深淵卿第三章 ぅゎょぅι゛ょっょぃ
時間は少し戻る。
卿と陽晴が本家へと駆け去った後、足止めサイドも乱戦かつ激戦の最中にあった。
「くっ、なんて厄介な!」
思わず悪態を吐いたのは土御門椿だ。
道を断絶していた長大な壁は既になく、代わりに、その質量がそのまま幾つもの足を生やした軟体生物――あえて例えるならクラーケンのような姿の土くれが大暴れしている。
丸太よりなお太い土くれの流体足が薙ぎ払われ、あるいは地面を盛大にぶっ叩き、その度に衝撃が地を揺らす。
狙っているのは、周囲を飛び回る黒い人影。もちろん、
『『『フハハッ!! 甘い甘い! 気の抜けた炭酸に煮詰めた砂糖を溶かし込んだくらいに甘いぞぉ!』』』
『『『フハハッ!! 流体金属と戦い生き残った我に死角はなかった!』』』
『『『フハハッ!! この程度ではまったく楽しめない――ぐへぁ!?』』』
卿の分身ズである。
その数、十二体。潰しても粉砕しても呑み込んでも、一体でも残っている限りワラワラと新たな分身が湧き出す様は、まるで台所の黒いあんちくしょう。
否、むしろ彼等に失礼かもしれない。だって、彼等は寡黙だ。それに比べ、この分身共ときたら、
『フッ、どこを見ているのかね?』
『フッ、それは残像だ』
『フッ、我を捉えるには十年はや――ごはっ!?』
と、常にフッしながら何かしらしゃべっているので非常にうるさい&うざったい。隙あらば香ばしいポーズを取ったり、サングラスをクイッとしたり、華麗なターンをしたりするのでなおさら。
だが、そんなふざけているとしか思えない言動をしていても、
『ここから先は通さない。そう言ったはずだぞ、〝艶麗呪壊のホワイトカメリア〟よ!』
「っ、また見逃したっ」
実力は異常の一言。気が付けば接近され、肝が冷えるような一撃が飛んでくる。
今も、どうしたって宙に散ってしまう土の粒なんてものを足場に跳躍し、椿に蹴りを繰り出してきた。
それを、足元の土くれから生み出した腕で受け止める。が、直後に深淵流風遁術なんたらかんたらと聞こえたかと思うと、風の砲弾が発生し、土くれの腕ごとぶっ飛ばされてしまう。
衝撃に胃がひっくり返りそうになりながらも、背後に流動させた土くれをクッション代わりにする。
大事はないが後退は余儀なくされた。先程から同じようなことの繰り返しだ。
強引に本家へ向かおうとするのだが、いくら倒しても分裂する特性と、気が付けば認識外から攻撃される特異さで、どうしても足止めされてしまう。
陽晴という目印がなければ、こうまで存在感がないとは……
いや、別の意味で存在感はあるのだが……
『フッ、我等から逃れること不可能と知れ。〝艶麗呪壊のホワイトカメリア〟よ』
「さっきから変な名で呼ばないでいいただけるかしらっ」
『む? では、シンプルに〝豊穣白華のカメリア〟の方が良いと?』
「シンプルの定義を調べ直してきなさいっ!!」
本当に、うざったいくらい無視できないのに存在感はなく、言動がいちいち気に障るのに気が付けば意識の外にいるという、もう、もうっ、本当にもうぉっと地団駄を踏みたくなる冗談のような存在だ。
椿の内心は苛立ちで埋め尽くされそうだった。必死に「落ち着け、落ち着くのよ私。クールになれ! 相手のペースに巻き込まれるな!」と自己暗示をかける。
土くれを操作して高度を上げ、一度、戦場を俯瞰することで平静を取り戻そうとする。
思っていたより土塊が転がっていた。前衛芸術のような様々な形のまま停止しているのは、全て凍てついているからだ。当然ながら分身達の氷遁術である。
不定形の土くれが幾つも固まって奇怪な彫像の展示会と化した戦場では、清武達が十人ほどの分身と戦っている。既に式神〝大蛇〟〝大百足〟が見当たらず、打倒されたようだ。
(これ以上、分身が増える気配はない。限界数と見ていいのか……)
とはいえ、楽観はできない。厄介なのは、予想外にも目の前の青年だけではなかったからだ。
