ありふれたアフターⅡ リリアーナ編 バイトリーダーリリィ 前編
「はふぅ~」
白で統一された清潔感漂う部屋に、そんな気の抜けた溜息が響いた。
存外大きく響いた自分のそれに、無意識だったのかハッとした様子を見せたリリアーナは何とも言えない表情で眉を八の字にした。
何となしに、座っているリクライニングチェアに深く背を預けたまま、素足のつま先で床を蹴ってくるりと回ってみる。質のいい椅子は軽やかに回転し、リリアーナの視界に順次部屋の様子を映していく。
少し前まで使っていた王宮にある自室に比べれば半分程度の大きさの部屋だ。
リリアーナ自身はちょうどいいサイズだと思っているが、トータスの貴族や使用人達が知ったら「こんな小さな犬小屋のような場所に姫様を住まわせるなんて!」とムンクの叫びみたいになったかもしれない。
あの日、〝王女リリアーナ〟を休業して地球にやってきたときから既に数か月が過ぎている。その過ぎ去った月日に比例して、少しずつ地球産の小物が増えてきた。
引っ越し祝いにミュウから貰った〝踊るデイビスくん〟人形がやたらと存在感を放っている。きっと、〝踊る〟というより〝震える〟という表現の方が似合うからだろう。まるで、禁断症状が出てきた危ない人のように、ちょっとした振動でぷるぷるするのだ。
ミュウはいったい、デイビスくんをどこから手に入れたのか……
正直、不気味なのだが、ミュウの笑顔を思い出すと捨てるに捨てられない。
「ふ~~ん」
気の抜けた変な呼気を漏らしながら、更に椅子を一回転。ちょっとステップをつけて逆回転。くるくる。くるくる。
「ひま、です」
暇らしい。
「なんということでしょう。リリアーナは、あの噂に聞いていた〝ひま〟を、この身で体験しているのです」
相当、暇らしい。自分で自分の現状にナレーションを入れてしまうほどに。
生まれたときから王族であるリリアーナにとって〝暇〟というのは御伽話に等しい。
なにせ弟が生まれるまでは王家直系の唯一の子だったのだ。物心がついたころから既に英才教育は始まっていたし、ランデルが生まれて王位継承の可能性は下がっても、保険としての役割も、帝国に対する楔として機能するために数多の教育を受ける必要性も、微塵も減らない。
そして、十四歳という若さであの一連の、濃密という言葉ではとても表現しきれない怒涛の一年があった。そのあとは復興のために忙殺状態。
生まれてこの方、〝暇な時間〟などというものを経験したことがないのも頷ける立場だ。
そんなリリアーナであるが、一応、ハジメに連れられ、書類を偽造し、行政官を欺き、公安の頬をビンタして平穏に身分を手に入れ、現在はハジメ達と同じ大学生をしている。
幾度か地球には連れてきてもらったことがあるので、地球がびっくり箱のような世界だというのは分かっていた。それでも、憧れた〝学生生活〟や〝異世界の知識を学ぶ経験〟はリリアーナに新鮮で好奇心をくすぐる楽しさを与えていた。いたのだが……
くるくる。くるるん。異世界の王女様は、異世界の椅子でくるくる回る。そして、ピタリと止まると、
「……デイビスくん。君はいいですね。震えるのに忙しそうで」
遂に人形に話しかけ出した王女様。デイビスくんは困ったようにカクカクする。
と、そのとき、微かに玄関の開く音が聞えた。
ケモミミが生えていたなら、ぴこんっと立てそうな有様で反応したリリアーナは、室内スリッパを履くと帰宅者を出迎えるためテッテッテーとリズミカルなステップで部屋を出た。
一階に降りると、何やら大量の袋を抱える菫と出くわした。
「お帰りなさい、菫お義母様」
「あら、今日は早かったのね、リリィちゃん。ただいま!」
ふんすっと鼻息荒く大量の袋を抱え直す菫に、リリアーナは慌てて助けに入る。荷物をいくらか受け持ち、チラリと中を覗いてみれば、どうやら中身は大量の総菜のようだ。
