第三話 リドウ
ようやく魔の森を抜け出たリドウと恵子は公道を目指して草原を歩んでいた。
地球の暦にすれば一月以上も道なき道を歩んでいた恵子にすれば、整備などされていないとしても、平坦な草原はまさしく天国。
それでも、女子高生の体力では一日中歩きっぱなしなど到底無茶だっただろうが、リドウにはともかく、彼女にとっては過酷に過ぎるここ一月の経験は、彼女に最低限度の体力を身につけさせていたらしい。平然と歩き、揚々と煙管を吹かしている彼を、やっぱり体力オバケと呆れながらも、休憩を取らずに何とかついていけていた。
もっとも、リドウからしてみれば、こうも“ゆっくり”では逆に疲れるなと嘆息がこぼれそうになっているのであるが、煙管を吹かすことで気を紛らわせているのが実情であった。
平原に入り、歩く速度が若干増した恵子は、これなら文句は無いだろうと勝手に思っていたので、そういったリドウの心情には全く気づいていない。まあ、自分のことだけで精一杯な彼女に、明らかに余裕のある彼を気遣えというのも酷であろう。
道中、リドウの存在に怯えて向こうから避けてくれる魔の森の魔物たちとは違い、彼を知らない魔物の群れに幾度か襲われこそしてはいるが、魔の森で僅かに遭遇したドラゴンやオーガのように、見た目からして威圧感を感じるレベルではなく、ファンタジーでは初期にお約束な、サイズが地球と変わらない獣系などなど、確かに怖くはあったが、魔の森からここまでにかけての道のりで慣れてしまった今、どの道リドウの敵ではないのだから、もう一々怖がるのが馬鹿らしくなっていた――リドウが恵子自身に求めるように、要するに開き直れていたので、彼の邪魔にならないよう大人しく逃げに徹しているだけで、特に危機感を覚えるようなこともなくなっていた。
「ねえ」
「ん?」
今も猪っぽい魔物の群れをあっさり撃退し、ふぅと一服やらかしているリドウに向かって、恵子はおもむろに訊ねる。
「“剥ぎ取り”とかしなくていいの?」
「……何だそりゃ」
恵子も自分でプレイしたことがあるわけではないので詳しくはないが、昨今のオンラインゲーム等では倒した魔物の素材やらを集めたり、異世界での冒険物でお約束のギルドでの素材買取など、とにかく魔物から“使える”部分を取得したりしなくて良いのだろうか? 魔の森を抜けるまでは、荷物になるから仕方なく諦めていたのだろうと、彼女は勝手に想像していたのだが。
そう訊ねてみれば、リドウはふーんと気のなさそうな返事をするだけであった。
「で、しなくていいの?」
「はっきり言って、何が必要なのかがまず分からん」
「は?」
「そもそもだ。俺はこいつらの固体名すら知らねぇんだがな。見たのも初めてだ」
エーテライスから出たことのなかったリドウにとって、魔物とはエーテライスから魔の森にかけて存在するものだけであったのだ……そう、ゲーム的に言えば魔界といった最終局面で出没するような凶悪な連中こそが。
「え? アクレイアってとこまでは行ったことあるんじゃないの?」
「いんや。迷い人を送るにしても、俺がしてきたのは魔の森を出るまでで、ここまで足を伸ばしたのは実際初めてだ。アクレイアまで送らにゃならん時は、兄貴が遊びに行くついでっつって、率先して……まあ、そういうことだ。しかし、兄貴から聞いちゃいたが、まさかここまで脆弱なもんだとはな。はっきり言って拍子抜けだぜ。この程度のが金になるのか?」
「……あたしに聞かないで。まあ、分からないんじゃしょーがないし、こんな世界なんだから都市部に行けば冒険者ギルドとかあるでしょ? そこまでは勿体無いけど諦めるしかないわね」
「冒険者ギルド?」
「……ないの?」
不思議そうな顔をするリドウに、恵子は一気に不安になる。
というのも、不利を抱え込みまくった状況下でドラゴンすらあっさり仕留めるリドウがいれば、少なくとも冒険者として稼ぐのは難しくないはず。それなら旅の資金に困ることはないだろうと安易に考えていたのだ。
僅かな焦燥を覚えながら、恵子は自分の知る限りのファンタジー知識を駆使して、冒険者ギルドに関する知識を話す。
するとリドウは、納得顔で肯いた。
「ああ、あるらしいぜ。兄貴はよく外界に遊びに来てたからな、迷い人からもそんなもんがあるっつうのは耳にしたこともある。けどな、多分お嬢が想像してるようなもんとは大分趣が違うと思うぞ。まあ、俺も詳しいわけじゃねぇから、何とも言えんがね」
「……そう」
恵子はまだ若干の不安があるようだったが、とりあえず胸を撫で下ろす。
「で、どう違うの?」
「国家の枠組みを越えて、全世界で共通に管理運用なんざまず不可能だ。考えた輩は居るかもしれねぇが、実行段階で国に潰されるのが落ちだな。とてもじゃねぇが、達成は無理だろ。そもそもだ、冒険者に一々ランク付けやらして、それを各組織同士でノータイムのやり取りができるだけの高度な情報網なんざねぇよ」
「そこはご都合主義的な魔法技術とかあったりするんじゃないの?」
「ねぇよ、んなもん。いや、不可能ってことじゃねぇがな、現実的じゃねぇ」
「どうして?」
「ギルドが存在する各都市に、最低限俺……よりちっと落ちる程度で良いが、そのクラスの魔道士が常時待機してりゃ、まあできるんじゃねぇか?」
「それは……」
魔王に近いレベルじゃないとダメってことだよねと恵子は考える。
「……無理そうね」
「外界の使い手がどのレベルかなんざ実際詳しく知らねぇし、自惚れてるとはてめぇ自身思いたくねぇがな。リリィと兄貴と爺さんの名にかけて、そんじょそこらの奴らに劣っちゃいられん」
何気ない風ではあったが、その三人をリドウがどれだけ尊敬しているのか、あらためて恵子は感じ入っていた。
「それに、な」
「なに?」
思わせぶりにためを作るリドウの顔を、恵子は歩きながら覗き込む。
「他に選択肢が無ぇならともかく、そういう仕事は、あまりしたかねぇな」
「え? どーして?」
「弱いモン虐めは好かねぇ」
「は? 弱い者イジメ?」
恵子にとってはまるきり想定外な言葉だったようで、彼女は眉を顰めて疑問を口にする。
「生きるために獲物を狩るのは当然だ。襲われて反撃するのもな。だがな、贅沢したいから、危険な魔物だから――そんな理由でてめぇから狩りに行く気にはならねぇ」
「はあ? 相手は魔物よ?」
「“あんた”も人間がこの世で最も高尚な生きモンだって口か?」
「…………」
煙管を吸って、煙を空に向けて吐き出しているリドウ。
恵子は何と答えるべきか検討もつかず、無言になってしまう。