「遠藤さぁんっ! たぶん私、足手まといになってるんで逃げていいですかぁ!?」
怒号と呪言が響き渡る戦場に、服部の泣き言が木霊した。
『いいとも!』
「え!? 本当に!?」
『一人呪われて人質にされるのが望みならばな! フハハッ』
「ですよねぇ! あんたの傍が安全圏! 泣きそう!」
眉は垂れさがり、泣きべそを掻いているような声音と表情をさらすおっさんの姿は、実に情けない。ここだけ切り取ると、誰でも思わず、自分の持ち物に付着したハトのフンを見るような目を向けてしまうこと請け合いの情けなさだ。
しかし、その行動は裏腹である。
「ひぃっ、死ぬぅ!?」
なんて叫びながらも、服部の動きは凄まじい。時に疾風のように鋭く、時に流水の如き滑らかさを見せる。
今も、武者の姿をした式が唐竹割りに刀を振り下ろすが、半身になりながら一歩踏み込むことでするりとかわし、そのまま脇を抜けて術者のもとへあっさりと辿り着く。
「くっ、たかが警官風情が!」
どうやら土御門の陰陽師達は単なる術者ではなく、全員が古武術の類を修めているらしい。
急迫した服部に術は間に合わないと判断して、呪符を握り込みながら拳打を繰り出す。その突きは実に堂に入っていて、多少格闘技をかじった程度の相手なら一撃で昏倒させられるだろうと思わせる鋭さだった。
だが、
「ぐぁっ!?」
悲鳴を上げたのは、服部ではなく男の方。開戦時からずっと、土御門の術者の方だ。
風に巻かれて飛んできた木の葉でも払うような安易さで、一撃必倒の拳打を、拳銃を持った右手で払い、そのままの左手の掌底で顎をカチ上げるように打つ。
それだけで男は白目を剥き、膝から力が抜けたように崩れ落ちた。
更に、拳を払った際に薙いだ拳銃の先を見もせず二連続で発砲。
二発のゴム弾は吸い込まれるように服部を狙っていた別の術者二人の鳩尾を打ち、もんどり打たせる。
一人は衝撃で気絶。もう一人も横隔膜が痙攣しているのか呻き声すら出せない様子で腹を抱えて蹲った。
『うむ、流石は日本の官憲殿だ! エクセレント&ビューティフォー!!』
「完全に超過労働ですからね! 日本の悪いところですよぉ!」
なんて軽口(?)を叩き合いながらも、また一人、式の隙間を縫うような精密射撃で背後の術者を昏倒させる。
チェンバーに一発残して、払う動作による遠心力でマガジンを抜き、上空から襲い来た白鴉をゆらりと揺れるような最小の動きで回避しつつ、気が付けばリロード完了。
更に襲来した白蛇の式を踏みつけて封じ、絶妙なタイミングで突っ込んできた白狼を回転しながらやり過ごす。
当然、軸足の下には白蛇がいるので踏み躙られ、ぐちゃぐちゃに破かれた紙片に戻る。と、同時に発砲し、またも二人、術者を倒す。
(フッ。恐ろしい男だ。まるで我等が魔王殿を普通の人間にしたら、といった感じであるな!)
服部の周囲に配置した三体の分身体が、思わずそんな内心を共有した。
合理を突き詰めたような体術に、正確無比な射撃技術。
劣化版、と表現すると聞こえは悪いが、服部の戦闘力は卿の予想を遥かに超えて、思わず鬼畜なガンナー上司が脳裏を過ぎるほどのものだった。
某英国の三枚目裏方エージェントと同等以上と評価せざるを得ない。つまり、帰還者のような特殊な人間でない限りは、一流の実力者というわけだ。
なんて、余計なことを考えていたせいか、妖魔〝牛鬼〟が、その巨体に似合わぬ跳躍を見せ、分身体の頭上を越えて服部の前へ躍り出た。
着地だけで轟音と衝撃が発生する。服部が「!?」と目を見開く。卿から「あ、やっべっ」と思わず浩介が飛び出ちゃう。
〝牛鬼〟の丸太のような腕が振りかぶられ、岩石の如き拳が繰り出された――という瞬間、
「おっさんを苛めないでぇ!」
なんて叫びながらも、咄嗟に拳銃を捨てて、剛腕に自ら踏み込む服部。そのまま巻き取るように〝牛鬼〟の腕を取り、体を反転させつつ前傾姿勢へ。