「あの、菫お義母様。これは?」
「これね、今日の晩御飯よ」
「晩御飯?」
「ええ。イベントで出されたお料理の残りをね、全部かっぱらってきたわ! すごく美味しかったのよ。なんでも、結構有名な料理人さんを呼んで作ってもらったらしくてね。可愛いお嫁さん達と可愛くない息子に食べさせてあげようと思って」
「そ、そうですか。ありがとうございます、菫お義母様」
「どういたしまして!」
にっこにっこと笑う義理の母に、リリアーナはふにゃりと表情を崩した。
きっと菫のことだから周囲がドン引きするのも構わず〝お持ち帰り〟を強行したのだろう。でなければ、普通はこの量を持って帰ろうとすれば誰かが止める。
今日は、菫が原作者である漫画の実写映画に関するイベントと聞いていたから、関係者の人達も「先生を怒らせるわけにはいかないしなぁ~」と、喜々としてパックに料理を詰める菫を見ていたに違いない。
南雲家は裕福だ。
菫自身、大物少女漫画家であるし、夫である愁はここ数年で更に会社を大きくした。なにより、ハジメが方々に手を伸ばしているビジネスが馬鹿みたいに成功している。
王族の感覚からすれば、余裕はあるのだし、それこそ直接その料理人を雇って連れてくればいいのでは、と思わなくもない。
だが、どれだけ稼いでも、どれだけ裕福になっても、こういう風に〝楽しさ〟を忘れない行動力を見せるのは南雲家の共通事項。暗黙の家訓だ。
義理の娘である自分のために、「美味しいお料理、かっぱらってきたどーー!」と掲げてみせる菫に、リリアーナは何ともこそばゆい気持ちになった。
一緒に大量の総菜を台所に運んでいると、菫が「そういえば」と首を傾げながら疑問を口にした。
「ハジメ達は一緒じゃないの?」
「はい。ハジメさん達はまだ講義があるそうでそちらに。私は予定の講義が休講になってしまって……」
「あらいいわねぇ。突然の休講ってなんだか訳もなく嬉しくならない?」
「え? ええと……」
どうやら真面目な王女様には、菫のありふれた感覚は伝わらなかったらしい。なにせこの王女様、暇を持て余し過ぎて震える人形に話しかけたほどなのだ。
「というか、なにも帰ってこなくても、そのままハジメの受ける講義についていけばよかったのに。適当に駄弁っているだけというのも楽しいでしょう?」
「いえ、菫お義母様。講義を受けている間おしゃべりすればいいのに、というのは流石にどうかと……」
「ええ~。教授の目を盗んでこそこそするから楽しいんじゃない」
「菫お義母様……」
がっくりと肩を落とすリリアーナ。自身の実母であるルルアリアは、基本的に己に厳しく真面目で誠実な人柄だ。なので、実母と価値観が根こそぎ違う義母の適当発言に、リリアーナはもう何も言えない。
不思議なことに、これで菫とルルアリアは実に仲が良いのだから不思議なものだ。
台所にどさっと今晩のおかずを置く。菫は戦利品である数々の料理をお皿に移し替えながら、同じように手早く盛り付けを手伝っているリリアーナへ視線を投げた。
「それで、最近、どう? こっちには慣れたかしら? 来たばかりのころは、随分と根を詰めていろいろ調べていたけど、最近はそういうのもないし」
「はい。地球のことは大体把握しました。経済や政治、宗教や歴史、各国の情勢、文化、流行……この世界の書物はどれも体系的に編纂されていて、分からないこともインターネットですぐに調べられますから本当に便利です」
「あ~、うん、そう」
「はい。特に、経済学や統計学は学べば学ぶほど奥が深いと感じさせられます。この世界の先人達が積み重ねたものの密度、成果は、トータスの比ではありません。いかに向こうの世界の学問が遅れていたか、日々、突きつけられている気持ちです」
「そ、そう。すごいのね~」