「連中だって生きてんだ、食わなきゃ死ぬ。目の前で人が襲われてりゃ、無論俺も助けるさ。だが例えばお嬢よぅ、今にも飢えて死にそうになってる時に、目の前に食料になるモンが横切ったら、どうする?」
「そりゃ……必死になって狩るだろうけど……」
「その時の獲物が、お嬢がさっき可愛い可愛い連呼してたウサギで、円らな瞳に涙浮かべて、助けて下さいってお願いしてきたら? 殺せるか? 口にできるか?」
「うっ……」
その光景を想像してしまった恵子は、とてもそんな残酷なことはできないと顔をひそめる。
「だが、そうじゃねぇ普通のウサギだって、死にてぇと思ってるわけでも、ましてや『お願いですから私を食べてあなたは生きてください』なんて考えてるわけでもねぇんだぜ」
「…………」
「別に肉を食むことが悪いっつってるわけじゃねぇ。だが命を狩る以上、その命に感謝する気持ちを俺は忘れたくねぇ」
リドウは「お嬢はどうだ?」とばかりに恵子に視線をやったが、彼女は今まで深く考えたことなんてない内容に圧倒されてしまっているのか、何かを言葉にして答えることができなかった。
それを見た彼は再び正面に顔を戻す。
「俺にとって『死んでほしくねぇ奴』が病気で、治すための材料のために殺さなきゃならねぇなら狩るが、金になるからっつって、見も知りもしねぇ『いつかその薬を必要とするどこかの誰か』のために狩る気にゃならん。高級な毛皮の素材なんぞのために狩る気になんざもっとならねぇ。襲われりゃ反撃するし、殺す以外に方法が無ぇなら殺すし、殺す必要がなくても勢い余って殺っちまうこともある。だがな、危険“かも知れねぇから”さっさと退治しちまおうなんて気にはならんよ――俺は」
と、煙管を吹かす。
「無論、これは俺の生き方だ、他人にまで同意しろとは言わん。そもそもこれは強者の論理だからな、他人に強要できるもんじゃねぇ」
「強者の論理?」
リリステラが言っていた『弱者には理解し難い論理』たみたいなものだろうかと恵子は一月前の邂逅を思い出す。
「ああ。例えば薬の材料になる魔物が超級の危険度だったとして、俺が必要に駆られたとしたら、俺は命懸けでもそいつを狩りに行く」
「あんたが命懸けって……どこの魔王か古代竜よ、それ」
「例えばの話だ、例えばの。だがそれは、俺がてめぇ自身の力に信と念を持っているからこそ存在し得る選択肢だ。迷い人も大抵はそれなりの戦闘能力を持ってるし、俺が送り返すのに付き合った連中はそいつらだけだからな、正直まだあまり実感は湧かねぇんだが、外界に暮らす大多数の人間にそんな芸当が望めねぇってのは理解しているつもりだ。いずれてめぇの命を脅かすかもしれねぇから、今の内に他の強者に頼むか、それとも数を頼みに退治しちまうか……それも仕方のねぇことなんだろう」
「そりゃ、そうよ。誰だって死にたくなんてないんだから」
つまらなそうに言うリドウに、恵子はどこか戸惑いながらも彼の言葉を肯定した。
「だろうな。専守防衛ってのは、自ら相手に有無を言わせねぇ、もしくは伍する、または最低限相手がてめぇにちょっかいかけるのに慎重にならざるを得ねぇだけの力を保有するか、それともただただ相手の慈悲に縋るか、その両極端ないずれかの方針だ。魔物に道理を説いても仕方がねぇし、先手を取って殲滅しに行く、それは理解できねぇでもねぇ。だがそこに、てめぇ自身の手を貸す気にはならねぇってことだ。どうしても心の安寧が欲しいっつうなら、人間絶対正義主義者にでもやらせりゃいいだろ」
「……ねぇ、もしかしてさっきの魔物も、真っ二つに切れてたの以外は生きてるの?」
「当たり所が悪くなけりゃな。俺も魔物の急所なんざ正確に知ってるわけじゃねぇし、まあ多分大丈夫だとは思うが」
恵子はさっき獣型の魔物に群で襲われた時を思い出す。ざっと20匹はいた。
その時のリドウは数匹を切り伏せただけで、後は峰打ちや拳で殴りつけるなど、致命傷をできる限り避けていたし、諦めて逃げて行く彼らを追うようなマネはしなかった。
「魔の森レベルの魔物を五体満足で逃がすなんて器用なマネは、俺には無理だ。下手に慈悲を装って深手を負わせて見逃しても、その後弱ったところを美味しい獲物と見た他の魔物に食い殺されるのが精々。苦しむ暇もなく一息に楽にしてやるのがむしろ慈悲ってもんだ。故に襲われりゃ問答無用で殺害する。だがな、魔物が人を襲うのは悪いことなのか? そりゃまあ、迷惑なことじゃあるだろう。けど連中は狩りをしてるだけだ。なら人間が獲物を狩るのは? どちらも生きるためにしていることだ。襲われりゃ反撃するのも、生きる者として与えられた当然の権利だ」
そこでリドウは煙管を一つ吸う。
「目の前で襲われてりゃ助けるさ、その程度には俺も人間だって自覚はある。だがな、『森の奥深くで人間を食い殺した魔物が居るから今後のためにも退治してくれ』って、そりゃどんな冗談だ? 町が村が人間のテリトリーであるように、そこは魔物のテリトリーだ。襲って下さいとばかりに不用意に進入しておいて、どれだけ身勝手なご都合をほざきゃ気が済む。報復の権利があるとしても、そりゃ食い殺された本人の家族、恋人、大目に見ても友人くれぇだろ」
リドウはふざけるなと、心底嘲るように吐き捨てる。
「狩って狩られて、“種族として”より強い方が生き残る、それが自然の掟だろ。そこに善悪を挟み込んで考えるのは、俺は違うと思う。連中は別に“悪事”を働いてるわけじゃねぇんだ。無理に殺す必要はねぇだろ。生活の安寧のために殺すのも否定はしねぇよ。それで狩り尽つくされたとしても、それがその種の限界だったんだろう。わざわざ止めようとは思わねぇが、俺がそれに手を貸すなんざ死んでも御免だ」
リドウはそこで言葉を切って、常時より深く煙管を吹かす。その姿はまるで不味いものを吐き捨てるかのようで、実に美味しそうに吸ういつものものとは全く別物だった。
この時恵子はしかし、色々な意味で参ってしまっていた。
(やっぱこいつ……悔しいけど……)
恋人には悪いが、カッコいいと一瞬思ってしまう。
だが潔癖な彼女にとって、恋人以外にそういう感想を持ってしまうだけでも、何だか浮気したような気分で、あまり気持ち良くないのだ。
故に、こんな時は“こう”なってしまう。
(だいたいこんな女タラシ、ぜんっぜんあたしの好みじゃないんだから! 芳樹だってモテるけど、ちゃんとあたしだけを好きだって…………まあ……ちょ、ちょっと優柔不断なとこはあったけどさ……でもしょーがないじゃない? 芳樹、優しいから、他の女の子に冷たくできないだけだもんっ)
何を一々心の中で言い訳とフォローをしているのだろうか?