背負ったところで身長差により投げられないのは自明のこと。だからだろう。背負って投げるのではなく、前方宙返りの要領で回転力を生み出し、それに巻き込む形で――
『おぉ!? なんと見事な一本背負い!』
筋骨隆々、身長三メートルの巨体が宙を舞った。冗談のように太い両足が地を離れ、天を向く。
その光景は、卿が思わず称賛してしまうほど見事なもので、土御門の術者達もあんぐりと口を開けて仰天している。
一拍置いて、ずんっと地響きにも似た衝撃音と共に〝牛鬼〟の巨体が地面に叩きつけられた。
〝柔よく剛を制す〟の見本のような光景である。きっと、最強の怪異殺しとも言われる源頼光さんも、この場にいれば拍手喝采するに違いない。
おまけに、〝牛鬼〟の分厚い胸板の上に転がった服部は、そのまま流れるように腰裏からナイフを引き抜き、眼窩へ突き立てた。
それはおそらく、必死だった故の反射的な行動だったのだろうが、殺意極高の動きは土御門達の肝を凍えさせるに十分だった。
おまけに、妖魔故に脳部分を破壊しても意味はないのだが、偶然にも式神召喚の核――依り代の呪符がそこにあったようで、〝牛鬼〟が一瞬の痙攣の後に消えていく。
「ば、馬鹿な……一般人如きに、俺の牛鬼が……」
主たる清武が動揺して後退る。
『見事! 天晴見事である! 鬼殺しの服部よ!』
分身体、テンションアゲアゲで拍手喝采。
服部は青ざめた顔を晒し、震える手で髪を乱暴に掻き毟りつつ立ち上がった。そして、
「……遠藤さん。仕事、してくれます?」
無表情、虚無の瞳、抑揚のない声。まるでブラック会社で社畜を極めたサラリーマンのような有様で、卿へ言葉の矛を向けた。
怒っていらっしゃる。それはもう、とても。大人の対応で荒ぶったりはしていないが、それが逆に怖い。
それもそうだろう。一応、暗黙のうちではあるが、式神は卿が対応すると決めていたのだ。
〝牛鬼〟が分身体達をかわして服部に肉薄したのは、確かに卿のミスである。危うくミンチにされるところだった服部からすれば、叱責の一つもしたくなるのは道理だ。今は胃薬も切らしていることだし、ストレスが限界突破しているに違いない。
なので思わず、「大人と仕事、なめてんじゃねぇぞ……」と言いたげな服部さんに、
『『『ア、ハイ。すみません』』』
素に戻って謝罪しちゃう分身達。
拳銃を拾って、頭を下げながら差し出す。無言無表情のまま受け取り、故障してないか手早く確認する服部さん。
なんか妙な迫力に圧されて、土御門の術者達も動きを止めている。
ある意味、仕方のないことではある。
何せ、土御門の術者達のほとんどは、ある意味初陣なのだ。ここまで術と式を多用した本格的な戦闘は初めてである。数ヵ月前に力を取り戻したばかりなのだから当然だ。
対して、見た目はくたびれたサラリーマンのおっさんにしか見えずとも、おそらく服部は歴戦である。
既に倒れ伏している土御門の術者は四十人強であり、そのうちの過半数は服部が無力化したのだ。
そのうえ鬼系の妖魔まで打倒し、情けない姿から一変して怒気の滲む姿なんて見せられたら、それは息を呑まざるを得ないだろう。
服部の想定外の実力のせいで、彼を人質にして分身達の動きを抑える計画もとれそうにない。
「何を呆けていますか! 呪詛を絶やしてはなりませんよっ」
式神〝鷲峰山の鬼怪〟と〝鎌鼬〟を呼び寄せ、土くれの攻撃に火炎旋風と風刃による波状攻撃を追加して分身十二体を牽制していた椿が、状況を見かねたように怒声を上げた。
ハッと我に返った清武達が一斉に術を行使する。
生き残っている式神達〝三尾の気狐〟〝雷獣〟〝狗神〟、そして各種の式。それらを支援する形で分身と服部に襲いかかる。
「あと、どれだけですかっ、遠藤さん!」
二度発砲し、式を回避しながら苦い表情で問う服部。もう残弾が少ないのだ。
そしてそれ以上に、実のところ服部は限界が近かった。
服部はどんな状況下でも基本的に本心を見せず軽薄を気取る。凄みを感じさせたのは、精神的抑制が効かなかった証でもあったのだ。
