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囁く声

 ほわほわ、ふわふわ。


 きっと、今この空間を表す擬音があるとすれば、これ以外にはないだろう。七大迷宮の一つ【氷雪洞窟】内の大迷路、その封印された扉の前に鎮座した天幕の中の雰囲気は、まさにそんな擬音がぴったりな桃色空間となっていた。


「……ハジメ。あ~ん」

「んむ……うん。美味しいな。やっぱ〝おこた〟で食べるのは鍋に限る」

「ハジメさん。こっちもです。あ~ん」

「あむ……んん。それにしてもシア。お前の料理の腕は日増しに上がっていくな。いい嫁さんになるよ」

「も、もうっ! ハジメさんったら、そんな。超絶可愛くて、ひと時も離したくないくらい愛おしい俺の嫁だなんてっ! 言い過ぎですよぉ~!」

「……ハジメ、私は?」

「ん? そんなの決まっているだろう? 世界一の奥さんになるさ」

「んっ……お料理も頑張る」

「ふふふ、ユエさん、一緒にハジメさんの好きな料理、勉強しましょうね」


 ぴったりとハジメの両隣に陣取ったユエとシアが、ハジメに「あ~ん」をしながら、大迷宮内とは思えない甘ったるい会話をしていた。


 コタツの上に乗っているのは鍋だ。シアが用意した潮の香りが鼻腔をくすぐる海鮮鍋である。材料は【海上の町エリセン】で仕入れたものだ。〝宝物庫〟内に凍結させて保存していたものである。


 見事な包丁捌きで魚介類を下拵えし、盛り沢山の野菜と共に絶妙な味付けをしたのはシアである。漬けダレも、ポン酢に似たさっぱりしたもので実に素晴らしい。家事も完璧なので、ハジメが〝いい嫁〟と言ったのも頷ける。


 若干、シアの受け取り方が拡大解釈な気はするが、シアに寛容なハジメは特に否定しない。


 そして、ハジメの服の裾をクイクイッと引っ張り、「いいお嫁さんになれる?」と上目遣いに聞いてくる愛らしいユエに、当然、ハジメが否定的な言葉を返すはずもなく、ユエはふわりと微笑みながら花嫁修業にやる気を見せた。


「ね、ねぇ、ハジメくん? 私はどうかな? 家事もお料理も結構得意だよ? 旦那さまの為に美味しいお料理を毎日作ってお出迎えするよ?」

「ご主人様よ。当然、妾もいい妻になると思うじゃろ? 妾は知っての通り、〝尽くす女〟じゃからな。毎日、ご主人様を満足させること請け合いじゃ! の? だから、一言、妾にも素敵な言葉を贈ってたもう」


 イチャイチャと桃色を撒き散らすハジメ達に、ちょっと焦った様子で香織とティオが尋ねる。背後からハジメに抱きついて、ユエやシアと同じ言葉が欲しいと甘い口調でおねだりする。


「……まぁ、香織は元々、学校でも〝彼女にしたいランキング〟とか〝嫁にしたいランキング〟で一位独占してたんだし、魅力的な女なんじゃないか?」

「もうっ! 違うよぉ。一般的な意見じゃなくて、ハジメくんがどう思ってるかなの!」

「……香織。どうして自分で自分を傷つけるの?」

「ユ、ユエ!? どういう意味!?」

「……答えは分かりきってる。香織には、あと五、六年早い」

「数字が具体的だよ! うぅ~、道のりは未だ険しい……でも、負けない!」


 お茶を濁すハジメに代わってユエが答え、香織は涙目になりながらも小さく握り拳を作って決意を新たにした。そんなめげない香織に、実は結構和んでいたりするハジメだが、今のところそれは内緒だ。


「のぉ、ご主人様よ?」


 返答を催促する濡れた瞳のティオ。その見事なスイカ二つがずしりとハジメの頭に乗り、ふにふにと形を変えている。明らかにわざとやっている。


「……〝知っての通り〟って言うけどな、お前の言う〝尽くす〟の具体的内容を言ってみろよ」

「む? そんなの決まっておろう? もちろん毎日、朝、昼、晩とご主人に〝ピー〟して〝ピー〟するじゃろ? それから〝ピー〟して〝ピー〟するのじゃ。そうしたらご主人様がご褒美に〝ピー〟してくれるじゃろう? だから〝ピー〟してお返しするのじゃ。ああ、安心せよ。ちゃんと〝ピー〟も〝ピー〟して〝ピーーーーーーーーーーーーー〟するアババババババババッツ!?」

