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ありふれた職業で世界最強 作者:厨二好き/白米良

ありふれた番外編 世界のアビスゲート卿から

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悲劇の始まり 1

 

 その日、保安局危険薬物対策課の捜査官であるヴァネッサ=パラディは不機嫌だった。普段から表情は乏しい彼女だが、今は見る者が見れば直ぐに分かるほどむすっとした表情をして局の廊下を歩いている。

「随分と不機嫌そうだな、パラディ」

 不意にかけられた声に、ヴァネッサが視線を剥ければ、そこには顎鬚を蓄えた四十代前半くらいの鋭い空気を纏った男がいた。

「ヒューズさん。いえ、別に、私は不機嫌ではありませんが……」
「誤魔化すな。半年かけて内偵し、そろそろってところでチームから引っこ抜かれたんだ。機嫌が悪くなっても仕方がない。私なら間違いなく不機嫌になる」
「それは……その」

 ヴァネッサは何と言うべきか、言葉に詰まって視線を泳がせた。

 デイヴィ=ヒューズ。ヴァネッサと同じ危険薬物対策課の主任捜査官で、そろそろ二十年になる大ベテランの先輩だ。数々の功績を上げているにもかかわらず、課長の椅子を蹴ってまで現場主任にこだわる変わり種でもある。

「まぁ、引っこ抜いたのは私なんだがな」
「……」

 悪びれた様子もなく己の所業を暴露するヒューズに、ヴァネッサは今度こそ無言になった。ついでにジト目になる。

 そんなヴァネッサの様子に、苦笑いを浮かべたヒューズは、ヴァネッサの目的地である局長室への道を促し、隣を歩きながら弁明を始めた。

「そう睨むな。私のチームに、どうしてもお前が必要だったんだ。アーメッド班長からの嫌味の嵐に耐えて譲ってもらったんだぞ」
「……確か、ヒューズさんは【ベルセルク事件】の捜査チームを率いることになったのでは? まだ発足してから二日と経っていないはずですが……もう、何か進展があったということですか?」
「まぁな。事態はいろいろと混迷している。事件の発端からして非現実的であるから、仕方ないとも言えるがな。その大本から通報があった。おそらく保護プログラムを使うことになるだろうが……保護対象はまだ十六の少女だ」
「なるほど。同性の捜査官が必要だったのですね」
「ああ。詳しい話は局長を交えてしよう。私もこれから向かうところだ。無理を言って悪いが、護衛任務においてパラディ以上の女性捜査官はいないんでな、頼むぞ」
「ヒューズさんにそこまで買われては、駄々も捏ねられません。よろしくお願いします」

 ヴァネッサの言葉に、ヒューズはくつくつと笑いながら「こちらこそよろしく」と返す。ベテランにも関わらず、まだまだ新人の域を出ないヴァネッサにも気さくな態度を取るところも、ヒューズが数々の功績を残してきた理由の一つなのかもしれない。チームを率いる主任クラスの捜査官において、部下の扱いというのは重要だ。

 下降気味だったヴァネッサの機嫌は、尊敬するベテラン捜査官の高評価と言葉に、ギュイン! と音を立てて急上昇した。意外にも扱いやすいヴァネッサだった。




 国家保安局局長シャロン=マグダネスの鋭い眼光を受けて、ヴァネッサは表情こそ変えないものの内心で綱渡りでもさせられているかのような緊張感を味わっていた。

 マグダネス局長は既に六十に届こうかという年齢の女性だが、ヴァネッサが入局するずっと以前から国家保安局局長の椅子を預かっておきながら、その威圧感と相対する者を容赦なく緊張の坩堝に陥らせる覇気は、衰えるどころかますます磨きがかかっているようだった。

「パラディ捜査官、以上が【ベルセルク事件】の現状よ。把握したわね?」
「はい」

 “把握したか?”ではなく、“把握したな? したよな? してないとは言わせない”と言わんばかりの言葉に、ヴァネッサは「はい」以外の答えを返したら首を切られるのではと思いつつ返事を返す。