その原因は、肉体的疲労というのも当然あるが、それ以上に、一瞬一瞬で受けてきた僅かな呪詛の蓄積が原因だった。
ゴム弾と、分身の牽制で清武達の術は直ぐに中断させている。仮に発動しても、分身が触れることで服部の呪詛も解除される。
だが、数秒の呪詛の影響は少しずつ、しかし確実に服部を疲弊させていた。
一方で、卿の方も。
『本体はもう辿り着いている! もう少しだぞ! もう少しで止められる!』
顔には不敵な笑みが浮かんでいるが、僅かに声が震え出していた。それどころか、分身体が十体ほど、一気に消えてしまった。
本体が、こちらに余力を残し難くなっていることは想像に難くない。
「遠藤さん!?」
『問題ない!』
動揺する服部に力強く答えるが、土くれと椿を抑える人数が減少したのは事実。
忘れてはならないのは、土くれの特性は無限の増殖にあること。
「ようやく限界が来ましたか!」
椿が両手で印を組んだ。何もさせまいと分身体が襲い掛かるが、本体側の集中が半端ないらしく、戦力半減のうえに動きまで微妙に鈍い。
故に、土くれのクラーケンと〝鷲峰山の鬼怪〟及び〝鎌鼬〟の式神による猛攻に阻まれ、術の完成に一歩、及ばなかった。
「――息壌 万精増大 地界充満 豊土顕現 急々如律令ッ」
隙が多くて分身体に邪魔され続けた〝土くれの増殖を加速させる術〟が完成する。
周囲一帯の地面が噴火したように土くれを噴き上げた。それはまるで、天地逆転の大瀑布の如く。
『フッ、やりおる!』
『だが、我等深淵に敗北の二文字はない!』
『『『深淵流極大水遁氷遁混合陣ッ――〝深淵之氷獄〟!!』』』
たまには横文字も使いたい残存十二体が、服部を守るように円陣を組み、見事にシンクロした動きで地面に小太刀を突き立てる。
ドッと全方位へ激流が生み出され、土くれを泥に変えると同時に氷結封印していく。
だが、清武達の呪詛や式神達の攻撃を止める余裕はなく、服部の弾丸も直ぐに尽き、一体、また一体とやられていく。
もちろん、すぐさま隣の分身体から新たな分身体を出すが……
『ぬぅっ、本当にこの土くれはキリがないな!』
何にしても、やはり土くれが尋常ではない。卿の専売特許と言ってもよかった増殖のお株を奪われたかのようだ。明らかに、妖魔の類を逸脱した神話レベルの能力である。
「え、遠藤さん、大丈夫なんですよね?」
『いや、無理だな!』
「はい!?」
『我輩、もともと広範囲殲滅系は苦手であるし。是非もないよな! 暗殺者だもの!!』
不定形は苦手! と笑いながら愕然とした様子の服部に言った直後、捨て身で飛び込んできた〝雷獣〟の一撃を喰らって分身の一体が消滅。
直ぐに、別の分身体がクナイで仕留めるが……
消えた一体は、とうとう復活しなかった。
それどころか、ぽふんっと気の抜けた音を立てて、一体を残して勝手に消えてしまった。
「ふふっ、どうやら私達が儀式場へ行く必要もなかったようですね?」
『そうですね』
おや? 分身体の様子が……
氷遁の行使もやめて、急速に覇気を失い、疲れ切った老人のような雰囲気を漂わせ始めた分身に、椿達も動きを止めた。
そして、勝ちを確信したのだろう。
清武達が歯を剥くように嗤い、椿が優越感たっぷりに土くれの上から見下ろす。
「おやおや、立っていることもできないほど限界ですか?」
『はい、限界です。心が』
力が抜けたように三角座りを始めた分身。それどころか、
『ぐすっ、なんで心って、すぐ死んでしまうん?』
泣き始めた。椿達が思わず動揺して視線を交わしあっちゃうくらい、普通にしくしくと。
『ヤバイよヤバイよぉ。自分でもドン引きするくらいハイになってたよぉ。MADモードの南雲みたいな笑い方していたよぉ。恥ずかしいよぉ、穴があったら入りたいよぉ』
「あ~、あの、遠藤さん?」
『何が辛いって、陽晴ちゃんに全部見られていたことだよぉ。あんな小さな子に心のお医者さんが必要と思われる俺……ふふふ、おかしいね?』
