 時間がなくて急ピッチだったもので中々上手く話をまとめられず少し遅れました!! 深淵卿の夏休み編ラストです。よろしくお願いいたします!
空を北西へゆく一機のヘリコプターがあった。
明らかに民間用ではない。速度と航続距離に秀でた軍で採用されている機体をカスタマイズしたような機体だ。側面には盾と魔法の杖のようなものが交差したエンブレムとMCBの文字がある。
その機内で、ヘッドセット越しに呟きが耳に届いた。
「それにしても、未だに信じられません。リチャード警部が黒幕だなんて……」
向かいの席に座っているエージェントKだ。手元のタブレットに落としていた視線を上げて、窓の外の景色を眺めていた浩介を見やる。
「素晴らしい経歴です。やや、いえ、かなり独断専行的というか、上司に反抗的というか、それで受けた処分の数はとんでもないですが……三十年以上、結果を叩き出し続けている」
「MCBのデータも素晴らしいな。評判レベルの情報も、この短時間でアップロードしてくれるとは。まさに、一晩でやってくれました、だな」
浩介の隣に座っている清武が、同じくタブレットを見ながら頷く。
「市民の方々からも信頼が厚いようだ。それどころか、アウトローな連中からも一目置かれているようだな」
「ええ。刑事としては申し分ないでしょう。信頼関係のある知人が多ければ、それだけ捜査にも役立ちますし。実際、こうして評判レベルの情報を素早く集められたのも、それが要因の一つでしょうし」
「ああ。ただ……正体を知ってしまった今となってはそれも……」
「……ええ」
最近能力に目覚めた〝覚醒者〟等とは格が違う、その裏の顔は、否、本当の顔は本物の魔術師だ。
裏ではおぞましい犯罪に手を染めてきたに違いなく。ずっと昔から魔術なんて超常現象を操れたのなら、検挙率の高さや彼に協力的な知人の多さにも別の見方ができてしまう。
「三十年以上、刑事をしていたのは……都合が良かったからなのでしょうか?」
エージェントKが沈鬱な表情で俯く。
思い出されるのは最初の邂逅。幼い少女を気遣い、その言動から周囲の大人を推し量ろうとした姿。タバコを吸うのにも陽晴を気遣っていた。
銃を破壊され、明らかに異様な者達に囲まれていながら、むしろ開き直って尋問までしてくる胆力、視線の鋭さ。
Kにとって、警部の姿は敬意に値するものだった。
「ティム・シークレスのことを語った時のあの憤りは……演技だったんでしょうか?」
「どうかな……少なくとも、陽晴ちゃんは嘘じゃないと判断した。だから、あんなタイミングでやってきた警部に裏技で尋問しなかったわけだし」
そう、やろうと思えばできたのだ。浩介が持つ最強の尋問手段〝村人化〟を。
真実を話せと凄んだ警部を前に一触即発の雰囲気になった時、陽晴が肩越しに振り返って浩介と視線を交わしたのは、それを伝えるため。
エージェントJが返答する前に一瞬、視線を彷徨わせたのも浩介から〝念話〟を受けたからだ。様子を見ようと。
「警部が、いや、リチャード・ヒルが黒ローブの男なのは間違いない。それを確かめるために分身体を残して、皆が出て行った後もこっそり地下を調べていたんだし」
実のところ、浩介達は最初から警部を少しばかり疑わしく思っていた。それが確信に変わったのは、教会内で〝獣の怪物〟と戦う直前のことだ。
清武が腕を組んで眉間に皺を寄せつつ口を開く。
「……警部が見たという〝黒い外套を羽織った何者か〟も、よく考えればあり得ないものな」
〝獣の怪物〟は教会の外に出られない。出ても姿を維持できない。そして、村人はグールと化し、あの村は無人だった。
では、警部は何を見た?
仮に何かを見たのが本当だったとして、浩介達すら気が付かなかった存在に、なぜ一人だけ気が付くことができた?
あり得ないのだ。そんなこと。
「しかも、警部は襲われなかった……」
エージェントKが溜息交じりに、J達が現場を去った後、浩介から聞いた考察を思い出しながら呟く。浩介は頷いた。
「あの獣は飢えていた。だから、集団の中のより上質な食料に執着した。けど、そう、酷く飢えていたんだ。入ってきたのが一人だったなら選り好みなんてしない」
最初に教会内に踏み込んだのは警部だ。なのになぜ、〝獣の怪物〟は警部を襲わなかった?
浩介ですら片腕を持って行かれるほどの奇襲性能だ。一般人を噛み殺すなんて一瞬である。〝転移〟と〝神速〟も使えるのだから、警部を殺した後で浩介を襲うことだって十分にできたはず。
「自然に考えれば答えは簡単だ。リチャードが召喚者だから、そして襲われないための対策を知っていたから」
「です、ね……そう考えると、グールを見た時の反応や、獣を倒した後の反応も……意味合いが違ってきますね……」
グールという存在に驚いたのではない。グール達が完璧に無力化されていたことに驚いていたのだ。
重力魔法に驚いたのは本当だろうが、その後のショック状態は、あり得ないと連呼していたのは……きっと、〝獣の怪物〟で浩介達を始末できないとは思いもしなかったからに違いない。
「あのカルト集団はいったいどういう組織で、何が目的なのか。捜査撹乱のために放棄したはずの村に、なぜリチャードは戻って来たのか……」
浩介もまた腕を組んで、先程までそうしていたように窓の外を眺めた。考えを整理するように目を細めて。
「それを確かめるために泳がせたんだろう?」
「本当にNRLを受けてまでね。流石にちょっと腰が引けましたけど」
清武が浩介の肩にポンッと手をやり、Kは苦笑いを浮かべる。NRLによる記憶処理の根幹は〝魂魄魔法〟だ。一応、記憶を元に戻すデニューラ・○イザーも本部に支給されているが、浩介なら自前の魔法で元に戻せる。
と、事前に〝念話〟で説明を受けてはいたが、それでも怖いものは怖い。
エージェントKの中には、己の不甲斐なさ故に仕事への見切りをつける気持ちなんて微塵もなく、むしろ挽回してみせるという気概しかなかったのだから。
と、そこで清武がピクリッと反応した。懐から呪符を取り出し、刀印を結んで指の間に挟み、瞑目する。
健比古が忍ばせている〝式〟を通して、向こうの状況を把握しているのだ。
「どうやら親父達はデトロイトに入ったみたいだ」
「我々の到着予定時間は後一時間と少しといったところです。後続の部隊は1300までに到着予定。まずは、後続の部隊の拠点確認が必要です。本部が場所だけは手配はしてくれていますが、支部があるわけじゃないので」
Kの記憶処理の理由の一つだ。いざという時の奇襲要員であると同時に、現場指揮官としてMCBの強襲部隊と連携するためである。
後続の輸送ヘリで二小隊(一般的に三十人から六十人くらいが一小隊だが、MCB基準では一小隊十人なので二十人ほど)が現地入りする予定だ。
