第二話 男一人、女一人
エーテライスにて育ったリドウと、日本発の異世界人である麻木恵子。二人は双方に別々の目的を持って、エーテライスの外、人の支配する世界であるルスティニアへと旅立つこととなった……というのが前回のお話であった。
が――
「っきゃぁあああああああああああ!」
少女恵子の絶叫が響き渡る。
「ひぃいいいいやぁあああああああ!」
更に響き渡る。
「死ぬ! 死んじゃうからぁああああああああああああ!」
もっとずっと遥かに響き渡る。
「少しゃ我慢してくれよ、耳に痛ぇ」
「むむむ無理無理、絶対無理ぃやぁああああああああ!」
呆れた声のリドウに対して、恵子は彼の腕の中で文句だけはしっかりつけてからも絶叫を続ける。
いったい何が起きているというのか?
「ここここここれ絶対高速道路よりスピード出てるわよ! 下手したら新幹線なみじゃないマジで!?」
「何と比べてんのかは知らねぇが、これより落とすとエンシェントドラゴンやケツァクアトルあたりにゃ簡単に補足されちまうからなぁ。別に倒せるっちゃ倒せるが、お嬢を守りながらじゃ、複数に来られると流石にまずいぜ。俺はどうとでもなるがね」
「ホントに絶対落とさないでよ!?」
「んなしょぼいミスするか、この俺が」
自信満々に言ってのけるリドウを、恵子は恐怖のあまり全身ガチガチになりながら、心の底から恨めしそうに睨み付けている。
二人は既に旅の道中にあった。
世界の果てエーテライスは魔の森に囲まれた陸の孤島である。しかし、その広大さは小さな大陸くらいは優にあり、そのほぼ中心に位置している魔王城と言うべき場所からルスティニアへと向かうには、まず魔の森へと至る道中の山河草原、それにエーテライス自体が持つ森といった難所を行かなくてはならない。しかも、そこに出没する魔物は皆極めて強力かつ凶悪。外界たるルスティニアの人々では、真実一握りの人間にしか対処が不可能なレベルの魔物たちが、そこかしこにひしめいている。
そうしてやっと魔の森まで辿り着いて、初めて“それなりの”戦闘者にも対処可能なレベルとなる。
外界から何かしらの空間転移事故によって稀に現れる迷い人にとっては、エーテライスに落ちることになった時点で、それは殆ど即座の死を意味している。彼ら迷い人の生はエーテライスには無く、魔の森まで辿り着いてようやく再び始まるのだ。
しかしながらリドウという男は、はっきり言ってしまえば紛れもない超人である。彼に勝る戦闘能力を持つ者など、彼の家族である三魔王を含めても、ルスティニアでは両の手の指、もしくはそれに加えて足の指まで使えば数え切れてしまうだろう。だがそんな彼でさえも、一方的に蹂躙し得るものではないのだ、エーテライスの魔物は。
もっとも、それはエーテライスの食物連鎖の階級においても最上に位置する古代竜や巨人に限った話でしかなく、リドウの心配は実際杞憂でしかない。何せ彼らは、その個体数は絶対的に少数でしかなく、そうそう遭遇するものではありえなかった。
だがリドウにとっては、ありえるかも知れない万に一つであれば、考慮するには十分値するものであるのも、また真実であった。
何せ懸かっているものは己ではなく恵子の命。彼にとって、たとえ昨日今日に知り合ったばかりで、特に何の感情も持たない少女でしかなくとも、一度守ると口にした以上、己の命を投げ打ってでも成し遂げるのは、人が息をしなくては生きていけないのとほぼ同義で当然のことだったのだから。