まあそれはともかく、そしてもう一点。これではたとえギルドみたいなものがあってもお金には苦労しそうだという意味で、今後の生活を思うと参ってしまう。
そこのところを確認しようと、お金をどうするのか訊ねてみると、リドウはそれに関しては心配するなと言った。
「何か当てがあるの? リリステラさんからは殆ど貰わなかったんでしょ? これは“あたしたちの”旅だからって」
「どの道、先行きの見えねぇ旅だ。延々保つだけの金を持ってくなんざできねぇ以上、自力で稼ぐ方法はいずれ考えにゃならん。なら端からそうするさ。最悪は獲物を狩りゃ食い繋ぐこたできる。だがまあ……特にお嬢は格好の獲物だろうからな」
「は?」
「まあ、その内分かる。アクレイアとやらに着くまでに、一度くらい出てきてほしいもんだが……さて、どうかねぇ」
その言葉の意味を恵子が理解するのは、それから数時間が経ってのことであった。
公道に辿り着いたのだが、それは彼女が想像していたよりもずっと原始的というべきか、はっきり言ってただ土が踏み固められているだけという程度の、とりあえず行き先だけは迷わないように道標としての役割を果たしているだけの、とても舗装されているとはいえない道であった。
アスファルトとまでは言わないが、せめて石くらいは敷き詰めてあると思っていたのに、改めてこの世界の文明がいかに原始的であるかを思い知らされる。
(魔法とかあるにしても、外界じゃあんまりご都合主義的ファンタジーチックなものじゃなさそうだし、これはますます文化的な生活は期待しない方が良いわね)
魔王城では【魔神】リリステラの技術によって、彼女の魔力を原動力にして、かなり快適な生活を営めていたが、あれは例外中の例外だと散々言われている。
先を思いやりため息を吐かずにいられない恵子だった。
が――
「ん、来たか?」
「え?」
楽しそうな声音を発した主の視線の先に眼をやると。
「ひっ……」
思わず小さく悲鳴を漏らしてしまった。
へっへっへと擬音でもつきそうな下卑た笑いを浮かべながら、公道の先を遮っている数名の男たちがいる。どいつもこいつも何ヶ月も風呂に入ってそうにない汚らしい格好で、恵子としては間違ってもお友達にはなりたくないタイプだ。まあこんな連中とお友達になりたい女なんぞ、天然記念物よりも少なかろうが。
それよりも彼女にとって不思議だったのは、魔物にはそれほど怖さを感じなくなってきたのに、この男たちには明確な恐怖を覚えることであった。威圧感という点では魔の森で遭遇した魔物たちの方がよほど凄かったのに、だ。
なぜだろう……?
己を背後に庇うようにして男たちの前に立つリドウの背に隠れて、男たちが視界から外れて少し冷静になった頭で考える。
――いや、違う。感じているのは恐怖ではなく、気持ち悪さ。
魔物は確かに怖い。彼女一人だけで対峙することになったら、彼女は恐らく腰が抜けて身動き一つとれずに殺されてしまうだろう。
平原の魔物たちとて、こちらを害そうとする意思、紛うことなき殺気を身に纏っている。それは常に肌に感じている……まるで背筋が凍るように。しかし、彼らは常に必死になってこちらを狩ろうとする。生きようとしているのだ。
翻って目の前のこいつらは……。
先ほどリドウとあんな会話をしていたから、そう思い込んでいるだけなのかもしれない。軽い暗示のようなものなのかもしれない。
それでも……分かる。こいつらは――ただ快楽のためだけに平然と他人を害せる人間だ。
「へっ、カッコいいじゃねーか、にぃちゃん」
ならず者たちの真ん中の男が口をを開く。恐らくはリーダーなのだろうが、全くもって下衆い声と口調と笑いであった。
「てめぇらは盗賊ってのでいいのかい?」
「はっ。見てわかんねーのか?」
「いんや、一応の確認だ。そこで、ものは相談なんだが」
「あーん? お、なるほど、いーぜいーぜ。命だけはお助けってんなら、そっちの女と身包み置いてきゃ、見逃してやんぜ」
「か、頭! こ、こ、この女やべー! こりゃ滅多に見ない美人ですぜ!」
「なにぃ?」
取り囲まれたせいで顔を隠しきれなくなり、恵子の顔を確認した部下の嬉々とした驚きの声をききつけた盗賊の頭領は、自分もぐるりと迂回して彼女の顔を確認し、おおっと笑い声をあげる。
「こりゃー運が良いぜ。よぅにぃちゃん、今の俺様はご機嫌だからよ、見逃してやっからさっさと消えちめぇ」
「いや、相談ってのはだな、実は全く逆の話なんだがね」
「あーん?」
訝しげな顔をする盗賊たちの目に、リドウの優雅に刀を抜き放った姿が映る。
瞬間、男たちも各々手にしていた武器を身構える。
リドウは刀の峰を肩にかついで、煙管を銜え、炎を点して深々と吸い込む。
「ま、魔法使い……!?」
「びびんじゃねぇ、ばっきゃろー! 冒険者なら火種用の魔法を使えるのなんざ珍しくねーんだ。大体、あのナリで魔法使いなわけねーだろーが!」
魔法を目にして怯えを露にする部下に怒鳴り散らす頭領であったが、内心は「やべー」とびくびくであった。
とはいえ、それはリドウの魔法に対して脅威を感じているのではない。それは頭領自らが口にした通りの意味そのままである。
では何をもって脅威に思ったのか?