デトロイトで起きている怪奇事件の数々を思えば、リチャードの仲間やグールのような怪物が潜んでいないとも限らないので、市民への被害も考慮してのことだ。
なお、これはエージェントKからの提案である。今後の展開を予想してのことだ。超常現象のオンパレードに情けない姿を見せてはいたが、本来は若くして軍の極秘部隊に配属されるほど優秀なのだ。
こっそり次手を提案してきたKの姿に、なんだかとても満足そうなJの表情が大変印象的だった。
閑話休題。
「デトロイトでの怪奇事件関連の捜査資料は既にZが取得済み。タブレットにアップロードしてあるので目を通しておいてください」
「了解。基本的にはJ達が警部に案内されたところ以外の現場を調べてみようと思う。十中八九、リチャードが関わっているだろうし」
「まぁ、親父がいるんだ。何か術的な仕掛けがある場所に連れて行ったりはしないだろうな」
「っすね。時間がないっていう村人の発言……目立つことをいとわない怪奇事件の数々……ちょっとね、いざという時に何をするか分からない恐さがあります。一番怖いのは、ヴァンウィッチの地下にあったような人体に害の出る術が仕掛けられていて、一般人に被害が出ることですし」
相手の拠点や目的を探るのも重要だが、最も注意すべきは市民への被害だ。
テロ行為で市民に被害が出ている間に逃走なんてこともあり得る。リチャードを捕まえた途端にそれが発動したり、あるいは彼の仲間が察知して何かしでかしたりする危険性もある。
だからこそ、Jと健比古がリチャードに張り付き、浩介達は別行動を取るという作戦に出たのだ。
「まぁ、J達がさりげなくリチャードに揺さぶりをかけているはずだから、近いうちにボロを出すんじゃないかと思うけど」
「あっちからしたら、いつミスター・エンドウが戻ってくるかって戦々恐々としているでしょうからね」
「事をなすなら鬼の居ぬ間に、だな」
「誰が鬼ですか」
苦笑しつつ、浩介もまたタブレットに視線を落とした。
そうして、
「でも、できれば正式な出向日までは何も起きないでいてくれると嬉しいなぁ」
なんて、妹やヴァネッサが聞けば「それ、フラグぅ!!」とツッコミを入れるだろうことを、浩介自身も儚い願望だと予感しつつも呟いたのだった。
ちょうどエージェントJ達がデトロイト市警で警部と別れ、分身体の浩介やK達も裏で捜査や不測の事態に備えて準備をしている頃合い。
日本では昼を幾らか過ぎた時間帯に、浩介達は妖精界旅行を終えて遠藤家に帰ってきていた。
それぞれの組織から妖精界に関する報告は〝可能な限り早く〟と指示されているが、流石に帰ってきて直ぐに動く気はなく。
妖精界のお土産として持たされたお菓子や茶葉の類いを広げ、思い出話に花を咲かせながら、全員思い思いにリビングのソファー(来客がすっかり増えたので大型ソファーを新調した)でゆったりとした時間を過ごす。
祖国への忠誠心と仕事への生真面目さがカンストしているような朱ですら、壮大な世界を見てきた余韻に浸り、珍しくも遠藤家のリビングにあるソファーで、ぐでぇ~~っとしている。
ちゃっかり陽晴の隣を確保していて、心なしか旅行前よりも距離が近い感じがするのは気のせいだろうか。
陽晴も陽晴で、その距離感を自然と受け入れている感じがする。たまに写真を見せ合ったり、何か意見を交わし合ったりしていて、そうすると更に距離が近くなるので余計に姉妹に見えてしまい。
それをラナがからかえば二人揃って息ぴったりに否定して、浩介達に笑われたり。
そんな団欒の中、
(う、うわぁ……デトロイトこわぁい……事件起きすぎぃ~)
頑張っている分身体からのフィードバックに、心のミニ浩介が頬を引き攣らせたり。
(おまけに、なんだろう? なんか都市全体に違和感が……いや、ダメダメ。せっかく自律性のある分身なんだぞ? あっちは任せて、今は休暇♪ 休暇♪ 俺は絶対、リリアーナ姫みたいにはならないんだからね!)
本体? ほんたぁい!? 聞いてるぅ? という分身体の声を、心のシャッターを降ろして店仕舞いアピしつつ無視したり。
そうこうしているうちに時間はあっという間に流れ、外がすっかりオレンジ色に染まった頃合いに、藤原家の大晴や千景と一緒にバカンスに出ていた遠藤家の父と母、英和と実里も帰宅。
二人してアロハシャツに短パン、麦わら帽子にサングラスという浮かれまくった姿だった。余程、楽しかったらしい。「「たっだいまぁ~~♪」」の声も弾みまくっていた。
藤原家の使用人である初老の男性が、ニコニコ笑顔で二人のスーツケースを運び入れてくれて、陽晴に「明日の午前中にお迎えに上がります」と一礼して去って行く。流石は藤原家の使用人。とってもスマート。
一応、南雲家と同じで浩介の自室の扉は〝ゲート〟になっている。ダイヤル式の鍵がついていて、登録者が番号を合わせて開くことで現地の〝ゲート〟に繋がるのだ。
なので、いつでも直ぐに移動できるということは千景達も知っているはずだが……
たぶん、あれだ。藤原家と遠藤家の繋がりアピールの一つじゃないだろうか? と、窓の外から見えるリムジンを横目に、浩介は思った。
何はともあれ、夕食の時間である。
今日は浩介達も遠藤家でくつろぐということは聞いてたので、実里と英和も団欒するために夕食は家で取ることにしてくれたのだ。
「それでね、もう凄いのよ? お母さん、あんな大きなクルーザーに乗ったのも初めてなのに、ドレスなんて着ちゃって……恥ずかしかったけれど、千景さんが本当に良くしてくれてね?」
夢見る少女のような表情の実里。セレブの旅行は、まさに浩介達が神々の星巡りをした時の心地と同じらしい。
「その、なんだ……母さん、綺麗だったぞ」
「やだっ、あなたったら! 子供達の前で! ……でも、あなたも格好良かったわよ? ほら、すっごい大物を釣った時とか。三十分くらい格闘してようやく釣り上げた時なんて使用人の皆さんも拍手喝采だったじゃない」
「よ、よせよ。子供達の前だぞ」
どうやら、今回の非日常的な旅行で遠藤家のご両親も仲が深まったようである。いや、夫婦なのだし、昔の情熱を思い出したというべきか。
イチャつく両親に浩介と真実はなんとなくスンッとなり、ラナ達は微笑ましそうに、あるいは憧れや羨ましそうな雰囲気を滲ませる。
子供達としてはちょっと気まずい雰囲気の中、それでもゆったりと食事をしながらお互いの旅行の感想を口にし合う団欒の時間。
言葉が途切れることはなく、充実した時間が流れる……
(ねぇ、こう兄ぃ。この光景を見たらさ、そう兄ぃ――)
(言うな、妹よ。というか、俺達の帰宅日は教えてあるのに帰って来ないってことは、こうなるのを分かっていて避けたってことだろ? 間違っても写真とか撮って送ったりするなよ?)
(あ、ごめん。もう送っちゃった)
(鬼かっ!? いくら茨木童子の主になったからって心まで鬼にならなくていいのよ!?)
(なんでオネェ口調?)
