雫の混乱
早朝特有の静謐が満たすフェアベルゲンの森の奥。
その凪いだ水面のような静けさに波紋をもたらすように、小鳥のさえずりが少しずつ大きくなっていく。葉擦れの音と相まって優しい音楽のようだ。
しかし、そんなフェアベルゲンの一角――余り人目につかなさそうな目立たない場所では、その二音の他にも音が響いていた。
ヒュ! ヒュ! ヒュ!
「疾っ! ふっ! はっ!」
空気を裂く鋭い音と、それに同調した短い呼気。それらの音が響く度に、薄く掛かった朝霧を散らすように黒線が宙を奔る。それは、淀みなく、水が高きから低きへと流れる自然さを以て振るわれる黒刀の軌跡。
その使い手の動きも極めて洗練されていて、翻る特徴的な黒髪と合わさると、まるで神に捧げる神楽舞の如き神秘性すら感じられた。
円を描くように木の葉舞い落ちる森の中で踊る黒刀と黒髪。彼女の作り出した剣界に入った木の葉が四散し、玉の汗が飛び散る。
一体、何時間そうやって踊り続けていたのか。彼女――雫の足元には、すり足が地面に刻んだ幾条もの円と細切れになった木の葉の残骸が無数に散らばっていた。
しかし、その有様に反して、雫の体幹は疲れ知らずとでも言うように僅かなブレも生じていない。一本芯を通したような美しい姿勢で、ただひたすら無心となって刀を振るう。
「――っ」
が、このまま永遠に踊り続けるのではと思われた雫の演舞に、突如、乱れが生じた。剣筋がぶれて斬られるはずだった木の葉をすり抜ける。くるりくるりと地面に落ちる木の葉と同じく、雫も円運動の遠心力に弄ばれてくるりくるりとバランスを崩した。
辛うじて転倒するという無様だけは避けられた雫だが、たたらを踏んで黒刀の鞘を支えにする己の姿には剣士として苦い顔をせざるを得ない。
「はぁはぁ、あぁ、もうっ!!」
苛立たしげに頭振る雫。トレードマークの黒髪ポニーテールが、その心情を表すように右に左にと盛大に荒ぶる。
「明鏡止水。明鏡止水よ、私」
わざわざ言葉にしつつ、大きく深呼吸して心に静謐な泉を思い浮かべる。精神を整え静かな状態を保つ練習は、日本にいた頃、それこそ剣術を習い始めた時からやっていることだ。もはや習慣にすらなっているそれにより、雫の荒れた心は直ぐに静けさを取り戻した。
しかし、その水面に浮かび上がる一人の少年の姿が……
「ぬぁああああ!!」
途端、そんな女の子にあるまじき雄々しい絶叫を上げながら、雫は心に描いた水面を叩き斬るように黒刀を大上段から振り下ろした。
(違うったら、違うっ!! ぜった~い! 違うってばぁ!!)
もはや凪いだ水面などどこにもない。むしろ、台風の直撃を受けた海の如く、雫の心は荒れ狂っている。
(違うって、そもそも違うの意味もわからないし! 私は冷静だし!)