「はい。今は復興の途中ですし、いきなり高度な制度を取り入れても破綻するのは目に見えていますから、直ぐに、というわけにはいきませんが、いずれは王国にも取り入れていくべきでしょう。経済分野については、やはりフューレンとの連携を――」
「ス、ストップ! スト~~~プ! そこまでよ、リリィちゃん!」
「へ?」
滔々と語るリリアーナに、菫は慌てて制止の声をかけた。
きょとんとしながら顔を上げたリリアーナであったが、その手は今も間断なく動き続け、パック詰めされた料理の数々を、まるで王宮料理のように盛り付けている。菫との速度差は二倍。丁寧さは三倍だ。
「もう、リリィちゃんたら、王女様の立場を離れて家に来たはずなのに、考えることといったらお国のことばっかりなのね」
「ぁ……」
感心半分呆れ半分の面持で自分を見つめる菫に、ようやく自分が何を口にしていたのか自覚したリリアーナはサァッと頬を染めた。
「こっちに来たばかりのころは、興味の惹かれるものばかりでそれどころじゃない! って感じだったけど、ある程度把握して落ち着いてしまうと、やっぱり故郷のことが気になっちゃうのね」
「い、いえ、そんなことは……ありません」
言葉に詰まるリリアーナに、菫は「う~ん」と顎先に人差し指を置いて考える素振りを見せつつ、リリアーナにとってドキリッとするようなことを口にした。
「そう? でも、最近のリリィちゃん、なんだか迷子みたいな顔してるわよ?」
「え……」
菫は、目を丸くして呆然と自分を見るリリアーナに歩み寄ると、少しかがんで視線の高さを合わせた。そして、その綺麗な碧眼に自分がしっかりと映っているのを確認すると、優しく穏やかな表情で静かに尋ねた。
「故郷に、帰りたい?」
なんら責めるところのない、リリアーナを案じる気持ちと労わる気持ちが含まれた優しい声音。
問われたリリィは、一瞬、なにを問われたのか分からないといった表情を見せたが、直後には自分でも自覚しないほど声を張り上げた。
「そんなこと思っていません!」
「わわっ、ちょっとリリィちゃん、落ち着いて」
「菫お義母様、本当です! 私、帰りたいなんて思っていません! 不自由だとも、不満だとも、思っていません! みんな大好きです! ここに来られて幸せです! 本当です!」
「分かった、分かったから!」
菫は思わずリリィを抱き締めた。
どうやらリリアーナは、菫の問いに、「ここでの生活に不満があるのなら、帰った方がいいのでは?」という言外の意味が含まれていると早とちりしたようだ。
もちろん、菫にそんな意図はない。ただ郷愁の念に駆られることは誰にでもあることで、「そろそろホームシックかしらん?」と、そう思って気遣っただけだ。帰れなどと口が裂けても言えない。
だって、菫のリリアーナに対する心情は、
「異世界の! 本物の! お姫様! 逃がして堪るか! ふへへ、世界のみなさま! この愛らしいお姫ちゃん、なんと私の娘なんです! ありがとうございます! でゅふ、でゅふふ」
で固定されているのだから。
そうとは知らず、菫の胸元にぎゅっと抱き締められたリリアーナは、自分が勘違いしていたと察し、再び頬を染めた。
「ごめんなさいね、リリィちゃん。私の見当違いだったみたい」
「いえ、私こそ早とちりしてしまって……心配してくださってありがとうございます」
「お義母さんだもの。娘を心配するのは当然よ? なにかあったら、なんでも遠慮せず相談してね?」
「はいっ」
自分の頭を撫でる義母の優しい手つきに、リリアーナはふわりと微笑んだ。そして、お料理の盛り付けを再開する。菫が内心で「あかんっ、本物のお姫様スマイルは破壊力抜群やで~~!! ありがとうございますっ」などと小躍りしているとは思いもせず。
その後、ハジメ達が帰宅するまで、リリアーナは優しい義母とのお茶を楽しんだ。
賑やかな家族。
愛しい人達との穏やかな時間。
リリアーナは望んだままの幸せを感じていた。そこに嘘偽りはない。