 それに対し、「よろしい」とさも当然のように頷いたマグダネス局長は、その視線をヒューズへと移す。

「ヒューズ主任捜査官」
「はっ」
「エミリー=グラントとその近親者、及びレジナルド=ダウン教授を筆頭に【H3-α4】の開発にかかわった者達に対する保護プログラムの適用を承認するわ。ただし、最優先保護対象者はエミリー=グラントとする。いいわね?」
「了解しました。直ぐに向かいますか? 私としては、事前にチームで打ち合わせをしておきたいところですが」
「……構わないわ。日のある内に保安局の捜査員が何人も訪れては目立つ。深夜になさい。時間は追って知らせるわ。現状の警護として、キンバリーがいるならまず問題ないでしょうけど、念の為、大学側の警備員・清掃員などに紛れさせて捜査員を配備しておきなさい」
「承知しました」

 打てば響くように返事を返すヒューズに気遅れしたような気配はない。ヴァネッサが黙っている間に、マグダネス局長とヒューズは更に二、三のやり取りを行い、最後にマグダネス局長から「何か質問は?」と問われる。

 その視線が、自分にも向いていることに気が付いたヴァネッサは一つ頷く。

「局長、その【H3-α4】を服用した通称【ベルセルク】と遭遇した場合の、対処方法と優先順位は?」
「対象を沈黙させなさい。手段は問わない」

 即答だった。思わず質問したヴァネッサの方が言葉に詰まる。手段を問わない沈黙とは、すなわち“殺して構わない”ということだ。

「……服用者を救う手立ては――」
「パラディ捜査官」
「っ、はい」
「エミリー=グラント博士曰く、現状、ベルセルク化した者を元に戻す薬は存在しないとのことよ。いずれ治療法が開発されることを祈って彼等を捕縛に留めたいという気持ちは分からないでもない。しかし、それは強行課の役目であって、少なくとも貴女の仕事ではないわ。分からない、とは言わせないわよ?」
「もちろんです、局長。失礼しました」

 隣でヒューズが苦笑いしている気配を感じつつ軽く頭を下げたヴァネッサは、もう一つの質問を口にした。

「先程、データ流出の犯人は不明との説明がありましたが、分析はどの程度まで進んでいるのでしょうか?」
「そうね。パーカー分析官、説明を」
「はい、局長」

 ヴァネッサの質問に、マグダネス局長は傍らに控えていた未だ二十代くらいの男へ呼びかけた。線の細い眼鏡をかけた気の弱そうな青年で、何故か常に眉毛が困ったように八の字に下がっている。それが尚更、気弱そうな印象を与えている。

 最近、三年くらい前からその優秀さを買われて局長の直属となったアレン=パーカー分析官は、手元のノートPCを操作しながら説明を始めた。

「まず断っておきますと、現状、分析できるほどの情報はまだ得られていません。なにせ、【ベルセルク事件】から二日、大学からの通報が数時間前だったもので……。今のところ分析というより、推測に近いものと思ってください」

 アレンは、ヴァネッサとヒューズが頷いたのを確認して、ノートPCを操作し大型ディスプレイへと内容を映した。そこには、いったいどこから引っ張って来たのか、エミリーやダウン教授、ヘドリック達の写真付きのプロフィールが映し出されていた。

 そこから、エミリー達の履歴が簡潔に説明され、【H3-α4】――通称【ベルセルク】(メディアが先の事件を【ベルセルク事件】と称したことから名付けられた)が事件まで秘匿されたものだったことが伝えられる。

「現状を踏まえますと、一番可能性が高いのはダウン教室の誰かがデータを流出させた、というものでしょう。動機は、分かりません。怨恨、自己顕示欲、破滅願望、ストレス発散、あるいは……茶目っ気とか、ね?」

 ジョークのつもりなのか、ウインクしながらそんなことをいうアレンに、ヴァネッサの極寒の視線が突き刺さる。背後からはマグダネス局長のツンドラの視線が突き刺さる。ヒューズだけ、「お前、勇者か」という評価を改めたような称賛顔を向けている。