「……駄竜が。お前だけ、この世界に置き去りにするぞ」

「ティオさん、もうちょっと自重しましょうよ……」


 卑猥すぎる言葉を堂々と、懇切丁寧に語り続けるティオにハジメの纏雷アバババが入った。余程強力だったのかピクピクと痙攣したまま起き上がらない。そんなティオに、シアも呆れ顔だ。


 だが、〝置き去りにするぞ〟というのが脅し文句な辺り、ティオを地球に連れて行くことがごく自然に前提となっている。ティオが傍にいることは当たり前で、共にあることを自然と許容している証拠だ。


 そんな仲睦まじいハジメ達を対面のコタツから、視線を逸らしながら黙々と鍋をつつくことでスルーしている光輝達。だが、いい加減、鬱陶しいのか何かを堪えるようにぷるぷると小刻みに箸が震えている。


「光輝……こういう光景は慣れたつもりだったんだけどよぉ」

「言うな、龍太郎。色々と複雑なんだ。俺の心境が……」

「一昔前の自分を客観的に見れて、良かったじゃない?」

「あれ? シズシズ、何か怒って……いえ、何でもないです」


 光輝が複雑極まりない表情でハジメと香織をチラ見しつつ、心底ウザそうな表情をしている龍太郎と小声で話していると、妙に言葉に棘のある雫が乱暴に鍋から魚肉を奪っていく。その眼差しはチラチラとハジメに向いているが、明らかに不機嫌そうだ。思わず、指摘した鈴が萎縮する程度には。


 と、その時、ハジメが箸を置いて(元々、あ~んされているので、ほとんど使ってない)、懐から光沢のある灰色の金属プレートを取り出した。先端に凹凸があり、魔法陣が刻まれている鍵型アーティファクト――空間を繋げる〝ゲートキー〟だ。


 ハジメは、おもむろに後ろを向いてゲートキーを突き出し、先へ進む為の扉を開放するのに必要な鍵を探索させているクロスビットとの間に空間を繋いだ。空間に突き刺さったプレートを中心にゲートが開き、その向こう側に氷壁に囲まれた部屋と黄色の光を放つ宝珠のような物が台座に乗っているのが見えた。


 更に、もう一つ。


「グルァアアアアアアアッ!!!」


 宝珠の向こう側から鬼の形相で迫ってくる体長五メートルはあるフロストオーガの姿も見える。


「「「「ぶふっ!?」」」」」


 コタツに足を突っ込みながら鍋をつついていた光輝達が一斉に吹き出す。何せ、うまうましているところに、いきなり今まで相対したフロストオーガとは一線を画すレベルの魔物が、雄叫びを上げながら迫って来ているのだ。慌てるなという方が無茶である。


 しかし、ハジメは特に慌てた様子もなく、ゲートに手を伸ばして黄色の宝珠を取ると、代わりに〝宝物庫〟から取り出したバスケットボールより二回りほど大きい金属球を取り出し、バチッと一瞬放電させた後、ゴミでも捨てるようにゲートの向こう側へ投げ捨てた。


 そして、直ぐにゲートキーを捻って空間から抜き出しゲートを閉じた。


 直後、


ズドォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!