咄嗟にスマホを取り上げるが、兄である宗介からの返信は一切なかった。こわい。
代わりに、浩介のスマホが鳴った。デスクの上に、ど○兵衛とツナマヨおにぎりが置かれている写真だけが無言で送られてきた。こわいっ。
(後で兄貴のとこに顔を出しておこう。神様達に頂いた日持ちする食べ物とかお酒とか、お土産もいっぱいあるし……)
兄・宗介の幸せを願ってやまない。だから、
「真実。茨木童子のことは兄貴に教えるなよ。特に、アジズとの争いは」
「あ~…………………………フッ」
「絶対言うなよ!? 絶対だぞ!?」
「ワカッテル、ワカッテル~」
妹までモテ始めたと理解した時、宗介兄さんはいったいどうなってしまうのか。妹の表情は何より雄弁に言っていた。「私、気になりますっ」と。鬼だった。もしや、茨木童子もこういう部分に惹かれたのか……
と、その時だった。
「おぉう!?」
浩介が奇声を発した。
「な、何よ、こうすけ。驚かせないで。今、こうすけに肉体関係を迫った戦神系の女神様に、私が、そう、わ・た・し、が! 正論という名の暴力で以て追い返した時の話をしてるんだから! ……何かあった?」
如何に己に浩介が相応しいかを自信満々に語る戦女神に、如何にこうすけが戦女神様に相応しくないかダン○ンロンパしたエミリーちゃん。
周囲には同系列の神話の神々もいたので、不興を買わないようにという配慮であったのだが……
関係を断つことができたわ! どう? こうすけ! 凄いでしょ? 褒めてもいいのよ? とドヤ顔のエミリーちゃんを、相応しくない点を延々と論理的に上げられた浩介君が涙目でよしよししたのは言うまでもない。
もちろん、両親としては是非とも詳しく聞きたいところだが、しかし、エミリーは直ぐに浩介の様子に異変を感じて表情を改めた。
「分身体の方に何かあったのね?」
さすラナ。実に察しが良い。浩介は頷いた。溜息交じりに。
「悪い、ちょっと行ってくる」
「ちょ、ちょっと浩介。いったいどうしたのよ」
「帰ってきたばかりじゃないか。食事中だし……」
「こう兄ぃ。家族との時間優先じゃなかったの?」
家族から困惑の表情が帰ってくる中、浩介は分身体を一体、ぼふんっと生み出した。
「そのつもりだったんだけど、ちょっと米国の方が不味そうなんだ。このままだと……もしかすると数十万……場合によっちゃ数百万単位で被害が出るかも」
「「「…………はい?」」」
遠藤家の反応は、とても一般的だった。
だが、そういう規模の被害が出る事件に関わったことがあるラナ達からすれば、普通に起こりえること。まして、村一つ、住人が全て怪物になるような事件の延長線にあるのだ。遠藤家の反応にほっこりしつつも、直ぐに表情を改める。
「何か手伝えることはございますか?」
陽晴が陰陽師モードの表情で問う。浩介はこくりと頷きつつ、分身体から共有された状況を簡単に口にした。
「なんか都市のあちこちを起点にした変なエネルギーの流れがあってさ。たぶん、何かの儀式だと思う。巨大な魔法陣に見立ててるとか……?」
「うわぁ、アニメや映画でありそうな展開ですね……」
「村人の全てを怪物に変えてしまうような者達です。十分にあり得ますね……悪魔崇拝者にも、そういうことを目論んだ組織は過去に幾つもありますし」
ヴァネッサが引き攣り顔に、クラウディアは眉間に皺を寄せている。
「何を目的にしたものかは不明だ。けど、デトロイトで起きた怪奇事件に関連する場所に反応が出てるから……まぁ、絶対にろくでもない儀式だと思う」
深刻そうな雰囲気が漂う中、浩介は逆に何も問題はないと余裕を見せるように表情を緩める。
「とはいえ、阻止は簡単だ。起点を破壊すればエネルギーの流れがその部分だけ止まったから、ちょっと分身しまくって人海戦術で破壊してくる」
問題は起点の数だった。分身体との情報共有曰く、まるで〝ハッキングに対し相手の位置を特定しようとしたら発信源が無数に出現して攪乱されている〟……みたいな、まさにヴァネッサの言う通り映画にありそうな状況らしい。
ダミーか本物の起点か見分けが付かず、反応的にはデトロイトどころかミシガン州全体に及んでいそうなので、人海戦術かつ重力魔法での疑似飛行が可能な浩介自身が赴くのが最大効率の対処法ということだ。
「取り敢えず、皆は家にいてくれていいよ。MCBの部隊も到着してるし……もし、想定を超える事態が起きて人手が必要になったら連絡する」
ラナ達に家族との時間を優先してほしいのは、浩介とて同じ。そう想っての言葉に、そしてまだ状況が逼迫しているわけではないと理解し、ラナが雰囲気を変えるように笑顔で頷く。
「そうね。その起点の破壊は常に全員で情報共有し続けられるこうくんが一人でやった方が効率良さそうだし……分かったわ」
「うん、皆での晩飯を楽しもう。俺も分身体を置いていくし」
そのために出した分身だったらしい。同時に連絡係でもあるのだろう。
便利だなぁと誰もが苦笑し、空気もようやく弛緩する。夕食時の団欒の空気が戻ってきた。
「ヒーローは大変だね、こう兄ぃ。いってらっしゃい」
「まぁ、なんだ。分身の方がご飯を食べても本人の腹は膨れないだろう? 残しておくから後で食べなさい」
「気を付けてね。無理はしちゃダメよ?」
妹と両親の顔にも、忙しい兄・息子に苦笑を浮べつつ送り出しの言葉を送る。
それに頷き、浩介はデトロイトにいる分身体と入れ替え転移を発動した。
シュンッと消える浩介。
代わりに、シュンッと出現する分身体――
「フッ、摩天楼から望む夜明けも悪くな――あっ」
なんか言ってる。モデルみたいな立ち姿で腕を組み、サングラス越しに眼下を見下ろしながら。
もちろん、そこには食卓しかない。
ラナ達が注目する中、ギギギッと顔を上げる分身体の浩介君。
「……コウスケさん、流石です。無意味に高層ビルの屋上に立って、都市を見下ろすヒーロームーブをしていたんですね!」
「え、ヴァネッサ。それって普通、ヴィランがするものなんじゃ……」
「や、やめてやってくれ、二人とも! 男なら誰しも、一度はやってみたいと思うムーブなんだ!」
英和お父さんが共感性羞恥で真っ赤になりながらもフォローしてくれるが、母の呆れ顔と妹の両手で顔を覆って身悶えている姿、そしてアジズを筆頭になんとも言えない表情の陽晴ちゃん達を見ると、むしろ居たたまれなくて。
しかも、「あっ」って言っちゃったし。
それはつまり、深淵卿モードではなく素でやっちゃってたということだとバレバレだし。
「もう消えてしまいたい……」
そう言って、分身体はボフンッと消えた。
もちろん、団欒用に置いておいた分身体が代わりに羞恥心で死にそうになり、その情報を共有された本体も、摩天楼の上で転がり回ることになったが。
時は戻り。
「で、駆けつけた結果、リチャード、あんたの計画は阻止させてもらったってわけだ」
もちろん、高層ビルの上で都市を見渡す厨二ムーブのことは伏せて、リチャード達が動いている間に裏で起きていたことを伝える浩介。
リチャード警部の舌打ちが響いた。
「はぁ……やはりあの時か。疑われたのは。まさか、〝猟犬〟で仕留められないとは思いもしなかったとはいえ、誘導が強引すぎたな」
「ああ、いや、そのだな……疑念自体は最初から持ってたぞ? 確信したのが教会に誘導した件ってだけで」