しかし、何故か菫の言葉が、まるで喉に引っかかった小骨のように頭に残って消えてくれないことに、言いようのない気持ちを抱くのだった。
その夜。自室に戻ったリリアーナは、すっかり就寝の準備を整えたまま、しかし、ベッドには入らず回転椅子に腰かけてボーとしていた。
昼間の、「まるで迷子のよう」という言葉が、幾度も頭の中をリフレインする。
ふと視線を落とせば、その先には不動のデイビスくんがいる。今にも「HAーーーッ、HAHAHAHAッ」とアメリカンな笑い声をあげそうな表情で微動だにしていない。
「――風よ」
リリアーナが一節の詠唱を口にした。途端、そよ風が流れ、デイビスくんが生を得たようにぶるぶるっ、カクカクッと動き出す。実にコミカルだ。まるで、晴れない靄を抱えたような今のリリアーナを、馬鹿にしているかのように。
「……おのれ、デイビスくんめ」
普段にない口調で罵ってみる。自分で動かしたくせに動いたら罵るとは、リリアーナはだいぶ〝キている〟ようだ。
と、そのとき、不意にノック音が響いた。びくんっと反応したリリアーナは、驚きで少し上ずった声になりながらも返事をする。
そうして入ってきたのは、ハジメだった。
「よ、ちょっといいか?」
「は、はい。ちょっとと言わず、どうぞお好きなだけ。でも、明日は朝一番に講義があるので、朝方には眠らせていただけたら……」
「夜這いじゃねぇよ。ていうか、〝ちょっとさせてくれ〟とか、どんだけ軽い男なんだ、俺は」
勘違い全開のリリアーナに、ハジメは苦笑いしながらツッコミを入れた。そして、ベッドに腰掛けると、自分の勘違いに赤面しているリリアーナに視線を向ける。
「まぁ、用事ってほどのもんでもないんだけどな……最近どうだ?」
「……ふふ。それ、昼間に菫お義母様にも聞かれましたよ。私って、そんなに様子がおかしいですか?」
親子そろって同じセリフで心配してくれることに、リリアーナは何だかおかしくなってクスリと笑みを零した。
ハジメはぽりぽりと頬を掻きつつ答える。
「おかしい、ってほどじゃない。ただ、元気がないように見えるのは事実だ。そんでもって、何故元気がないのか、リリィ自身分かっていないような、そんな鬱屈感が見える」
よく見てくれているんだなぁと、リリアーナはこそばゆい気持ちを抱きながら、椅子の上で膝を抱えた。大きめのゆったりとしたネグリジェから、ちょこんと指先だけを出して、椅子の上で小さくなっている姿はなんとも愛嬌がある。
「心配してくださってありがとうございます」
「なに言ってんだ。俺は旦那だろ? 旦那が嫁の心配すんのは当たり前だ」
またもや親子そろって同じようなセリフ。今度こそ無性におかしくなって、リリアーナはくすくすと笑い声をあげた。
「大丈夫ですよ、ハジメさん。本当に、ちょっぴりもやもやするときがあるだけで、大したことじゃありませんから」
そんなことを言うリリアーナに、ハジメは溜息を吐く。そして、おもむろに立ち上がると、リリアーナをお姫様抱っこで抱き上げた。
ハジメは、再びベッドに腰を下ろす。ただし、今度は横抱きで、リリアーナを膝の上に乗せた状態で。
「えっと、ハジメさん? やっぱり、し、しますか?」
「しねぇよ。リリィって意外に頭の中桃色なのな。いや、意外でもないか。もともと妄想趣味があったわけだし」
頬を染めながら自分の服に手をかけたリリアーナに、ハジメは生暖かい眼差しを向ける。リリアーナは不貞腐れた。
「そう拗ねるなよ。最近、気になってはいたんだ。これはリリィのためじゃなくて、俺が知りたいから聞いてるんだ。旦那の頼みを聞いてくれ」
「ぅ。その言い方はずるいです」
リリアーナは小さく唸った。
そして、降参というように体から力を抜くと、自分でも判然としない最近の心情を語り出す。
曰く、南雲家で過ごす時間はとても幸せだ。
曰く、大学の講義も、とても面白い。