「んっ、んっ、ごほんっ。え、えぇ、次に、外部の人間、あるいは組織が関与した場合ですが、【ベルセルク】の存在を断片的にでも知ることのできる可能性の高い順に、彼等と周囲の関係――例えば、友人、家族、研究所の関係者、行きつけの店、学会、バイト先、エトセトラ~――を洗い出し、更に誰にも気が付かれずに持ち出せるなど、まぁ、いろいろと条件を加えて、ざっとこんな感じで容疑者を出してみました」

 切り替えられたディスプレイには、およそ十の企業、人物、組織などが、それぞれ考えうる動機や盗んだ方法などの推測と共に表示されていた。

 なるほど。その仕事振りは、確かに、マグダネス局長が傍に置くレベルということらしい。自分で、「分析なんてレベルじゃない」だとか、「時間が少なすぎて」だとか言っているが、並みの分析官ではここまで論理立てて推測し、在り得る可能性を示すことはできないだろう。

「……なるほど。分かりやすい説明、有難うございます。パーカー分析官」
「あはは。ですから、分析(・・)なんてレベルじゃないんですって。変に先入観とか持たないで下さいね? でも、お礼をしてくれるなら、是非、私のことは親しみを込めて“アレン”と――」
「ヒューズさん。これを見る限り、保護プログラムを適用するにしても、彼等を一緒にするわけにはいかないのでは?」
「……あぁ、そうだな。内部犯の可能性も十分にあるし、街中でベルセルクを解き放つなど正気の沙汰とは思えんしな。少なくとも、グラント博士だけは、別にするべきだろう。そうなると、ますます彼女の精神的負担が心配だ。パラディ、頼んだぞ」
「お任せください」

 普通にスルーされて引き攣り顔になっているアレン分析官。ヒューズが横目で「なんて奴だ……」と、やっぱり勇者を見るような眼差しを送っている。マグダネス局長は目元を覆ってしまっている。

 マグダネス局長は横目でアレンを睨みつけると、ヒューズとヴァネッサに他に質問はないかを聞き、二人が首を振ったので退出を命じた。軽く頭を下げたあと執務室から退出していく二人を見送り、地味に凹んでいるアレンへ視線を向ける。

アレン(・・・)
「はぁ、どうしてこう、私ってば女性に縁がないのでしょう? 何がいけないんです? 顔はそこそこだと思いますし、ユーモアもフレンドリーさも心掛けたというのに――あの、局長、ちょっと女性にモテる方法の分析に没頭してきていいですか?」
「……いいわよ。明日から、来なくても」
「あれ!? 何故、いきなりクビの話に!?」

 やっぱり人選を間違えたかもしれない――三年前かずっと思っていることをまた思い直しつつ、マグダネス局長は、「そんな……局長。俺から甲斐性まで取ったら、どうやってモテればいいんですか!?」と猛抗議しているアレンに銃弾をぶち込みたい気持ちを押さえて命令を下す。

