ありふれたアフター 魔王の娘なので その4
上空一万メートル。
その空には一機のジャンボ旅客機があった。雲海を下に、力強いジェットエンジンの音を響かせながら、一路、米国を目指している。
だが、その旅客機のフライトは、到底普通とは言えない状況だった。というのも、旅客機の少し離れた後方を、複数の戦闘機が飛んでいたからだ。ニアミスしたわけでも、実はその旅客機は大統領専用機で護衛しているというわけでもない。完全武装した戦闘機が、一般の旅客機の後方を付け狙うように飛ぶ理由は一つ。
最悪の場合、国に被害が出る前に撃墜するためだ。テロリストにハイジャックされた旅客機は、巨大な質量を持った空飛ぶ砲弾と変わらないが故に。
そう、その旅客機は、現在、テロリスト達によってハイジャックされていた。どうやって武装を持ち込んだのか、拳銃を手にしたテロリスト達によって、機内は異様な緊張と恐怖に支配されていた。
「おい、あんた……」
「?」
誰もが押し黙り、ただこの恐怖の時間が過ぎ去るのを待っていると、巡回するテロリストの目を盗んで、乗客のビジネスマンが通路を挟んだ隣の青年に小さな声で呼びかけた。
青年が目立たないように俯けていた顔を少し上げて、呼びかけてきたビジネスマンの方へチラリと視線を向けると、直後、パサッと青年の膝の上に小さな紙切れが投げ込まれた。
青年がギョッとしたようにビジネスマンへ視線を向けるが、その時には、ビジネスマンは既に何事もなかったように下を向いて座席にすっぽりと収まっている。
青年は、冷や汗が背鈴を伝う感触を覚えながら、巡回するテロリストに注意しつつ、手の平の中で折りたたまれた紙片を広げた。
――17:35
それだけが書かれた紙片。普通なら意味不明だろうが、青年は電流でも体に走ったかのような衝撃を覚えた。察したのだ。その時間が、あと十分で機内の状況が大きく変わるかもしれない時間であることに。
チラリと、隣のビジネスマンに視線を向ける青年。ビジネスマンも、顔は動かさず、視線だけ向けると、小さくコクリと頷いた。それは、このハイジャック事件を解決するための反撃を起こす意思が、そのビジネスマンにはあるということ。
おそらく、青年だけでなく他の人にも回っているのだろう。誰が回し始めたものかは分からないが、一人でも多くの人が呼応してくれることを、この手紙を発信した人は期待しているはずだ。
それはきっと、テロリスト達の目的を薄々察していたが故の、一か八かの賭けだったのだろう。最近のニュースで、自爆テロに関する話題はことかかない。テロリスト達の容貌は、明らかに連日報道されている有名なテロ組織の属する国特有の顔立ちだ。ならば、この飛行機をハイジャックした目的に対しても、最悪の予想ができてしまう。
青年は、どうせ死ぬかもしれないならっと、恐怖に萎えそうになる心を叱咤して、ビジネスマンにコクリと頷いた。そして、一人でも勇気ある仲間を増やすために、こっそりと反撃時刻を記した紙片を他の者へ回すのだった。
やがて、不気味な静寂が支配する機内において、乗客達の持つ時計がその時を迎えようとする。にわかに高まる緊張感。青年と隣では、ビジネスマンが額の汗を拭っている。その気持ちは、青年にもよくわかった。自分達の命運が、あと数分後に決するかもしれないのだ。並の緊張ではない。青年自身も、背中や首筋に流れる汗で、体が冷えていく感覚を覚えている。
と、そのとき、にわかに機内の後部がさわがしくなった。怒声と悲鳴、そしてパンッという発砲音が響く。青年の血の気が引いた。遂に始まったのだ。
青年とビジネスマン、そして幾人かの男――家族連れのお父さんや、夫婦で乗っているらしい初老の男性なども、緊張に顔を強張らせつつ、機を伺う。