「……なんだと? ボロは出してないはずだが……もしかして、村にやってきたタイミングか?」
なんだか気まずそうな浩介に、推測を口にしつつも訝しむリチャード警部。
そんな警部に、身も蓋もない回答が告げられた。
「……勘、だな」
「…………あ?」
「直感です、はい。陽晴ちゃんがさ、こっそり伝えてくれたんだ。あんたを見て何か嫌な感じがするって。陽晴ちゃんの直感は的中率やばいから」
「……………………」
長い沈黙だった。陽晴を心配する素振りも、タバコを吸わないよう気遣ったのも、全部無意味だったのだ。その原因は、〝勘〟。
それはまぁ二の句も告げなくなるだろう。
「半世紀近く、誰にもばれなかった演技だったんだがな。自信なくすぜ」
「いや、完璧だったよ。陽晴ちゃん自身も半信半疑だったし、俺達だけなら気が付けなかった。特に、ティムさんのことを語るあんたは……嘘を吐いてるようには全然見えなかったよ。とても、殺した張本人だとは思えないくらいに」
かまかけというほどでもない。半ば確信しての確認的な浩介の言葉に、リチャードは特に否定もせず肩を竦めた。
「そりゃあ本心だからな。コツは切り離すことだ。刑事の己と、魔術師の己を、完璧にな。ああ、そういう意味じゃあ誰にもばれなかったってのは嘘だな。ティムには気が付かれたんだから。本当に優秀で良い奴だったよ」
誰より信頼し尊敬していた相棒であり上司だったリチャード警部。しかし、だからこそ彼は違和感を抱いた。
最初は、本当に些細な違和感だ。だが気が付いてしまえば、ティム・シークレストは本当に優秀で、そして誰よりもベテラン刑事たるリチャードの捜査手腕を学んでいたが故に――信じ難い、信じたくない事実に気が付いてしまった。
それを否定したくて、彼がどれだけ走り回り、精根尽き果てるほどに調べたか。
だが、リチャードの事件への関与を否定すべく必死になればなるほど、見えてくるのは最悪の真実で。
そして、リチャードもまた、若き相棒の内心を読み取っていたが故に。
「本当に良い奴だった。内部監査に報告する前に、俺と一対一で話そうなんてな。自首するよう説得したかったんだろう。実に都合が良かった」
「ふざけるなよ!! お前はなんとも思わなかったのか!? 人の血が流れていないのか!?」
エージェントJが激昂し、飛び出しかけた彼をKが羽交い締めにして止める。だが、Kの眼差しにも怒りと軽蔑が隠し切れていなかった。
「泣いたよ。あんな良い奴を、大事な相棒を殺さなきゃならなかったんだ。魔術師として殺し、刑事として泣いたさ」
「……狂っているな」
健比古の険しい声音が、リチャードという男の在り方を端的に示しているようだった。
きっと、本当に嘘ではなかったのだ。〝リチャード警部〟も、そして〝魔術師リチャード〟も。
完璧な精神制御。人格の切り替えと言っても過言ではない二面性。それは常軌を逸した在り方だが、だからこそ三十年も優秀な刑事として在り、同時に誰にもばれずに裏で冷酷な魔術師が出来ていたのだろう。
それこそ、陽晴の直感がなければ浩介達ですら疑いを持てないほどの、ある意味、超一流の技術であった。
「こちらからも一つ聞かせてくれよ」
リチャードは健比古の言葉に苦笑しつつ、逆に問うた。
「一応、地下の裏口が使われていたアピールはしただろう? 黒幕が地下に入った後、そこから出て行ったなら〝誰かがいた可能性〟は十分に考えられる。俺の目撃証言も、一応の辻褄は合うんだ。なのに、Kの離脱偽装といいMCB部隊の派遣といい、ちょいと俺に的を絞りすぎじゃないか?」
あわよくば、そこから黒幕が逃走したのではと追ってくれることも期待していたのだ。なのに、浩介達は悩む素振りも見せなかった。
それどころか地下を調べるのも後回しにして、リチャードの提案通り素直に外へ出た。
そして、特に打ち合わせをする時間もなく直ぐに帰還してしまった。
なのに、J達の今回の作戦である。
他に黒幕がいる可能性を一切考慮していない、リチャードを黒いローブの男と確信していなければ出来ない作戦だ。
「ああ、確信していた。だって、直ぐに帰ったのは誰もいない地下を自由に調べるためだしな」
「……こっそり戻ってきていたってことか?」
「いいや、ずっといたんだよ。俺の分身がな」
「……」
エージェントHとMを救助した際、本体と入れ替わりで消した分身体。実は、消してなかった。そう見せかけただけで隠形していたのだ。
HとMを介抱している間、一人、地下を調査するとうろついていたリチャードの後ろに、ずっと付いて回っていたし、浩介達が地下から素直に出たのも、分身一人で気兼ねなく地下を調査するためだったのだ。
何より、浩介には確定情報を得る方法があったから。
懐からサングラスを取り出し、指先でくるくると回す浩介。
「これな、ウルドグラスって言うんだ」
「ウルドグラス……?」
「そう――過去の出来事を幻視できるアーティファクト、いや、あんたに分かりやすいよう言うなら神器だ」
「っ!?」
リチャードの顔に衝撃と、次いで理解の色が広がった。
「ローブの隠蔽効果で、地下だと正体は分からなかった。最悪、村の外まで過去の黒ローブの男についていく必要があるかと思ったけど……村の人達を全員グールにしたからか、あんた裏口の通路の中で早々にフードを脱いだろ? はっきりと確認させてもらったよ」
「……どうしようもねぇな、そりゃ」
エージェントJ達と共にMCBの援軍が来るまで待っている間に、そんな反則気味な調査をされていたのではお手上げだ。と、実際にお手上げするリチャード。
そして、自嘲気味に、あるいは憎々しげに、浩介を睨んで言葉を吐き出した。
「尽く邪魔ばかりしてくれやがる。本当にクソだな――てめぇら、帰還者はよッ!!」
「! ……やっぱり知ってたんだな?」
長い歴史を誇る村を拠点としていた組織だ。本物の魔術師であるリチャードが、帰還者を知らないということは、やはりなかったらしい。
「ああ、当然だろう。他の組織が手を出してボランティア団体に変わっちまうなんて異常を目にして、こっちは手を引いたってのによ……あんたらには関係のないアマイの件でも邪魔をしやがって」
「待て、アマイ? まさか、甘衣さんか? 日本でバスガイドをしている甘衣安寿?」
鼻を鳴らすリチャード。正解らしい。浩介は目を見開いた。
「まさか、去年のクリスマスの事件もお前が?」
「そうさ。精神支配した男を使ってな」
「さっき、私達に仕掛けた奴か……確かに、術耐性のない一般人では抗いきれないだろうな。特に、強い意志を持たない人間ならなおさら」
健比古が、あの精神を侵蝕するようなおぞましい感覚を思い出して眉間に皺を寄せる。
去年のクリスマス、クリスマス・フォーと黒衣の男が相対した事件。あの廃人になっていた男を操っていたのはリチャードだったらしい。
「お前等の主力が日本にいない間を狙ったってのに、それも失敗に終わった」
「ちょっと待て、俺達が日本にいない間? まさか、旅行中にも襲ってきてたのか?」
「ああ、アマイを狙ってな。ったく、なんなんだよ、日本って国はよぉ。半分は魔術も使えねぇ連中だったが、それなりに鍛えられた部下だぞ。それが木刀を持った女子高生に負けるってのはどういうことだ? いつからあの国は魔境になっちまったんだよ」
