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ありふれた職業で世界最強  作者: 厨二好き/白米良
ありふれた番外編 世界のアビスゲート卿から
222/549

エピローグ 前編

 優れた遮音性を誇る部屋の一室に、深い溜息の音が漏れ出た。高級感溢れる木製のデスクと革張りのチェアーは、本来ならその主に威厳を付加しそうなものだが、今は、そんな補正が無意味になるほど、溜息の主は疲れた雰囲気を纏っていた。


「あぁ~、局長? 大丈夫ですか?」


 部屋の主――国家保安局局長シャロン=マグダネスに、アレンが苦笑いしながら声をかける。


 両肘を突いて手を組み、その手に額を当てて項垂れていたマグダネス局長は、少し顔を上げると呆れたような表情で言葉で返す。


「それはむしろ、私のセリフだけど? アレン、あなた本当に大丈夫なの?」

「あはは、大丈夫ですよ。一応、〝治療〟はしてもらったので、見た目ほど酷くはないんです」

「……粉砕骨折させられた両腕を、僅か一日である程度使えるくらいまで治す〝治療〟、ね。はぁ~~~」


 再び、深い、それはもうふか~い溜息が吐かれた。アレンは比例するように苦笑いを深める。


 マグダネス局長は、気持ちは分かると言いたげなアレンの視線を感じつつ、壁掛けの大型ディスプレイへ、嫌そうな顔を隠そうともせず向けた。


 そこに映っていたのは、神秘の顕現。あり得べからざる異常な光景。


 それが、映画のワンシーンを切り取っただけなら、どれだけ良かったか。


「天より放たれる魔王の魔手……この世界は、いつの間にファンタジーに侵食されたのかしらね?」

「いやぁ、局長。中々、詩的な表現ですね。まるでアビィさんのよう――ぶべらっ!?」


 マグダネス局長の弾丸ペーパーウェイトが炸裂した。アレンが「私、怪我人! 怪我人です! もっと優しくしてプリーズ!」と涙目で訴える。


 それをあっさり無視したマグダネス局長は、手元のディスプレイに目を落とし、そこに記載されている分析結果を力ない声音で読み上げた。


「太陽光を集束したレーザーを発射できる衛星……要は、単に熱量を集束しただけの単純なもの。一応、理論上は現代科学で建造可能、と」

「ただし、一瞬捉えた機影程度の大きさでは不可能です。それなりの規模になりますよ。施設を丸ごと消し飛ばすどころか、地形すら変える威力を出そうと思えば。そんなものが――」

「衛星軌道上にあって我が国が……いえ、各国が気が付かないなんてあり得ない。それに、あのタイミングで、ピンポイントの狙撃位置を飛んでいるなんてもっとあり得ない」


 ギィと、高級な椅子が不快な音を立てた。無理な姿勢から体重をかけたうえに身じろぎしたためだろう。マグダネス局長は、知らず己の体が強張っていたことに気が付いて、ほぅと息を吐いた。


 無理もないことだ。作戦区域を監視していた航空機が捉えた天の光の映像。それを放ったのは衛星軌道上に突然、何の前触れもなく現れた衛星兵器であり、地上を吹き飛ばしたかと思ったら、そのまま忽然と姿を消したのだから。


 あれが、アビスゲートの所有する不可思議な力のジョーカーだったというのなら、マグダネスはむしろ、力の底を確認できたと胃の痛みを和らげることもできただろう。


 だが、あれは兵器だった。技術的問題点を無視しているとか、神出鬼没だとか、確かに神秘に通じる面は溢れている。が、それでも、あれは間違いなく、人の手で創り出された兵器だったのだ。


 ただ一人が所有することを認められた不可思議で唯一のものではない。使おうと思えば(・・・・・・・)誰でも使える(・・・・・・)兵器だったのだ。


 その事実が、ファンタジーの側面を有しながらも、現実の冷たさを内包したその事実が、マグダネス局長の心胆を寒からしめる。アビスゲート卿の神秘を目の当たりにしたときよりも、もっと身近で身も蓋もない恐怖感。


「……魔王陛下、ね。彼の周りに、同じような力を持つ者達が集っているだろうことは分かっていたけれど……」

「まさか本当に、アビィさんがただの部下的立場だったとはって感じですよね。ははっ、もう笑うしかないですよ。彼一人でも太刀打ちできる未来が見えないのに、電話一本でちゅどんできる魔王様が控えてる、なんてねぇ」

