深淵卿第三章 樹海防衛戦② てぇてぇなぁ!
深夜の樹海に哄笑が響き渡る。
溢れんばかりの戦意と狂喜に満ちた――女の声。
「アハッ」
ご機嫌に繰り出される拳。一見、無造作に突き出されただけのそれが、空気を歪ませ、進路上の全てを破砕する衝撃波を生み出した。
当然、その殺人的な衝撃波の先には敵がいるわけで。
「ぉおおおおおっ!?」
クロスガードさせた極太の両腕から金属同士が衝突したような衝撃音が轟く。
全長六メートルの巨躯。両腕は丸太より太く、鋼鉄より固い。五本角に十五個もの目を持つ、おぞましき外見の大鬼――酒呑童子。
見るからに圧倒的な質量と膂力を感じさせる最強格の鬼が苦悶の声を上げた。両腕が軋みを上げ、両足が溶岩質の地面を冗談のように削りながら後退し、深い溝を作り出す。
「ほぅらっ、気張りなんし!」
「オォオオオオオオオオオッ!!」
五本角の酒吞童子から裂帛の気合いが迸った。巨大な岩の如き右拳が唸りを上げる。
それに正面から応じるのは、たおやかで可愛らしくさえある女の拳だ。
打ち合った瞬間、空気が破裂した。球体状の衝撃が発生し、名状し難い粉砕音が鳴り響き、五本角の右腕が山折りにたたまれるようにして曲がって砕けて弾かれた。
「ァアアアアアッ!!」
悲鳴ではない。更なる気合いの声だ。一瞬の停滞もなく、即座に繰り出されるは左の拳。
「その意気や良し!」
再び正面から応じられ、やはり砕けるのは五本角の方。体格は大人と子供ほどに違うのに、拳の大きさなど岩と小石と見紛うほどなのに、打ち勝てない!
その不甲斐なさ、屈辱は、意識を縛られ傀儡同然と成り果てても憤怒に変じて本能を貫く。
認められぬのだ。己以外に己が存在することなど。
鬼の頭領としての矜持が、己以上の己など断じて認められぬのだ。
だから、五本角の酒呑童子は目の前の存在に憤怒する。己が分御魂にすぎない事実を、道士の秘術により遺骸を媒介に形作られた一種の〝式神〟であるが故に、本体とは別に生じた固有の本能が否定する。
それはある意味、間違いではなかった。彼こそが混じりけのない〝日本が生み出した伝承通りの酒呑童子〟であるからして。
だがしかし、だ。
世の理は、いつだって非情であり、残酷な真実を突きつけるもの。
拳がダメなら足で。四股を踏むように大地を踏みしめれば、指向性を持った激震が迸った。直撃すれば、伝播した振動が対象を砕くか、少なくとも動きを止めるだろう。
「それでは温いでありんすねぇ!」
悲しいかな。
他世界の類似伝承をも取り込んだ存在こそが本物で、そうであるが故に、存在の強度が絶望的に違う。
闘争に酔いしれ扇情的ですらある鬼女、酒呑童子の本体――夜々之緋月もまた足を振り上げ、地面へと打ち付けた。
和服の裾がひるがえり、男の劣情をこれでもかと煽るむっちりとした太ももがさらされる。傷一つない雅な朱色の下駄が甲高い足音を立て、大地を震え上がらせる。
全く同じ絶技。体格・体重には圧倒的な差。
しかし、結果は一方的だった。
五本角の酒呑童子が繰り出した激震が更なる激震に呑み込まれ、その六メートルの巨躯が冗談のよう打ち上げられた。砕けた両足と共に宙を舞う。
妖艶な笑みを口元に浮かべて追撃に踏み出す緋月。
そこへ、
「ガァアアアアッ!!」
「ォオオオオオッ!!」
左右から別の大鬼が二体、飛び出してきた。一方は大江山四天王――青鬼の熊童子と、赤鬼の金童子。二本角に鬼の仮面そのままの容姿。
「随分な醜男に成り下がってまぁ、哀れ哀れ!」
右の金童子の拳へ、僅かにのけぞってから頭突きを返す。
鋼鉄に等しい拳が、ガラスでも砕けたような音を奏でて緋月の額に敗北した。衝撃で後方へとひっくり返る金童子。
とはいえ、挟撃は成功だ。左の熊童子が、無防備をさらした緋月の脇腹に渾身の殴打を直撃させた。
「カハッ」
それは呼気が漏れた音か。それとも笑い声か。