どう見ても冷静ではなかった。心の中の絶叫も支離滅裂である。
実は、まだ日が登らない内からずっと鍛錬をしていた雫は、先程から集中しては直ぐに乱れて剣筋が鈍り、渋面をしながら立て直した後、また直ぐに心を何処かに飛ばして足元を疎かにするということを繰り返していた。
その姿は〝何か〟が鍛錬の邪魔をしているというよりも、鍛錬によって〝何か〟を振り払おうとしているかのようだった。
なぜ、雫は未だ夜といっても過言ではない時間からそんなことをしているのか。
昨日、【ハルツィナ大迷宮】から帰還したハジメ達一行は、その疲れを癒すため早々に休息に入った。当然、雫も食事と風呂を貰って直ぐにベッドに入ったのだが何故か全く眠れず、何時間も悶々とした後、このままベッドにいても仕方ないと丑三つ時を回っているにもかかわらず黒刀片手に飛び出したのだ。
そして、雫を悶々とさせているもの――それは、眠ろうとしても、心に水面を描いても、ふとした拍子に浮かび上がってくる一人の少年だった。
「セイッ! セイッ! セェエエイ!!」
雄叫びも更に荒ぶっていく。
考えまいとしても、いや、むしろそうするほど思い出されるのは大迷宮での出来事。
階層を移動する転移陣を起動した直後、さらわれた夢の世界。捕らえられた者にとって甘やかなその世界で、雫は今思い出しても赤面してしまうようなイタい夢を見させられた。それが自分の理想的な世界などとは……絶対に認めないし、誰にも話せない。
まして、その世界で酷く乙女だった自分に寄り添う者が……
「うりゃあああ!!!」
極めつけは大迷宮の最終試練だ。感情を反転させるというとんでもない内容と、あの黒い物体に愛情を感じてしまったことは思い出したくもない出来事。しかし、一番問題なのは、雫がかの少年を酷く嫌ってしまったこと。殺意を抱くほどではなかったが、憎々しいとすら思ってしまったのだ。
それはつまり……
「ちがーーうっ! 友情よ! 友情バンザーーイ!!」
もう太刀筋も何もない。キャラ崩壊すら起こしていそうだ。いたずらに振り回された黒刀が、どこか非難するように粗雑な風切り音を響かせる。目の前に浮かぶどこか憎たらしい笑みを浮かべた幻の人影に八つ当たりするような雫の姿は、普段の凛とした雰囲気とはかけ離れていてクラスメイトが見ればあんぐりと口を開いて驚きをあらわにしたことだろう。
それからもしばらく、雫は平静と混乱の狭間で、時に鋭く、時に我武者羅に刀を振り続けた。何かを振り切るように、あるいは否定するように。それに気が付かない振りをしながら、勘違いだと言い聞かせながら、ハルツィナは孔明だと思い込みながら。
やがて、心地いい……という感覚を通り越した疲労が雫の思考を鈍らせ始めた頃、ようやく雫の心は元来の静けさを取り戻し始めた。荒れていた原因についても、大迷宮という常軌を逸した環境での強い信頼が一時的に思考をおかしくしていたのだと結論づける。もう、彼を思い浮かべても心は平静なまま乱れはしない。いつも通りだ。
「ふぅーーー」
ゆっくりと息を吐き、チンッ! と小気味いい鍔鳴りを響かせながら納刀する雫。瞑目が視界を闇に閉ざすが、汗を掻いた肌は視覚以上に朝の爽やかさを伝えてくる。頬に張り付いた一房の髪もそのままに熱い息を吐く姿は、どこか艶かしい。
そんな風に雫が鍛錬の余韻に浸っていると不意に声が掛けられた。
「流石、の一言だな」
「っ!? にゃに!?」
物凄く聞き覚えのある声がすぐ真後ろから響いてきたことにより雫の心臓が跳ねた。ついでに口調も激しく乱れた。「いつも通りじゃなかったのか?」とツッコミを入れる者はいない。雫は「まさか」と思いつつバッと声のもとへ振り返った。
そこには想像通りの人物――ハジメが立っていた。雫の鍛錬を邪魔しないためか、あるいはただの悪戯か……気配を殺して接近したようだ。
「な、南雲くん。脅かさないでよ。いきなり背後に立つなんて悪趣味よ」
バクバクと脈打つ心臓を治めながら、雫は咎めるように目を細めた。
対して、非難を受けたハジメはと言うと……
「……にゃに……ぷふっ」
「!!」
笑いを堪えるように、否、堪える振りをしながら雫の可愛らしい誰何をリピートした。ピクンと反応しながらも非難の色を強めた眼差しを送る雫。しかし、その頬が薄らと染まっているため迫力は皆無だった。
その自覚があるのか、今度は言葉に刺を生やして投げつける。
「な・ん・の・よ・う・か・し・ら!!」
一言一言区切られた言葉にハジメは僅かに失笑しながら、からかった詫びとでも言うように【宝物庫】からタオルを取り出し投げ渡した。それを危なげなく受け取った雫は、今更ながらに自分が汗だくという事実に気が付き、妙な気恥ずかしさを感じて慌てたように拭い出した。