「彼の話をそのまま信じるなら、彼が全身全霊をかけても傷一つつけるのが精いっぱいの、ね。しかも、奥方達にすら、敵うかどうかだもの」

「局長。私、物語に出てくる魔王を討つ者が、どうして勇者と呼ばれるのか、あの天の光を見た瞬間に分かりましたよ。確かに、勇者ですよ。あんなものに挑める人なんて」


 確かにそうだ、とマグダネス局長は深く頷いた。少なくとも、国防の一端を担う自分には、とても対立しようという考えは起きない。


 もう、何度目かも分からない深い溜息を吐きながら、マグダネス局長はおもむろに、懐からUSBメモリを取り出した。それを、肩肘を突きながら指先で弄ぶ。


「どうしました、局長」

「……いえ、別になんでもないわ。ただ、これはもしかすると、パンドラの箱だったのかもしれないと、そう思っただけよ」

「あぁ。確かに、言い得て妙ですね。ちなみに、アビィ一派は厄災ですか? それとも希望?」


 アレンの問いに、マグダネス局長は曖昧な笑みで答えた。その真意はアレンにも分からない。


 ただ、一つ確かなことは、そのUSBメモリの中身――ベルセルクの研究データを悪用しようとすれば、間違いなく厄災が降りかかるということ。それは、単に再びベルセルクが生み出されるという意味だけでなく、その事実に激怒した神秘の担い手が敵に回るという意味で。


「いや~。それにしても、保安局がベルセルクを隠し持っているなんてアビィさんに知られたら、絶対にやばいですよねぇ。各施設のデータや原品も、場所によっては施設ごと完全に破壊されましたし……それ、ある意味爆弾ですよ? さっさと破棄した方がいいと思うんですけど……」


 アレンが嫌そうな表情を隠そうともせず、未だ指先でUSBメモリを弄んでいるマグダネス局長にそんなことを言った。


 あの浄水施設突入の後、随分と疲弊した様子だった浩介は、保安局が用意した施設で休息をとっていたのだが、……半日ほど休憩するとエミリーとヴァネッサを伴って一時的に姿をくらませた。突入時のヘリパイロットとヘリを無断拝借して。


 騒然となった保安局だったが、浩介達が消えた理由には察しがついたため、連絡がつくのを待った。


 その結果、他の特殊部隊(軍の特殊部隊を含む)が突入した施設から押収した全てのベルセルクが、何者かによって全て破壊されたとして騒然になった、という形で、浩介達が何をしたのか明確になったのだ。


 軍の半端ないセキリュティをあっさり突破してデータと原品を完全破壊するという離れ業に、保安局のメンバーは揃って乾いた笑みを浮かべていたが。


 その後、一応、ヴァネッサを通して、本当は軍が回収したかもしれないベルセルクを全て破棄できたか確認するため、しばらく自由行動すると連絡があった。マグダネス局長は全面的な協力を申し出て、ヴァネッサとは色々と情報交換をしていたのだ。


 そのマグダネス局長が、実は大学の研究棟から残されていたベルセルクの研究データをちゃっかり回収していると知ったら……


 アレンは身震いを止めらない。


 そんなアレンに、マグダネス局長は呆れたような表情になった。


「滅多なことは言わないでちょうだい。隠し持ったりなんてしてないわよ」

「え? でも、現に今、持ってるじゃないですか」

「あのね、パラディとグラント博士が研究棟から逃げ出したあと、誰があそこの後始末をしたのかしら?」

「それはもちろん、我々保安局ですが……ヒューズさん達のこともありましたし」

「ええ、そうよ。そして、命からがら研究棟から逃げ出したグラント博士達は、研究データの類を持ち出す時間がなかった。そんなことは、彼女達も、アビスゲートも分かっているわ」


 つまり、危険極まりない薬品のデータを、後始末しにきた保安局が回収していることなど、考えるまでもなく明白だ。


 もっとも、それくらいのことは、アレンにだって分かっている。要は、誰もが分かっていることだからこそ、浩介達は保安局がベルセルクを破棄したと思っているはずで、それに反して未だにデータを持っているのはまずいのではないか、ということだ。


 言外の懸念を察したマグダネス局長は首を振って答える。


「あの彼が、私の言葉を鵜呑みにするわけないでしょう。データは破棄しました、そうですか、なんてね」

「それはまぁ……。じゃあ、破棄はするんですね。でも、それじゃあ、なんで未だに持っているんです?」

「念の為、彼の目の前で破棄したいのと、離れた場所から破棄されて、このままさよならされないためよ」


 マグダネス局長としては、あるいは浩介は、もう自分達に姿を見せることなく帰国でもしてしまうのではないかと思っていた。彼の摩訶不思議な力なら、誰にも気が付かれずに保安局に忍び込み、データを破壊して消えることくらい朝飯前だろう。