しかしながら、それは掛かる危険を“自ら望む”という行為と等価値ではない。カッコつけて自ら要らぬ危険に身を躍らせるなど、彼にとっては愚行以外の何物でもないのだ。
リドウは命懸けの闘争を好んではいるが、それは最低限対等以上の相手との、何の邪魔もされない状況での一騎打ち……か、もしくは、数の暴力によってそこまで引き上げられた危険度の者たちとの己独りの尋常の戦であり、例えば人質に代表されるハンデを自ら背負い、己の実力を絶対的に下げることによっての、相手の実力に合わせた戦いでは決してない。あくまでも己の全力を駆使した闘争でなくてはならないのだ。
現在恵子を抱きかかえて地上を疾駆するこの状況は、まさしくそのハンデに違いなく、避けられる戦闘は全力で回避すべきであり……流石に彼も、人一人を抱えていつまでもこうして全力疾走していられるものではなかったが、せめて魔の森までは早々に抜け出してしまいたいがため、今はこうなっているのである。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
そうして魔王城から凡そ半日。ようやく死の疾走から開放された恵子は地面に突っ伏していた。
彼女自身は全く何もしていない……のは確かにそうであるのだが、ずっと身を縮めつつも固めていたせいで、存外に体力を消耗しているのは事実であった。
むしろ……
「ふぅ……一仕事の後の一服はたまらんねぇ」
平然と煙管を燻らせているこの男こそが異常なだけである。
「……体力オバケ」
「久々に口を開いたと思や、ご挨拶だな、おい」
リドウは自ら身を屈めて、恵子の顔を覗き見る。
「お嬢も女なら、まず身嗜みってもんに気を遣え。ダレるのはその後にしろ。うちの侍女ならありえねぇぞ。ビショージョなんだろ? 折角よ」
「……そこはかとなく馬鹿にされた気がひしひしとするわ。でも無理、立ち上がるのも辛い」
「ったく、仕方ねぇお姫様だぜ」
やれやれといった風情で、リドウは恵子の頭に手を伸ばし、彼女の背中まで伸びる髪を撫で付けだした。
「――ッ!? 何すんのよ!」
「あ?」
ぱしっとその手を払われたリドウは、激昂する恵子に対して、しかし自分は特に怒ることもなく、ああそういえば、と今思い出すことがあった。
「あたしの頭を撫でて良いのは芳樹だけってゆったでしょ!?」
「悪ぃ悪ぃ。“寝た”翌朝の侍女たちにやってやると喜ぶもんでよ、髪梳かすの。反射的に、な」
「はあっ!?」
途端にかっと顔を赤くする恵子。
「あ、あああああ、あんたって……うっわ」
「悪気は無かったんだ。許せ、次からは気をつける」
「そーじゃないでしょっ」
「あん?」
「ねねねね、寝たって、寝たって、寝たって……まさかあんた、しかも『たち』って……」
恵子は一連の流れで疲れを忘れてしまったのか、すくっと立ち上がり、座り込んだままのリドウを見下ろしながら指を突きつける。しかも、その上半身は若干後ろに仰け反らせながらである。
それを見上げるリドウは、ため息しながら自分も立ち上がると、「やってらんね」とばかりに彼女の横を通り過ぎて、草の生え茂る中の一点、何やら文様が刻まれたレリーフに手を翳し……
するとその手が白く光り出すと、それに呼応したのかレリーフも同様に光り出した。
「……純情なのは分かっちゃいたが、しかも潔癖かよ。たまんねぇな、とんだ貧乏籤だぜ、こんちくしょう」
作業をするに喋りながらでも何も問題がないのか、思わず口を突いて出るのを、リドウは止められなかったようだ。まあ確かに、彼にも『未だ見ぬ強者に出会う』という目的があるにしても、それはどちらかと言えばこじ付けに等しく、元々は大反対だったのだから、あまり気の合いそうにない小娘との今後を思うと、愚痴の一つも言いたくなるだろう。