「おふざけもそれくらいになさい。分かっているわね?」
「いえ、別におふざけでは……いえ、なんでもありません。委細承知です」

 反論しかけてマグダネス局長本気の眼光が突き刺さり、アレンは慌ててビシリッと敬礼する。そんなアレンの姿に、マグダネス局長は溜息を吐くのだった。


~~~~~~~~~~~~~~


 パーシヴァル大学研究棟の一室に、重苦しい空気が漂っていた。俯き、青い顔をしながら瞳を揺らすエミリーと、そんな彼女の手を気遣わしげに握り締めるダウン教授、反対側からはリシーがエミリーの頭を撫でている。

 今、この場には、ヘドリックやデニス、ロドの他に、残りのダウン教室のメンバーであるジェシカ=キュービットとサム=レッドマン、マイロ=イェニーがいる。

 ジェシカなどは、最近は研究よりファッションに力を注ぐ割と軽いノリの女生徒なのだが、普段の軽い雰囲気は鳴りを潜めて険しい表情をしている。

 よくデニスやロドから「お前、研究者じゃなくて、絶対格闘家の方が向いてるって」と指摘される筋骨隆々、身長百九十センチ超のサムも、米国からの留学生である黒人のマイロも、普段は陽気な雰囲気の青年なのだが、今は、深刻な表情になっている。

 そんな彼等の泥沼に捕らわれたかの如き空気を、まったく読まない、あるいは敢えて無視しているのかもしれない軽い声音が響く。

「まぁ、そういうわけだ。嬢ちゃん、あんたは何の心配もなく、一人で(・・・)対抗薬の研究に没頭してくれ。施設も、警備も万全を期すからよ」

 声の主は、国家保安局危険薬物対策課の捜査官――キンバリー=ウォーレンだ。

 昼間、ヒューズと共に、ダウン教授からの通報を受けて事情聴取にやって来たキンバリーは、ヒューズが、報告と準備を終えてチームを率いて来るまでの間、エミリー達を警護するために残ったのだ。

 そして、派遣された変装中の警護官達と打ち合わせをしつつ、今後の具体的な方針が決まるまで待っていたところ、つい先程、ヒューズから連絡があった。

 すなわち、保護プログラムの適用が承認され、深夜を待って迎えが行くこと。保護プログラムにおいては、ダウン教室内部にエミリーの研究を狙う者がいる可能性を考慮して、エミリーのみ別の場所で保護すること、その場所には研究できる環境を整えていて対抗薬の開発に勤しんでもらうこと、対抗薬が完成するまでは、ダウン教室のメンバーはもちろんのこと、両親とも会うことは出来ないこと、などだ。

「ウォーレン捜査官。私か、生徒の誰か一人だけでも、エミリーと一緒というわけにはいかないのかい?」

 ダウン教授が、エミリーの様子にもまるで頓着した様子のないキンバリーに言い募る。しかし、キンバリーは「はぁ?」と、まるで聞き分けのない子供を前にしたような表情をしつつ、にべもなく却下した。

「馬鹿を言われちゃ困りますよ、教授。犯人不明のこの状況では、あなた方すら容疑者の内だということは承知のはずでしょう? 最重要人物である嬢ちゃん――博士と一緒にするわけにはいきませんよ」
「なら、せめて、彼女のご両親だけでも――」
「勘弁してください。上の決定なんで、俺にはどうしようもないんですよ」

 キンバリーが、いかにも面倒そうに表情をしかめながら、そっぽを向いてダウン教授の言葉を切る。

「何故だっ。エミリーのご両親は関係ないだろう! ならっ――」
「先生、もういいですから。私なら、大丈夫です! 対抗薬くらい直ぐに作ってみせますし!」

 立ち上がり、今にも掴みかかりそうな剣幕のダウン教授を、エミリーが引き止める。その言葉通り、自分は大丈夫だと伝えるように「ふふん」と胸を張りながら笑みを浮かべているが、家族同然の付き合いをしてきたダウン教室のメンバーから見れば、無理をしているのは明らかだった。

 エミリーは、入学当初の孤独な時間が、少しばかりトラウマになっている。幼い少女が、知り合いなど誰もいない、それどころか周囲は皆、ずっと年上ばかりという環境で、追い詰められていたのだ。