「特に用があったわけじゃない。目が覚めたんでな。鍛錬でもと思って適当な場所を探してたら八重樫の気配がしたんで見に来たんだよ。……その様子だと、相当前からやってたみたいだな。昨日の今日でよくやるよ」
「い、いつもじゃないわよ。その何だか眠れなくて……」
「……まぁ、初の大迷宮攻略だったからな。気持ちが高ぶってもしょうがないか」
「ま、まぁね」
まさか、違う意味で高ぶってました、むしろ荒ぶってました! とは言えず雫は微妙に目を逸らしてしまう。
そんな、どこか挙動不審な雫にハジメは首を傾げながら目を細めた。
雫は更に落ち着きを無くす。
ジロジロ、そわそわ、ジィー、ビクッ……
「……八重樫。お前、何か様子が変じゃないか? まさか後遺症でも……」
「へ? えっと、いえ、平気よ。ええ、全くもって健康そのものよ。むしろ、絶好調よ」
「……いや、相当疲労しているように見えるし、何か挙動不審なんだが……」
「きょ、挙動不審ってなによ。私はいたって平常よ。常に周囲を警戒しているの。無闇に背後に立たないことね。思わず斬ってしまうかもしれないから!」
「……お前はどこのヒットマンだよ。……まぁ、平気だってんならそれでいいが」
明らかに平常でない雫だったが、本人がそう言ってるならどうでもいいか、とハジメはすっぱり気にすることを止めた。そして何かを思いついたような表情をすると、おもむろに雫へと歩み寄って行く。
いきなり接近してきたハジメに雫は激しく狼狽した。わたわたと、バリアでも張るように両手を前に突き出す。
「な、なに? どうして近寄って来るの? ダメ、ちょっと待って! 汗掻いてるし! 領土侵犯よっ。落ち着きなさい! あっ、タオルね? ほら、返すから…って、ダメよっ。これは洗って返すから! だから、そこで止まって!」
「……お前、本当にどうかしてるぞ? 俺は黒刀を渡して欲しいだけだ」
ハジメは歩み寄った分だけ後退る雫の態度が、まるで変質者への対応のようで不機嫌そうな表情になる。
「こ、黒刀? 何でまた……」
「強化だよ。昇華魔法のおかげで更に弄れそうだからな。嫌ならいいが」
「そ、そう。してもらえるなら有難いわ」
雫はおずおずと黒刀の端を持ってハジメに差し出す。あくまで近付くつもりはないらしい。
汗を掻いたまま人の傍にいることなどこの世界に来てからはよくあることだろうに何を今更気にしているのかと、ハジメは益々不審な者を見るような眼差しになっていたが、やはり「まぁ、どうでもいいか」と肩を竦めた。
そして、黒刀を手に取り、足をトンッと踏み鳴らす。それだけで靴に仕込まれた錬成の魔法陣が発動してズズズッと地面から簡易のテーブルとイスがせり出てきた。ハジメはイスに腰掛けると〝宝物庫〟から様々な鉱石を取り出して黒刀と共にテーブルへ並べていく。
その様子をジッと見ていた雫だが、立ったまま見られるのも鬱陶しいのでハジメが視線で促すと、そわそわしながらも向かいのイスに腰掛けた。
「……」
「……」
会話はない。カチャカチャとハジメが鉱石を弄る音と小鳥の囀り、そして葉擦れ以外の音が無くなり、再び朝の静謐が戻って来た。
しかし、雫は特段、居心地の悪さは感じなかった。多少の緊張感はあったものの、何となく雫がそこに居ることをハジメが受け入れている気がして、その突然の登場に波立った心も次第に落ち着きを取り戻していった。
雫に対して視線すら向けないハジメだが、それは錬成に集中しているからだ。その証拠にハジメの瞳は酷く真剣な色を帯びている。澄み切った鮮やかな紅色の魔力光に照らされるハジメの表情と、その手元で文字通り魔法のように姿形を変えていく鉱物達。
雫はハジメの魔法に対して「やっぱり、綺麗ね……」と独り言ちながら、何となしに、無自覚に、ハジメの顔をポーと眺めた。片肘を付いて頭を乗せながら、どこかトロンとした眼差しを向ける。それは果たして、徹夜明けに襲ってきた睡魔のせいか、それとも……
途中、ハジメが雫から血を採取するため突然手を取り、動揺した雫がイスから落ちかけるというハプニングがあったものの概ね穏やかな時間が流れた。
そうしてしばらく経ち、刻一刻と重くなる目蓋と妙な心地よさに身を委ねてしまおうかと雫が半ば無意識に思っているとハジメから声がかけられた。
「ほら。出来たぞ、八重樫」
「……」
「八重樫?」
「……」
「……寝てんのか?」
自身の腕枕に頭を預けて、ほとんど閉じかけた瞳でポーとしている雫にハジメは片目を眇めた。随分と無防備な表情を晒したものだと少しの呆れが胸中を過る。
普通なら優しく起こすか上着の一枚でも掛けてやるところなのだろうが……ハジメは少し考えたあと、おもむろに黒刀をピトッと雫の額にくっ付けると、そのまま……魔力を流した。
バリバリバリバリバリバリバリッ!!!