「お、おう……」
余程腹に据えかねているのか、あるいは諦観が漂っているのか。歯噛みしつつも疲れたような表情を晒すリチャードに、浩介はなんとも言えない表情になる。
脳裏に〝打倒魔神!〟を掲げる後輩の女の子を思い浮かべながら。
取り敢えず、浩介に連絡が来ていないということは、どうにかなったのだろうと思いつつ、
「書物さえ……書物さえ手に入れば、こんなまどろっこしいことはしなくて済んだってのに……」
リチャードの呟きに、浩介はスッと目を細めた。
「なぁ、リチャードさん。あんたは、いや、あんたらはいったいなんなんだ? 何が目的で村どころか、都市一つ巻き込むようなことをしでかしたんだ?」
ただのカルト集団というには、リチャード達は〝本物〟すぎる。長い長い歴史の中で、確かな魔術という超常現象を手に活動していた組織。
普段は一般人として社会の中に確かな地位を築いて生活し、意志を継承しながら裏の世界で何事かをやってきた。
なのに、日本での襲撃に、デトロイトでの怪奇事件の数々。
「ヴァンウィッチを見て思った。あんた達は歴史の影に隠れることをこそ最も重要視していたんじゃないのか? なのに、ここ最近は目立ちすぎだ。南雲がマークするのも時間の問題だった。……まるで、もうなりふり構っていられないみたいに」
リチャードが再びあの目をした。疲れた老人のような、それでいて狂気を宿したような目を。
「そうだな。どうせ最後だ。知りたいってんなら教えてやるよ」
浩介の存在が、やはり止めとなったのか。諦めたように壁にもたれかかり、懐からタバコを取り出すリチャード。指先に灯した火を使って、深く一服する。
ちょうど、そのタイミングで屋外の騒動にも余裕が出来たのだろう。ラナとヴァネッサが地下に降りてきた。
魔術師の仲間を警戒して陽晴や朱、クラウディアなど対応できるメンバーは、まだ清武達と行動を共にしているのだろうが、物理的な戦闘ならMCB部隊や緋月だけで事足りるので一足先に離脱したに違いない。
念のためにと出入り口に陣取って逃走経路を塞ぎつつ、浩介にニッコリ笑顔を送ってくる。
それを見て、リチャードはますます諦観の滲む表情になり、溜息交じりにもう一服。ふぅ~っと紫煙を吐き出し、語り出した。
「俺達に名はない。名は存在を示すものだからな。強いて言うなら〝我等〟だ。我等はご明察の通り、何よりも存在の秘匿を重視していた」
名を持たず、拠点を持たず、人生のほとんどを一般人として過ごす者達。
魔術に関わる何かの保管場所としてヴァンウィッチや、この地下施設のような場所はあるが、そこにも最低限しか訪れない。
だが、その歴史は古い。始まりは紀元前に遡るという。連綿と続く古の魔術師の系譜であり、知識と技術を生まれた直後から脳と肉体に魔術的秘法により刻まれるのだとか。
「生き方なんぞ選べん。意志の話じゃねぇんだ。生まれた時から、そう生きるよう刻まれる。それが〝我等〟だ」
「目的は……? なんのために、そんなことを?」
「少しは聞いたろ、あの地下で。そう、全ては〝門の神〟のためだ」
「その〝門の神〟ってのはなんなんだ?」
「救世主さ」
浩介の問いかけに、リチャードは皮肉っぽい笑みを口の端に浮かべ、妙に光のない瞳を虚空に彷徨わせながら。
「古い古い言い伝えだ。いつの日か来る〝世界の終焉〟。〝来たる日に、彼の存在は門を開き、新たな世界へと旅立つ〟ってな」
「世界の終焉? 穏やかじゃないな?」
エージェントJが疑わしそうな目を向ける。それはそうだ。唐突にスケール感が爆増したのだから。よくあるオカルト組織の戯言にしか聞こえないだろう。
「具体的にどうなると言うんだ? 何が原因で?」
「原因なんざ知らねぇよ。んで、終焉は終焉だ。それ以上でも以下でもねぇ」
Jは思わず浩介達に視線を巡らせた。こいつ、私達のことを揶揄っているのでは? と額に青筋を浮かべながら。
その雰囲気に気が付いて、リチャードは鼻を鳴らした。
「少なくとも遥か昔のご先祖様達は、それを信じた。〝門の神〟から神託を受け、力を授けられ、崇拝し……そして、神が旅立つのに必要な力を集めるために生け贄を捧げ続けた。門が開き、旅立つ神に眷属として連れて行ってもらうためにな」
それが、リチャードが使う魔術の、そして〝我等〟の起源らしい。
その崇拝と役目が〝来たる日〟まで途切れぬよう赤子に刻み込む魔術の奥義まで使って。あるいは、その力も〝門の神〟とやらから授かったのか。
「それなら……南雲がマークしそうなものだけどな……」
浩介もまた、今の世の中における危険分子を羅針盤で探索していたハジメが見逃すとは思えず、リチャードの話に半信半疑の目を向ける。
「帰還者のボスがどんな力を持っているのか、詳しくは知らねぇけどな? まぁ、お前の言った通り〝我等〟は秘匿こそ最重要としていた。それのおかげじゃねぇか?」
魔術師でありながら、殺人にも誘拐にも直接的に魔術を使うことは固く禁じられているのだという。
不自然が生まれかねないからだ。不自然は違和感となり、必ずその時代の有力者や権力者の目に留まる。
故に、殺人は事故や犯罪に巻き込まれたもの、あるいは自殺に見せかけ、誘拐は情報を操って自主的に失踪させるのが基本。
そしてそれらは、別に魔術など使わなくても成せる。例えば、ギャングの争いを誘発したり、社会的に追い詰めることで精神的に弱らせたり……
慎重に慎重を重ね、巧妙の極みを尽くして、魔術なんて超常的な力の気配をとことん隠し、使うにしてもあくまで補助としてだけ。
対象も当然、厳選する。いなくなっても気が付かれにくい、誰も困らない、そういう人間を。
それも全て、神の指示らしい。彼等の神は、とにもかくにも目立つことを嫌うようだ。
「もしかして、あんたが刑事をやってるのも……」
浩介の言葉に、リチャードは無言のまま肩を竦めた。
捜査の内情も、場合によっては撹乱や隠蔽も刑事ならやりやすいということだ。他の仲間もきっと、社会の中に根を生やして真っ当に生きている〝表の顔〟があるのだろう。生け贄を捧げやすくするための社会的地位が。
羅針盤の検索に〝対処が必要な危険分子〟として引っかからなかったのも、あるいは大半の〝覚醒者〟と同じ、才能はあるが脅威ではない大多数の一人と判断されたから。それ故に組織としても典型的なただのカルト集団と判断されたからなのかもしれない。
「よくも何食わぬ顔で生きてこられたものですね」
「素晴らしい経歴と言ったのは取り消させてもらおう。どうせ、検挙率の高さも裏で汚い真似をしていたんだろうしな」
犯罪のために刑事になったというリチャードに、同じ捜査官として思うところがあるのだろう。ヴァネッサとエージェントJの瞳が侮蔑と怒りに染まっている。
「……そもそも、その〝門の神〟とやらはなんなんだ? どの神話の神を指して言ってる?」
今にも殴りかかりそうなJ達を宥める意味も含め、健比古が尋ねた。家柄、職業柄、神話には詳しい方だが、一般的に門を守る神の話はそれなりに多いので判断がつかないのだ。
だが、リチャードから返ってきた答えは、健比古のどの予想にも当てはまらなかった。
「どの神話体系の神でもねぇよ。この宇宙の外からの来訪者……と言われている」
浩介とヴァネッサ、そしてラナの頬がピクリと反応した。一瞬、視線を交わし合う三人。それだけでリチャードも察したらしい。三人が見当をつけていることに。