生々しい音が緋月へのダメージを確信させるのに、当人の顔に浮かんでいるのは苦痛でも怒りでもなく、ただただ楽しそうな笑み。
直後、緋月の左手が熊童子の腕を掴んで拘束し、踏み込んだ軸足が地面にめり込んだ。
渾身の一撃には渾身の一撃を。
遠心力をたっぷりと蓄えた右拳が熊童子の顔面を捉えた。斜め上から振り下ろすような一撃は、熊童子を吹き飛ばすことなく顔面にめり込んだまま地面へと直行させる。
もう何度目かも分からない地震が発生した。固い地面が放射状に吹き飛び、熊童子の顔面がトマトを潰すような有様で弾け飛ぶ。
「四天王の名が泣きんすぇ!」
首無しの熊童子を適当に蹴り飛ばした直後、起き上がった金童子が体当たりをしてきた。
「ガァァアアッ!!」
「アハッ、相変わらず相撲が好みでありんすか!」
ドンッと爆発音じみた音を立てて組み付く金童子。緋月の足はたたらすら踏まない。まるで巨大な壁にでもぶつかったが如く。
だが、問題はないらしい。金童子は、そのまま深く腰を落とした。相撲ではなく、どうやら拘束が目的だったらしい。
その証拠に、背後から躍り出た新手の鬼が、絶妙のタイミングでへし折った木を巨大な棍棒代わりにして振り下ろした。
それを肩越しに見上げながら、しかし、避けようともせず笑顔で受け入れる緋月。
轟音と同時に粉砕音も。バキバキと――棍棒の方が砕けた。
「なんとまぁ、茨木の。お前さんも酷い姿でありんすね?」
茨木童子。酒呑童子の右腕にして、副将。女の鬼、酒呑童子の恋人、あるいは息子であったなど説の多い鬼は、やはり二本角の鬼面そのものの容姿だった。
緋月の哀れむような口ぶりからして、本物は鬼女であり、かつ、美鬼なのかもしれない。
手元の即席棍棒の残骸を放り捨てた茨木童子に、緋月がニヤァッと口元を裂くような笑みを浮かべて、指先をクイクイッと曲げる。
激高を込めた雄叫びが上がり、茨木童子の引き絞った拳に禍々しい妖気が集束かつ圧縮された。
見るからに破滅的な威力を備えたそれが、緋月の美しい顔に容赦なく叩き込まれる。肉を打つ凄まじい轟音が迸った。舞っていた草木や地面の粉塵が放射状に吹き飛ぶ。
が、やはり揺るがず。僅かに頭部がのけぞったのみ。笑みもそのまま。
「良い拳でありんす!」
刹那、茨木童子の鳩尾に、武の欠片も感じられない乱暴な一撃がめり込んだ。体がくの字に折れ、腹を拳の形に陥没させて、茨木童子の巨体がピンボールのように樹海の奥へと吹き飛んでいく。
組み付いていた金童子も膝蹴りで宙へと剥がされた直後、抜き手で腹を貫かれる。そして空中磔状態から振り回されて、四肢を再生したばかりの五本角の酒呑童子へと投げつけられた。
細腕から飛ばされたとは思えない勢いは、まさに砲弾。着弾と同時に二体の鬼が木々をなぎ倒しながら仲良く吹き飛んでいく。
「ふぅん? 触媒を壊したはずでありんすが……」
雄叫びが重なった。
実は最初に上半身を粉砕されていた残りの四天王――星熊童子と虎熊童子が再生を終えて戻ってきたのだ。気配からして茨木童子も金童子、熊童子も同じらしい。
星熊童子と虎熊童子が緋月を無視して、その背後へと向かおうとする。それを、轟音を立てる踏み込みで追走。
「頭領を無視とは、つれないでありんすねぇ!」
一瞬で追いつき、背後から二体の後頭部を掴み、そのまま背後へ投げ飛ばした。
それを再生して戻ってきた五本角の酒呑童子と茨木童子が受け止め、地響きじみた足音を響かせながら金童子と熊童子も戻ってくる。
「「「「「「ォオオオオオオオッ!!」」」」」
戦意は衰えず。正気なく、使役された身で、しかし、闘争に歓喜している様子さえ伺える。
そんな分御魂の配下達を見て、緋月はますますご機嫌な様子で笑った。
「惜しむらくは、お前さん達の意思が希薄なこと。とはいえ、久方ぶりの大喧嘩! 喧嘩は鬼の華なれば、さぁさぁさぁ! わっちを楽しませておくんなまし!」