そして、機内後部の異変に気が付いたテロリストが、何かを言いながら持ち場を離れようと駆け出した瞬間、
「うぉおおおおおおっ」
「押さえろっ」
「銃を奪えっ」
示し合わせた乗客達が一斉蜂起した。背を向けたテロリストの一人に背中からタックルし、倒れながらも銃を手放さない男の手を必死に押さえつける。もう一人のテロリストの方も、視線を倒された仲間の方へ向けた瞬間、すぐ隣にいた家族連れの父親に横合いから組み付かれて床に倒れ込んだ。
機内が騒然となる。と、同時に、このままテロリスト達を制圧できるのではないかという希望が、乗客達の間に広がり始めた。
が、
パンッ
と、一発の銃声が響き渡り、同時に、テロリストを押さえつけていたビジネスマンが呻き声を上げて倒れ込む。更に一発。パンッと銃声が響き、別のテロリストを押さえていた家族連れの父親が悲鳴を上げて倒れた。
途端、他の乗客を殴り飛ばし、更に拳銃を撃って、テロリスト達が悪態を吐きながら起き上がる。同じように、足を撃たれた青年が苦悶の声を上げながら視線を巡らせば、そこには小さな拳銃を構えたフライトアテンダントの姿があった。
「そんな……どうして……」
青年が困惑の声を漏らす。それもそのはず。フライトアテンダントは、ブロンド髪の白人で、どう見てもテロリスト達の国籍とは異なっていたからだ。
乗客達は、テロリスト達の容貌や連日の報道から、すっかりかの国の人種のみで構成された組織だと思い込んでいたのだが、実は、様々な国の人間を誘拐しては洗脳し、元の国に戻してテロ活動の際に協力させるという手段を取っていたので、必ずしもかの国の人種とは限らなかったのである。
「お父さんっ、お父さんっ」
「あなたっ、しっかりしてっ」
悲鳴まじりの安否を気遣う声が響いた。見れば、撃たれた家族連れの父親に、幼い女の子と母親が取り縋って泣いている。
乗客の反乱に悪態を吐いて適当に八つ当たりを撒き散らしていたテロリストの男達は、そんな家族の様子を見るや否や、いい見せつけの対象を見つけたと言いたげな醜悪な表情をして歩み寄った。
「栄誉ある死を共有させてやろうという我々の厚意を無下にした罪は重い。家族諸共、ただ無意味に死ね」
テロリストの男が銃口を家族へ向けた。撃たれた父親は、血を流し過ぎて蒼褪めた表情をしながらも、必死に娘と母親を庇おうとしている。
誰もが、家族の悲惨な最期を幻視した。この公開処刑を以て、反乱は完全に失敗したものとして乗客達に植え付けられるのだ。
が、テロリストの男が引き金を引こうとしたとき、不意に機内後部から銃声が轟いた。その音によって動きを止めるテロリストの男。しかし、機内後部でも同じようなことをしているのだろうと推測し、直ぐに引き金を引こうとする。
直後、再び、連続した発砲音。随分と派手にやっていると思いつつ、再び動きを止める。そのとき、この場にいるテロリスト達は、機内後部でも見せしめが行われているのだと信じて疑わなかった。
なにせ、機内後部にも洗脳した他国の協力者を伏せているので、何かあっても奇襲ができるし、配置した人数も機内前部より多い。連続した発砲音も、血の気の多い連中が多々いるので、そのせいだと思ったのだ。
「おいおい、なにをしてるんだ。あいつらは」
「……ああ。流石に撃ちすぎだろう。流れ弾が窓でも破ったらどうするつもりだ」
テロリストの男達が訝しそうに顔を見合わせた。原因は、今なお響いている凄まじい銃撃音だ。
テロリストの目的は、ハイジャックした飛行機での米国首都への特攻である。それまでは機体を墜落させるわけにはいかないので、銃を使う場合も細心の注意を払っていた。にもかかわらず、今、機内後部から聞こえる銃撃音は、まるでそんな配慮は感じられない、それこそ死に物狂いでの銃撃といった様子。