「ええ、今のあんたは相当おかしいですよ」
服部が、完全包囲してくる術者達と式神達へ視線を巡らせつつ、「せめて最期に、胃薬が飲みたかった……」と天を仰ぐ。分身の様子を見て、全てを諦めたらしい。
開戦当初の変わりようも相当驚いた椿達だったが、ここにきて人生の深淵に落ちたような変わりように、「こ、こいつ情緒不安定すぎない?」と、どうしていいか分からない様子。
とはいえ、この正気度をナチュラルに削る名状し難い冒涜的な生物に、これ以上付き合っていたくはない。
「……ごほんっ。儀式は成った。我等の勝ちです。大人しく投降なさい。そうすれば命までは取りませんよ」
りんっと鈴の音を一つ。椿が優しい声音で語り掛ける。
だが、敗北で心が折れているはずの青年は、痛々しいながらも笑顔を浮かべた。そして、
『最新技――〝分身体に落ち込ませることで本体の心痛を分散させる〟』
なんてことを呟いた。
は? と疑問符を浮かべる椿達だったが、何を言ってるのかと問う前に分身体がぽんっと消えて――
「――万氣降伏」
「なっ!?」
可憐な少女の声と共に、巨大クラーケンが光に包まれ崩れ落ちた。
新たに呼ぼうにも反応しない。まるで、ただの土くれに戻ってしまったみたい。
「おふくろ!」
清武が慌てて白鴉の式を飛ばし、椿の腕を掴ませて落下の衝撃を和らげる。
そこへ、再び声が響いた。
「先程の言葉、わたくしなりにお返ししましょう」
凛と響く声音。ハッと視線を転じれば、そこには目が死んでいる浩介に片腕だっこされた陽晴の姿が。
「儀式は成りませんでした。あなた方の敗北です。大人しく降伏なされませ」
三日目の社泊が決定したサラリーマンのような雰囲気の浩介にそっと降ろされて、凛々しく地に立つ陽晴の姿に、椿達は悟った。
「まさか、爺さん達が負けたってのか……」
現実を否定するかのように、いやいやと首を振る清武。他の術者達も目を見開いている。
そして、椿も唖然とした雰囲気で陽晴を、そして儀式場の方を見やり、一拍。
「……まだよ! 息壌ッ」
土くれに再干渉し、片手を振った。周囲の地面から新たな土くれが噴き出し、土御門に完全包囲された形になっている服部へと殺到する。
服部を人質にでもする気なのだろう。
「いいえ、終わりです。――〝封滅〟!!」
ただ一言。それだけで大蛇が形を崩した。淡い純白の輝きを纏う今の陽晴の言葉は、そのまま力のある言霊だ。
それが分かるからか。対象ではないのに、式神達が気圧されたように後退った。
「チッ。何を呆けている! 姫を確保しなさい! 土御門の宿願を、ここで終わらせていいのですか!?」
りんっと鈴の音が再び。清武達が目を覚ましたように、否、むしろ夢の中に引き込まれたかのように瞳を濁らせ構えを取った。
陽晴がそれに目を細めている間に、いつの間にか服部をお姫様だっこした浩介がスチャッと陽晴の隣に戻る。どさくさに紛れて服部を回収してきたらしい。
「遠藤さん、私、惚れてしまいそうです」
「ごめん、服部さん。今、そういう冗談に付き合えるメンタルしてないんだ……」
「でしょうね。目が死んでますもん」
なんて会話に、陽晴は苦笑いを浮かべつつ刀印を作る。
「遠藤様。もう少しだけ、わたくしを守っていただけますか?」
「心も体も死んだように眠らせて全てをなかったことにしたいけど、がんばります」
「微力ながら、私ももうひと踏ん張りしますかねぇ。しかし、藤原さん、勝算はおありで?」
服部の言葉に、陽晴は楚々と微笑んだ。
無言の肯定。自信は溢れんばかり。
それは、直後の無双によって証明された。
左足を一歩前に。心の中で天逢と念じながら。
「――しかしくま つるせみの いともれとおる ありしふゑ つみひとの のろいとく!」
それは呪詛返しの秘言。浩介や服部にかかっていた呪詛が完全に解かれ、更に、今まさに清武達が放った呪詛もそっくりそのまま返された。
胸の痛みに悲鳴を上げ、金縛りを受けて倒れ込み、高熱を発して膝を突く術者達。自分で自分の呪詛を解くにはしばらく時間がかかるだろう。