しかし、それを聞き届けてしまった恵子としては、こうもはっきり馬鹿にされて治まるものではない。
「悪かったわね! お子様でっ」
「あん? だいたいよお嬢、お前さん恋人いたんだろ? それでその年でまだ初心って、どういうこったか俺の方が不思議だぜ」
「そーゆーことは十八歳未満は禁止なの! あたしが処女で何が悪いってのよ!?」
「何とも面倒な国だねぇ、日本ってのは」
絶対に行きたくないなとリドウは零す。
「しかし、普通は惚れた相手なら速攻食っちまうと思うがね。本当に付き合ってたのか?」
「付き合ってたわよ! それに付き合ってるのっ、今でも! あんたみたいな肉食獣じゃないのよ、芳樹はっ。あたしが処女なのだって、体目当てじゃなくって、ちゃんと大切にしてくれてるって立派な証拠よ!」
激昂して勢い全開でしゃべり倒す恵子。
リドウはしかし、こちらは強気で言い返すかと思えば、何やら妙な関心をしていた。
「はぁん。そういう考え方もあるもんなのか。俺はサリスに、女は口説いて抱いてやるのが男の甲斐性だって教えられてんだが。これも世界の違いってもんかねぇ。それともうちが特別だっただけか?」
「は? え? 何それ」
怒鳴り散らされているというのに、至って気にした風もないリドウ。その彼の口から飛び出た、恵子からしてみればありえない言葉に、彼女は怒りを一瞬にして忘れてしまったようだ。
「何もこうも、俺に魔法を教えたのはリリィで、刀術は兄貴。体術は爺さんだろ? で、政治やらの雑学と一緒に女を俺に教え込んだのが侍女長のサリス。最初は俺の方が食われた立場だったが……ありゃ、11歳の誕生日だったかね、確か。いや、10歳だったか? 何にしろ一応設けられちゃいる誕生日だったのは間違いねぇ」
「…………」
「最近じゃ随分しおらしくなったもんだが、昔は振り回されっぱなしだったもんだぜ」
どこか懐かしそうに言うその姿に、もう何て言っていいか分からない恵子であった。
「あ、あのねぇ……あんた、まさか外の世界に行ってもその調子じゃないでしょうね」
「俺は俺だが? 何も偽るつもりはねぇぞ」
「まさか、女と見たら片っ端から口説く気!?」
「そこまで節操無しじゃねぇよ。気に入った女だけだ」
「あっ……あんたね、もしかして気に入ったら皆口説く気なの?」
「いけねぇのか?」
「ダメよ。ダメダメよ」
何なのこの男……と思って肩を落とす恵子は、これは自分がしっかりとこの男の魔手から女の子たちを守らなくちゃ、などと決心した。
その時であった。
「終わったぜ」
「は?」
突然脈絡のない言葉が返ってきて、呆ける恵子である。
「エーテライスを包む大結界を解除するわけにはいかねぇが、かといって貫いた一瞬だけならともかく、恒常的に一部分だけを解除するのは、これが中々どうして難しい。だから専用の術式が刻まれたレリーフがこうしてあるわけだ。見てみな」
リドウ首を振って先を示すと、そこには何も無い空間にぽっかりと穴が開くようにし、その先には鬱蒼と生い茂る巨大な木々があった。
呆然とそれを見つめる恵子の背を、リドウは軽く叩いて先に促す。
「ぼさっとすんじゃねぇ。とっとと行くぞ。すぐに元に戻っちまうからよ」
「う、うん……」
恵子は気勢を殺がれてしまい、つい大人しく従ってしまう。
が、穴を潜った途端に変色した空気を感じ、たった一歩の違いでこれは何だと、思わず後ろを振り返る。