「おい、ナディム、カリム、何をしている? 状況を報告しろ」
機内後部との間は、仕切りで視界が塞がれているために、直視での状況把握はできない。そのため通信機で連絡を取ったテロリストの男だったが、聞こえてくるのは「あり得ないっ! なんだ、あれはっ」という恐怖と混乱と、焦燥の入り混じった意味不明な声のみ。
「おい、ナディム! いったいどうなってる! 報告しろっ」
『女がっ、あり得ないんだっ! 銃が効かないっ。金髪のおん――』
ナディムと呼ばれた男の声が途切れた。同時に、激しい銃撃音もピタリと止まる。
不気味な静寂が機内を包み込んだ。
通信機を見つめていたテロリストの男が、もう一人の男とフライトアテンダントに視線で合図をする。二人は頷いて銃を機内後部との仕切りに向けた。
『こちらユーセフ。サイード。ナディム達はどうした? そっちでいったい何が起きている?』
コックピットを占拠しているテロリストの仲間から通信が入った。コックピットの扉は固く閉ざされ、機内で何が起きようとも開けないよう事前に打ち合わせがされている。なので、ユーセフと名乗ったテロリストがコックピットから出てくることはないのだが、通信自体は入ってくるので無視できずに報告を求めた。
なお、普通は、フライト中には決して開けられることのない頑丈なコックピットへユーセフが侵入を果たせたのは、事前にパイロットの家族を人質に取っていたからだ。パイロットは苦渋の選択を迫られ、どうせ殺されると薄々分かっていながらも、事態を悪化させるだけだと理解しながらも、ナイフを突きつけられ、実際にやわ肌を傷つけられる幼い息子の映像を見せられて、遂に従ってしまったのだ。機内に銃を持ち込んだのも、コックピットを開けたのもパイロットだったのだ。
「分からない。今から確認する」
そう言ったサイードが、銃を構えながら機内後部への仕切りへ近寄ろうとする。
が、その前に、向こうから異変の原因はやってきた。たおやかな指先が仕切りの縁から覗き、そのまま無造作に開け放たれたのだ。
「おぉ」
「……」
サイードは一瞬、状況も忘れて感嘆の声をもらした。もう一人のテロリストの男も、無言だが、大きく目を見開いて驚愕をあらわにしている。
機内後部から姿を見せたのは、ゆるふわの金髪をなびかせ、紅玉の瞳をねむたげに細めるビスクドールの如き絶世の美少女だった。言わずもがな、少女モードのユエその人である。
テロリストのたくらみの全てを踏みにじり、彼等の行動の全てを無意味にするために、空間転移で、ハイジャックされたこの飛行機に乗り込んできたのだ。
ユエの瞳が、順に、テロリスト達を巡る。視線が合ったサイードは、十代前半にしか見えない少女相手に、体温が上がるのを感じた。どう見ても見た目は小さな少女のはずなのに、纏う雰囲気は妖艶そのもの。まるで、誘蛾灯に誘われる羽虫の如く、気を抜けばそのままふらふらと彼女を襲ってしまいそうだ。
ユエは、サイードの足元で震えている家族へ視線を向けた。家族もまた、突然現れた美貌の少女に呆然と視線を向けている。
「……大丈夫」
父親に縋り付く幼い女の子に、ユエは微笑みを浮かべてそんな言葉を贈った。そして、そのまま無造作に、何の警戒心もなく家族のもとへ歩み寄っていく。
そのあまりに無防備な姿に、逆にハッと我に返ったサイードは、ふと仕切りの開かれた機内後部へ視線を向けた。そこには……
「っ、なに、を。なにをしているんだ……カルロっ」
仲間のテロリストが、膝立ちとなって、自分で自分の首を絞めている光景があった。既に意識はないようで、白目を剥いて口元から泡を吹いている。あまりに、異様な光景だった。