 だが、マグダネス局長は、どうしても眼前での対話をしたかったのだ。あれだけのことができる浩介と、そしてその背後の魔王一派との関係を曖昧にしたまま帰国などされては堪らない。もう結構な年であることを自覚しているマグダネス局長は、これ以上自分の胃にダメージを与えたくなかった。


 なので、たとえ迂遠でも、対話は必須だった。USBメモリを未だ破棄せず常に持ち歩いているのも、その為の一手であり、それを浩介の目の前で破棄することで信頼関係を築くための一助にもしたかったのだ。


 きっと、おそらく、それほど大した効果は望めないだろうが、小さな一手も馬鹿にしないのがマグダネス局長の主義だ。


 なるほどと頷くアレンを尻目に、マグダネス局長はUSBメモリを指先で挟むと、おもむろに虚空へと視線を投げ、口を開いた。


「そういうわけだから、破壊したいならご自由に。アビスゲート」

「え? 局長?」


 パチンッと、将棋でもうつようにいい音をさせて、USBメモリをデスクに置いた局長に、アレンが目を点にする。一瞬、「ついにボケたのかしらん?」と思うが、絶対零度の視線が一瞬向けられたので慌てて居住まいを正す。


 その直後、


「……驚いたな。まさか俺の気配に気が付くなんて」

「おぉう!? アビィさん!?」


 部屋の隅から響いてきた声に、アレンが思わず飛び上がった。


 慌てて視線を転じれば、そこには壁に背を預けたまま腕を組んでたたずむ浩介の姿があった。その表情には明確な驚愕の感情があらわれている。


「ア、アビィさん、いつからそこに? というか、どうやって入って……」

「ずっと、アレンの後ろに張り付いていただけだぞ? この部屋に入るときに、一緒に入ったんだ」

「ま、まったく気が付かなかった……」


 地味にショックを受けているアレンを置いておいて、浩介はマグダネス局長に視線を転じる。その視線には、いつの間に自分の気配に気が付けるようになったのかという疑問と感心と、ちょっぴりの嬉しさが混じっているようだった。


 浩介の視線に、マグダネス局長は苦笑いを浮かべつつ首を振った。


「気が付いてなんていないわよ。ただ、動いた部隊の数、所属、拠点の場所、パラディとの情報共有などから考えて、そろそろ来るだろうと思っていたのよ。いてくれて良かったわ。でないと、私は虚空に話しかける可哀想な人になっていたところよ」

「……流石は局長さんか。まんまと一本取られたな」


 苦笑いしつつ壁から背を離す浩介。ちょっぴり残念そうなのは、「もしかして、俺に気が付ける人が増えた!?」という期待が崩れ去ったからだろう。


 浩介はデスクの前まで行くとUSBメモリを手に取った。そして、中身を確認することなく握り潰してしまう。


「データはこれだけか?」

「ええ、そうよ。これで、ベルセルクのデータは、グラント博士の頭の中のみ、ということね」

「確かか?」

「確かめればいいでしょう? やろうと思えば、この世にベルセルクのデータや原品があるか否か、貴方には確実に知る手段があるのでしょう。そんな相手に、ブラフを張るほど、私は馬鹿ではないつもりよ」


 確かに、関係者に暗示をかけて情報を聞き出せば、その是非は判明する。また、マグダネス局長は知らないが、かの人に頼んで〝導越の羅針盤〟を使ってもらえば、一発で判明する。


 マグダネス局長は暗示をかけられる覚悟もあるようで真っ直ぐな眼差しを浩介へと向けていた。それを受けた浩介は肩を竦めると首を振った。


「局長さんの言葉を信じよう。それに、これから友人とその家族を守ってくれる相手に、あまり酷いことはしたくないしな」


 少しばかり、脅しが含まれているような気がしないでもない。マグダネス局長は眉間に皺を寄せつつ問い返す。


「……グラント家を守れと?」

「局長さんがお偉方にベルセルク不要論を唱えても、今回の騒動で疑問を覚える奴は必ずいる。グラント家が狙われて、エミリーが不幸なことになったら……な? これも国防のためじゃん」