「何なの、これ……」
「大結界の内部は極僅かにずれた異空間だが、単純に隔離されてんじゃなく、こう――」
と、リドウは左手を半握りにし、それを山、いやドームに見立て、最初に手首の辺りを右手の人差し指で触り、その指をそのまま左手の中指に持っていく。
「端っこまで来ると、強制的に逆の端までループするようになってるんだが、そいつは外でも同じ作用が働いてる。だから丁度、何も無ぇ空間にぽっかり開いたように見えたんだよ」
「……リリステラさんの力って、どんだけのもんなのよ」
「知りたいか?」
「え?」
いつもの飄々とした調子とはどこか違う雰囲気を感じさせるリドウの声に、恵子はその事実自体に驚きながら応えていた。
「聞いたら後悔するぜ、あまりにも桁が違いすぎて。控えめに言っても、多分今のお嬢が想像してる、軽く百倍は盛って考えていい」
「……一撃で国がなくなるくらい?」
「ルスティニアが丸ごと吹っ飛ぶ」
「…………………………………マジ?」
長い沈黙の後に何とか紡いだ言葉は、嘘であってくれという願望が込められた確認の言葉であった。
が、まだまだそれでは控えめに言っていたのだ、リドウは。
「他の六柱を合わせても手に負えねぇ魔王の中の魔王ってのは伊達じゃねぇ。兄貴と爺さんは、魔王的な観点で年月を換算した場合だが、ほぼ同世代らしい、俺も詳しくは知らねぇがな。だがな、魔王の歴史的には比較的新しい世代だったりもするんだ、他のもっと古いやつらは既に何らかの要因で滅んだりでな。だがリリィは違う。真の意味で最古にして最初の魔王なんだよ。桁違いなんてもんじゃねぇ、根本的に存在してる次元が違ぇんだ」
「……それだけの力を持ってるのに、十倍の力の持ち主にも勝てるの? 反則じゃない」
「十倍の力を持つ、ちっと齧った程度の未熟者、だったらだがね。ま、あまり気にしても仕方ねぇぞ。この世界に居る以上、どこに居ようがリリィの手にかかりゃ全く意味なんざねぇんだ。リリィ自身にどうこうするつもりがねぇ以上、気にしねぇのが精神的に楽だぜ」
「あんたそんな人を相手に超えてやるとか……ホントどんだけよ」
「約束したからな」
これもまたいつもとは違い、どこか柔らかい雰囲気を感じさせるリドウの言葉であった。
恵子はそのせいで余計に気になってしまう。
「約束?」
「ああ。いつか超えてやるって、子供の頃によ」
「子供の頃って……そんなの律儀に」
「守るさ。俺は一度口にしたことは何があろうと違えねぇ」
「――ッ!?」
軽薄、とすら思っていた。恵子は正直、この男と一緒に居て、本当に自分は大丈夫なのだろうかと、保障してくれた【魔神】には悪いが、そう思ってしまっていた。
「リリィは当然として、兄貴も爺さんも、口にしたことは必ず実現させる。なら、俺がそうしてやらなくちゃ、あいつらに面目が立たねぇってもんだろ。だからな、安心しろお嬢」
――お前さんは、俺が守ってやる。
「う……あ……」
一歩、そして二歩。
恵子は何かに気圧されるように、後ろに足を進めてしまう。
これは……まずい。恵子はなぜか、そんなことを思ってさえしまう。
リドウはそんな彼女を見て、ぴくりと片眉を跳ね上げ、次に訝しげに目を細め、そしてふっと鼻で笑った後に、にやりと笑いながら、彼女に一歩詰め寄る。
身長差のせいでその一歩は恵子にとって大きく、たったそれだけで眼前に立たれてしまい、更に一歩退こうとしたのだが、その前には既に……
彼の顔は彼女の顔のすぐ横にあった。
「他人の女を寝取る趣味は――ねぇんだがな」