 遠くで盛大に爆音が鳴り響き、空気の振動が伝わって来た。


 ハジメは、特に何事もなかったように再び座り直し箸を手に持った。テーブルの上には黄色の光を纏う宝珠があり、一連の出来事が現実であることを証明している。


「……ハジメ。あ~ん」

「ハジメさん、あ~んですぅ」


 そして、やはり何事もなかったように「あ~ん」を再開するユエとシア。タラ~と冷や汗を流していた光輝達が夢から覚めたように一斉に口を開いた。


「「「「いやいやいやいや、おかしいだろう(でしょう)(よね)!!」」」」

「ん?」


 香織とティオも参戦して、口に新鮮な魚介類を詰め込まれているハジメが、「どうした?」と言わんばかりに首を傾げた。


 そんなハジメの仕草に、若干、イラっと来たような表情で光輝がツッコミを入れる。


「南雲。さっきのは何だ?」

「さっきのって……見てただろう?」

「見てたけど! そういうことじゃなくて! お前は何をしたんだ!」

「何をって、不思議なことを聞く奴だな。見たまんまだろうに」


 声を荒げる光輝に、「こいつ大丈夫か?」みたいな眼差しを向けるハジメ。言いたいことが伝わらなくて、光輝は今にもちゃぶ台返しをしそうだ。


 そんな情緒不安定? な光輝に代わって頭痛を堪えるようにこめかみをグリグリしている雫が〝見たまんま〟を要約した。


「つまり南雲くんは、クロスビットで見つけた、その黄色の珠をそのままゲートで回収して、おそらくクロスビットが侵入した時点で暴れだしたガーディアン的存在をゲートからポイ捨てした爆弾で爆殺した。……ということでいいかしら」

「ああ。全くもってその通りだ。見たまんまだろ」

「だから、それがおかしいだろう! 普通、迷宮の秘宝とか、それを守るガーディアンとか、こう直接相対して、倒して手にするもんじゃないか!」


 光輝が酷く真っ当で常識的なことを言う。


「いや、楽に集められるならそれでいいじゃねぇか。四つも鍵を集めるのに東奔西走なんて嫌だろう?」

「そ、それはそうだけど。め、迷宮に攻略が認められなかったら……」

「一つ二つは大丈夫だろう。【グリューエン大火山】じゃあ、相当ショートカットしたが問題なく攻略できたしな。残り二つはユエ達と天之河達でガーディアン倒して手にいれればいいさ。ルートは割り出しておくから」

「うっ、こんなんでいいのか? 迷宮攻略ってこういうもんなのか?」

「光輝……南雲のことで深く考えるのは止めとけ。高校生で胃痛に悩みたくはねぇだろう?」


 頭を抱える光輝。龍太郎が悟ったような表情で肩を叩く。


「そうよね。非常識が服を着て、武装して歩いているのが南雲くんだもの。不思議なことなんて何もないわ」

「シズシズ……鈴はガーディアンさんを思うと無性に悲しくなるよ。南雲くんに引きずられたら、きっとダメになると思う。だから、頑張って常識を大切にしよう?」


 龍太郎と同じく悟ったような表情で魚肉をパクつく雫に、鈴が悲しげな表情で諌めの言葉をかけた。「常識とは、俺が作るもの」を地で行くハジメに釣られては大変なことになりそうである。鈴の危機感は非常に正しい。


 光輝達が、どこかやりきれない様子で、それでも鍋をつつき腹を満たし終わった頃、二度目の爆音が大迷路に響き渡った。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



「雫ちゃん達、大丈夫かな……」


 香織の心配そうな声音が響いた。


 場所は、封印された両扉の前。扉のレリーフには既に三つの宝珠がはまり込んでおり、ハジメが労せずに手に入れた二つの他、ユエ達がまっとうにガーディアンを倒して宝珠を手に入れたことを示していた。


 残りの鍵となる宝珠は一つ。クロスビットに先導されて回収に向かった光輝達の分だけだ。ここに来て、二手に別れての行動の為、香織は無事にガーディアンを倒せたのだろうかと不安になっているようである。


「問題なさそうだ。少し苦戦したようだが、今、ちょうど倒し終えた。目立った怪我もしてないぞ。多少、坂上が凍傷を負ったようだが、直ぐに治癒したみたいだ」

「よかったぁ~」


 クロスビットを通じての情報に、香織がホッと息を吐いた。


 ハジメは、戦闘が終わり宝珠を手にした光輝達の前にクロスビットを移動させるとゲートキーを起動して空間を繋げる。グニャリと歪んだ空間の向こう側に妙にスッキリした表情の光輝達が見えた。


「何だか嬉しそうですね……」

「うむ。おそらく真っ当に迷路を攻略できたことが琴線に触れておるのじゃろう」


 首を傾げるシアに、微笑ましそうな表情のティオが大当たりの推測を述べた。


 そんなシア達の前を通ってゲートを潜って来た光輝は、手に持つ宝珠をレリーフの最後の窪みにはめ込んだ。


 直後、氷の扉に掘られた茨の全てに光が奔った。全体を巡り、宝珠が一際強く輝く。そして、押し開ける必要もなく、両開きの荘厳な扉はゴゴゴゴッと音を立てて開いていった。


 扉の奥の通路は、一見、今まで通った迷路の道と変わりないように見えた。敢えて違いを述べるなら、氷壁の反射率が高くなっているように見えることだろうか。より、ハジメ達の姿を鮮明に映しそうである。