「相手はこちら側の人間でもなければ、ベルセルクそのものでもなく、〝深淵卿〟ですからね。確かに、国防のための最重要案件だわ」


 グラント家に何かあったらただじゃおかねぇ――言外の警告にマグダネス局長は少し疲れたような表情をしつつも、馬鹿な連中からグラント家を保護すると約束した。


 きっと、数日以内に、グラント家の近所には一見するとただ友達の多い夫婦か、恋人同士でも引っ越してくることだろう。懐に銃を忍ばせ、内心で「卿が暴れるか否かは、俺達の肩にかかっている!」と意気込むグラント家を見守る者達が。


「まぁ、護衛の件はいいわ。ただし、一つ条件――いえ、頼みがあるのだけど」

「……この状況で普通に条件をつけてくるか。やっぱり流石だよ、局長さん」

「お褒めに与り光栄よ。別に、無茶なことを言うつもりはないわ。ただ、この国で何かをするとき、あるいはこの国に関係する者に何かをされそうになったときは、一報を入れてほしいのよ」


 これが、マグダネス局長が対話において浩介に取り付けたかった約束。野放しにするには危険すぎる。だが、首輪をつけるなど不可能。ならばせめて、どこで何をするつもりなのか、許可を得ろなんて言わないから、せめて教えるだけはしてほしいのだ。


「場合によっては、私が出張った方が上手くことが運ぶなんてこともあるでしょう。あなたは大抵のことはできるでしょうけど、権力へのコネはあっても困らないはずよ」

「う~ん。まぁ、その権力が俺等に手を伸ばさないならな。さりげな~くでも、こっちの情報を得ようと動かれたら、鬱陶しいことこの上ないし」

「その辺りのさじ加減は信用してほしいところね」


 う~んと逡巡する浩介に、マグダネス局長はポツリと呟いた。


「……後始末、大変だったわねぇ」

「……」

「情報局からは吊し上げに遭うし、あの辺り一帯の配水とか、情報統制とか……。これからベルセルク事件の報告書をいろいろ改ざんしなきゃいけないし、議会で不要論を唱えたら絶対にまた吊し上げに遭うだろうし……」

「……」

「言いたくはないけど、もう年ねぇ。最近、胃の痛みに耐え難くなってきたわ。薬が効かないのよ。引退を考える頃合いかしら? まぁ、後任が誰かさんとの関係を上手く築けるかは分からないけど……」

「……」

「そういえば、撃たれた腕が痛むわねぇ。アレンは治療してもらったのに、私は普通に現代医療だものねぇ。やっぱり引退かしらね。もう、情報局やら議会を論破する力なんて……」

「分かった! 分かったよ! この国が絡む何かがあったときはちゃんと連絡すっから! だから、いきなりそんな死期を悟った老人みたいな表情で遠くを見るのはやめてくれ! なんかイメージ壊れるから!」

「結構。では、我々保安局はグラント家の保護とベルセルク事件の後始末を。アビスゲートには私以下幹部に繋がる専用回線を渡しますから、何かあれば情報交換を。――今後、保安局はあなた方魔王一派と良き関係が続くことを望みます」


 今にも死神に連れていかれそうな老人っぷりだったのに、一瞬で覇気を纏った国家保安局局長の顔に戻って話を纏めるマグダネス。浩介は内心で、「この人、やっぱり苦手だわぁ」と頬を引き攣らせた。


 それから二つ三つ話をし、機会があれば是非魔王陛下と対談させてほしいなどと恐ろしいことを付け加えたマグダネス局長に、改めて大した女傑だわ、と感心しつつ、部屋の扉に手をかけた。


 そして、部屋を出る直前で、ふと思い出したように振り返った。


「そういえば、ありがとう、局長さん。俺も確認するつもりではあったんだけど、教えてもらえて助かったよ」

「? ……あぁ、彼女のことね」


 一瞬、なんのことだと首を傾げたマグダネス局長だったが、直ぐに思い至ったようで、驚いたことに微笑を浮かべた。アレンがギョッとしている。


「礼は不要よ。状況的に余裕がなかったとはいえ、もう少し早く確認していれば、彼女の心労も和らげたでしょう」

「どうかな。たらればを語ってもしかたないし。頑張ったご褒美に、世界が少しだけ優しくしてくれたんだと思えば、悪くないんじゃないかな?」


 自分のセリフが恥ずかしくなったのか、言った後で頬をポリポリと掻く浩介に、マグダネス局長は更に目尻を下げつつ頷いた。


「私が言えた義理ではないけれど……そうであるなら、確かに悪くない。彼女に、一つでも救いがあって良かったと思うわ」


 最後に国家守護を担う鉄血の女傑が見せた本音っぽいその言葉に、浩介も穏やかな眼差しで頷き返し、部屋を後にした。


 最後まで、局長の微笑みを見たアレンはギョッとしたまま固まっていた。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 国家保安局の高層ビルが視認できる場所にある喫茶店。そこのオープンテラスに、ボーとしている金髪サイドテールの少女――エミリーがいた。