「……香織には遠く及ばないけど、これくらいは問題ない」
サイードが、足元から響いたその声に再び我を取り戻す。ハッとして視線を下せば、そこには撃たれた父親に向けて手をかざすユエの姿と、淡い黄金の光に包まれている父親の姿があった。まるで逆再生でもしているかのように、父親の傷口へ流れ出した血が戻り、傷口が目に見えて塞がっていく。体内に侵入していた銃弾も、傷口から押し出されてポトリと落ちた。母親と娘が呆然と、その奇跡の光景を見つめている。
完全に傷口が塞がるのを見届けたユエは、スッと立ち上がった。ちょうど、サイードの正面だ。ありうべからざる光景を連続して目撃したせいか、サイードの頭の中は既にぐちゃぐちゃだ。
それでも、目の前の美しすぎる少女が、自分達にとっての脅威であることだけは、長年の訓練とテロ活動での経験から、勝手に体を動かしてくれた。銃口を、ユエの頭部に照準して、銃を突きつけたのだ。
「お、お前は、いったい――」
「……あなた達も、大丈夫だから」
銃口を突きつけられてなお、動じた様子は微塵もない。というより、むしろ意識すらしていない様子のユエに、サイードの表情が引き攣る。
ユエは、そんなサイードにはまるで頓着せず、やはり指先をタクトのように振るって黄金の光を振りまいた。そうすれば、瀕死の重傷を負っていたビジネスマンや青年、他の反乱に加担した乗客達が先程と同じように傷を癒していく。それどころか、既に絶命していたものでさえ、その鼓動を甦らせて意識を取り戻した。
乗客達にとっては、それはまさに奇跡の光景。
だが、テロリスト達にとっては悪夢の光景だ。
故に、
「くっ、この化け物がっ」
パンッと、サイードが引き金を引いて、銃弾がユエ目掛けて飛び出した。外しようのない至近距離からの射撃。誰もが、奇跡を顕現させた少女が、頭部から脳髄を撒き散らして死ぬ光景を思い浮かべた。
だが、
「そ、んな……馬鹿な」
銃弾は、ユエの手前の空間でピタリと止まっていた。何もない空中で、まるで柔らかい何かに受け止められでもしたかのように、ひしゃげることもなくそのままの状態で浮いているのだ。
ユエの視線が、再びサイードへ向けられた。何の感情も浮いていない、無機質な瞳。それを見た瞬間、サイードは否応なく理解させられた。目の前の少女にとって、自分は、それこそ路傍の石ほどにも価値がないのだと。生まれてきたことに意味はなく、生きていることは害にしかならず、ただ邪魔だと排除されて、誰にも見向きもされないで消えていく……そういう存在なのだと。
「うっ、ぁああああああっ」
存在そのものを否定される。その恐怖に、屈辱に、サイードの精神は決壊した。至近距離で、無我夢中で引き金を引き続ける。それに合わせて、もう一人のテロリストとフライトアテンダントも、ユエ目掛けて発砲した。
乗客達から悲鳴が上がる。しかし、それも少しの間だけだ。数十発の銃弾の全てが、ユエを中心にして空中に留まっている光景を見れば、次第に悲鳴も消えていく。
サイード達は、必死にマガジンを交換し、身に着けた弾丸の全てを撃ち尽くすまで引き金を引き続けた。
そうして、カチンッという無情の音が響く。スライドしたまま動かない拳銃が、終わりを告げていた。その間、全く動かなかったユエが、視線をゆっくりとサイード達へ巡らせる。ユエの周囲に浮いていた銃弾が一斉に落ちて床に散らばった。そして、一言。
「……で?」
「っ」
「うぁ……」
「ひっ」
サイード達がよたよたと後退った。ゴトリッと拳銃が床に落ちる。彼等の瞳には、既に恐怖しかなかった。
「お前は、お前は、なんなんだ――」