たった一手で八割近くを戦闘不能に追いやられ、清武を始め呪詛返しを逃れた者、あるいは防いだ者達が戦慄の表情を浮かべた。
式神使いの術者達が必死の形相で命令を送る。〝鷲峰山の鬼怪〟〝狗神〟〝三尾の気狐〟、そして〝鎌鼬〟が急迫する。
「早速ですが、無理。遠藤さん、お願いします」
「かかってこいやぁこのやろぉ」
「幼児退行してません!?」
「ふふ、では味方を増やしましょうか。――神使有勅 皆狐拱服 急々如律令!」
天内・天衝。右足を一歩前に出し、丁寧に左足を揃えながら、〝我等の神使、白狐様の命令だ。全ての狐は速やかに従え〟と言霊を響かせる。そうすれば、〝三尾の気狐〟に逆らえるはずもなく。
――クォオオンッ
とひと鳴き。隣を飛ぶ〝鷲峰山の鬼怪〟に盛大な狐火の不意打ちを繰り出した。慌てて回避する鬼怪。
〝三尾の気狐〟の元の術者である壮年の男が「縛りを奪われた!?」と動揺をあらわにしている。必死に繋がりを取り戻そうとするが、当の気狐は、鬼怪を討伐せよという陽晴の命令に、どこか喜々とした様子で従い、追撃に向かってしまう。
そして、二体の式神程度なら、浩介と服部でも、否、倦怠感と心痛に襲われている今の浩介だけでも、どうにでもなる。
鋼糸をひゅるりとなびかせて、即席の蜘蛛の巣を構築。〝鎌鼬〟を絡め捕りつつ、肉薄した〝狗神〟の爪を掻い潜って回し蹴りのカウンターを直撃させ吹っ飛ばす。
「記憶まで完全に戻ったのかっ……あの役立たずどもっ」
「それが本性でしょうか? 先程から粗野な内面が漏れ出ておりますよ?」
天輔・天禽・天心。合わせて右足、左足、右足と一歩ずつ地を踏みしめ前へ。
陽晴の真っ直ぐな眼差しに、椿は逆上したように土くれの濁流を召喚し、同時に刀印を作って怒声を上げた。
奇しくも、同時に同じ真言を響かせる。
「ナウマク・サンマンダ・バザラ・ダン・カンっ」
「ナウマク・サンマンダ・バザラ・ダン・カン!」
破壊と再生、悪滅を司り、あらゆる御利益に通じる、誰でも聞いたことがあるだろう神仏――不動明王に助力を祈願する真言が同時に発動。
しかし、結果は一瞬かつ明白に叩き出された。
土くれの濁流が白い焔に包まれ力を失い、椿は両腕を自らの体に引き付けた格好でガクリと膝を突いた。大晴が国道で陽晴に行使した金縛りの術の類だが、遥かに強力なもののようだ。
椿から「くそぉっ」と清楚なイメージとはかけ離れた悪態が飛び出す。同じ真言でも椿のそれはまったく届かず、格の差を見せつけられた。
「おふくろ! 今、解呪するっ」
「さっさとやりなさいっ」
清武達に苛つきを返し、なお足掻く椿。
「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ! 金華猫 呪怨病苦 混合皆呪 急々如律令ッ!!」
陽晴の周囲に霧が発生した。禍々しい気配の発する水気が陽晴達を包み込む。服部が突然の高熱と強烈な倦怠感に膝を突きそうになり、浩介から「んぁ~」と気の抜けた苦悶の声(?)が漏れ出し――
「オン・クロダヤ・ウン・ジャク・ソワカ」
天柱と、また一歩前へ左足を踏み出しながら、陽晴が真言を響かせる。
それは不浄を喰い浄化し尽く烏枢沙摩明王の助力を請う言葉。彼の者の汚穢を焼き払う力が、病苦を運ぶ水気を燃やし尽くす。
だが、時間は稼げた。清武達の解呪が成り、立ち上がった椿が再び土くれを召喚しつつ叫ぶ。
「なんとしても姫を止めなさい!」
まだ木々のある離れた周囲の山林が鳴動し、そこから土くれが雪崩を打つように迫ってくる。やはり、この土御門の山林そのものが土くれの怪異に取って代わられているようだ。
それらが到達する時間を稼ぐため、清武達が最後の猛攻を繰り出す。
「こりゃあヤバい。本当にキリがありませんよ!」
氾濫した川を前に絶望した人のように、冷や汗を噴き出す服部が、やっぱり胃薬を飲みたいと胃を押さえる。