 目の前で湯気をゆらゆらさせているカフェラテのカップに手を触れさせたまま、しかし、口につける様子もなく、ただボーと立ち上る湯気を見つめている。


 憂いや切なさといった感情の他にも、いろいろなものを内包する横顔は、不思議と惹きつけられるものがあった。エミリーは元々美少女であるが、今は実年齢よりも〝女〟を感じさせる。それは、彼女が経験したここ数日での、尋常ならざる経験のせいだろう。


 店にいた青年達や男性の店員が、一人でいる憂いを帯びた美少女にチラリチラリと視線を向けているのが、エミリーの放つ魅力を証明していた。


 黒のストッキングに包まれた細くしなやかな足が組み替えられると、ついそれに視線を吸い寄せられた青年の一人が、意を決したように立ち上がった。どうやら、エミリーに声をかけるようだ。


 が、青年が一歩踏み出した直後、彼はピタリッと足を止めてしまった。


 不意に、エミリーが顔を上げたからだ。それは青年の下心を察知したからではないようだった。まるで、誰かに呼ばれたかのような反応。だが、自動車のエンジン音以外には特に女性の名を呼ぶ声は聞こえない。


 青年は、どうしたのだろうと首を傾げながらも、歩を進めようとして――


「あ、こうすけ! こっちよ!」


 咲き誇る花を見た。先程のまでの憂いが嘘のように、ぱぁっと輝き開花した満開の花。満面の笑みを浮かべて手を振るエミリーに、青年はまたしても足を止める。ただし、今度は純粋に見惚れて。


「……エミリーって、なんか普通に気が付くようになったな。俺に」


 そう言って現れたのはもちろん浩介だ。その声を聞いて、ようやく青年も、いつの間にか近くまで一人の男が歩み寄ってきていることに気が付いた。日本人と思しき、あまり特徴のない男だ。


 一瞬、自分と浩介を比較して、勝ったと自己評価する青年だったが、迎えるエミリーの表情を見て直ぐに萎えた。一見して分かるほど、エミリーの表情には信頼と愛情が浮かんでいたのだ。ガクリと肩を落としつつすごすごと元いた席に戻る。他の客や男性店員が何とも言えない表情で青年を見ていた。


「そうね。なんとなく、こうおでこの辺りにキュピーンッてくるの。こうすけが近くに来ると」

「変な能力に目覚めたな。まぁ、嬉しいからいいけど」


 浩介の嬉しいという言葉に、むしろエミリーの方が嬉しそうに微笑む。


「それで、終わったの? 大丈夫だった?」

「ああ、万事うまくいったよ。これで、この世にベルセルクはもう存在しない。保安局とも上手くやっていけそうだよ」

「そっか……ありがとう、こうすけ。本当に、こんな言葉じゃ全然足りないくらい、ありがとう」


 ぽてりと、浩介の肩に額を預けるエミリーの姿を見て、先程の青年を含め数人の男がチッと舌打ちする。見せつけやがって、と言ったところだろう。


 それらを耳にしつつ思わず苦笑いした浩介は、エミリーの背中をポンポンッとしつつ店を出ようと促した。


 通りに出て歩き出した浩介に、エミリーがどこに行くのかと尋ねる。


「う~ん、ちょっと行きたいところがあるからついて来てくれるか?」

「うん、それはいいけど。飛行機の時間は……夕方だから大丈夫ね」


 本日、遠藤は帰国する。夕方の飛行機を予約済みだ。エミリーとしては当然、寂しい気持ちでいっぱいだったが、娘を襲った事態に心労を溜め込んだ両親を放ってなどおけるわけもなく、しばらくは家で過ごすつもりなので一緒にはいけない。