アハッ、アハハハハッ!! と哄笑が響き渡り、夜の樹海が暴虐の嵐で吹き荒れる。
その嵐は、人の身には、否、妖魔であっても凶悪すぎる。余波だけで心身共に木っ端微塵にされかねない危険地帯だ。
何より、今の緋月は近寄り難かった。
嬉々として鬼気を振りまく。どんな攻撃も一切避けず、喜んで受け止め、倍以上の力でそっくりそのままお返しする。
鬼だった。まさに鬼だった。鬼のように強いとは、まさにこのことだった。
木々が吹き飛び、奇怪な形の大地や根が刻一刻と平らにされていく。樹海にぽっかりと空白地帯ができあがっていく。
果たして、縛られ使役されているとはいえ伝承の大鬼を複数相手取って無双できる緋月が凄まじいのか。それとも、本物の鬼の頭領を相手に最低限でも相手を務められている〝式神〟としての彼等が凄まじいのか。
いずれにしろ、常人が入り込めぬ鬼だけの死地に――
「ひぃいいいいいっ。結界が壊れりゅぅのですぅ~~~っ!?」
「しゅ、酒呑童子様ぁっ、お戯れもほどほどになされませっ!!」
一応、常人ではない人が二人。
聖十字架で必死に結界を張っているクラウディアと、その結界の中で、実はさっきから必死に呼びかけている陽晴だった。
先程、星熊童子と虎熊童子が緋月を無視したのも、〝影法師〟の指示が祠の占拠と邪魔する者の排除だったからだ。
「フッ、我もちょくちょくダメージを受けているぞ!」
「ああ、愛しの君! 許しておくんなまし! わっち、楽しくって!」
「このお茶目さんめ! 許す!」
「許さないでください! 遠藤様! 危うく拘束が解けるところだったのですよ!」
少し離れた場所には、地面に縫い付けられている九尾の狐姿の玉藻前がいる。卿が超重力場で押さえつけ、陽晴が権能の行使を封じながら調伏中なのだ。
なのだが……
緋月が散弾のように放った小石の一つが後頭部に直撃して意識が一瞬飛んだり、緋月が放った衝撃波にぶっ飛ばされたり、ぶっ飛ばされた鬼に衝突されて挽肉になりかけたりなどなど、事故で何度も重力魔法が解除されそうになったのは事実である。
……緋月さん、どさくさに紛れて我の血肉食べたいとか思ってない? 思ってないよね? ねぇ? と問いただしたい気がしないでもない。深淵卿モードだからノリで許しちゃうけどね!
「そ、それより我が姫よ!」
「わ、我が姫……」
「陽晴さん! そこでポッとしてはいけません! 貴女までおかしくなったら常識人の枠が減ってしまうのですよ!」
「ハッ、そ、そうですね!」
聖女と巫女、親睦が深まっているようで何より。
緋月が再び鬼共の相手をし始めると同時に、卿の問いかけの内容を察した陽晴が難しい顔になりながら口を開いた。
「……申し訳ございません。やはり玉藻前の格が高すぎます。〝縛り〟を奪えそうにありません。このまま祓います」
そう、〝三尾の気狐〟にそうしたように玉藻前の使役を試みているのだが、どうやら無理のようだ。
口にしなかったが、陽晴の守護存在たる葛之葉と玉藻前の相性が悪い、というのもあったりする。
実は、葛之葉は玉藻前を〝傍若無人な性悪女狐〟と毛嫌いしている節があり、玉藻前も葛之葉を〝面白みのない目障りな性悪女狐〟と蔑んでいる節がある。
まるで、自由奔放な陽キャフリーター女子と、真面目なエリートキャリアウーマン……みたいな感じの対立だ。
と、そこで北側の防衛線にいるラナから通信が入った。
『こちらラナインフェリナ! 式とも妖魔とも異なる敵が襲来! 数が凄まじいわ! 千を超えてる! 既に防衛ラインを突破されたわ!』
鬼が争う暴風の狭間を縫うようにして冷気が流れ込んできた。
ハッと陽晴が視線を転じる。暗い樹海の奥から生者への怨嗟が響いてくる。姿を見せたのは半透明の人や動物……
「死霊の群れ!? 畜生霊も!? 死者の念を利用するなんて!」