「アバババババババババッ」
迸るスパーク。一瞬で跳ね起きて硬直しつつ奇怪な悲鳴を上げる雫。ハジメは、起こすついでに黒刀の能力の一つである〝纏雷〟を試しに発動したのである。
黒刀を離された途端、パタンとテーブルに突っ伏しシューとギャグのような白煙を上げる雫を尻目に、ハジメは顎を片手でさすりながら何か納得するように頷いた。
どうやら納得のいく出来栄えだったらしい。
「って、いきなり何をするのよっ!!」
当然、復活した雫が怒りの咆哮を上げる。テーブルにバンッ! と手をついて身を乗り出しながら澄まし顔のハジメを睨みつけた。
「いや、意識飛んでるみたいだから性能実験がてら起こしてやろうと思って」
「わ、悪びれもせずに、この男っ……」
更に抗議の言葉を叩きつけようとした雫だったが、それを抑えるように黒刀が放り投げられたので慌てて受け取る。
「昇華魔法を得る前は鉱石に付加できる能力は一つ二つが限界だったんだが、錬成魔法と生成魔法のレベルが一段上がったおかげで複数の効果を付けられるようになった」
「そして私の憤りはスルーして説明を始めるのね。……もう、いいわよ……」
ハジメが何事もなかったかのように強化された黒刀の説明を始めたので、雫は盛大に溜息を吐きながらストンと腰を降ろした。ジト目そのままに、やはりこの男に感じたあれこれは気のせいだった! と確信しながら。
「で、だ。その黒刀には新たに幾つかの魔法を付加した。一つは重力魔法。刀の重さを変えることが出来る。それと刀身に引きつけたり、引き離したり、一瞬だが重力そのものを斬ることも出来る」
「それは……すごいわね」
ハジメの説明に思わずジト目を止めて、目を丸くしながら手元の黒刀を見る雫。だが、それで驚くには早すぎたようだ。続くハジメの説明を聞いているうちに、その能力の絶大さに雫の頬が盛大に引き攣っていった。
曰く、空間魔法により空間そのものを断裂させることが出来る。
曰く、再生魔法により黒刀自身は放っておいても自動で修繕される。また、持っているだけで気休め程度ではあるが使用者への回復効果も望める。
曰く、魂魄魔法により相手の肉体を透過して魂魄そのものに斬撃ダメージを与えることが出来る。
曰く、〝纏雷〟〝風爪〟も性能が向上しており、更に〝衝撃変換〟も新たに付与されているetc
「……」
「それとステータスプレートの認証方法を応用したものも組み込んである。最初に黒刀そのものを〝発動状態〟にすることで、以降、高い効果を発揮するのに比例して必要だった長い詠唱も不要ということだ。剣士でスピードファイターの八重樫が、剣戟中に長ったらしい詠唱なんかしてられないだろうからな」
そう言って説明を締めくくったハジメ。雫は冷や汗を掻きながら手元の黒刀を見つめる。どう考えても聖剣を軽く上回るチートを通り越したバグ剣と化している。この性能が知られれば、それこそ黒刀を巡って盛大な争いが起きそうだ。間違いなく、世界最強の刀剣である。
「い、いいのかしら……こんなの持っていて……」
「まぁ、念の為だ」
「念の為?」
首を傾げて聞き返す雫に、ハジメは天を仰ぎなら小さく頷いた。
その眼差しは野生の狼のように鋭く、まるで視線の先にいる何かを射殺そうとでもしているかのようだった。思わず鼓動を早めてしまう雫。僅かに熱を持った頬を誤魔化すように視線を逸らしながらハジメの説明を待つ。
「わかっていると思うが、最後の大迷宮【氷雪洞窟】を攻略すれば日本への帰還手段が手に入る。そのまますんなり帰れれば何の問題もないが、それは楽観が過ぎるだろう」
「邪魔が入るってことね? 魔人族か、あるいは狂った神か……」
「ああ。神とやらが勇者なんて面白い駒や俺というイレギュラーを簡単に逃すとは思えない。それもあって、最初はノイントみたいな〝神の使徒〟が大量に現れた時のためのにくか……ゴホンッ! 戦力としてお前らにも神代魔法を修得してもらおうと考えていたんだが」
「ねぇ、今、肉壁って言おうとしなかったかしら? ねぇ? 今、そう言おうとしたわよね? ねぇってば」
ハジメがうっかり漏らしそうになった本音に、雫が聞き捨てならないと青筋を浮かべながら問い詰める。しかしハジメはそれをまるっと無視して話を続けた。