声と共に吹きかかる吐息に耳を擽られる。
瞬間、ばっとその場を飛び退いて、耳に手を当てながら、涙目の真っ赤な顔で、無言の内に目の前の不埒者をきつく睨み付ける。
そんな彼女を見るリドウはひたすら楽しげでしかなく、全く感じ入ったようには見えない。
「かっかっか。そんな目ができんなら大丈夫だろ。くれぐれも俺に惚れるなよ? あんま一人の女に入れ込める性質じゃねぇからよ。お嬢とは合わねぇだろ」
「言われなくったってあんたなんか好きになるわけないでしょ!?」
「そうかいそうかい。そりゃ安心だ――っと、さっそくお出でなさったか」
「え?」
直前まで大爆笑していたはずなのに、そんな事実はなかったかのように、いきなり真顔になり目を細めるリドウ。
しかし恵子は、最初こそ「何よいきなり。そんな目をしたってこ、こ、怖くなんてないんだからね!」と思ったのだが、それがとんだ邪推だとは、次の瞬間ようやく気付けた。
(なっ……)
気配を感じる、という表現があるが、実際の生活で他人の気配に無条件で気付くような経験は恵子にはなかった。例えば足音だとか、息遣いだとかの、何かしら耳に届かなくてはそうそう気付けるものではない。
だが……
声も無く、ごくりと何かを飲み込んで、恐る恐る振り返る。
距離にして彼女から10メートルほどだろう。
地球では東洋に描かれるタイプではない。ゲーム等ではこちらのタイプの方が良く使われるだろう。理由としては、東洋において“それ”は神の使いかそれとも神自身であるか、いずれにしても神聖なものとして描かれるケースが多いのに対して、西洋では一貫して邪悪なものというイメージで描かれる。宗教観的なものが最大の原因だろうが、形状が違うために全く同一のものとは言えないと思われるが、それでもこの単語は同一のものとして訳される。
すなわち竜、もしくは龍。そしてイコールで――
「ど、ドラゴン――ッ!?」
ぐがぁあああああああああああああああああああ
それまでは、その巨体にも関わらず、恵子は物音一つ感じた覚えはなかった。
しかし、そのドラゴンは今、その巨体に見合った轟音を立てながら、恵子を目掛けて突進を開始していた。
大きい。真っ白な頭の中で思い浮かんだ、それだけが唯一の感想だった。
それは体はもとより、手、足、目、そして何よりも、
「く、くちぃいいいいいいいいいいいいい!?」
「ったく、ぼさっとしやがって」
そこから先は、リドウによる流れるような動作だけが支配する空間となった。
彼はまず恵子の胴体を巻き込むようにして己の右手で彼女を抱えると、がぶりと彼女に噛み付こうと頭を下げたドラゴンの、その頭を足蹴にし、ドラゴンの上空数メートルに彼女ごと飛び上がると、頂点に達して落ちる時は仰向けのままで、そのまま左腰に挿した刀の柄を左手で逆手に握ると、のそりと頭を上げたドラゴンとすれ違う。
刹那、空中でリドウとドラゴン、その両者の視線が交じり、更に次の瞬間、リドウに抱えられたままだった恵子は、一気に重力が反転したような思いを味わうと共に、ぐるんっと視界が一転するのを感じ――
恵子がそれに驚いて何も分からないでいる内に、彼女は気付いたら、己の半身に逞しくも暖かな温もりを感じながら、何事もなく地面に降り立っていた。
――そして、なぜかリドウの左手には、逆手に持ってその身を露にする、一振りの美麗な刀を見ることにもなるのであった。
「さて、とっととここを離れるぞ」
「へ?」
横抱きにされたままで、己の頭上から聞こえてくる声に、恵子はとっさに間抜けな声を上げるしかできなかった。