「そう、敢えて、どの神話体系かと言うなら〝創作神話〟だよ。世間一般じゃあ〝クト○ルフ神話〟なんて呼ばれているな」
「……そんなものを本気で信じて?」
健比古がますます訝しむ表情になるが、ヴァネッサ達は「まさか本当に?」と目を見開いた。
「逆だ。創作神話の神を知って存在を信じたんじゃない。存在を知っているから新たな神話が書かれたんだ」
つまり、クト○ルフ神話の原典はフィクションではなく、ノンフィクション。もちろん、世に広めるに当たって面白さは必須であろうから創作が入っていないことはないだろうが、話や設定のモデルとなった出来事は確かにあったのだ。
「けど、羅針盤で探知が……」
と呟く浩介。羅針盤で探知できないのなら存在しない。なら、リチャード達の妄想に違いなく……
「この世界には、世界の外からやってきた神々が確かにいるんだ。怪物もな。遥か昔、古代よりもずっと前、それこそ人類が誕生する前から奴等はいるっ。ずっとずっと隠れ潜んでいるんだよ! 世界が終わる前に、次の世界に行くために俺達人間を駒にして力を蓄えているんだ!」
「お、おい、リチャード?」
諦観からか、逆に悠然とした態度だったリチャードの呼吸が激しくなっていく。体が震え、目が血走り、浩介達の誰も目に入らない様子で声を荒げていく。
「ああっ、見える! 見えるだろぉ! 世界の終わりが! ずっとずっと頭の中に流れ込んでくる! 大地も空もひび割れて、黒が……いや、黒なのか? 分からない。何もない! 〝無〟だ! 無が世界に広がって……ああっ、分かっていますっ、我が神よ! 偉大なる門の神! 捧げます! 捧げますとも! 時は迫っている!! 我等をお連れ下さい! 貴方の忠実な僕です! だからっ、だからぁっ――」
誰もが呑まれていた。リチャードから唐突に発せられた凄まじい狂気に。直前までの落ち着き払った態度とのギャップもあって、あまりに異常で異様な気配が感じられた。
ただ、心を病んでいるだけではない。何かおぞましい感覚が本能に訴えかけてくるようだった。
「――〝鎮魂〟」
「ッ」
まるで頭の中から何かを追い出そうとするみたいに、リチャードが頭を死に物狂いでガリガリと掻き始め、血まで滴り落ちた時点で、ようやく浩介が動く。
ハッと正気に戻ったみたいに目を見開き、血が染み込んだ己の爪を見やるリチャード。
一拍おいて、やっぱり疲れたような目をしながら自嘲気味に笑う。
「神々の存在を疑いたければ疑え。別に俺は困らねぇ。ただ、俺の知る事実を言うなら、奴等はいる。〝我等〟以外にも他の神を崇拝する組織はあるし、崇拝者である〝我等〟を止めようとする探索者との争いも遥か昔から続いている」
整然としたしゃべり方が、むしろ不気味だった。刑事と魔術師の己を行き来するように、この男は日常的に正気と狂気を行き来しているのかもしれない。
果たしてそれは、単なる精神疾患の一種なのか、それとも本当に外宇宙から来た神の干渉によるものなのか。
「創作神話の類いは探索者による一種の警告書だ。外宇宙の神々には近づけない。近づいた者は尽く精神をやられる。人に耐えられるものじゃないからな」
だから、直接的な警告も存在の証明もできないし、しない。何より、神々がそれを望まない。目立つことをとにかく嫌う彼等は、そんな探索者を決して許さない。
だから、探索者達はあくまで〝創作〟として世に出した。事実を微妙に変えて、しかし、まったく知らないよりは身を守れるように。自分達が死んでしまっても、後世に知識が伝わるように。
その過程においても、探索者と崇拝者の激しく凄惨な闘争劇があったという。
「本当に、お前等〝帰還者〟が現われてから何も上手くいかねぇ。俺はな、てめぇのあの力を見て思ったぜ? 〝世界の終焉〟、その原因ってのは……お前等なんじゃねぇかってな」
あの時、リチャードが思わず「お前が……」と呟き、直ぐに「お前はいったいなんなんだ」と言い直したのは、きっとそういうことだったのだ。
お前が世界を滅ぼす者か? と問いたかったに違いない。
「世界を終わらせようって奴が、生け贄にされそうな都市を救ったりはしないだろ」
浩介の代わりにエージェントJが呆れたように反論する。リチャードはフンッと鼻を鳴らし、再反論はしなかった。
「他にもいろいろ聞きたいことはあるけど、取り敢えず、ここではこれが最後だ」
「これはなんだ?」
「うおっ!?」
唐突に隣から聞こえてきた声に、リチャードは肩を跳ねさせた。思わず身構えながら視線を転じれば、そこにはもう一人の浩介が。分身体だ。
その手には、古びた紙が握られている。黄ばんだ三枚ほどの紙で、サイズはA4より少し小さいくらいか。
「ちょっ、こうくん? それ大丈夫なの? なんか凄く嫌な感じがするんだけど、ばっちくない?」
「うん、だから分身に持たせてる。あの奥の部屋に、なんか妙な石像……石像? があった。村で見た彫像に見た目は似てるけど、部屋の大半を埋め尽くしている。まるで、洗剤を入れすぎて溢れ出した泡みたいに。そこに貼り付けられていた」
浩介が親指で背後の扉を指した。鍵の外された奥の部屋には、そんなものがあったらしい。会話をしている間に、分身体が当然の如く奥まで調査していたのだ。
「で? あの趣味の悪い彫像パート2は? なんで〝村の地下から持ち出したこの紙片〟を貼り付けてた?」
「……時間稼ぎのつもりだったんだが、本当にクソだな」
リチャードは唾を吐いた。心底忌々しそうに。どうやら素直に会話に応じていたのは、奥の部屋で何かをするための時間稼ぎだったらしい。
それさえも潰されていて、リチャードはすっかり短くなったタバコを投げ捨てグリグリと踏みつけた。
そうして、絶望の滲む表情で何かを言おうとして……
その瞬間だった。
ドンッ、と。
「え?」
「なんだ?」
浩介が驚いたように振り返り、エージェントJが目を眇めて見やる。奥の鉄扉を。
ドンッ、ドンッ。
再びの衝撃音。鉄扉が震えている。内側から何かを叩き付けているみたいに。
「どういうことだ? さっき分身体が入った時は誰も……」
「は、ははっ、まさか成功するとはな! 時間稼ぎも無駄じゃなかったってか!」
リチャードの顔に再び狂気が宿った。どういうことか問い詰める前に、ガァンッと一際大きい衝撃音が。鉄製の扉が僅かに歪んでいた。
一拍、二拍。
なぜだろう。この期に及んで、何者の気配も感じない。なのに、浩介やラナですら総毛立つ感覚を覚えて息を呑む。
――テケリ・リ・リ
字で表現するなら、そうなるだろうか。何か名状し難い、強いて言うなら、あたかも耳に虫が入り込んで這い回っているような不快極まる鳴き声のようなものが響き、誰もが思わず耳を塞ぐ。
直後、どろりっと歪んだ扉の隙間からそれは溢れ出した。
見ているだけで精神がすり減りそうな玉虫色の粘体だ。意志を持っているみたいに、一部が触手のように伸びてうねうねと先端を周囲に巡らせている。まるで観察しているかのように。
「なん、だ、あれは……」
健比古の無意識に出た声音は震えていた。そして、誰もその疑問には答えられない。否、ヴァネッサの脳裏に過ぎる答えはあったが、気配ではない異質な感覚に気圧されて声が出ない。
代わりに、狂気を宿した声音が響く。