死した存在の想念を術に押し込め形を成す死霊術。死体を利用すれば、いわゆる僵尸――キョンシーとも呼ばれる妖魔の出来上がりだ。
流石に死体まで大量に用意することはできなかったようだが、死霊でも十二分に脅威だ。生者は近くに寄られるだけで生気を奪われる。放置すれば生きる気力をなくし廃人まっしぐらだ。
『おそらく、大嶽丸たちの突撃は囮で、この死霊の群れを突っ込ませるのが本命だったのでしょうね! 敵ながら天晴見事な戦術ね!』
『防衛線の穴は北東戦域のみだ! 式と妖魔は引き続き食い止める! 負傷者は全員、祠へ送ったぞ!』
カムからの報告も届いた。どうやら死霊に呑まれた者はいないようだ。とはいえ、この状況で生気を奪う存在の群れは非常にまずい。
そのうえ更に、まずい事態は重なる。
樹海全体が振動するような雄叫びが轟いた。同時に、少し離れた場所の樹海上空に局所的な暗雲が唐突に発生し始める。
かと思った直後、稲光が奔った。一拍遅れて轟音。
近くに雷が落ちたのだ。
「おっと、流石は鬼神! これは、あまり出し惜しみできんな!」
卿が冷や汗を掻きながらそう言った直後、雷電を背負うようにして巨躯が落ちてきた。
地面に着地した衝撃で、死霊に対する術を行使しようとしていた陽晴やクラウディアが「きゃっ」と悲鳴を上げて転倒する。
「てめぇだなぁ? てめぇが本体だろう? そうだろう! ちょろちょろしやがってっ、この人間風情がよぉ!」
そう、卿の分身体が相手をしていた鬼神――大嶽丸だ。
片腕と片目がなく、自慢の角も一本折れている。体中に深々と切り傷やら穴まで空いていて、何より首が半ばまで断ち切られている……
が、そんなこと全く気にならないほど、随分とキレていらっしゃる。
まぁ、卿が相手をしていたのだ。それはキレるだろう。言動的に。キレすぎて相打ちを厭わない自爆攻撃――首を落とされる寸前で間に合った雷電召喚が功を奏し、分身体を消し飛ばしたようだ。
大嶽丸の絶大で濃密な鬼気が、戦場に僅かな停滞をもたらす。空気が歪むほどのそれに、死霊も大江山の鬼達も本能的な警戒から止まるほど。
そんな中、大嶽丸の視線が緋月を捉えた。
「よぉ、酒呑のぉ! 今、てめぇを誑かした人間を――」
「それは不可能だと言ったぞ、厄災の悪鬼よ!」
「緋月は確かに美人だが、目を奪われていては無様をさらすぞ!!」
「我を見よ! 我が名のみを呼べ! 汝の首を落とす、鬼殺しであるぞ!」
「「「フハハハハハハッ!!」」」
「だぁあああああっ、鬱陶しいぃ! わらわらわらわら湧いてきやがって! おまけにいちいち言動がうるせぇんだよ!」
確かに。
卿から飛び出した分身体が、更にその身から分身体を生み出しているので人数が増えて余計にうるさい。
なお、卿の現在の〝香ば深度〟はレベルⅢだ。
以前は最終深度Ⅴにならないと分身体から分身体を生み出せなかったが、度重なるアビスゲート化と死闘により、今ではレベルⅢでも数に制限はあるものの出せるようになっているのだ。
大嶽丸が緋月との会話を邪魔されて咆える。剣、槍、矢……氷の武具を生み出す権能が、九尾を押さえる卿の本体を正確に狙い、掃射される。
「「「深淵に呑まれよ――〝絶禍〟!!」」」
それを黒く渦巻く重力場の中へと呑み込んで防ぎ、
「「「奈落に沈め――〝禍天〟!!」」」
「ぐぉっ!?」
大嶽丸には分身体三人がかりで超重力場を与えて、九尾と同じく地面に縫い付ける。
「鬱陶しいと言ってるだろうがぁっ」
だが、その程度の拘束では鬼神には足りないようだ。〝飛行自在〟の権能は、そもそも重力干渉の権能であるが故に、普通に中和して立ち上がってくる。
更に、たかが人間風情でありながら一向に致命傷を与えられないどころか、そのふざけた言動(本人は至って真面目だが)に苛立ちは募るばかりで、ついに切れた鬼神は権能を全開にした。