曰く、遊んだり、好きなことを学んだり、何もしない日があったり、こんなに心安らぐことはない。
曰く、自分は今、夢想した通りの、何の不安も重圧もない、愛しい人達に囲まれた幸せな日々を過ごしている。
曰く、毎日がとても充実している。
聞けば聞くほど、何の問題もなさそうだった。が、語るリリアーナをジッと見つめていたハジメの表情には、徐々に呆れたような、否、もっと言えばドン引きしているような色が宿り始めていた。
というのも、楽しい内容のはずのなのに、語る当のリリアーナの表情は、どこか物足りなさそうなものだったからだ。
ハジメの、そんな表情には気が付かず、リリアーナは己の心情を結論付けた。
「おそらく、私には、目標が足りないのです。ハジメさん達が会社経営のために一生懸命になっているように、何か大きな目標を見つけて精進するべきなのでしょう。うん、そうですね。話しているうちに見えてきた気がします。取り敢えずは、いずれ役に立つでしょうから、経済学を極めて――」
「いや、違うだろ」
途中で遮られ、リリアーナはそこでようやくハジメを見上げた。そして気が付く。なんだかめちゃくちゃ呆れられている!? ということに。
「ハ、ハジメさん? 私、なにかおかしかったですか?」
「あ~、うん、なんというか。おかしいな。主に頭が」
「ひどっ!? まさかの暴言です! 私のいったいなにがおかしいというのですか!?」
さすがにハジメの暴言は許容できなかったのか、ぷんすかと怒りながら詰問するリリアーナに、ハジメは何とも言えない表情となった。
どうやらハジメは、自分が気が付いてない何かに気が付いたようだと察したリリアーナは、頬を膨らませながらも返答を待つ。
ハジメはおもむろに立ち上がると、リリアーナをぽいっとベッドの上に落とした。ぽよんっと跳ねたリリアーナは女の子座りでハジメを見上げる。
「いいか、結論から言うぞ。お前のもやもやの正体、それは〝物足りなさ〟だ」
「えっと……ですから、目標を立てて頑張って行こうと」
「いや、違う。そんなことをしてもお前は満足しない。まったく足りない。もやもやは欠片も晴れない。断言してやる」
「えぇ~。じゃあ、なんだというのですか?」
結局、なにが言いたいのかと首を傾げるリリアーナに、ハジメは頭の痛そうな、これは予想外だった、と言いたげな様子で口を開く。
「強いられた仕事」
「はい?」
「迫る期限」
「えっと……」
「胃の痛くなるような案件。とてつもない重圧」
「あの~、ハジメさん? 何を言って……」
「逃げることの許されない問題。頭を過る責任という言葉」
「き、聞いてますか、ハジメさん」
「寝不足でふらついていても、容赦なく積み上げられる書類の山」
「……」
遂に黙り込んだリリアーナに、ハジメは止めを刺すように叫んだ。
「文字通り、〝忙殺〟されるほどの仕事、仕事、仕事っ!! 吐きそうなくらい責任重大な仕事っ!!」
「………………くふっ」
リリアーナはびくんっとした。「今、なにやら変な笑い声が聞こえたような?」と辺りを見回す。当然、部屋には仁王立ちするハジメと、カクカクしているデイビスくんしかいない。
「いや、お前だよお前」
「え? 私って……」
推測が確信に変わったらしいハジメは、呆れを通り越して、むしろ憐れんですらいるような眼差しになりながら、テーブルの上にあった鏡を手に取った。
「リリィ。自分がいま、どんな顔しているか、確かめてみろ」
「さっきから、ハジメさんの言動が意味不明なのですが……」
そう言いつつも素直に鏡を受け取って自分を見たリリアーナは――硬直した。
無理もないだろう。
なにせ鏡の中には、嫌そうに眉を顰めながらも、何故か瞳が爛々と輝き、口元に不敵な笑みを浮かべているというわけの分からない、オブラートに包まず言うなら大変ドン引きな顔をした自分がいたのだから!