 だから、こんな切迫した事態において、頼りになる父代りや兄、姉代わりと引き離されるどころか、両親と連絡を取ることも出来ないと言われれば、それがたとえ対抗薬ができるまでの限定された期間であると分かっていても、心が締め付けられるのは無理もないことだった。

「まぁ、ここでどれだけ議論したところで、決定は決定だ。潔く諦めて、さくっと対抗薬を作ってくれ。天才なんだろ? なら、近いうちに再会できるだろうさ」
「君という奴は……もう少し、ヒューズさんと言ったか? 君の上司を見習うべきじゃないか?」

 エミリーの健気な虚勢を適当に流すかのような軽いキンバリーの発言に、ダウン教授が頭を振りながら溜息を吐く。そんな様子を、キンバリーは可笑しそうにニヤニヤと嗤って、ジロリと睨む教授の視線も肩を竦めて流した。

 しかし、ダウン教授のみならず、ヘドリックやリシー達ダウン教室のメンバー全員にまで睨みつけられて、流石に居心地が悪くなったようで、お手上げというように両手を上げるとそそくさと部屋を出て行った。

「昨今の国家機関の捜査員は、だいぶ、質が落ちているのかもしれないね」

 溜息を吐きながらダウン教授が呟く。

「でも、先生。あの人と一緒に来ていたヒューズさんは誠実そうな人じゃありませんでしたか? 私のために女性の捜査官の人もつけてくれるって」
「だけどね、エミリー。ウォーレン捜査官が言っていただろう? “上の決定だ”と。エミリーを一人にする決定をしたのは、そのヒューズ捜査官だ。あるいは、そのもっと上の人なんだよ?」
「それは……」

 虚勢を張って「大丈夫!」と言っていたエミリーの表情が、ダウン教授の言葉で、流石に不安が募ったようで僅かに曇る。

 ヘドリックやリシー達までもが暗い表情している中、ダウン教授は悩むように瞑目したあと、決然とした表情でエミリーへと視線を向けた。

「エミリー。どうにも嫌な予感がする。ご両親まで君から引き離さそうなんて、どう考えてもおかしい。もしかすると、保安局にはエミリーを保護して対抗薬を作らせる以上に、何か別の目的があるのかもしれない」
「先生……。でも、もう通報してしまいましたし……」

 とうとう虚勢の表情も剥がれ落ちて、不安と困惑を綯い交ぜにした表情を晒すエミリーに、ダウン教授は言葉を重ねた。

「そんなもの拒否してしまえばいいことだよ。それでも、強行にエミリーを一人で保護しようとするのなら、それこそ、彼等の中に何かよくない考えがあるということだ」

 ダウン教授は一度言葉を切り、腕を組んで瞑目すると、しばらくの沈黙の後、静かに口を開いた。

「…………エミリー、私の知り合いに研究施設を持っている人がいるんだ」
「研究施設、ですか?」
「ああ。彼は社会的地位もあるし、信頼もできる。私達が対抗薬を作るまでの間、匿いつつ研究施設を貸してくれるくらいのことはしてくれるはずだ。どうだろう? 皆で、というわけには流石にいかないが、そこなら、私やご両親とは一緒にいられる。それに、ヘドリック達とも、連絡は取れる。だから、引き離される前に、君が孤立してしまう前に、一先ず、そこへ避難しないか?」

 真剣な表情で予想外の提案を行ったダウン教授を、エミリーはまじまじと見つめた。ヘドリック達も驚いたようにダウン教授へ視線を向けている。

「保安局への通報を提案しておいて、今更だけれど、ね。どうにも、公的機関は信用ならないようだ。大切な、娘も同然のエミリーをそんなところに預けるわけにはいかない。まして、一人でなんて……」
「先生……」

 エミリーは、迷うように視線を泳がせた。皆と一緒にいられる――それはとても甘美な響きで、魅力的な提案で……しかし、自ら通報しておいて、そして人を狂戦士のようにする尋常ならざる薬の対抗薬の開発という切迫した事情があって、にもかかわらず保安局が見逃すとは思えない。

 必然、エミリーを匿うということはダウン教授にも、実際に匿ってくれるかもしれないその知り合いにも、多大な迷惑をかける可能性がある。彼等の、今まで築いてきた地位や名誉を、全て台無しにしてしまうかもしれないのだ。