その理由は、こうして取り囲まれている中で、平然と刀を抜いて敵対行動をとっていながら、完全にリラックスした体でタバコらしきものを吹かせるだけの余裕を見て、これはかなり強いんじゃないかな? そう感じてしまったのだ。
この世界には『化け物』が多い。それは魔物にも当然言えることだが、人間にも居るのだ、たった一人で戦術級、戦略級の戦闘能力を発揮するようなのが。
言うまでもなく、そんな連中は極々僅かでしかなく、戦闘を生業にする者たちの中だけで数えてもほんの一握りしか存在しないが、そんな連中からすれば、小規模な盗賊団の数人程度、紙を切り裂くように殲滅し得る。そんなことはこの世界の常識だ。
しかし、ここで退くことはできない。
盗賊にとっての階級とは恐怖、つまりは力だ。びびって逃げ出すような男に従う部下など普通はいない。
10名に満たない小規模な盗賊団だが、それでもようやく築いた己の地位を、まさかこんな所で捨てるわけにはいかなかった。
故に、そんな化け物級がこんな辺鄙な場所に居るはずがないという希望に縋って、頭領は精一杯の虚勢をはって、リドウに対して不敵に笑う……その額に滴る一筋の汗を感じながら。
それに対して、リドウも煙を吐き出し、煙管の中に溜まる灰を地面に落とし、それを足で踏みつけながら、不敵な笑いを返す。
「相談なんだがね――身包み置いてさっさと失せろ。そうすりゃ、五体満足で見逃してやらんでもねぇぜ」
瞬間、辺りを沈黙が支配し、そして次の瞬間、大爆笑の嵐に包まれた。頭領だけは外面こそ盛大に笑っていたが、内心はいよいよまずそうだと真っ青になっていたが。
「ってあんた、何言ってんの!?」
そして、盗賊が現れてから初めて恵子が開いた口から飛び出た言葉は突っ込みであった。まあこんな、自分たちの方こそ盗賊よろしくな発言を耳にすれば、突っ込みの一つくらい反射的にしたくなっても仕方ない。
が、リドウは彼女を無視して頭領を眺めている。
「よぅ、にぃちゃん。んなナリしてんだ、少しゃやるよーだが、そっちの嬢ちゃんは戦力外みてーだし、たった一人でこの人数相手に勝てるなんて思ってんのか?」
「思ってるぜ」
「……いい度胸だ」
「一つ忠告がある」
リドウは、表情を消して部下たちに襲撃を指示しようとした頭領と、そして他の男たちをぐるりと回し見る。
「この女には手を出すんじゃねぇぞ。したやつぁ、命の保障はしねぇ」
「知るか! てめーらやっちめぇ!」
刹那の出来事であった。
まずリドウの姿が消え去った。
盗賊たちと、更に恵子までもが、一瞬頭の中で「え?」と疑問の声を上げながら呆然とする。
リドウの姿が見つかったのは、総勢で七名になる盗賊たちの内、彼や恵子から見て右側に居た者たちのすぐ真後ろであった。
ずるぅ
そんな音が聞こえたような気がした。
唖然とする数瞬。
まず、右から二番目に居た男の錆び付いた剣を持った右腕が、肘の辺りからポトリと落ちた。
次にそれに驚いた一番右にいた男が飛び退こうとしたが、なぜか右足だけがその場に残り、上手く飛び退けずに尻餅をついた。
最後に変化があったのは右から三番目の男。彼は一番右の男同様の結果が待っていたが、彼の場合はそれが左足であった。
体の一部を欠損した男たちはその事実が信じられない様子で、己の一部だった部分を眺めていると、現実を認識した瞬間に絶叫を上げ、それと同時に激しい血飛沫が傷口から噴出した。
ぎゃあぎゃあ喚きながらのた打ち回る男たち。
その光景がさも当然であるかのように、リドウは見向きもせずに、刀を肩に担いで、しかしそんな地獄絵図を作り出したなんて気づいてさえいない風にリラックスした様子で、すぐ目の前にいる頭領に向かって、感情の篭らない瞳を投げかけていた。
「て、てめぇら! その女を人質にしろ!」
ようやく状況を認識した頭領は、このままでは次は自分の番だと理解し、慌てて部下たちへと指示する。
が、部下たちはそれを成し遂げることはできなかった。
今度は油断せずに注意して見ていたからだろう。殆ど霞んでしか見えなかったが、頭領には高速で移動したリドウが部下たちに近づくのが解った。だが、その後彼らの首が刀によって切り裂かれたのだと理解できたのは、ようやく彼らの頭が彼らの胴体から泣き別れしてから後だった。
「言ったぜ? この女に手ぇ出したら、命の保障はしねぇ」
血糊一つ見当たらない綺麗な刀の峰で己の右肩を叩きながら、リドウは悠然と頭領に向かって歩み寄る。
盗賊団の頭領は今正に後悔の最中に居た――やっぱり、勘に従ってた方が良かったんだ。
逃げられない。こんな男から逃げられる訳がない。全身から嫌な汗が吹き出てくる。
「ま、待ってくれ……な? 頼む、待ってくれ……い、命だけは……」
じりじりと後ろに下がりながら、頭領は右手を差し出して、リドウを押し留まるように頼む。
すると、だ。
「いいぜ」
「ほ……ホントか……?」
「ああ。とっとと、死んだ連中と、そこで呻いてる連中の分、有り金全部集めて持って来い」
「あ、ああ! わかった!」