「昇華魔法のおかげで俺のアーティファクト作成能力も一段進化したからな。神代魔法を直接修得しなくても、かなりの強化が可能になった。奴等が襲撃してきた時の為に、八重樫だけじゃなくて他の連中の武具も魔改造してやるよ。俺等が【氷雪洞窟】に行っている間、〝神の使徒〟辺りが襲ってきたら是非とも撃退してくれ。もちろん、強化された武器を持って他の大迷宮に挑んでくれても構わないぞ」
「話はわかったけれど……」
言いたいことは言ったという様子で立ち上がるハジメに、雫はどこか困ったような、迷うような表情になった。
「……やっぱり、南雲君達だけで行くのよね?」
「ん? そうだが……まさか付いて来たいのか?」
「……」
雫は答えなかった。元々、ハジメには無理を言って付いて来たのだ。大迷宮一つだけ攻略に付き合わせてもらうという話で。
大迷宮の厄介さは【ハルツィナ大迷宮】で骨身に染みた。どうあっても、雫達が挑戦するには実力不足が否めない。つまり、付いて行ってもハジメ達にとっては枷にしかならないのだ。
しかも、次の【氷雪洞窟】さえ攻略してしまえば帰還手段は手に入る。ハジメは、ついでにクラスメイトを連れ帰るくらいはしてくれると言っているのだから無理して付いて行く理由がなかった。
そんなわけで、答えないと言うより、答えられなかった雫はただ無言で首を振った。そんな雫にハジメは肩を竦めながら口を開く。
「まぁ、八重樫だけなら連れて行ってもいいんだけどな……」
「え?」
ハジメから漏れ出た思わぬ言葉に雫は驚いたように目を見開く。
そして、一拍後、何を思ったのかカッー! と頬を赤く染め、それを隠すように急いで後ろを向いた。ドックンドックンと跳ねる心臓を必死に鎮めようとしながら、ハジメの真意を問いただそうとする。
「それはどういう……」
「そりゃあ戦力的に申し分ないしな。実力はともかく、精神力は全く問題ない。俺らとの差は、アーティファクトで埋めればいいし」
「うん、そうよね。そういうことだとわかっていたわよ? 本当よ?」
あっさり裏切られた期待。もっとも、雫の中では「期待などしていない!」ということになっているが。
あっさり熱の引いた頬と静まった心を意識しながら振り返った雫は、再会してから何度となく感じている憎たらしさを瞳に込めてハジメにジト目を送った。
しかし、直後のハジメの言葉で再び赤面することになった。
「いや、本当だぞ? うちのメンバーを除けば、人となりも実力も一番信頼してるのは八重樫だ」
「!」
どうやらハジメは、雫のジト目の理由が自分の言葉を世辞と受け取ったからだと勘違いしたらしい。それ故の言い直しだった。だが、その訂正は今の雫には少々刺激が強かったようだ。再び赤面する雫。
そんな雫を尻目に、ハジメは当初の目的である自己鍛錬の準備をしながら苦笑いを浮かべる。
「と言っても、まぁ実際、本当に八重樫だけ付いて来られても困るんだけどな」
「え……えっと、どうして……」
「いや、どうしてって……クラスの奴等っていうか、天之河達には絶対お前が必要だろう? 八重樫までパーティーを抜けたら確実にあいつは暴走するぞ? で、その矛先は十中八九、俺だ。〝困った時の八重樫さん〟は困った連中の傍にいてもらわねぇと、俺が面倒だ」
「……身も蓋もないのだけど」
雫はハジメの言動に翻弄され過ぎて疲れた表情をする。だが、ハジメは全く気にした様子もなく〝宝物庫〟から円月輪を無数に取り出し周囲に浮かべ始めた。
「それって内側に物を転移させる機能が付いているチャクラムよね? そんなに取り出して何をするの?」
「鍛錬だ。元々、その為に来たって言っただろう? 八重樫はさっさと戻れよ。それだけ疲れていればぐっすり眠れるだろ」
ハジメの言う通り、雫はかなりの疲労感を覚えており今ならパタリと眠れそうだった。
しかし、何となくこの場を離れ難くもある。ハジメが三十以上の円月輪を自分を中心に円柱を作るように周回させ始めたのを眺めつつ、気が付けば雫は口を開いていた。
「……少し見ていてもいいかしら?」
「? まぁ、構わないが寝こけても知らないぞ?」
「大丈夫よ。飽きたら勝手に帰るから」
雫の言葉に肩を竦めて了承を伝えたハジメは、目を瞑ってドンナー・シュラークを抜いた。それを見て雫も腰を降ろし、テーブルに肘を付いて両手で頬を挟み込むように頭を支えながらハジメを見つめ始める。
次の瞬間、
タンッタンッタンッタンッタンッタンッタンッタンッ!