 もっとも、しばらくは護衛のために浩介の分身体がいてくれることと、今生の別れではないことを浩介が確約してくれたことで、そこまで憂いてはいない。


「そういえば、ヴァネッサは? 途中で用事があるからってどこかに行っちゃったけど、保安局絡み?」

「いや、別件だ。今から行くところにヴァネッサも行ってる。念の為に、ちょっと確かめておいてほしいことがあってさ」

「ふ~ん。なんだか言葉を濁すわね。……私だけ仲間外れなんだ」


 ちょっぴり拗ねたように唇を尖らせるエミリーに、思わず「可愛いな」と言いかけた浩介だが、心のボディブローを自分に決めて口を塞ぐ。


「そういうわけじゃないんだけど……。むしろ、エミリー関係なんだけどさ。まぁ、行けば分かるよ。場合によっては、先に俺が行っていろいろ処置する必要があるかもしれないんだけど……ほら、保安局の方を先に片づけておきたかったし。念の為に」

「よく分からないけど……いいわよ。こうすけとヴァネッサが最善と思ったなら、それで」


 ふんわりと笑うエミリー。二人への信頼の高さが窺える。


 距離的に、徒歩で三十分ほどということで、二人はタクシーなどは使わず、散歩がてら歩くことにした。


 言葉もなく、しかし、決して気まずい空気などなく、二人はゆったりとした歩調で歩く。しばらくして、ポツリと、エミリーが言葉を零した。


「今でもね、先生だって思うの」

「ん?」


 首を傾げる浩介に、エミリーは少し空を見上げながら続ける。


「裏切られて、あんな酷いことをして、最後はたくさんの人を道連れにしようとして……それでも、憎みきれないの。今でも、私の中のどこかが、あの人のことを〝私達の先生〟だって思ってる。……おかしいかな?」

「どうかな。エミリーと、ダウンが積み上げたものを、俺は知らないから」


 否定されなかったことに、エミリーは少し嬉しそうに微笑んだ。


「うん、たくさんね、積み上げたものがあって、私はそれを忘れられないの。手を差し伸べられたことも、救われたことも、温かい場所や、大切な教えを受けたことも、忘れられないのよ」

「嘘じゃ、なかったからだろうな」

「……そう。嘘じゃなかった」


 あのとき、追い詰められた幼いエミリーが救われたことは、事実だ。家族の温かさを与えられたことも、それ以外のなんでも、エミリーの心に宿った大切なものは、嘘ではない。


 エミリーは再び、その表情に憂いの影を落とした。


「だからこそ、怖いと思う」

「……」


 横目でエミリーを見る浩介の視線に気が付いているのかいないのか、エミリーは僅かに俯いたままポツリポツリと語る。


「きっと、ベルセルクは、誰の中にでもいる。ほんの少しのきっかけが、他人にとってはなんでもないようなことが引き金になって、目を覚ます。それは、きっと特定の分野の方が起こりやすい。そう思うの」


 誰もが、心の奥底に狂気の種を持っている。それを、浩介は否定できなかった。浩介の中に、共に帰ることが叶わなかったクラスメイトの顔が過る。特異な状況下で、彼等は心のタガを外した。


 エミリーの言う通り、そんな特異な状況でなくても、それは起こり得ることなのだろう。そして、一つの道を極めんと進む者ほど、心のタガは外れやすいというのも、おそらく的を射ている。


「今でもね、思うのよ。私と出会わなければ、先生は最優の教育者として普通に生きられたんじゃないかって」


 意味のないIFだ。エミリーも、それは分かっている。だが、考えずにはいられない。考えて考えて、それでも、どうしたら良かったのだろうと思考の迷宮を彷徨い続ける。


 恐ろしいのだ。この道の先で、再び、自分は誰かをベルセルクにしてしまうのではないかと。夢を諦めるつもりはないが、それでも、どうしても、研究の道の先にある未来を想うと、手足が強張り、胃の底に冷たくて重い何かが沈み込むのだ。


 浩介はエミリーから視線を逸らし天を仰いだ。おそらく、エミリーは浩介に何かを求めて語ったわけではないのだろう。その証拠に、憂いを帯びた瞳の奥には、それでも引かない、引けないんだという決意の光が見て取れる。故に、重く苦しいそれを、少しだけ浩介に聞いてもらったのは、単なる浩介への甘えと言えるだろう。


 そんな不器用な甘えを見せるエミリーに、浩介はガリガリと頭を掻いた。そして、奇妙な語りをし始めた。


「昔、昔あるところに、っていうほど昔でもなくて、割と最近のことなんだけど、とあるところに一人の勇者がいました」

「へ? えっと、こうすけ?」


 当然どうしたの? と首を傾げるエミリーを無視して、浩介は語りを続ける。


「勇者は超イケメンで、文武両道。公正で親切で、正義感の溢れる、超モテモテ男でした。取り敢えず爆発しろって感じですが、とてもいい奴だったのです」

「い、いい奴なのに爆発してほしかったの?」

「ん、まぁ、それはおいといて。とにかく、完璧超人の勇者は、ある日、仲間と共に違う世界へと召喚されてしまいました。どこぞのクソ神が、興味本位で周囲の人間ごと誘拐してくれやがったのです」