 しかし、そんなエミリーの思考を読んだらしいダウン教授は、エミリーの震える手をギュッと握り締めると、初めてエミリーに手を差し伸べてくれたときのような優しい眼差しを向けた。

「余計な心配はしなくていいんだよ、エミリー。君は一流の研究者だが、同時に、まだ十六歳の子供でもあるんだ。こんな非常事態に、君のような良い子が全てを背負うなんて間違っている。だから、君は頼っていいんだよ。いや、むしろ家族代わりとしてお願いする。どうか、私を頼って欲しい」

 エミリーは俯いて表情を隠した。それは、迷い故ではない。そうでもしないと、込み上げる想いが雫となって流れ出してしまいそうだったのだ。

「エミリー、先生のご厚意に甘えよう。僕達も、今の状態のエミリーを、一人にするなんて出来ないよ」
「そうね……。エミリーなら、対抗薬だって、きっと直ぐに作れるわ。だから、ここは先生の提案に乗りましょう?」

 ヘドリックやリシーを始め、他のメンバーも口々にダウン教授の提案に賛同する声をあげた。

 誰も彼もが、例外なくエミリーを心配して、エミリーにとって最善となり得る未来になるよう心を砕いている。

 自分は恵まれている。心の底からそう思いながら、エミリーは、一つ深呼吸をすると、しっかりとダウン教授の眼を見ながら頷いた。

「よし、そうと決まれば、皆、協力してもらうよ。ウォーレン捜査官に話しても止められるのがオチだ。ならば、保護を拒否することは事後承諾といこう。私とエミリーは一足早く知り合いのところへ向かうから、ヘドリック達はウォーレン捜査官の気を逸らしてくれるかい?」
「分かりました。エミリーのためです。なんとかやってみましょう」

 ヘドリックが力強く頷けば、他のメンバーも覚悟を決めたように頷いた。

「ははっ、まさか、現役の保安局捜査官を出し抜こうだなんて大それたことを考えるときが来るなんてな。まるで映画みたいじゃね?」
「ロド。能天気もほどほどにしておけ。君が一番、へまをする可能性が高いんだからな」
「んだとっ、デニス! お前こそ、土壇場でビビッてへますんじゃねぇだろうな?」
「普段、大言を吐く奴に限って、実はビビリというのはお約束だ。ロド、君のことだ」
「OK,喧嘩を売ってんのはよ~く分かったぜ。表に出ろ、デニス。そのメガネを指の油でベトベトにしてやる」
「いいだろう。二度と、だらしなく胸元をはだけられないよう、私が完璧に縫合してやる」

 お決まりの、デニスとロドの罵り合いによって雰囲気が軽くなる部屋の中に、クスリと小さな笑い声が響いた。デニスとロドが互いの胸倉を掴み合いながらも、「おや?」と首を傾げて視線を転じれば、そこには堪え切れないといった様子で笑い声を漏らすエミリーの姿があった。

 それに釣られるようにして、ヘドリックが、リシーが、ジェシカが、サムが、マイロが、そしてダウン教授が笑い声を上げ始める。

 エミリーは、目の端に涙を浮かべながら、とびっきりの笑顔を浮かべた。それは、まさに花咲くような可憐な笑みで……

「ありがとう、デニスお兄ちゃん(・・・・・)、ロドお兄ちゃん(・・・・・)
「「……」」

 普段、滅多に使わない呼称で、最高の贈り物をされたデニスとロドは、静かに、互いの胸元を直して、わざとらしい咳払いをした。そして、耳を赤く染めながら、やっぱり静かに座り直す。

「さて、デニスとロドがエミリーの笑顔を取り戻してくれたところで、保安局を出し抜く方法の詳細を詰めようか?」

 ダウン教授の号令。いつものように、一瞬で意識を切り替えた生徒達は、可愛い妹分の未来のために、普段の研究や講義以上に真剣な表情で意見を出し合うのだった。
いつも読んで下さりありがとうございます。
感想・意見・誤字脱字報告もありがとうございます。

話が短い上に進まなくてすみません。
書く時間が、もう……
じらしているようで申し訳ないですが、ここはひとつ、奴が深淵から這い寄って来るには少し時間がかかるんだな、とお待ちいただければと思います。

次回も、土曜日の18時に更新します。途切らせは、しない! 
+注意+
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