「陽晴ちゃん!」
浩介が脱出を提案しようかと肩越しに振り返った。
「いえ、このままで。式だけお願い致します」
陽晴に動揺は皆無だった。
小さな体に、大きな気概。森の泉のように静謐でありながら、同時に燃えるような意志を感じさせる瞳は、とても十歳に届かない年齢の少女とは思えない。人を超えた、神聖な存在にさえ思えるほど。
「分かったよ。絶対に守るから、好きにやるといいよ」
「ふふ、ありがとうございます、遠藤様。やはり、人間であることが残念でなりません」
「なんで!?」
「化生神魔の類なら、わたくしの前鬼にと」
「俺のこと式神にしたくて人外扱いしてたの!?」
記憶はなかったはずなので、無意識レベルで狙っていたのだろう。
おかしいな。にっこり笑う姿が、どこか恐ろしい……
浩介は見なかったことにして、迫り来る式の迎撃に意識を戻した。
クナイと手裏剣で殺到する白鴉を迎え撃ち、服部が格闘術とナイフで白狗を阻み、陽晴の邪魔をさせない。
「あなたがいくら才気に溢れようと、私の息壌は無限よ! 山そのものを滅することなどできはしない! 無駄な抵抗はやめなさい!」
「できますとも」
あまりにあっさりと返された言葉に、椿が「え?」と間抜け顔を晒す。
「天柱――貴女、何か憑けていらっしゃいますね?」
「な、何を、いえ、それより今、あなた何を呟いて……」
「天任――わたくしも、憑けるのは得意なのです」
「ッ、その言葉、まさか!」
右足だけを一歩前に出した状態の陽晴に、椿はようやく、何かに気が付いて動揺を見せた。
あからさまに焦燥し、何かしらの術を発動しようとするが……時、既に遅し。
「天英」
最後の一歩。左足を、前に出した右足の隣に綺麗に揃えて、地を踏む。
途端、陽晴の歩んだ軌跡に純白の光が奔った。踏みしめた足跡が輝きを放ち、線を結び、そうして浮かび上がったのは二つの星を加えた北斗七星の形。
「三歩九跡……禹歩を!?」
またの名を〝九星反閇〟。歩法による儀式的呪術であり、場に鎮静と清浄をもたらす。言い換えれば、周囲一帯を陽晴の聖域と成す呪法。
仇を成す穢れは当然、一切の呪詛を浄化するこの場は、一種の神聖な儀式場だ。
式は破却され、式神――妖魔は強制的に還されて、陰陽師達の呪詛は尽く否定霧散してしまう。
尊き存在を招くにも十二分の場が整った。
「謹んで請い願う」
「とめなさいっ。降ろさせるな!!」
どこか悲鳴じみた椿の命令に、清武達が慌てて応える。
だが、やはり呪詛の類は使えず、頼みの土くれは陽晴を中心に半径五十メートル以内に入れない様子。仕方なく、雄叫びを上げて突進する。武術を以て直接、制圧する気だ。
もちろん、
「姫には指一本触れさせないよ」
「おや? また卿が顔を出してません?」
「……」
浩介と服部が許すわけもなく。肉弾戦ならば二人の方が圧倒的だ。
「かけまくも畏き宇迦之御魂神に恐み恐みも白さく」
純白の光が陽晴から溢れ出す。恐ろしいほどに清く澄んだ空気が満ち満ちていく。
「神縁招来を願わくば、第一の神使、我が血の源流を遣わし給え」
輝きを纏い、一心不乱に尊き存在へ願う姿は、陰陽師というより神聖なる巫女というべきか。
と、そこで女の声が響いた。耳慣れない声だ。
「陽晴! お母様よ! お願い、やめて! これには事情があるの!」
浩介も服部も、それどころか清武達まで振り返って、その声の主へ困惑と驚愕の表情を向けた。
顔を隠す白い布を取り払った椿がいた。
美しい、キリリッと引き締まった顔立ちだった。浩介が思わず「大人の陽晴ちゃん?」と呟いてしまうほど、彼女の顔は成熟した陽晴を彷彿とさせるものだった。
藤原千景、陽晴の母親が、そこにいた。
浩介達は、驚愕のまま陽晴の方へ視線を転じる。彼女も、きっと動揺して――
「我が身を捧げ、諸々の禍事、罪穢れをば打ち祓わん!」
まったく動じていなかった! 敵の正体が母親だったというのに、瞳にも声音にも僅かな揺らぎすらない!