「さて、それじゃあ行くか」


 ハジメの号令で、皆、一斉に扉の向こう側へ踏み込んだ。


 封印の扉の先は、案の定、本格的なミラーハウスの様相を呈していた。氷というより完全に鏡だ。光を向ければ何処までも正反射を繰り返し、両サイドの壁には、まるで合わせ鏡のように無数のハジメ達自身が映っている。


 上空を覆う雪煙以外は、まさに無限回廊といった様子だ。透明度が高い等というレベルではないので唯の氷壁ではないのだろう。冷気を発していなければ、そもそも氷だと気がつかないかもしれない。


 コツコツと地面を叩くハジメ達の足音が妙に反響して耳に入る。光だけでなく、音まで反射されているかのようだ。


「……何だか吸い込まれてしまいそう」


 ハジメの傍らを歩くユエが氷壁に映る自分達を見ながらポツリと呟く。氷壁の奥は幾重にも重なった世界が延々と続き、深奥は暗がりになっている。ユエが、そう感想を漏らすのも頷ける光景だ。


 ハジメは、そっとユエの手を取り握り締めた。


「俺が行かせないから大丈夫だ」

「……んっ」

「貴方達、いちいちイチャつかないと気が済まないの?」


 微笑み合うハジメとユエに雫のジト目付きツッコミが入る。だが、愛情のステータス値が既にカンストどころか天元突破している二人に、そんな口撃では何の痛痒も与えられはしない。


 溜息を吐く雫を尻目に、先へ進む一行。


 しばらくはトラップも魔物の気配もなく、羅針盤の導きに従って順調に進んでいたハジメ達だが、不意に光輝が立ち止まりキョロキョロと辺りを見回し始めた。


 訝しむメンバーを代表して雫が尋ねる。


「光輝? どうしたの?」

「あ、いや、今、何か聞こえなかったか? 人の声みたいな。こう囁く感じで……」

「ちょ、ちょっと、光輝くん、止めてよ。そういうのはメルジーネで十分だよ」


 どうやら光輝は人の囁き声が聞こえたらしい。ハジメ達以外の誰かがいるとも思えなかったので、ホラー系が苦手な香織は両腕をさすりながら抗議の声を上げた。


「他に何か聞こえた奴はいるか? シアはどうだ?」


 ハジメが目をスっと細めて周囲に視線を巡らせながら確認を取る。


「いいえ、私には何も聞こえませんでした。人の気配も、ここにいる皆さん以外には感じません」


 瞑目しウサミミに集中するシアは、頭を振りながら否定の答えを告げる。他のメンバーも、特に何も聞こえなかったようで揃って首を振った。


「……確かに、聞こえたと思ったんだけどな……」

「ちょっと気を張り詰めすぎなんじゃねぇか?」

「……そうかもな」


 自分以外、誰も聞こえなかったと分かって、光輝は気のせいだったのかと困惑の表情を浮かべた。龍太郎の気遣いにも自信なさげな様子で同意する。


「……シア。頼むぞ」

「はいです」


 光輝の気のせいということで一同が納得する中、ハジメだけは警戒を滲ませた眼差しで、索敵に関しては最も頼りになるシアに念を押す。シアも、内心では光輝の気のせいだろうと思いつつも、ハジメが言うならと神妙な表情で頷いた。ウサミミがピコる。


 それからも順調に進み、幾度かの分岐点を迷わず進んだ頃、再び光輝が立ち止まった。今度は叫び付きで。


「っ、まただ! やっぱり気のせいじゃない! また聞こえた!」

「こ、光輝?」


 必死に声の主を探す光輝に、雫達が困惑したような眼差しを向ける。自分に向けられる仲間の眼差しで、今回も自分以外誰も声を聞いていないと察し、光輝は混乱したように声を荒らげた。