頭領はぶんぶん肯くと、脇目も振らずに、部下たちの懐から金の入った小袋を抜き出して、指示もされていないのに、自分の分まで付け足して、その全てをリドウの足元に放り投げた。
「こ、これでいいんだな……?」
「ああ。ご苦労さん」
ザンッ
確かに頭領は命こそ免れた――が、両手両足が首元から先を永遠に失ってしまった。
「ひげぇっ!」
醜い悲鳴を上げた頭領は、のた打ち回りながら怨嗟の声を喚く。
「ぎぃっ、びゃ、やぶぞぶがちぎゃへ!」
「ウソを吐いた覚えはねぇな。待った上に命も盗らなかった。五体満足じゃ逃がさねぇとも言ったはずだ。俺は何一つてめぇの言葉を違えてねぇ」
リドウは小袋を拾い集め自らの懐に納めると、あまりの凄惨な出来事に半分意識を飛ばしている恵子に向かって、行くぞと声を投げかける。
反射的に背筋をぴんと伸ばした彼女は、できるだけその光景を視界に入れないようにしながら、慌ててリドウの背を追う。
「ったく、ぼさっとしやがって。別に戦えとは言わんが、少しゃ逃げるくらいしてくれ。おかげで殺さにゃならんかったろうが」
「ふぇ……?」
意味が理解できずに呆ける恵子に向かって、リドウはさっそく吸っていた煙管の煙を思い切り吐きかける。
「きゃっ、けほっ、けほっ……な、何すんのよ!?」
「いいか? 中途半端に切って止めるだけじゃ、根性あるやつなら、気合入れてお嬢を人質にとるくらいはできんだ。魔物だって、気絶させるだけってのは俺でも仕損じる可能性があるから、万全を期すために、お嬢に近づいたやつは切ってんだぜ」
「あ、あたし……せい……」
リドウの言葉を聞いて、恵子は全身を戦慄かせる。
「お嬢の“せい”じゃない。俺がまだそれだけの領域に居ねぇだけの話だ」
「え? いや、でも」
「この世界に魔法で回復する手段がねぇわけじゃねぇが、よほどの使い手でなきゃ、他人の傷は治せねぇ。その理由は、魔力で他人の体に直接干渉する事が、相手の魔力に弾かれて極めて難しいからだ。一の魔力の持ち主に干渉するためには、ざっと三倍の魔力を注がなきゃならん。同じ理由で、金縛りにしたりする魔法も難易度は最上級だ。俺も、抵抗力の低い相手数人にかけるのが精一杯だろう。命が懸かってる状況で選べる手段じゃねぇ。だがリリィなら万の軍勢の全てを指先一つに至るまで支配できる」
「それは、比べる相手が悪いんじゃ……」
「無手の爺さんなら言うまでもねぇし、兄貴なら相手の神経だけを、寸分違わずに、他の一切を傷つけることなく居抜ける。だが俺じゃ、同じことをやるなら、全力で集中して身動きしねぇ相手に極めるので精々だ」
「ど、どんだけ次元が違う連中なのよ、あの三魔王……てかあんたもジューブン人外だけど」
「いいか? 殺らなきゃ、殺られるから、殺るんだ。弱いから――殺すしか選択肢が無くなる。全ては弱いから、俺が弱いから殺る羽目になる。俺が目指す領域の行き着く先では、そんな甘えは許されん。連中が死んだのは全て俺が弱いのが悪い。間違えるんじゃねぇ」
「あ――」
リドウは煙管を吹かしながら恵子を見もせずに言う――全ては自分の責任だ、と。
無論、そんなわけがない。そもそも彼がこんな旅をする必要性からして全くないのだから。リドウ独りなら、“恵子の安全に万全を期して”敵を殺す必要など全く無いのだから。
こういうのが不器用な優しさというのだろうか? 良く使われるけど、実際に目にしたことは殆ど無い文言を、恵子はふと思い出していた。
「あの人たち……大丈夫かな」
「心配なのか? 強盗強姦殺人上等のあんな連中が」
「そりゃさ、自業自得なのかもだけど……」
「まあ、綺麗に切ってやったからな、感染症にさえ気をつけりゃ、出血多量で死ぬこともねぇだろ。どっかの村なり町なりに辿り着けさえすればだが、まあ運が良ければ一度も魔物に遭遇せずに済む。そのくらいの罰は、犯した罪に対する正当な対価だな」
「ついでにお財布も?」
恵子は先ほどまでの鎮痛な面持ちから、少し悪戯っぽい笑みに変わる。
対してリドウはニヒルに笑ってみせる。
「当然。前科の証拠があるわけじゃなし、初犯かもしれねぇからな。まあ正直ありえんとは思うんだが、素直に引くなら反省の意味も込めて有り金だけ頂いて、五体満足で逃がしてやったのは本心だ。罪人の財産を奪っても、こちとら微塵も心は痛まねぇよ。精々俺たちの旅の糧になってもらおうじゃねぇか。これから先は、むしろ積極的に情報を集めて、連中の塒をこっちから襲うぜ。何せ盗賊退治は危険度と報酬の割が釣り合わねぇって傭兵冒険者は皆避けるから、どの道誰それのだって証明できるケースも稀ってことで、連中が溜め込んでる財産は退治したやつのもんって、どの国でもお決まりらしいぜ」
ま、そん時ゃお嬢は留守番だがな。そう言ってかっかっかと笑うリドウの横顔を見ながら、恵子も自然と笑っていた。
……ついさっき、あんな凄惨な殺人を目の前にしたというのに。
もし絶対安全を保証してくれる護衛が他に居たとしても、それが彼でなかったら、きっとこんなすぐに笑えたりしていなかっただろう。下手したら一生のトラウマものだ。
(ってぇっ、だから何であたしはこいつの好いとこばっか見つけようとしてんのよ!?)