が、リドウは特に呆れた様子を見せたりもしなかった。
「血の匂いに惹かれて、すぐに他の魔物がわんさか来る。ここ程度の魔物なら、ダースに束になってようが俺の敵じゃねぇが、わざわざ必要もねぇのに戦う意味もねぇだろ」
「う、うん……でも、血の匂いってな」
恵子が疑問を告げようとしたその刹那。目を離すなど到底適わなかったため、ずっと見ていたドラゴンが……その首がずるっと滑ったかと思うと、ずどんと重い音を立てて頭部が地面に落ち、続けて司令塔を失った胴体も地面に崩れ落ちた。
「なっ……」
更に同時に、ちんっと音がしてそちらに視線を移してみると、リドウが既に、抜き身だった刀を鞘に納めていた。
「ちょっ、いつのまに切ったの!?」
「さっき空中で回転したろ? 逆手のままじゃ、そんくれぇの勢いをつけにゃ、流石に俺もお嬢を抱えたままでドラゴンを刎ねられるもんじゃねぇんでな。つか、タイミング悪すぎんだよ。じゃなきゃあんな無様な斬り方するかっつうんだ。まさか身動きすらできなくなるとは思ってもいなかったぜ、正直。てっきりとっとと俺の後ろに逃げて来るかと思ってたのによ。俺まで一瞬焦ったぞ」
リドウは恵子の額を指でぴんっと撥ねる。
別に痛みはなかったが、彼女は何となく両手でそこを押さえて、しかし唖然としたまま彼の顔を見上げている。
それを見る彼といえば、煙管を取り出して一吸いした後、ため息まじりの煙を斜め上に向かって吐き出し、上向きのまま首を傾げ、片目だけに彼女の姿を映し出し……
「ま、いいさな。凄まじい足手纏いが、恐ろしい足手纏いに変わっただけだ。許容範囲っちゃ許容範囲だ」
「うっ……悪かったわね、足手纏いで」
「理解したなら次からはぼさっとしてんじゃねぇぞ」
ぶすっとして言う恵子であったが、いつもは低いながらも飄々としたリドウの声がドスの利いたものに変わったのを耳にし、一瞬びくっと身を強張らせる。
「俺にとっちゃ魔の森だろうと外界で普通に遭遇する魔物なんざ、雑魚だろうがボスクラスだろうが、撃退条件が変わるんでもなけりゃ、大して変わりはねぇんだ。お嬢がびびる必要はねぇ。俺は連中より遥かに強ぇんだ。そこんとこだけきっちり覚えときゃいい。信じてりゃ頼りになるぜ? 俺はよ」
「――ッ!?」
ニヒルに笑むリドウに、恵子はなぜか顔が熱を持ったのを感じてしまう。
(っく……何だってのよっ)
「さて、つうわけで、さっさと行くぞ」
「分かってるわよ!」
「……何でいきなりキレられてんだ? 俺は」
「うるさいわね! さっさと行くわよ!」
「はいよ。お姫様」
「うるさい!」
「……理不尽だろ、幾らなんでも」
さて、魔の森に入ってから、意外にもあっさり、地球の暦では二週間が過ぎ去ってしまった。
「はぁ……まだなの……?」
「ぶつくさ言うな。お嬢が休憩ばかり取るから遅々として進まねぇんだろうが」
「しょーがないじゃない。ただの女子高生が、こんな文字通りの獣道……いえ、いっそ魔物道ね、うん。そんなとこ一日中歩いてられるわけがないでしょ」
「俺一人なら歩きだけでもとっくに抜けてるとこだぜ。このペースじゃいつになることだか……あと十日は見ておいた方がいいな」
「魔物が出て来ないのだけが唯一の救いよねぇ」
そう。恵子の言う通り、初日にドラゴンに襲われた以外に、二人は全く魔物と遭遇していなかった。
外界においては最強クラスの魔物が跋扈するはずのここ魔の森で、いかにも美味しそうな人間が二人、そのようなことが考えられるだろうか?