「……知る必要がない。取り敢えず、『黙れ』」
「っ」
サイードが、ユエの正体を問いただそうとして口をパクパクとさせる。ユエに「黙れ」と言われた瞬間、声が出なくなったのだ。サイードが瞠目する中、ユエは更に言葉を放つ。
「……『跪け』」
一斉に、膝立ちとなって硬直するサイード達。そこへ、止めの――〝神言〟。
「……『自らの首を、ゆっくりと締め上げろ』」
最後まで、自分達への感情の色が乗ることのなかったユエの紅玉の瞳。それが、サイード達の見た最後の光景となった。
ユエの視線が、最後の敵。コックピットを占領しているテロリストの方へ向けられる。そして、隔てる頑丈な扉など関係ないと言わんばかりに歩み寄ろうとして、
ドゴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンッ
「っ」
凄まじい衝撃と轟音が機内を襲った。直後、機体ががくんと下がり、酸素マスクがバラバラと頭上より降ってくる。乗客から悲鳴が上がった。機体後部の座席にいる客達は、飛行機の両翼から凄まじい勢いで黒煙が噴き上がっているのを目撃し、一気に顔を青褪めさせた。
どうやら、旅客機に搭載されたエンジン四基が、全て爆破されたようだ。翼自体が無事なのは奇跡というべきか。それとも、計算の上か。
ユエの視線がスッと細まってコックピットの方へ向けられる。原因は明らかだった。最後のテロリストが、機内の異常から、このまま米国の首都に特攻することはできない公算が高いと判断して、仕掛けていた爆弾を起動したのだ。
実を言うと、ユエが乗り込んで制圧したハイジャック旅客機は、これで三機目だったりする。おもいきりの良すぎるユーセフの判断は、自分のハイジャックした機体が目的を達することができなくても、他のハイジャック機があるという考えのためなのだろう。完全に機体を制圧され取り戻されるよりは、米国の乗客が大多数である機体そのものを墜落させて、少しでも米国に悲劇をもたらしてやろうという意図なのだ。直接機体を破壊せず、エンジンだけだったのは、場所によっては墜落によって更に被害を出せると考えたからだろう。
「……ん、これは私の失態。帳尻は合わせる」
そう独り言ちたユエは、直後、〝天在〟によって機内より姿を掻き消した。
「俺は、夢を見てるのか?」
呆然とした様子でそう呟いたのは、旅客機に追走しているパイロットだった。無線機からは、状況報告を求める声が響いているのだが、それに答える余裕もない。
だが、それを責めるのは些か酷というものだろう。何故なら、彼の視線の先では、突然の爆発により黒煙を噴き上げる旅客機が一度は一気に高度を下げたものの、次の瞬間には黄金の光に包まれて飛行しつづけるという、非常識極まりない光景が広がっていたのだから。
なによりパイロットの視線を釘付けに、呆然を強いているのは、その機体の上に立つ、一人の少女の姿だった。高高度を飛行する旅客機の上に人が立っている――それだけでも自分の正気を疑う事態だというのに、その少女は機体と同じく黄金の光に包まれており、更に背から一対の輝く翼を広げていたのだ。
パイロットの視線に気が付いたのか、黄金の少女――ユエがそちらへ顔を向ける。そして、ふっと微笑みを見せた。――戦闘機がぐらりと揺れた。パイロットは何かを撃ち抜かれたように胸を押さえている。早く操縦桿を握るべきだろう。
視線を前に戻したユエは、そのまま機体の上を、風の抵抗も、気温の影響もないかのように普通に歩き出し、コックピットの前に降り立った。
「お、女の子? いや、でも、え?」
「なっ、なっ、ななななっ」