「嘘じゃない! 今度ははっきり聞こえたじゃないか! 〝このままでいいのか?〟って!」

「いや、光輝。俺には何も聞こえなかったぜ?」

「くそっ! 誰だっ! どこにいる! コソコソしてないで姿を見せたらどうだっ!!」

「光輝、落ち着いて」


 〝自分だけ〟という状況に不安を掻き立てられたのか、光輝は虚空に向かって怒声を上げ始めた。雫達が落ち着かせようと光輝を宥めにかかる。


「シア」

「いえ、私にも全く……」


 ハジメがシアに確認をするが、今回もやはりシアのウサミミは何の声も捉えなかったらしい。


「……ハジメ。魔力反応は?」

「ない。ゾンビの時もそうだったが、この迷宮の氷壁はどうも魔力反応を隠蔽する能力でもあるみたいだ。あまり魔眼石はあてにならないな」

「ふむ。大迷宮のプレッシャーにでも負けて精神を病んでいる可能性もあるが……それにしては唐突すぎるのぅ。何らかの干渉を受けていると考えるのが妥当じゃろう」

「でも、シアの耳でも聞こえない上に、ハジメくんも感知できないなら防ぎようがないね」


 ハジメ達が話し合っている間も、自分がおかしくなったわけではないと証明するために姿なき声の主を見つけ出そうと躍起になっている光輝にハジメが声をかけた。


「天之河、取り敢えず落ち着け」

「っ、南雲。本当なんだ。確かに、俺は……」

「わかっている。お前の気のせいで片付けるつもりはない」

「えっ?」


 ハジメの光輝達に対する扱いの雑さは身に染みて分かっていたので、自分を信じるようなハジメの発言に光輝は目を丸くする。


「何らかの干渉を受けている、そう考えておくべきだろう。それが、この迷路の試練の一つだと言うなら、天之河だけでなく、ここにいる全員が干渉を受ける可能性が高い。今のところ、防ぐ手立てが思いつかないからな。全員、十分に注意しろ」


 真剣な眼差しで光輝達に視線を巡らせるハジメに、光輝達は一度顔を見合わせた後、コクリと頷いた。


 確かに、気のせいで片付けるより、〝不可思議な現象が起こった〟ということはイコール〝迷宮からの干渉〟と考えて備えた方が健全だ。光輝の言葉を信じたが故の判断というよりも、大迷宮に挑む上での合理的判断というやつである。


 光輝は物凄く微妙な表情となっているが、取り敢えず、落ち着いたようだ。歩みを再開したハジメの後を付いて行く。氷壁に映る自分達の姿を不気味に思いながら。


 すると、


――信じなかったな


「っ、また……」


 光輝の耳にまた囁くような声がするりと入ってくる。しかし、ハジメの言う通り、大迷宮からの干渉と考えて心の備えは出来たので先程のように取り乱すことはない。


 内心は穏やかとは言い難いが、それでも原因を冷静に探ろうとすることくらいは出来るようになった。そこで、光輝はふと気が付く。


「……聞き覚えがある?」


 そう、何となく、自分へ囁いてくる声音に聞き覚えがあるような気がしたのだ。首を傾げて記憶を探る光輝に、雫達が心配そうな眼差しを向ける。


「光輝。大丈夫?」

「あ、ああ。大丈夫だ。ただ、どこかで聞いたような声だと思って……」

「……ハルツィナでは擬態能力を持った魔物もいたし、知っている誰かを真似ているのかもしれないわね。惑わされちゃダメよ。何かあったら、直ぐに言いなさい」

「ありがとう、雫。雫こそ気を付けろよ。南雲の言う通りなら、雫にもその内、聞こえるようになるかもしれない」

「ええ。注意するわ」


 小さく微笑む雫に、ざわついた精神が落ち着くのを感じた光輝は、少し、その表情に余裕を取り戻した。いつでも自分を励まし、支えてくれる幼馴染の女の子の言葉と笑顔に、自然、笑みが浮かぶ。


――気がついているんだろう?