慌ててぶんぶんと頭を横に振って、己を正気に戻す。もっとも、リドウは一歩先を行っているため、彼女にとっては幸いなことに彼にも見られてはいなかったが、真っ赤になった顔も動揺も暫くは元に戻らなかった。
「で、でも、何で釣り合わないの?」
「賞金が懸かるようなのは、頭か、よほど名の知れた盗賊団の幹部くらいらしい。雑魚の顔まで一々把握するなんざ、事実上不可能だからな。運良く一人でほっつき歩いてるとこにでも出くわしたならともかく、普通は取り巻きまで相手にしなきゃならんだろ? 加えて当然だが狡猾だ。一応それ込みで賞金額が決まってるらしいが、取り巻きに手間取って賞金首に逃げられたらおじゃんだからな。やはり割りに合わんらしい」
「じゃあ、放置したままでよかったの?」
「連行しなくてっつぅことか? 全員生かして捕らえりゃ7人だぞ、俺らだけじゃ無理だろ」
自分が居るから無理なんだと、言外に含められているのが恵子にも理解できた。分かってはいたし、そもそもにして、だからこそリドウが護衛役をしてくれているのだが、やはり自分が足を引っ張っていると思うと、苦々しい思いが胸を占める。
「まあ、二度と盗賊家業なんぞできんように手足は頂いたし、あのナリじゃてめぇは盗賊ですと全身で主張してるようなもんだからな、助かりたきゃ一刻も早く安全な場所に行かなくちゃならねぇし、手配されてるならそん時に顔も割れんだろ。別に皆殺しでも俺がパクられるこたぁねぇし、基本どの国でも盗賊は死刑と相場が決まってるらしいから、むしろ生かして捕らえる方が残酷だって話もあるらしいが、死刑になるほどの悪事を働いてねぇってなら可哀そうではあるが、運が悪かったと諦めてもらうしかねぇな。後はこの国のお上が決めることだ」
「そっか。ん? って、さらっと流してたけど、この世界にも感染症とか出血多量とか、もう理解されてるの?」
「外界には居ねぇって話だぜ。俺を育て始めるまでは、リリィのライフワークだったらしい。ここ300年くらいはずっとその手の研究ばかりしてたっつってたな。もっとも、実際の患者を診ることができねぇから、遅々として進んでねぇって話だが……まあリリィ基準の話だからな、話半分ってか、話の数倍は盛って考えて良い。いずれ医術の道を志す迷い人が現れたら成果を教えて、力の無い人間でも魔法に頼らず、少しでも助かるようになってほしい……らしい」
「あの大魔王様ってほんっ―――――――――――とに善い人よね!?」
「聖母と書いて【魔神】と読むんだ。エーテライスじゃ常識だぜ」
「ま、魔王の中の魔王なのに聖母……そーね、まさしく聖母ね、てかむしろ女神よね、あの人……」
何となく、魔王という形容に対して、大いなる疑問を抱く恵子である。
その時更に思い出すことがあった。
「そういえばさ、さっき言ってた、あたしが格好の獲物だって、こーゆうこと?」
「お嬢にゃ悪ぃが正直まだ良く分かってねぇんだが……お嬢が侍女連中より顔の造作で劣ってるたぁ、俺も思っちゃいねぇ。てことは公平に見て、お嬢は十分に美少女だ。犯すにしろ売るにしろ、お嬢のことを知ったら、俺から探すまでもなく、連中の方から襲ってくるだろ――とは期待していたな」
「あたしの貞操は芳樹に捧げてるんだからね。頼むわよ」
「てめぇから望んだ話じゃねぇが、一度引き受けた以上、よほどのことがねぇ限りはきっちり果たす。余計なことは考えず、お嬢は自分の身を守ることだけ考えてりゃいいさ」
それから数日後。
公道に出た後は殆ど魔物の襲撃はなかった。彼らもここで旅人を襲えば人間に逆襲されると理解するくらいの知能がある。実際に戦った感触から多分そうだ、と恵子はリドウに聞いた。
だが、盗賊にはあれから更に二度襲われていた。
盗賊に関しても、公道で活動しているのが発覚すれば、即座に討伐軍が派遣されるのは魔物と同じなのだが、彼らはそれを理解しているので、同じ場所で活動したりなどしない。結局、居所も罪状もはっきりしない盗賊に構っていられるほど、この世界のお上は身軽じゃないから、商人を筆頭にどうしても旅をしなくてはならない場合、冒険者の護衛を雇うのだ。
無論、大規模になって凶暴性の増した盗賊団であれば、国家が軍を派遣して潰すが。
ならば、戦闘能力のない農民や都市民が個人で旅をする場合はどうするのかといえば、彼らはむしろあまり襲われる心配はかった。大して金を持っているわけでもない個人を襲って、下手に重要指名手配でもくらっては割に合わないからだ。公道で襲うからにはきっちりとした収益を見込めなければならないため、道を外れなければまず大丈夫という話である。
ならリドウたちの場合は例外なのかといえば、こんな数日の間に三度も例外が続くことなどありえない。
リドウにとって女性の顔の基準はリリステラやサリスを筆頭とする侍女部隊の面々であって、誰一人とっても恵子に劣ることはなく、正直彼女が美少女なのかどうなのか、実はあまり理解できていない、というのは前述の通りだが、侍女たちより彼女の顔立ちが劣っているとは彼も思わないので、美少女なのだろうなと投げ槍に考えていた。『学校』という言葉を彼が正確に理解したわけではなかったが、その組織の中でトップ3に入る美貌と彼女自ら豪語していたし。
ならば、彼自身が兄と慕う【戦鬼】から聞いていた盗賊というならず者たちの“習性”なら、彼女を見れば勝手に襲ってきてくれるだろうと彼は考えていたのだが……。
彼の認識は甘かった。もっとも、彼にしてみれば、探す手間が省けて調度いいくらいの認識でもあったが。
「そりゃ、こんな美人さんを連れてれば、どうぞ襲って下さいって言ってるようなものですよ。女性の前で言葉にするのも躊躇われますが、ケーコさんほどの美貌の持ち主となると、散々玩んで“壊されて”いても、闇市場で金貨300枚は下らないでしょう。今なら1000枚は硬いでしょうな」
とは、通りすがりに夜営の準備をしていた行商人一行の、主たる商人の言葉であった。
とはいえ女性であれば、標準程度の顔つきで“売り物”になるほどではなくても、性欲を発散するために嬉々として襲ってくるため、女性が混じる場合は行商人などに幾らか支払って同行させてもらうというのが一般的であるとのこと。
ちなみにこの行商人一行であるが、昼間の内に森に入って用意しておいた獲物が丸々あったので、それを手土産に寝場所を貸してもらえることになったのだ。
そういう中年の商人さんも、盗賊共のような野卑極まりない視線でこそなかったが、恵子を見る顔の鼻の下は伸びに伸びていた。
だがこの商人はそれ以上に、三度の盗賊襲撃を、恵子という完全な足手纏いが居ながら、たった一人で苦も無く撃退したというリドウの方に興味津々で、今後のためにもできるだけ彼と親密な関係を築いておきたいという思惑が見え見えではあったが、恵子よりリドウにべったりであった。