頭から血を流している機長と、ユーセフが随分と面白い顔になっている。副機長は撃たれて倒れていた。まだ辛うじて息はあるようだが、それも保って数分といったところか。ユエは、黄金の光も纏いながら、スッと指先を副機長へ向けた。
途端、淡い光に包まれ傷を回復させていく副機長。
「お、お前がっ。この、化け物がっ」
ユーセフが機内の仲間と連絡が取れなくなった理由を察して震える声で怒声を上げる。そして、拳銃をコックピットの外にいるユエに向けて引き金を引こうとした。どうせ、この機を墜落させるつもりなのだ。今更、コックピットの窓を破るくらい気にするほどでもない。
しかし、
「……『動くな』」
「っ」
当然、あっさりと動きを止められる。機長が、石のようにビシリと固まったユーセフに目を白黒させる。と、その次の瞬間、ユーセフの姿が掻き消えた。
ユエが転移させたのだ。そのユーセフが現れたのは、コックピットからは死角となる機体の真上。そう、高度八千メートル上空の時速数百キロで飛行するジャンボ機の外側に現れたのだ。それも、十字架に磔にでもされているかのよう仰向けで、両手を大きく広げて、機体にピタリと張り付いて。
「……凍えながら死ぬといい」
ユーセフは大きく目を見開く。普通なら、即時に意識を失うのだろうが、割と鬼畜なことに、防寒と酸素供給がされているので、そう簡単には死ねないのだ。
ユエは、ふわりと後方へ飛んだ。黄金の翼をはためかせ、飛行機との相対速度を合わせながらの飛行なので、機長や意識を取り戻した副機長から見れば、飛行する機体の前に無造作に女の子が浮いているように見えるだろう。
呆然と、自分を見つめる二人に、ユエは微笑を浮かべると、
「……頑張って」
そう言ってフッと姿を消した。
ユエが消えた後も、機体は黄金の光に包まれたまま。エンジンはたった一機しか動いていないが、高度を保てないということはない。操縦の難度は上がっているが、不思議と、墜落するという焦燥は浮かばなかった。
「……ウィリアム。私は罪人だ」
「機長……」
機長が操縦桿を握りながら、絞り出すような声でそう言えば、副機長のウィリアムは何とも言えない複雑な表情となった。テロリストとのやり取りで、機長の家族が誘拐され、目の前で傷つけられ脅されたことは察している。苦渋に満ちた機長の表情を見てしまったせいか、死にかけてなお、ウィリアムに罵倒の言葉を口にさせなかった。
そんなウィリアムへ、機長が告げる。
「だが、罪人である私に、神は生きろという。頑張って、乗客を無事に送り届けろと。納得できないなら、黙って操縦を委ねよう。だが、もし――」
「機長。私にも家族はいます。息子が同じ目に遭ったとして、それでも、乗客を優先すると言える自信は……ありません」
機長の言葉を、ウィリアムは途中で遮った。そして、副操縦席に戻りながら、真剣な眼差しで頷いた。それは、言葉よりも雄弁に、もう一度、この機を機長に任せると物語っていた。
「……感謝する。これが、私の最後のフライトだ。なにがなんでも、無事に着陸してみせる」
「大丈夫ですよ、機長。なにせ、私達には女神の加護がついている」
「ああ、そうだな」
機長はくしゃりと顔を歪めた。それは、安堵と後悔と、感謝と謝罪と、そのほかにもいろんな感情が入り混じった複雑な表情だった。
(女神よ。図々しくも、どうかお願い致します。私の家族を……どうかっ)
機長は、目の当たりにした奇跡を前に、そう祈らずにはいられなかった。
その半日後、黄金の光に包まれたボロボロの飛行機が無事に着陸するという前代未聞の事態に空港が騒然とする中、事情聴取を受けていた機長は、家族がウサミミ美女に助けられたことを知る。そして、黄金の女神とウサミミ美女の熱心な信者になるのだった。