「来たれぇいっ、陽を奪いし黒雲ッ!! 山を覆い、地を嵐と火で蹂躙しろぉ!!」
それは鬼神の呪言。陽気を許さず、妖気で地上を覆う災禍の暗雲召喚の秘術。
月光が遮られた。先程の暗雲が急速に発展。瞬く間に夜空を覆う。稲光が走り、風と雨が吹き荒れ始める。
「面倒だからよぉ。全部ぶち壊すぞ。そうすりゃあ、残んのは酒呑だけだろう?」
所詮は〝影法師〟により召喚された存在。世界を超えるための繋がりは媒介と術のみで、当然、〝縛り〟はある。明確な意思を持っていること自体が驚きなくらいだ。
つまり、その力が妖精界の本体に比べれば随分と減衰しているのは確か。おまけに、先の陽晴とクラウディアの術による減衰もあるはずだ。
それでも、これなのだ。
伝説の鬼神は、制限されてなお天変地異を起こす。
それにより、戦場の呪縛が解けた。大江山の鬼共も死霊も術者の命令を思い出したように動き始める。暗雲からも暴風の竜巻が伸び、火の雨が降り注ぎ始める。
「オン キリキリ ウンハッタ!!」
幼くとも裂帛の気合いが込められた陽晴の声が、清冽な言霊となって鬼神の妖気を吹き祓った。一瞬の停滞を妖魔達に強いる。
「クレア様! 天災からの守護をお願い致します!」
「っ、承知しました! 最強の聖女の名に賭けて戦場を守護しましょう! ――主よ、貴方は敵と恨み晴らす者とを鎮めるために、仇に備えて砦を設けられた。災いを退ける聖なる宮に、敬虔なる信徒をお招きください!」
聖十字架が今までにない輝きを放つ。出し惜しみをやめた聖女全力の結界が、光のドームとなって広がった。アーティファクトにより昇華したそれは、もはや本来の〝聖絶〟になんら劣らない効力を有する。
光の天蓋が、暴風と火雨、雷電までも阻み地上に届かせない。
「遠藤様! 酒呑童子様!」
「フッ、承知だ」
「よいでありんしょう」
前鬼(試験中)と後鬼(非公認)が、一時の我が姫を守らんと鬼共と相対する。
五本角の酒呑童子だけでなく、案の定、大嶽丸も既に再生している。本来の能力というより、〝影法師〟による支援のせいだろう。媒介を破壊しても、消滅していなければそれを通して再形成しているに違いない。
ならば、その術自体を破るのみ。
陽晴の刀印が空中に四縦五横と九字を切る。そこから流れるように、緩く開いた右手の親指と人差し指を、左手の親指と中指を結ぶ印相――転法輪印を組む。
「緩くともよもやゆるさず縛り縄、不動の心あるに限らん。オン ビシビシ カラカラ シバリ ソワカ!」
すなわち、不動金縛法。死霊や動物霊などの障碍霊を呪縛し、調伏する秘法だ。
樹海の地面に蜘蛛の巣のように光の筋が走る。陽晴を中心に伸びたそれは、問答無用に千の死霊に絡みついて動きを止め、鬼や九尾にすら光の縄となって縛りを与える。
だが、それだけで終わらないことは、更に上昇していく莫大な氣力が物語っていた。
「チィッ、馬鹿げてやがる! あの西洋の鬼といい、この小娘といい! 今の世はいったいどうなってやがる!!」
大嶽丸が憤怒の顔で、しかし、隠しようのない焦りを見せて雄叫びを上げた。
氷の武具が乱れ飛び、膂力絶大がもたらす純粋な破壊が繰り出されるが、
「クックックッ、闘争において力を温存した非礼は詫びよう!」
「だが、貴殿にくれてやるものは何一つない!」
「妖精界で大人しく酒でも飲んでいることだ!!」
土遁術に足場を崩され、〝絶禍〟に攻撃を呑み込まれ、灼熱のブレードで四肢を何度も溶断される。
膂力は比べるべくもないのに、ひたすらに巧い。いかにも人間らしい技巧の数々が、鬼神の進撃を完璧に止める。
当然、九尾の狐の方も分身体複数がかりで〝禍天〟を使っているので身動きできず。苦し紛れに雷撃を乱発するが、雷遁術を纏わせた小太刀が避雷針となって防いでしまう。
「よう楽しませてくれんした。お前さんたち、続きは向こうでやりんしょう?」