 忌々しそうに語る浩介を見て、エミリーははっと気が付いた。浩介が突然語り出した御伽話は、きっと御伽話じゃない。この摩訶不思議なヒーローが生まれた始まりの物語の一部なのだと。


 エミリーは口を閉ざし、耳を傾ける。想い人が、自分の秘密を明かしてまで何を伝えようとしてくれているのか、一言も聞き逃すまいと集中する。


「クソ神の真意はともかく、その世界の人々は勇者達に言いました。救ってくれと。敵を倒してくれと。勇者は、困っている人がいるなら助けるべきだと応えました。世界を渡った勇者と仲間は、大きな力を手にできたので、きっと上手くいくと思いました。でも――」


 そうはいかなかった。


「少しずつ、少しずつ、勇者の中に黒いものが溜まり始めました」

「黒い、もの……」


 エミリーには察することができた。それは、ベルセルクの種だ。誰もが持っている、負の感情。


「信じていた勇者の正義は、なにも通じませんでした。公正さを失い、自分は正しいはずだという妄執に憑りつかれるようになりました。仲間や幼馴染達が彼を諌めることもありましたが、敵に唆された勇者は――全てを裏切りました」

「っ」


 エミリーが息を呑んだ。勇者に、何があったのかエミリーは知らない。だが、なんとなく先生と被って見えた。勇者は、どんな気持ちだったのだろう。いったい、どんな気持ちで仲間を裏切ったのだろう。そして――勇者は、どうなってしまったのだろう?


 立ち止まったエミリーに合わせて、同じく立ち止まった浩介が、エミリーを見つめながら続ける。


「勇者は、その絶大な力を俺達に向けた。大事なはずの幼馴染に向けた。守ると言ったはずの人々に、向けた。一番あいつが必要だった決戦のときに、あいつは敵側にいたんだ。全ては、自分こそが正しかったんだって証明するために。なにもかも上手くいっていた頃を取り戻すために」

「……勇者は、どうなったの」


 絞り出すような声音で、エミリーが聞いた。浩介はそれに対して、


「おう、幼馴染の女の子に泣いて謝るまでボッコボコにされて、イケメンざまぁな感じで腫れ上がった顔のまま帰ってきたよ」

「え?」


 盛大な裏切りの後だ。てっきり、悲劇的な、でも少しの救いがあるような話なのかと思っていたエミリーは、「いやぁ~、あんときのあいつの情けない顔と来たら! 半泣きでみんなに謝罪してさ、でも前歯折れてるせいで微妙にみんな笑いそうになってんの! とんだシリアスブレイクだったぜ!」と、浩介があっけらかんと笑いながら語る姿を見てポカンとする。


 おいてけぼりを食らっているエミリーに気が付いた浩介は、コホンッと咳払いを一つ。


「まぁ、なんつーか、その……すまん。先生さん、助けてやれなくて」

「え? え、あ、いや、ちがっ。私、そんなつもりで――」


 慌てて弁解しようとするエミリーを手で制した浩介は、苦笑いしつつ、しかし、思わずエミリーが心臓を跳ねさせるほど強い眼差しを向けた。


「分かってるよ。でも、それでも、誓うよ、エミリー。もし、エミリーがこの道の先で、誰かの狂気を呼び覚ましてしまったとしても、今度は失わせない。ぶん殴ってでも、必ず、エミリーのもとへ連れ帰ってやる」