リリアーナは、「はて? もしや、鏡の中に別の世界でもあるのかしらん?」と首を傾げながらコンコンッと叩いてみたり、逆さにして振ってみたりしたが、ドン引きリリィな自分は消えてくれない。
しばらく自分の顔を見つめたリリアーナは、不意に鏡をぺいっした。そして、両手で頬を挟みつつ、ハジメに視線を転じる。
「ハ、ハジメさん! いったい、私になにをしたんですか! こんな顔にするなんて酷いです!」
「なんもしてねぇよ。リリィの本性が顕在化しただけだろ」
「本性ってなんですか!?」
取り敢えず自分の大変なお顔の責任をハジメに擦り付けたリリアーナに、ハジメはビシッと指を差した。
本性とはなんですか? 分からないなら教えてやろう。
犯人を追い詰める探偵のように、瞳をキラリと光らせたハジメは真実を響かせた!
「リリィ。お前は、真性の、それも超ド級の、むしろド変態級の――ワーカーホリックだ!」
「な、なんですってーーー!! ……いえ、ワーカー……なんですか、それ」
乗りで驚いてみたが、初めて聞く単語にリリアーナは首を傾げた。
「仕事中毒のことだ。一に仕事、二に仕事、三四も仕事で五に仕事。私生活? なにそれ美味しいの? 趣味? 仕事ですけど、なにか? という人種のことをいう。しかもリリィの場合、ただ仕事をするってだけじゃない。それが強いられたもので、責任重大で、質も量も超ハードモードでないともはや物足りないと感じてしまう、ド変態レベルの中毒者だ」
「え、えぇ!? ち、違いますよ! 私、むしろお仕事なんて嫌いです!」
「……実は最近、公安との間でちょっと揉めてて、話し合いに失敗したら死人が出そうな案件があるんだが。リリィに任せようかと――」
「え!?」
リリィちゃんのおめめはキラッキラッに輝いた。
ハジメは先程ぺいっされた鏡を素早く拾い、リリアーナの眼前に突きつける。嫌そうでありながら嬉しそうでもあるというわけの分からない、ある意味絶妙な調和がとれた自分の顔が目に入る。
「わ、私の本性が、仕事中毒者……それもド変態レベル……」
リリアーナは崩れ落ちた。ベッドから落ち、目の焦点を微妙に失いながら、デイビスくんのようにカクカクと震える。
王族の責務から離れ、普通の女の子としての幸せを追い駆けて世界を越えたはずなのに、やっぱり責務がないと物足りないなんて……
しかし、そう指摘されれば、確かにしっくりきてしまう。生活の知識を得ることも、大学で勉学に励むことも、新しい人間関係を構築することも、どこかに行き何をするにしても、全ては自分のため。
何が起きても責任を被るのは自分だけであるし、失敗したとて大した損失などでない。仮に許容範囲を越える不測の事態が起きたとしても、新しい家族の前では些事に過ぎない。
まさに人生イージーモード。
一国の先頭に立ち、民を導き、強大な敵と戦うことに比べれば、なんて、なんて……
――生温い
「はぅ!?」
「お、おい、リリィ? 大丈夫か?」
自然と湧き上がった地球での生活に対する自分の所感に、リリィは胸を押さえて蹲った。
――リリアーナ・S・B・ハイリヒ、十七歳。ハイリヒ王国王女。
生まれた時から、〝やらなければならない〟ことに浸り続けていた彼女は、〝自分で選べるやりたいこと〟では満足できない体になっていたのだ!
もっと仕事を! 頭の血管が切れそうなくらい悩ましい仕事を! 無茶振り以外の何物でもない逼迫した問題をっ。永遠に終わらないと錯覚しそうな、山脈のような書類をっ!