 だが、直後に響いた声に再び表情が強ばった。まるで、一番触れて欲しくない心の深奥を撫でられたかのような不快さに鳥肌が立つ。


 思わず、助けを求めるような表情で傍らを歩く雫に顔を向ける光輝。


 しかし、そこには自分を心配そうに見つめてくれるはずの幼馴染の姿はなく、代わりに、氷壁に映る今の自分と同じくらい強ばった表情があった。


「雫……」

「……ええ。私にも聞こえたわ。女の声だった。どこか聞き覚えがあるのも一緒。〝また、目を逸らすのかしら〟って聞こえたわ」

「……俺は男の声で〝気がついているんだろう?〟だった。どうやら、聞く相手によって言葉は変わるみたいだな」


 悩ましげな表情で光輝と雫が顔を見合わせていると、今度は、鈴が「ひゃ!」と悲鳴を上げながら僅かに飛び上がった。鈴も聞こえるようになったらしい。


 更に、龍太郎も聞こえたようで慌てて周囲に視線を巡らせている。


「お前らは何て言われたんだ?」


 そんな鈴達にハジメは肩越しに振り返りながら聞こえた内容を問いただした。光輝達の会話は聞こえていたので、全員の聞いた言葉から大迷宮の意図を考察しようという考えだ。


「えっと、鈴は光輝くんと似てるかな。〝本当は気がついていたよね?〟って」

「あぁ~、俺は、〝何を躊躇う必要がある?〟だったな」


 二人共、どこか嫌そうな表情だ。心の奥底に土足で踏み入れられたような不快さがにじみ出ている。


「……えらく抽象的だな。惑わすには間接的に過ぎるような気がするが……」


 〝なになにをしろ〟〝どこどこへ行け〟など、直接、対象を惑わせる言葉でないことにハジメが首を傾げる。


「二人共、聞き覚えのある声音だったのかの?」

「う~ん、そう言われると確かに、どこかで聞いた気がする……かも」

「俺もそんな気がする」


 ティオの確認に二人共頷いた。囁かれる言葉は異なるが、いずれも聞き覚えのある声音らしい。


「……とにかく、進まないと」

「まぁ、そうだな」


 不気味ではあるが、立ち止まって悩んでいても仕方ない。迷路を抜け出せば、囁きも収まるかもしれないのだ。ならば、ユエの言う通り、今は先へ進むべきだろう。


 そう結論づけて、ハジメ達は、いくつもの分岐路を迷わず進んでいく。羅針盤が伝えてくる感覚では、出口まで直線で三キロといったところだ。迷わず進んでいるので、トラップや魔物が出ても半日もせず踏破できるだろう。


 断続的に聞こえてくる囁きを極力無視しながら先を急ぐ。


 しかし、その声は刻一刻と頻度を増していき、いつしかハジメ達にも聞こえ始めていた。


――また裏切られる


 ユエの耳に響く声。それはかつて信頼を寄せた叔父や家族も同然の家臣達を思い起こさせるドロリとした言葉。〝また〟とは何を指しているのか……察することの出来ないユエではない。


――自分のせいでまた失いますよ?


 シアのウサミミを震わせる声。幾人もの家族を奪った悲劇は、確かにシアの生まれが原因だ。シアの心に巣喰い、何度も見た悪夢。否応なく脳裏に過ぎっていく断末魔の声。今、シアの傍には絶対に失いたくない新たな〝大切〟が沢山ある。


――受け入れられることなど有りはせん


 ティオの中へするりと侵入してくる声。かつて、まだ力を十全に扱えないほど若輩だった頃、一族が受けた迫害……炎が逆巻き、爆音が大気を震わせ、悲鳴と怒号が響き渡る。狩られた同胞の遺体を足蹴にしながら、自分達に向けられる恐怖と蔑みの眼、眼、眼……


――殺したいほど妬ましい、そうでしょう?


 香織の心の奥へ投げ込まれる声。姿形を変えて力を手にしても自分では未だに届かない場所で悠然としている彼女に、自分でも気がつかない内に視線が向いてしまう。ふつふつと湧き上がる黒い何かは、まるで白い紙にインクを垂らしたかのように広がっていく。


「ああ、そうか。これ自分の声だな」


 囁き声に意識を割かれそうになっていた面々は、唐突に上がったハジメの声にハッと我を取り戻した。


「……ハジメ?」


 視線で問うユエに、囁き声によって特に何かを感じた様子もないハジメが答える。


「みんな、囁き声に聞き覚えがあるって言ってたろ? 俺もそうだったんだが、この声、俺の声だわ。親父の手伝いでゲーム制作に関わった時に、ボイステストで何度も自分の声を聞く機会があってな。自分の声って自分で聞くと意外に違和感があるもんだから気がつきにくいけど、確かに、その時何度も聞いた俺自身の声だよ、これ」


 ハジメの言葉に、全員が「ああ、そういえば」と得心のいった表情となった。普段聞く自分の声と、録音して客観的に聞いた自分の声は意外に異なるものなので気がつかなかったのだ。