リドウにしても、外界の情報は兄がふらっと遊びに行って持って帰ってくるか、たまの迷い人から聞いただけで、その時は外界に旅へ出るつもりもなく、暇潰し程度に聞き流していただけなので、アクレイアに到着する前にある程度の常識的な知識の確認ができたので、商人の思惑は助かっていた。
……たまに、そんなことも知らないなんて、今までどこでどんな生活をしていたのだろうかと、露骨に疑問に思われたりしていたが、そこは適当に誤魔化しておいた。
一方、恵子の方は護衛の冒険者たちに纏わりつかれて若干迷惑していたが、気候に問題はないにしても、魔の森を出て以降のこれまでの一週間足らずの内、通りすがりの村に泊めて貰った二夜以外は、それまでと同様マントを地面に敷いただけで眠っていたので、魔の森を抜けてからも結局野宿かとほんのり涙を滲ませていたのもあって、決して快適とは言えないが、野宿なのにまともな寝床、しかも商人が気を利かせて、馬車一つを恵子に使わせてくれたので、わりとご満悦であった。
しかし、彼女は自覚はないが、これでも凄まじく恵まれているといえるのだ。
リドウは「普通じゃね?」くらいの認識であったが、恵子はマジで掛け値なしの美少女なのだ。
まずもって、この世界の文明は地球でいうと、某神様になった聖人様暦で1000年代前半の更に半ば程度で、食糧事情などもそれに準じる。当然だが品種改良などされていない作物の栄養価は低く、量にしても毎日必要なだけお腹一杯食事ができる人間は最低限中流階級以上で、人口全体の凡そ三割程度。それも都市部にほぼ集中している。
必要な栄養が採れないのでは、当然その分成長は阻害されるし、女性が最も気にする美容に必要な栄養素など、尚更採れない。
貴族には美男美女が多いというイメージがあるが、確かに権力者の男は多くの愛妾愛人を公然と許されていて、それに選ばれるのは基本的に美女であるのが当たり前。つまり血筋的に美形である――という理由は確かにあるだろうが、主たる原因はやはり、幼い頃から健康的な食生活を送っていられる上に、畑仕事や水仕事などしたことがないので、肌や髪の艶、肉付き、染みソバカスの有無などなど、他にも諸々ありはするが、そういった『美しく見える』要素が下層民とは決定的に違うのだ。
翻って恵子であるが、彼女は現代日本で何不自由なく育ってきて、ルスティニアにおいては肉類過多ではあっても、リドウのおかげでひもじい思いなど一切していない。更には普通に美少女なのだ。その上、“凄く良い”わけでもないが、愛想が悪いということは決してない。
はっきり言ってしまえば、もし貴族に生まれていたとしたら、爵位持ちの上級貴族であれば王の正妃、そうでなくてもまず愛妾の座を望まれて然るべき美貌の持ち主なのである。
そんな彼女に「お願いします」と頼まれて否と言える男などそうは居ない。特に農村は男尊女卑が強く現れる世界であるし、一家の大黒柱が是と言えばそれで決まりだ。もっとも男尊女卑に関しては別に農村に限らず、代々女王が統治するような慣習がある国なら多少は話が別だが、大抵は男尊女卑社会だ。
閉鎖社会である農村で、行商人でもない一見さんが暖かく迎え入れられるなどまずありえず、冒険者風の二人連れなど、何か面倒事でも起こされてはたまらないと、むしろ忌避されるのが相場だ。
馬小屋に泊めてもらえればまだ運が良い方なのに、しかしこの二人は、村に寄った二回とも、どうぞどうぞと満面の笑顔で迎え入れられたのであるから、どれだけ彼女がその美貌で得をしているか、彼女自身はまだ自覚していない。いや、自分が美人で得をしている自覚はあるが、まさか“この程度”のことで得をしているとは気づいていないのが実情だ。そこら辺、まだこの世界の文明レベルに対する理解度が低いのが主な原因であるが。
まあ、泊めてくれたお宅の奥様も、リドウがお礼に頬へキスの一つを落とした瞬間、「今夜はご馳走よ♪」とはりきり出すので、恵子だけのお手柄というわけでもなかったが。
今夜もそれと同じ現象が起こっているだけで、馬車の周りに積み重なっている大量の荷物がその証拠である。
商人の指示で、冒険者たちがわざわざ貨物用の馬車を一台丸々開けてくれたのだ。やはり普通は、ただのすれ違いでしかない冒険者に、そこまでしてくれるなど考えられない。
余談だが、リドウも恵子と同じ馬車であったが、彼は野宿の時同様、刀を抱えて座りながら眠っていたので、そうスペースもとらず、今更側で寝ているくらいで気になるほどでもなかった。
して翌日。アクレイアから来た行商人たちは、リドウたちとは逆方向なので朝にさよなら。
彼らは二人――特に恵子との別れをガチで嘆き悲しんでいた。もしリドウの存在が無ければ、冒険者たちは商人との契約を反故にしそうな勢いで。あまりにもリドウの存在がデカすぎて、どうせ望みはないのだと諦める理由になっていたのは、彼らにとって幸福であったのだろう。彼らとて身に染みて理解しているが、冒険者は信用商売なのだから。
今のところ二人の間に恋愛関係は全く皆無なのだが、彼らからしてみればあまりにもお似合いすぎて、わざわざ訊ねるまでもなく、勝手に誤解していただけなのだが、それは言わぬが華であろう。
そして今現在、二人は一路、今日の夕方には到着するだろうと商人に教えてもらった、近郊で最大と噂の都市へと歩みを向けていた。特に恵子は今夜こそやっとベッドで寝れるとあって、ここ最近では最高潮のご機嫌を見せていた。
……のだが。
「ん?」
「どーしたの?」
突然森の方へ視線を向けたリドウ。
そんな反応をすれば、やはり気になる恵子は、彼の顔を窺う。すると、彼の目はすっと細められていて、ここ一月そこそこで、彼がそんな顔をする時は何かしら戦闘の気配が近づいている時だと知っているため、また盗賊かなと身構える。
最初の襲撃から先の二度も、リドウは全く同じ対応をしていたのだが、せめて邪魔にだけはなるまいと恵子も気を奮い立たせて、全力で逃げに徹するくらいはできるようになっていた。そうすれば、不要な殺生を好まない彼の意思だけはせめて守れるのだから。
そのおかげで二度目三度目の襲撃では、リドウは敵の手足を切り落としたりする必要もなく、全員の片足の腱を断ち切るだけで済んでいた。
彼の判断基準では、過去の罪状もはっきりしない内に完全に切り落とすのはやり過ぎだったのだから。最初の時は、その程度ではまだ動ける根性があるかもしれないし、それでは明確な欲望を含んだ敵意を初めてその身に受けて完全に固まっていた恵子がまずいだろうと考えた故の行動だったのだ。