「ははっ、あれは〝従属するもの〟。歴とした神話の怪物だ! 書物の奪取、生け贄の儀式に失敗した時の次善策ってやつだよ!」
「あの石像か。いや、石像じゃなくて粘体だったのか……」
――テケリリ・テケリ・リ
脳内に直接、侵蝕するような鳴き声が響く。JやK、それにラナとヴァネッサも顔をしかめ、一歩また一歩と後退る。
直後、轟音と共に鉄扉が吹き飛んだ。直線上にラナとヴァネッサがいるので、咄嗟に間に入って鉄扉を空中回し蹴りで蹴り飛ばすことで軌道を逸らす浩介。
その瞬間、
「※※※※※※**※※*※※」
リチャードだ。一心不乱に金切り声のような声音で何事かを唱える。
「やらせないって!」
分身体が即座に動き、リチャードの後頭部を狙って殴り倒す。普通なら気絶すること間違いなしの威力。
だが、狂気か、それとも魔術か。リチャードは焦点の合わない瞳ながら意識を失わず、口元を裂くようにして嗤った。
「聞けっ。あれは、際限が……ない! 無限に、ぐっ、増殖……する! 召喚した直後に暴れ出して……一部は既に……逃げ出したしなっ。今もどこかで誰かを襲っているぞ! だが、俺なら……今なら制御できる!! そのための〝屍食教典儀〟の断片だ!!」
村にわざわざ取りに来た紙片のことを言っているのだろう。分身体は手元の紙片を見て、躊躇いなく炎属性魔法を発動し焼き尽くした。
だが、玉虫色の粘体が止まる気配はなく。どうやら直接的には制御に関係ないらしい。
むしろ、何事か唱えようとしたリチャードを敵と認識したのか。奥の部屋から津波の如き勢いで飛び出してきた。
「――〝絶禍〟ッッ!!」
咄嗟に放ったのはバスケットボール程度の大きさの黒い球体だ。強烈な吸引力と内部での圧壊をもたらす重力魔法である。
覆い被さろうとしてきた玉虫色の粘体が冗談のように吸引されていく。
だが、リチャードの言う通り玉虫色の粘体は怯むことなく、奥の部屋から際限なく溢れ出してくる。どう考えても分身体で確認した石像時の体積を超えていた。
「みんな! こっちだ! 俺の後ろに!」
ここは地下だ。加えて今頃、地上の部隊が上の建物内部をくまなく調べていることだろう。〝黒天窮〟は威力が高すぎて、どれほど効果を絞ったところで危険すぎる。
だから、〝絶禍〟は最適解のはずだが……
「お、おい、ミスター・エンドウ! 大丈夫なのか!?」
「だ、大丈夫大丈夫!」
浩介の背後に地を這うようにして逃げ込んできたエージェントJやラナ達が、部屋の壁や天井を伝うようにして回り込もうとしている粘体に、それどころか出入り口から外に出ようとしている光景に頬を引き攣らせている。
「あ、コウスケさん! あそこ通気口じゃないです!? 今、めっちゃ入っていきましたよ!?」
「え!? マジで!?」
「今、陽晴ちゃんに念話したわ。地上の部隊に建物から退避するよう伝えてって」
「ラナ、ナイス!」
「いいから俺を自由にしろ! 今なら制御できる! そうすれば――」
「いいから、あんたは黙ってろ」
アーティファクト手袋の電撃能力で今度こそリチャードの意識を奪う。
書物の奪取や生け贄の儀式の次善策と言っていたのだ。つまり、この玉虫色の怪物を使って、同じように生け贄やらなんやらするつもりに決まっている。
場所的に、〝黒天窮〟が使えないことはリチャードも予想していたのだろう。だから、この場を凌ぐのに自分が必要だとアピールしたのだろうが、甘い。
そんなことさせるつもりはないし、する必要もないのだから。
「フッ、神話の怪物か何か知らんが、好きにはさせんよ。いくぞ、我等よ!」
「「「ヒーハーッ!!」」」
「こうくん! はいっ、サングラス!」
「ありがとう!」
ラナさんが後ろからササッとサングラスをかけてくれるのと同時に、生み出された分身体が重力魔法で吸引力を中和しながら散らばった。
通気口や出入り口に陣取り、それぞれで〝絶禍〟を発動。
更に、奥の部屋との壁をアーティファクトの手袋による〝空間破砕〟で粉砕する。増殖する前に本体を一気に呑み込むためだ。
――テケリ・リ!! テケリ・リ!!
壁が崩れて、あらわになった奥の部屋。そこには凄まじい密度の玉虫色に輝く粘体が満ち満ちていた。
それが一斉に襲い来る。浩介を、否、深淵卿を脅威と見なしたらしい。今までの比ではない増殖速度と鉄砲水の如き勢いで迫りくる。
壁を破壊した分身体が一気に呑み込まれて消えてしまった。
「我、復活!」
「元気なアビスゲートちゃんで――」
「「ふざけている場合か!」」
JとKから普通に怒られてしまった。二人共、深淵卿のノリにまだ慣れてないから……
分身体が同じく〝絶禍〟を発動させつつ突貫し、物量に呑み込まれては再び復活して突貫を繰り返す。
「遠藤君、これは確かにキリがないのではないか!?」
重力魔法〝絶禍〟の恐るべき力を以てしても一向に終わりが見えない。
スライムのように何か核があって、それさえ潰せば増殖は止まるのでは? と考えたのだが、そもそも高すぎる密度と早すぎる増殖速度のせいで奥まで行けない。〝獣の怪物〟に勝るとも劣らない性能だ。
「これは……確かに何かの本で読んだ気が……そう、増殖というより分裂だったような? まるでコウスケさんみたいですね!」
「隙あらば人外扱いするのやめてくれる?」
ヴァネッサの指摘と、ちょっとした動揺のせいで思わず素になっちゃう浩介。
なんと〝絶禍〟が許容量限界を迎えつつあるという初めての体験をしているのだ。
〝絶禍〟は〝黒天窮〟の〝消滅〟と違い、あくまで〝圧壊〟であるが故に、どれだけ圧縮しても無限に吸い込み続けられるわけではない。
もちろん、〝絶禍〟の規模を大きくすれば比例して許容限界は増大するが、今は場所が悪すぎる。が、もちろん、この程度の事態、深淵卿を追い詰めるには足りない。
「なら小さいのをたくさん、であるな!」
「「「ぬるりと来たぜ、我輩が!」」」
香ば深度を深めて更に分身を出し、〝絶禍〟の複数同時展開を行う。
凄まじい風が吹き荒れ、玉虫色の粘体が激しく泡立ち、更に増殖速度を上げていくが……
「フッ、物量戦で我輩に勝てると思うなよ?」
その通りである。
遂に拮抗が崩れた。一歩、また一歩。横一列に並んだ卿達が前方に〝絶禍〟を盾のように展開しながら進んでいく。
玉虫色の粘体から、あの奇妙な、しかし、今度はどこか悲鳴じみた鳴き声が発せられる。
粘体の体積が見るからに減じていき、遂に手前の部屋に溢れていた粘体は根こそぎ吸い尽くした。
そうして、隣の部屋に踏み込み、遂に石像化していた時の体積の半分を切って、
「このまま全てを呑み込み、少し時間はかかるが念のため極限まで効果を絞った極小・黒天窮で絶禍ごと消滅させてやる。さぁ、怪物よ! ジ・エンドで――」
と、深淵卿が決めポーズの準備に入った、その瞬間だった。
――っ、じょりょく……モト、ム……
「へ?」
思わず間抜けな声が漏れる。頭に響いた声によって。
透き通ったソプラノボイス。なのに、妙に古風な口調。
「誰だ?」
思わず周囲をキョロキョロしながら口にした卿に、
「こうくん! ダメよ! 人! 人がいるわ!!!」
「コウスケさん! 下です下!」
ラナとヴァネッサの警告が飛んだ。咄嗟に視線を転じれば、泡立つ玉虫色の最奥、その床の辺りに膝を抱えて蹲る人の影が、確かに薄らと見える!