「でも、だとすると、この声が言っていることって……」

「……あるいは、己の心の声……かもしれんの。色々と嫌な記憶が蘇って来るのじゃ」

「……ですねぇ。心の中を土足で踏み荒らされているみたいで凄く気持ち悪いです」


 香織が眉根を寄せながら言い渋ると、ティオが後を継いで推測を述べた。同意するシア。他の者達も一様にその表情は暗く険しい。


 全体的に澱んだような空気が漂う。それを察して雰囲気を変えようと、何故か平然としているハジメとユエに雫が声をかけた。


「南雲くんとユエは余り影響を受けていなさそうね? 何か対策でもあるのかしら」


 そんな雫の質問にハジメとユエは、お互い顔を見合わせる。そして、ハジメは澄まし顔になり、ユエは何故か妖艶な笑みを浮かべた。


「俺は特に気にしていないだけだが?」

「……どんな声が聞こえたの?」

「あ~、何か、〝人殺しが普通の生活なんて出来ると思っているのか?〟とか〝化け物に居場所があるわけないだろう?〟とかそんな感じのことばっかり繰り返してるな。それ以外にないのかよって感じだが……」

「それは……その日本に帰ってからのことよね?」

「ああ、そうだろうな。まぁ、俺も人間とは言い難いからな。もしかすると心の奥底で日本での元の生活に馴染めないんじゃないかって思っているのかもな」


 あっけらかんとした様子でそう自己分析するハジメに、時間が経つにつれどんどん懊悩しているような暗い表情になってきている光輝が絞り出すような声音で尋ねた。


「なら、どうしてそうも平然としているんだ? この世界の人々を簡単に切り捨てられるくらい帰りたがっている南雲が、帰っても居場所がないと突きつけられて、どうして平静でいられるんだ!」


 話している内にイラつきを抑えられなくなったのか声を荒らげて詰問する光輝。どうやら、光輝が聞いている己の心の声は、相当、彼の精神を揺さぶっているようだ。


 そんな光輝に、ハジメは肩を竦めて答える。


「熱くなるなよ。実際、帰ってみないと分からないのに、今、悩んでも意味ないだろう」

「どうしてそう簡単に割り切れるんだ。絶対に無視できないこととか、気になって頭から離れないこととか、そういうどうしようもないことってあるだろう!」


 一体、どんな囁きを受けたのか。どこか憎しみすら宿っているような激情を秘めた眼差しをハジメに向けながら、叫ぶように言葉を叩きつける光輝。


 ハジメは、情緒不安定な様子の光輝に少し真面目な眼差しを正面から返した。


「まず〝こうであれ〟と、そんな欲が生まれる。次に、その欲を満たすために〝こうする〟と心に決める。なら、後はやるだけだ。悩むべきは〝出来るかどうか〟じゃない。〝その為にどうすればいいのか〟だ。……俺はもう決めた。故郷に帰って、ユエ達と日常を過ごす。素敵なものを沢山見せて、親にも紹介する。その為に身命を賭す。俺自身の答えの出ない不安なんて些事に構ってやっている暇はない」

「……滅茶苦茶だ。そんなの……」

「別に、共感しろと言っているわけじゃない。俺の考え方は余り人間らしくないのかもしれないしな」


 何を言われようと、何をされようと揺るがないハジメの精神の骨子を見た気がして、それが、自分には理解しきれない、けれど何故だか眩しいもののように見えて、光輝はスっと視線を逸らした。


 微妙な雰囲気の中、シアが囁き声の不愉快さに歪めていた表情をニコニコ顔に変えてユエに尋ねた。どうやらシアも、囁き声を不愉快には思っていても囚われていたわけではないらしい。場の雰囲気を変えようと、あっさり、いつもの天真爛漫な雰囲気を漂わせる。


 元々、自分も懊悩に囚われていたにもかかわらず、場の雰囲気を察してハジメに声をかけていた雫は、先のハジメの言葉に何か思うところがあったのか、今は沈黙している。


「それで、ハジメさんが影響を受けてないのが図太さのせいだというのは分かりましたけど、ユエさんはどうして大丈夫そうなんですか? って言うか、ユエさんはどんなことを囁かれたんです?」


 シアの物言いにハジメのこめかみが一瞬ピクったが、場の雰囲気を読んで見逃すことにしたようだ。もっとも、大迷宮攻略後の夜辺りに、シアはいろんな意味で泣かされることになるだろうが。