ならば気絶させるだけでも良いのではとも思うだろうが、気絶させるために念入りに頭を狙った場合、逆に脳内出血などで命を落とす危険性があり、他の部分では十万回に一度くらいはミスって意識が残っている可能性が考えられ、完璧主義者のリドウには到底選べなかった。もっと言えば、万一にも相手の力量を見誤って自分の攻撃の打点を逸らせる盗賊が居ないとも限らず、もしそいつに気絶した演技でもされた日には危険どころじゃなかったので、どうしても確実にある程度の機動力を殺げる攻撃を行うしか彼にとって選択肢がなかったのだ。
そもそも、それ以上に確実に意識を失うほどの衝撃を与える攻撃をすれば、どこに攻撃しようがそれだけで殺してしまってもおかしくはなく、結局『生命優先で100%無力化』という限定条件を満たすために狙える確実な位置は手足だけであり、機動力を奪うという観点で足、その骨を折ったくらいでは気合入れれば走るくらいできてしまうため、腱を切断するという手段をとっているのだ。
まだ片足が残っているため、余程の根性の持ち主ならば歩くくらいはできるだろうが、それなら恵子も十分に逃げ切れる。
まあ、盗賊たちからしてみれば盗賊生命が殺されたのには変わりなく、更に障害不自由な人生が確定しているため怨念の対象でしかなかったのだが、命があるだけマシであろう。リドウにとってみれば殺しても誰にも咎められない以上、殺してしまった方が遥かに手っ取り早いのだから。
ちなみに、盗賊の頭領に関しては二度目と三度目も、最初の男とほぼ同じ運命を辿っている。リドウが想像を絶する凄腕だと気づくや否や、例外なく恵子人質作戦を部下に命じるのだが、彼の基準では実行犯より教唆犯の方が罪が重く、彼女が逃げに徹しているために殺さなくてはならないほどこちらが追い詰められたりはしていないので、実行した部下たちは他と同じく足の腱を切られるだけで済んでいるが、彼基準の主犯は教訓を込めて徹底的にやらかしていた。
「悲鳴だ。遠いな。森の中、この方向に直線1200ってとこか」
「……どんな耳してんのよ。ついでに何でそんな正確に分かんの?」
「このくらいできなきゃ、エーテライスで表を出歩くなんざ自殺行為だ」
「何ちゅー物騒なとこなのよ、あそこ。……って、じゃあ何で今まで、お財布さんたちとか気配消す魔の森の魔物はともかく、平原の魔物も避けなかったの!?」
遠距離から魔物の発する声に気づければ、ちょっと迂回したりして戦闘を避けることもできたのではないかと恵子は主張する。
「魔物は大抵何かしら五感が人間とは桁違いに優れてる。迂回した程度じゃ結局追いつかれるぜ」
「なら、あの時みたいにあんたが抱えてくれるとか。ぶっちゃけ避けたいけど、あんた殺したくないんでしょ? そのくらい我慢するわよ」
「その気遣いはありがてぇとこだがな、魔物なんざどこにでも居る。それを選ぶなら俺は四六時中お嬢を抱えて全力で闘気を行使せにゃならん。一日くらいならともかく、それ以上は反動がきついんだよ。結局襲ってきた魔物に対処するくらいしかできねぇんだ」
「あ……ごめん」
「謝るな。お嬢が悪いわけじゃねぇから」
気まずそうに謝罪の言葉を口にする恵子だったが、リドウは特に責めたりはしなかったので、彼女にとってはとても助かった。
……それでも自責の念は拭い切れなかったようであったが。
「う、うん……ちなみに、女の子よね?」
「いや、男だな。それも複数」
「へ?」
普通に答えただけなのに、何でそんな心底意外そうな顔をされなきゃいけないのか、そう考えたリドウは彼の方こそ訝しげに恵子を見る。
しかしその直後、恵子の口から語られた理由、そのバカらしさのあまり、彼は思い切り頬を引き攣らせることになるのであった。
「え、マジ? こういう場面って、美女美少女がピンチになってるもんじゃないの? フツー、常識的に考えて、お約束的に」
「……一度お嬢の脳内常識についてじっくり語ってもらいてぇところではあるが……どうする?」
「ど、どーするって、何であたしに聞くの!?」
「俺はお嬢の護衛だ。お嬢を守るために最適で確実な手段は、まず不要な危険に近づかせねぇ、これに尽きる」
「で、でも……」
「どの道この距離じゃ、着いた頃には事が終わってる可能性の方が高ぇと思うぜ?」
「ッ――でもっ」
恵子には、これはリドウが自分を試しているのだ……とは思わなかった。本気でどちらでも良いと彼が考えているのが分かったからだ。
彼単身だったら即座に助けに行ったのだろうが……この一月そこそこの付き合いで理解できたこの男の性格に、一度決めたことは万難を排して実行する、という部分がある。その中で己が主義と矜持の許す範囲内で行動する。
彼にとって現在の最優先事項は麻木恵子の身の安全であり、彼女に対する不要な危険を少しでも避けるのは至極当然。
だが彼女が助けたいと願うなら、助けに行くのも構わない。それは彼女の自由意志であるから。それに付き合うのはこれも護衛として至極当然。
これが、例えば彼女が妙な色気を出して、異世界ファンタジーにお約束な遺跡探索がしてみたいとかいう『恋人と帰還方法を探す』という目的とは全く関係ない行動に出るなら話は別で、その場合は力ずくでも止めるし、あまりにも目に余るようなら見捨てることも視野に入れるだろう。
だがこの場合、助けに行くのは彼の基準でも正当であり、ならば彼女が助けたいと主張するなら付き合ってやれば良い。結局のところ、彼女の身に何事もなければ良いのだから。そしてそのくらいは己が己に求める最低限の責務であり、でなければあの三魔王に合わせる顔が無い。
―――魔の森を抜けた辺りから先、なぜかリドウの良いところばかりを探してしまっているからこそ、恵子はほぼ正確に彼の中でどういった思考が行われたのかを見抜いていた。
(なら、きっと……)
これが――正解だっ。
「お城から魔の森に抜けるまでみたいに、あたしを抱っこしてあんたが連れてって!」
「それがお嬢の望みだってならしゃあねぇな」
挑むように見つめてくる恵子を見下ろしながら、リドウは薄っすらと笑みを浮かべる。
それがどこか、娘の成長を見守る父親のような……いや、ここは双方の名誉のためにも兄が妹を、にしておこう。とにかく、そんな風情の漂う暖かい微笑であり、彼女は一瞬見惚れてしまった己をついに否定できなかった。
リドウは言ってしまえば自分勝手です。よって、他の作者様方がお書きになってらっしゃる物語に対して、リドウが思っているようなことを作者が批判しているという意図ではありません。
あの聖母に育てられ、あまり他の人間たちと接触せずに生きてきたからこそ、このような男が出来上がったのだとお考えください。