千景の顔が歪み、舌打ちが漏れる。同時に、一族で唯一、陽晴にだけ許された秘儀が完成する。
「天降り招来し給え。我が守護、いと尊き白の聖神、その名――葛之葉!!」
甲高い鳴き声が空気を震わせた。
陽晴の背後に光が集束する。光は玉となり、玉はやがて形を成した。
神聖な輝きを帯びる白狐に。
あの異界で浩介達を導いた白狐だ。その白狐の瞳が、とびっきりの優しさを宿して陽晴を見る。
直後、再び形を崩したかと思えば、陽晴の中に吸い込まれるようにして消えた。
そうすれば、あの時と同じ。
陽晴の長い黒髪がすぅと白く染まり、ぴょこんっと狐耳と尾が生え、瞳は白銀に輝いた。
そして、
「高天原天つ祝詞の太祝詞を持ち 加加む呑んでむ 祓い給い清め給う!!」
心地よいほど綺麗に響く柏手。陽晴を中心に、光の波動が幾重にも幾重にも重なりながら広がっていく。
天に、大地に、森の木々に。
純白の漣が浸透し、一切の不浄を祓い、鎮め、自然へと還していく。
そこに抵抗の余地はなく、山林全体に侵食していた土くれは眠るように動きを止め、土御門の術師達もまた力が抜けたように膝をついていった。
だが、そこに苦悶はない。清冽な山水でも浴びたみたいに、むしろ心地よささえ感じているような様子で呆然としている。
ただ、一人。
「ァアアアアッ!?」
千景だけが、否、その姿を揺らめかせ、再び覆面した椿の姿に戻った女だけが胸を掻き毟るようにして悶えていた。
どれくらい、その奇跡のような神々しい光景が続いたのか。
浩介や服部も見惚れている中で、やがて光の波は引いていった。
ふっと陽晴から狐耳や尾が消えて、真白の髪も元の黒色に戻る。ぐらりと陽晴が倒れそうになって、浩介は慌てて支えに入った。
「陽晴ちゃん、大丈夫か?」
「ぅ、だ、大丈夫です。ちょっと疲れましたけれど……」
少し顔色が悪い。ふにゃりと笑う表情からは嘘は見えないが、どうやら、彼女もとうとう限界らしい。
だが、現代最強の陰陽師としての力は存分に示された。
まさに、無双。他の術者も妖魔も相手にならず。
服部が清武達に油断なく視線を巡らせるが、どうにも混乱している様子で動く気配はない。何より、動けそうにもない。
ほっと息を吐いて、浩介や陽晴と安堵の微笑を交わし合う。と、その時、
「そく、じょうっ、息壌ぉっ、応えッ、息壌!!」
ヒステリックな声が響いた。
見れば、椿が蹲っていた。最大にして最強の手札たる無限の土くれを呼び続ける椿だったが、一握りさえ応えない。
「まさか、そんな。本当に山一つ浄化を? あり得ないっ」
現実を否定するように、もがきながらも、なお何かしようとしている。異常なまでの諦めの悪さは、いっそ不気味ですらあった。
怯むことなく、陽晴は決然とした様子で歩き出す。
椿の前に陣取り、小さく真言を唱えて金縛りにし、白布を剥ぎ取る。
千景とは似ても似つかない、それどころか特徴がないことが特徴と表現するのが最も妥当な女の顔があらわになった。
キッと睨んでくる瞳からは、憤怒と憎悪、そして隠しようのない畏怖が感じ取れた。
そんな女に、陽晴は目を細め、よく通る声で言った。
「貴女は誰ですか?」
浩介と服部が訝しむように陽晴を見やる。
土御門椿だと言っていただろう、と。
「何を言ってるの? 私は土御門椿――」
「それは通じませんよ」
封じられているからか。鈴の音は鳴らない。
「貴女は椿様などではない。あり得るはずがない」
「何を――」
「なぜなら、椿様はわたくしが生まれるより前に、亡くなっているのですから」
そうでしょう、清武さん。と呼びかければ、清武はびくりっと震えた。
「え、いや、おふくろは……くそっ、何がどうなって……亡くなって? 確か、でも、そこにいて……」
酷く惑乱した様子の彼に釣られるようにして、他の術者達も動揺をあらわにしていく。
だが、彼等にかけられていた呪縛は、既に陽晴が祓っているが故に。
僅かな間のあと、清武は愕然とした様子で椿を名乗る女を見て、呟いた。
「お前……誰だ?」
誰もが混乱する中、陽晴は刀印を作り、椿と名乗る女へ、真っ直ぐに突きつけた。
「もう一度、問います。土御門の方々を惑わし、藤原を、いえ、この国に混乱を招こうとした貴女は、いったい誰ですか?」
虚偽も、誤魔化しも、黙秘さえも決して許しはしない。
裂帛の意志が宿った少女の瞳に、謎の女は一拍置いて、口元を裂くようにして嗤ったのだった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
感想・意見・誤字脱字報告もありがとうございます。