もはや雄叫びも聞こえない。大江山の勢力は、緋月の拳の一撃一撃で抉り飛ばされるようにして体積を失っていく。
そして、どの妖魔も――再生しない。
この場に満ちる清浄な氣の力が、陽晴の氣力が、〝影法師〟からの術的支援を打ち消しているのだ。
そこに、止めの一撃。
「奇一奇一たちまち雲霞を結ぶ。宇内八方ごほうちょうなん、たちまちきゅうせんを貫き、玄都に達し、太一真君に感ず――」
純白の狩衣と濡羽色の髪が翻る様は、言葉にできぬほど神秘的。
集中のため閉じていた陽晴の目が、カッと見開かれた。
「奇一奇一たちまち感通、如律令ッ!!」
天地の根源、元気を司る神仙――太一真君と交感する呪言が朗々と響く。
多大な神秘力を宿した陽晴の体から凄絶なまでの氣力が溢れ出した。夜を昼に塗り替えるような輝きが戦場を席巻する。
それは邪気や瘴気を一掃する輝き。
今度こそ死霊が光の波にさらわれるようにして消えていき、再生能力をなくし、既に満身創痍となっていた大嶽丸達に致命的なダメージを与えた。
「諦めねぇぞぉっ、酒呑のぉ! 人間共ぉ!」
ホロホロと妖魔達が姿を消していく。身のうちから転がり出た触媒たる遺骸の一部も、まるで高負荷でもかかっていたみたいに崩れていった。
あれほど押し込まれたように見えた祠付近の戦場が、遠くに鳴り響く銃声と喧噪を残して静まった。
「ふはぁっ、はぅ、ひぅ~」
パッと光が弾けて、神秘力を霧散させた陽晴がへたり込む。やはり、相当力を使ったらしい。凜々しかった目元がへにゃ~とへたれている。
「んふぅっ、はぁはぁ~――ぴぎゃぁ!?」
と、〝聖絶〟を解除したクラウディアもへたり込み――かけて、支えられなかった聖十字架に押し倒された。固い地面との間に顔面をサンドイッチされて、聖女らしからぬ悲鳴を上げる。
『今の陽晴ちゃんね! ククッ、流石はこの〝深淵正妻〟ラナインフェリナが認めた女ね。序列五位の地位に恥じぬ働きだったわ! 誇るがいい!』
「翻訳しますと、陽晴ちゃんいっぱい頑張ってえらい! という感じなのです」
「あ、ありがとうございます、クレア様。でも、その、なんとなく分かりますので……まずは下敷き状態から抜け出しませんと」
フッ、自力でできたら苦労はしないのです……と情けなさで涙目になりながら、どうにか年上の威厳を維持しようとするクラウディア。
陽晴がよろよろしつつも懸命に聖十字架をどかそうとするが、純粋なパワーは幼女そのものなので「う~んっ、う~んっ」と頑張る声だけが虚しく響く。
そんな最強巫女と聖女の苦難に、意外にも真っ先に手を差し伸べたのは、
「何をしとるんね」
緋月だった。片手でひょいと聖十字架を持ち上げる。
「あ、ありがとうございます、酒呑童子様」
「うぅ、感謝するのです」
普通なら直ぐに助けに来るだろう卿は、なぜかもたれる場所もないのに、いかにも何かに背を預けたような立ち姿で、腕を組んで見守り体勢を取り、フッと笑っている。
その理由は、どうやらこれらしい。
「……緋月」
「え?」
確かに聞こえた言葉の意味に、陽晴の直感が囁いてハッと顔を上げる。同じく、意味のある言葉として聞こえたクラウディアはきょとんとした顔だ。
「夜々之緋月でありんす」
真名を許す。ちょっと照れているのか、そっぽを向きながら言外に伝える緋月に、陽晴は嬉しく思う前に困惑した。
「未だ解決には至っておりませんが……」
「わっちと同格の鬼を祓ったではありんせんか。これ以上の試練は蛇足でありんしょう?」
ということらしい。〝私はお前を祓える。生涯見張っているぞ〟という陽晴が緋月に突きつけた言葉は、なるほど、確かに大言壮語ではなかった。
酒呑童子が前鬼を担うに相応しい傑物であると、何より緋月の心が現時点で認めてしまったのだろう。
頑なに目を合わせない照れた様子の緋月に、陽晴もまた照れた様子で頬を染めた。