「私は、そんな危ない女じゃありませーーーんっ!!」
「おぉいっ。マジで大丈夫か、リリィ!!」
頭を抱えて、自分の本性にのたうち回るリリアーナを、ハジメはドン引きしつつもどうにか宥めにかかった。
三十分後。
どうにか落ち着いたリリアーナが三角座りで落ち込む中、ハジメは腕を組んで「う~ん」と首を捻っていた。
「……ハジメさん。私、帰った方がいいんでしょうか」
「ん? なんとなく何を考えているか分かるけど、なんでだ?」
もぞもぞと動いたリリアーナは、立てた膝の上にほっそりした顎を置き、微妙にやさぐれたっぽい表情で言う。
「やはり、私はどこまでいっても王女なのです。何をしていても、結局最後は王国の利益になるか、という点に集約されてしまいます。そして、地球での〝物足りなさ〟で、今のようにハジメさんや菫お義母様に迷惑をかけています」
肩を落とし、「私なんて、所詮は普通の女の子になれないただの王女なのですよ」と微妙に訳の分からないことを呟く。
ハジメは苦笑いしながら答えた。
「まぁ、帰ろうが、残ろうが、別にどっちでもいいけど」
「ひどっ!? それが妻に対して言うセリフですか!?」
憤るリリアーナに「冗談だ」と苦笑いを深めながら、ハジメは言葉を続ける。
「あのな、お前が王女を止められないことなんて最初から分かっていたことだろう? ちょいと予想の上を行く王女レベルだったが……王族としての仕事がしたいなら、別に止めはしない。リリィが望むなら、こちらから毎日でも通えるようにしてやるよ。ちょいと集中してゲートを改良する必要があるが……まぁ、どうにでもする。だから、そう自棄になって帰るなんて言うな」
「ハジメさん……」
もちろん、リリアーナも本気で帰ると言ったわけではない。だが、こうやって最愛の人から「帰るな」と言われるとやはり嬉しいものだ。
頬を緩めるリリアーナに、ハジメは続ける。
「何度か言っていることだが、リリィはもっと我が儘を言え。どんな無理難題でも、なんとかしてやるから」
「……はい」
そう言ってぽんぽんと優しく頭を撫でるハジメに、リリアーナは悶えるように身を震わせる。なんだか瞳が熱を持ち始めたリリアーナから視線を逸らし、ハジメは話を戻した。
「で、だ。通い王女になるのも、一つの手なわけだが……」
「通い王女……初めて聞きました。そんな単語。ですが、私、それだと結局、止めるに止められず仕事に忙殺されそうな気がします」
「うん、俺もそう思う。というわけで、王族の仕事以外の仕事するか? と言っても、忙殺されるようなものじゃあ一緒だから、適度に忙しくて、適度に責任感のあるものにして、少しずつ〝適度な仕事〟に慣れて、最終的には〝暇な時間を楽しめる〟ように心と体を慣らしていく、みたいな感じで」
「リハビリ、みたいですね。なんだか複雑な気分です……」
自分は病人か、あ、中毒者だった……と、微妙な表情をするリリアーナに、ハジメはいくつか行っているビジネスを任せようかと提案する。
リリアーナは少し思案すると首を振った。
「いえ、ハジメさんが代表を務めるようなお仕事は止めておきます。なにかあっても大丈夫という安心感があることは他のことでも違いはありませんが、それでもハジメさんの関わりのない仕事の方が、最初のリハビリにはちょうどいい気がしますから」
「ふ~ん? そうか。しかし、そうなると、どうするんだ?」
ふいに立ち上がったリリアーナは、ベッドの上でぽよんっと跳ねながら拳を突きあげ宣言した。
「はい、私、決めました。アルバイトします!」
正直、「アルバイトで大丈夫か?」と思わないでもないハジメだったが、なるべくハジメの後ろ盾のない場所がいいようなので、特に何も言わなかった。
そして、「目指せ、普通の女の子! もうワーカーホリックなんて言わせない!」と鼻息荒くやる気を滾らせるリリアーナに、「おお、がんばれ~」と適当な拍手を送るのだった。