〝絶禍〟が今にも「止めだぁ!」と言わんばかりに呑み込みそう――
「あぶなぁーーーーいっ!!?」
慌てて〝絶禍〟の威力を弱め、距離を取らせる。
そうすれば当然、拮抗が崩れて再び粘体は増殖し始めるが、その前に分身体が突貫。重力魔法で人影の周囲を押し潰しつつ、粘体の海にダイブ。自身は呑まれながらも人影の手を掴んで入れ替え転移のコインを握らせる。
そうすれば、別の分身体と入れ替わりで人影を脱出させることに成功し、分身体二体は仲良くサムズアップしながら消えていった。
倒れ込む人影を咄嗟に片腕で受け止める深淵卿。
「少女……だと?」
十六、七歳くらいだろうか。ロングの黒髪で作り物みたいに綺麗な、東洋人にも西洋人にも見える不思議な顔立ち。ほっそりした体型なのに不思議なほど重い。おまけに、なぜか男物のダボダボなスーツを着ていて、なおさら奇妙な少女だった。
「この肌の色……まさかグール化?」
頬や首筋に見られる変色は見覚えがあった。ならば、何はともあれ治療が必要だ。
玉虫色の粘体を分身体達に任せ、浩介自身はアーティファクトの手袋で再生魔法を発動する。一気に変色が消えていく。
すると、
――感謝する
「おおう!?」
再び頭に響く古風で透き通った声音。直後、少女の目がパチッと開いた。至近距離で目が合う。卿は思わず、
「うっ」
と、声を漏らして仰け反ってしまった。少女の瞳が玉虫色に輝いていたからだ。自分でも驚くほど忌避感が湧き上がったのである。
しかし、少女はそんな卿の態度にも気分を害した様子はなく。
――許せ
なんて言って、念話じみた方法で謝罪まで。更には、長い前髪が勝手にうねうねと動き、目元を隠してしまった。
「こうくん! 一応、戦闘中なのよ! 粘液でぬるぬるの女の子と、いつまで無言で見つめ合ってるの!」
「エッ!? あ、ごめんね!」
いろいろ気を取られることが多くてスルーしていたが、確かにラナの言う通りである。
少女はぬるぬるだった。白のカッターシャツ越しに見えちゃいけない部分が透けて見えてしまっている。下着をつけていないらしい。
慌てて〝宝物庫〟から適当な上着を出して少女にかける。前髪の奥で、少女が目をぱちくりしたのが分かった。が、それも束の間。
――重ねて感謝する。しかし、不要だ
口元を綻ばせつつも上着を返す少女。同時に、少女の肌が玉虫色に輝いた。
「うへぇ!?」
またも深淵卿にあるまじき間抜けな声が漏れる。だが、無理もないだろう。ただでさえ、粘体の怪物と同じ色で、なんだか吐き気を催す色なのだ。
なのに、同じ色に変色したどころか、体中にへばりついていた粘体が少女に吸収されるようにして消えていったのだから。
しかも、だ。
「「ひぃっ!?」」
少女の首がぐにゃりと百八十度回転した。状況を確かめるためだったらしいが、そんなお手軽にあり得ない動きをするのはやめてほしい。というか、明らかに人間ではなかった。
――良かった。事態は収拾できたようだ
少女を思わず投げ飛ばしそうなりながらも、グッと堪えた卿は大変えらい。
少女に敵意がなかったからだろうが、それでもJやKが悲鳴を上げるほど、ラナ達ですら動揺しているくらい、少女の言動や姿はやたらと不安や恐怖を煽るものだったから。
玉虫色の粘体が分身体達の手により一滴残らず〝絶禍〟へ呑み込まれていく光景を見て、心の底から安堵している様子を見せているので、仲間ということはないだろうが……
「え、えっと……君はいったい」
ぐりんっと再び回転して戻る首。深淵卿モードを解除して、浩介は腕の中の少女に引き攣り顔で問うた。
――ふむ。これだけ見せても私に敵意を抱かないか。それどころか距離も取らない
身を預けたまま、前髪の奥からジッと見つめてきているのが分かって、なんだか居心地と気分が悪くなる浩介。
正直、離れたいです……と思っているが、なんとなく少女が嬉しそうなので突き放し難い。
――やはり、君は良い人だ。奇妙なほど親近感も覚える
「そ、それはどうも……」
少女の手が伸びた。比喩的な表現じゃない。物理的に伸びた。にゅるっと。玉虫色の触手みたいになって。
思わず「ひぃっ」と悲鳴が漏れ出かけたが、少女の声音があまりに柔らかかったから頑張って呑み込む。
少女の伸びた腕は、そのまま浩介の首筋に回された。
――初めて君を見たあの日から、ずっと興味があった。そんな君に助けられるとは
「え? あの初対面では?」
ラナ達が恐る恐る近づいてくる。その顔には紛れもなく警戒心があり……
しかし、直後の少女の発言で、それも一気に変わった。
――君、不思議な存在感の君。どうやら私の心は、それを認めたらしい
「あの、さっきから何を……」
少女はますます浩介に密着した。声音も、徐々に熱に浮かされたような熱いものに。
困惑する浩介とJ達。
ただ、ラナとヴァネッサだけは何かを察したのか。顔を見合わせ、え? マジで!? みたいな表情に。
そんな中、少女は言った。
――どうか、私の主人になってもらえないか?
それは、ご主人様という意味か。それとも旦那という意味か。
なんにせよ、
「さ、流石だわ、こうくん! この私も予想だにしなかった! まさか、まさか……七番目のお嫁さん候補がスライム系少女だなんて! ある意味、魔神の右腕に相応しいわ!!」
ラナの異常な受け入れ速度と度量も大概だと思うよ……とは心の中でだけ呟きつつ、浩介は、取り敢えずといった表情で、
「流石にこの状況だし南雲に報告、いや、相談? するわ……」
スマホを取り出したのだった。
立ち上がると同時に、玉虫色の少女の下半身が地面に置いて行かれるようにデロ~~ンッと伸び、本当にスライム状になってしまったことに、ちょっぴり震えながら。
いつもお読みいただきありがとうございます。
感想・意見・誤字脱字報告もありがとうございます。
次回、幕間にてハジメと合流。今回説明しきれなかったいろいろな事情や話も、ここで書ければと思います。場合によっては今話の手直しもするかもですが、よろしくお願い致します。