クレアの目が泳いでいる。自分も真名を呼ぶことを許されたというのは分かるのだが、「なぁに、この雰囲気……」と場違い感ありありで居心地が大変悪そう。
「んんっ、それでは……」
「あい」
「緋月様……少し回復に努めますので、その間、守っていただけますか?」
「わっちは姫さんの前鬼でありんす。毅然としおし」
「そ、それでは、ごほんっ――緋月、わたくしを守りなさい」
「指一本、触れさせんと誓いんしょう」
本当に、なぁにこの雰囲気ぃ~という感じだった。クラウディアが視線で助けを求めているので、隠形してそっと連れ出してあげる卿。
「知ってるわ! こういうのを〝てぇてぇ〟というのよね! てぇてぇなぁ!」
いつの間にか戻ってきていたラナの言葉が、良い意味で空気を壊した。
「ラナインフェリナ、戻ってきたのか?」
卿が小首を傾げる。ラナはキリリッと雰囲気を変えて報告した。
「ええ、アビスゲート。おそらく疲弊しているだろうと思ってね。護衛の追加よ」
「我だけでは不十分だと?」
「念のためよ。……風が騒がしいわ。おそらく、仕掛けてくる」
「フッ、なるほど。道理で、少し風が泣いていると思った」
クラウディアが顔を覆っている。香ばしい会話についていけない! もちろん、陽晴と緋月も!
だが、二人の懸念は的中しているらしかった。通信が入る。
『こちらヴァネッサ! 報告します。影法師に動きあり!』
『こちらバーナード! 同じく妖魔と共に人影を確認した!』
更に、
『こ、こうすけぇ! なんか出てきたぁ! 泉から変なの出てきたぁ! 助けてぇ!』
エミリーからの救援要請も。加えて、
「! させんよっ!!」
卿が何かに反応。一瞬で陽晴の背後に出現すると間髪容れず小太刀を振るった。
そうすれば、何もない虚空にギンッと硬質な音を響かせて火花が散った。姿は見えないが直感で回し蹴りを虚空に叩き込めば、微かに「ぐっ」と苦悶の声が。
果たして、何かはいた。衝撃で姿が現われる。
それは黒尽くめの人だった。黒子のような恰好で、顔にも覆面があり、そこには血色の五芒星が描かれている。
直前まで気が付かなかった隠形、こんな場所まで入り込まれていたことに誰もが息を呑む中、卿が陽晴を背に目を細める。
「〝影法師〟の術者だな?」
答えは――殺意と凶刃を以て返された。
樹海北西、本栖湖に近い森の中で、一人の〝影法師〟が血色五芒星の覆面の奥で表情を険しくし、樹海の中心分を睨んでいた。
『全ては祖国のために。祖国の……いや、龍を……龍を蘇らせることが祖国のため……龍の存在こそが重要……そう、全ては――――』
異国の言葉でぼそぼそと呟かれる声。
その〝影法師〟の指揮官たる者の周囲には幾人もの部下がいるのだが……普段と異なる様子を誰も気に留めない。本人でさえ意識している様子はない。
当然だろう。
全員が、同じ様子で、同じ言葉を呟いていたのだから。
『行くぞ』
指揮官の言葉に、普段通りに従う部下達。
『全ては――龍の復活のために』
その言葉に疑問を持つ者もまた、この場にはおらず。
樹海防衛戦、第二ラウンドのゴングが鳴らされた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
感想・意見・誤字脱字報告もありがとうございます。
九尾……13kmやされたり押し潰されたり……決してやられ役になるような妖怪ではないし、めちゃ好きなんだけど、なんでか本作ではこんな扱いに。本当にごめんよ。いつかちゃんと活躍させてあげたいです。後日談で葛之葉と陽晴の取り合いでもさせてみるかな……
※アニメ2期のPV第2弾が公開されました。OP曲も解禁です。歌かっこいい……。ぜひチェックしてみてください!
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