「ぅ、ぁ」


 言葉に詰まる。エミリーが口をパクパクとしている間に、浩介は彼女の道を照らす言葉を贈った。


「だからさ、そんな苦しそうな顔しないで、この道の先を進んでくれよ」


 エミリーは飛び込んだ。どこに? 決まっている。愛しいヒーローの胸元に。こみ上げる熱い何かで、えっぐえっぐと嗚咽を漏らすエミリーの髪を浩介は優しく撫でた。


 どれくらいそうしていたのか。やがて顔を上げたエミリーの手を引いて、浩介は目的地へと歩を再開する。


 再び沈黙がおりるが、今度は何とも気恥ずかしい雰囲気だ。エミリーは潤んだ瞳でチラッチラッと浩介の横顔を見つめているし、浩介は浩介で自分のセリフに悶えていた。


 浩介は、少し雰囲気を変えようと、実は少し前から考えていた提案を口にした。


「あのさ、エミリー」

「なぁに、こうすけ」


 声音が甘い。とろっとろっだ。空気の糖度が増した。浩介は、「や、やっちまったかもしれん……」と冷や汗を流す。


「この先の研究のことなんだけど」

「うん。大学で続けるのは……もう、難しいかな。でも、他のどこかで――」

「それなんだけど、良かったら、異世界に行ってみるか?」

「異世界……」


 エミリーの中で、浩介が仲間と一緒に異世界へ召喚されたというのは既に事実になっている。あの語りが架空の話だったなんて思わない。むしろ、浩介の不思議な力のルーツはそこにあったんだと納得したくらいだ。


 その、浩介がヒーローの力を得た世界に、自分も行けるかもしれない。それは、エミリーを歓喜で満たすには十分だった。


「いいの?」

「ああ、一応、向こうの世界に行くには魔王の許可がいるけど、まぁ大丈夫だろ。向こうにはさ、こっちにはない不思議植物やら鉱石やらがいっぱいなんだ。一応、薬学なんかもあるし、エミリーがそういうのを覚えて研究に役立てたら、ブレイクスルーへの近道になるんじゃないか?」

「異世界の薬学……確かに、それはすごく興味がある。あの治療薬とかも、そういうのからできているのよね?」

「う~ん、そうだな。一応、魔法薬で純粋な薬品ってわけじゃないけど……」


 浩介の世界に行けること、そして、自分のライフワークに役立つかもしれないことでエミリーの瞳はキラキラと輝いた。先程の、うっとりした眼差しよりはずっといい。あれは、いろんな意味で浩介にとっては毒だ。自業自得なのだけど。


「それでさ、向こうの世界は魔法があるせいで、いまいち技術面が発展してないんだよ。俺、一応、こっちでは医学の勉強してるんだけど、それも魔法なしでの医療技術を高めたいっていう目的があるんだ」

「……浩介は、もしかして、将来は異世界に行ってしまうつもりなの?」


 不安そうに見上げてくるエミリーに、浩介は躊躇いなく頷く。エミリーの表情に影が差す。


「まぁ、魔王がいま、もっと簡単に行き来できるように手を打ってるから、ずっと向こうに行きっぱなしってことはないけど……」


 それを聞いて、エミリーが何かを考え込み出す。そして、「おや?」と首を傾げた浩介に、エミリーはがばっと顔を上げると宣言した。


「なら、そのときは私もこうすけについていく! それで、異世界の薬学を、もっと発展させてみせるわ!」


 私、絶対こうすけの役に立つから! と宣言するエミリーに、浩介は、元々、トータスの魔法を使わない医療面の充実について協力を願おうと思っていたので、二つ返事で了承する。ただ、若干、エミリーの「ついていく」という言葉に、妙な重みがある気がしたが……


 いや、誤魔化すのはやめよう。浩介は確信した。絶対に、そういう意味での「ついていく」だ。浩介は冷や汗を流した。将来を想ってか、頬を染めてらんらんっと瞳を輝かせるエミリーの脳内では、きっと異世界の診療所で患者を診る自分達の光景が展開されているに違いない。


 異世界にいても、地球に戻る手段があるのなら、狙われる危険性がある地球よりも異世界で研究した方がずっと安全であるし、その研究成果でアルツハイマーなどを打倒することもできる。


 エミリーにとって、異世界への移住はいいこと尽くしだった。


「あ、あのさ、エミリー。ちょっと他にも言わないといけないことが……」


 なんだかんだで言いそびれていたことを、今、もう思い切って言ってしまおうと口を開きかけた浩介だったが、運命の女神は割と嫌らしいようだ。


 聞き慣れた着信音が、浩介の言葉を遮った。電話の相手はヴァネッサのようだ。内心で「ヴァネッサェ」と呪う浩介だったが、彼女に確認に行ってもらった場所のことを思うと無視はできない。


 そうして電話を取った浩介に耳に飛び込んできたのは、まさに奇跡のようなタイミングでの朗報だった。




後編に続く

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― 新着の感想 ―
宇宙条約違反で取り締まろうとした時点で村人になるから辞めといたほうがいいんだよなぁ…
ハジメさんの宇宙条約違反が英国にバレましたね……
ついにラナの存在が白日の下に!? どうするエミリー!? アビスゲート卿の二人目の嫁になるか!?
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