 水を向けられたユエは、特に躊躇うこともなく答える。


「……裏切りがどうのこうのって繰り返してる」

「裏切りって……確か、昔の」

「……ん。だから、ハジメやシアも裏切るぞ、みたいな?」


 その言葉にハジメとシアは顔を見合わせた。この囁きが、ハジメ達の深層心理を表出したものであるなら、ユエは心の奥底で裏切りを恐れているということになる。


 確かに、ユエは心から信頼していた家族や家臣達に裏切られ三百年の暗闇に閉じ込められた。それはトラウマとなるには十分過ぎる理由であり、本来なら二度と誰も信頼できないほどの人間不信を患っていてもおかしくない。


 実際、ハジメやシアなど一部の存在を除いて、ユエの対応は結構冷たいところがある。基本的に、ユエの信頼を得るのはかなり難しいことなのだ。幸い、ハジメとの出会いが、ユエにもう一度〝信頼すること〟を可能にさせたが……〝また裏切られるかもしれない〟という不安は、小さくとも心の深奥に燻っているのかもしれない。


 こればかりは、実際、手酷い裏切りを受けた記憶が消えない以上、仕方の無いことだろう。実際に裏切りを疑っているのではなく、深層心理に刻み込まれたものなのだ。


 だが、当然、ハジメ達に対しては、そんなトラウマを軽く上回る信頼がある。衝撃的な出会いと、濃密な旅の道程で紡いだものがユエの心を満たしている。だから平然としているのだろう。


 その辺りの心情を察して、シアがほっこりと微笑みながら口を開く。


「ぬっふっふ、油断してると裏切っちゃうかもしれませんよぉ~」

「……いけない子。嘘つきウサギにはお仕置きが必要」


 軽口を叩き合うユエとシアに、少し場の雰囲気も盛り返してきた。


「まぁ、確かに、俺がユエを手放すなんて有り得ないしな……」

「確かにのぅ。ご主人様がユエを裏切るより、明日、世界が滅ぶと言われた方が余程信憑性があるのじゃ」


 納得顔のハジメとティオ。確かに、カルピスの原液に砂糖とかハチミツとかシロップを投入して煮詰めたくらい甘い雰囲気の二人を見れば、〝ハジメが裏切るぞ〟と言われても「はぁ?」と言った感じだろう。


「……ん。有り得ない。でも、仮に裏切られても関係ない」


 ユエがハジメ達の言葉に同意しつつ、しかし、途中で何かを思いついたように悪戯っぽく瞳を輝かせながら仮定の言葉を付け足した。


「それはどういう……」


 首を傾げるハジメ達に、ユエは悠然と答える。


「……ハジメの気持ちに関係なく、私が(・・)ハジメを逃がさないから」

「「「「……」」」」


 妙に静まり返る中、ユエはその薄い桃色の唇をチロリと赤い舌でなぞりながら、スっと目を細めた。舌舐りで濡れた唇がやけに目立ち、その場の面々の視線を釘付けにする。同時に、男女の区別なく背筋を震わせ下腹部を熱くさせるような艶を放ち始めた。


 そして、熱い吐息と共に、


「……ふふ、吸血姫からは逃げられない」


 そんなことを宣言するのだった。


 妖艶過ぎる雰囲気と熱すぎる眼差しに囚われたハジメは、素晴らしい反応を見せたシアに羽交い締めにされなければ、そのままユエを押し倒していたに違いない。どう見ても理性が飛んでいた。ユエに向ける眼は野獣のようだ。


 しばらく、大迷宮の攻略の最中に目の前で情事に及ばれるわけにはいかないとハジメを止めるシア達とユエを求めるハジメとの間で不毛な攻防が続けられた。


 何にせよ、取り敢えず、重苦しい雰囲気は変えられたようである。







いつも読んで下さり有難うございます。

感想・意見・誤字脱字報告も有難うございます。


内面を書き始めると話が進まない。

宣言通り、最長の迷宮攻略になりそうですが、どうかご容赦を。


次回も土曜日の18時に更新予定です。

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― 新着の感想 ―
はじめ、、、、カッケェやオメェ
[気になる点] 壁の様子が「完全に鏡」であるのなら、「乱反射」ではなく「鏡面反射」では?乱反射という言葉に特に意味はないのでしょうがどうしても気になったので。
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