常人では視認も難しい程の高速で自分の周りを飛び回る円月輪に向けてハジメはドンナー・シュラークの引き金を引いた。使っている弾丸は炸薬量を減らした非致死性ゴム弾であるから、いつものような激しい炸裂音とは異なる銃声が響く。
放たれた弾丸は左右に飛び出すとそのまま円月輪の内側に入り、別の円月輪から飛び出してハジメに返ってくる。ハジメは、それを半身になってかわしつつ、円月輪で作られた円柱の結界から出さないようにかわした弾丸を別の円月輪で転移させる。その間も指は引き金を引き続けており、別の円月輪に飛び込んでは別の円月輪からハジメを狙って飛び出してくる。
それを繰り返し、木の葉が舞うようにふらりふらりと視界を閉ざしたまま四方八方から飛び出す弾丸を最小の動きでかわしていく。
その動きは先程の雫の動きに比べれば流麗さに欠けるだろう。何百年と受け継がれてきた武術特有の美しい型というものがない。だが、合理的だ。合理性を突き詰めたような必要最小限の洗練された動き。雫のそれとは、また趣の異なる美しさがあった。
台風の目の中心で障碍をかわしながら自ら嵐を巻き起こすという余りに特異な鍛錬方法に雫が思わず瞠目していると、おもむろにハジメが飛び上がった。
そのまま空中に紅い波紋を広げる足場を作って留まると、更に〝宝物庫〟から円月輪を取り出し、今度は自分を中心にして球状に取り囲ませた。
そして、
ドパンッ! ドパンッ! ドパンッ! ドパンッ! ドパンッ! ドパンッ!
紅い閃光が大量の円月輪で作られた球体の中を駆け巡った。
電磁加速させた致死の弾丸が、レーザーのように球体内を紅い線で区切る。最初、直径十メートルはあった円月輪の結界は徐々にその範囲を狭めていき、最終的には直径三メートルとなって至近距離からハジメに紅い閃光を吐き出し続ける。
それを時にかわし、時に銃身で逸らし、時に撃ち落として凌いでいくハジメ。左右の手に持つドンナー・シュラークが別々の生き物のように動き回り攻防一体を体現する。紅い光を纏う無数の円月輪に、内側を満たす紅い閃光。それらが合わさり輝きを増していく様は、まるで空に浮かぶ紅い月のようだった。
「……きれい」
どこかうっとりした表情で、ハジメの紅を見る度に同じ言葉を呟いてしまう雫。それは、ほとんど無意識故に零れ落ちた本音であった。
響き渡る銃声は朝の静謐をぶち壊しにしているのだが、むしろ今の方が安らいでしまった雫は、そんな紅い星に見とれながら徐々に目蓋を重くしていき、そのままそっと意識を落としたのだった。
いつも読んで下さり有難うございます。
感想・意見・誤字脱字報告も有難うございます。
fk様がイラストを描いて下さいました。みてみんにあります。
この場を借りて感謝を。ありがとうございました。
以前頂いた髭様のシアや、くろん様のユエも素晴らしかったですが、fk様の二人もとても可愛らしいです。みなさんも見に行ってはいかがでしょう?
次回の更新も土曜日18時の予定です。
 