そこにはちゃんとした理由というものが確かにあったのである。
「あんたにびびってるってゆーのが、真面目に怖いんだけど」
「年に一度くれぇのペースだが、迷い人の送迎に通るからな。そん時のことを覚えてる連中は襲ってこねぇよ」
半ばジト目でリドウを見やる恵子であったが、彼の方は軽く肩を竦めてみせただけであった。
「魔物ってのはより強力な固体になるほど往々にして知能も高くなっていく。根本的に思考や発音が人間とは異なるから、エーテライス級でも意思の疎通が可能なやつぁまず居ねぇが、知能指数的には人間と同等かそれ以上の固体も存在する。ここの連中なら一度思い知りゃ十分解するさ。魔の森級の魔物なら繁殖力も弱い。代わりに寿命やら戦闘力やらが優れてるわけだが、つまり世代交代は極めて緩やかだからな。覚えてねぇ連中の方が少ねぇだろ」
「知能指数とか普通に出てくるファンタジー世界人なんて、何かイヤね」
「リリィの持つ知識と技術は外界に比べて千年進んでると思って構わんぜ」
「ホント反則よね。お城でも全然普通に暮らせちゃったし」
「外界じゃ期待するなよ。俺も行ったことあるわけじゃねぇから、詳しいってこた当然ねぇが、大方の予想はつく」
「はぁ……野宿だけでも勘弁してほしいのに、街に行っても期待できないなんて……」
「嫌なら戻っても一向に構わねぇぞ、俺は」
「言ってみただけよ。愚痴くらい言わせて、お願いだから」
リドウは特に答えず、煙管の煙を吐き出した。
要するに、好きにしろってことなのだろうと、恵子は勝手に解釈することにした。
「食べ物はあんたが狩って来た見たこともない動物を魔法で焼いたお肉だけだし、こんなんじゃ栄養偏っちゃうわよ。あたしがこの美貌を維持するのに、どんだけ苦労してるか、あんた分かってんの?」
「ビボー、ね」
ふっ
「……ねえ、いい加減一度殴らせてくれない?」
「しかし、なんだな」
「何よ」
常時の飄々とした態度しか見せないリドウに対して、恵子は自分の声がどんどん険を帯びていくのを自覚する。
「お嬢はあれだ、俺相手にだけやたらキツクねぇか? リリィ相手だともちっとこう……なんだ、『ふわふわ』した感じだったじゃねぇか」
「あんたがあたしを怒らせてばっかだからに決まってるでしょ!」
「左様でございますか、お姫様」
「リリステラさんの真似したって無駄だから。てゆーか、ムカつくだけだから」
ぐぐっと拳を握り締める恵子だが、その内心はこんなことを思っていた。
(こいつに気を許し過ぎると、何か取り返しがつかなくなるような気がひしひしとするのよね、なぜか、全然意味は分かんないけど。だから当たり強くなっちゃうんだけど、無意識なんだからしょーがないじゃない)
そんなことを知り得るわけもないリドウと言えば、相も変わらず暢気に煙管を燻らしているばかりである。
が、突然立ち止まり、更にその眼差しを常時より鋭いものにする。
恵子も一歩先に進んでからそれに気付き、振り返って彼を仰ぎ見る。
「どーしたの?」
「……居るな」
「魔物? ……どこ?」
「右前方30。きっちり気配を消してやがるが……2……いや、3か」
「……どーしてこの世界の魔物は一々気配消すのよ。ドラゴンの時もそーだったけど」
心底イヤそうにがっくりと肩を落とす恵子である。
「知能が高いってこたぁ、それだけ学習能力があるってことだ。狩猟をするのにどんな獲物を、どうやって待ち受け、またはどう襲撃するのが最も効率的か、自力で解するのは当然だろ? 兄貴の話じゃ、魔の森より先の平原の魔物じゃ、そんなこたねぇって話だが」
「ありえない……そんな異世界ファンタジー絶対イヤよ。何でただ強い魔物が強いだけじゃいけないの? 魔王は魔王で皆して超努力家だし」
「もう来ちまったんだから、しゃあねぇだろが。しかし、どうすっかね」
「どうって……戦わないの?」
「戦わずに済むならその方がいい。お嬢も居るしな」
「足手纏いって素直に言っていいわよ」
「まあその通りじゃあるんだが」
「ちっ」
「この距離なら俺がお嬢をかか……」
リドウが言いながら、ちらりと視線を恵子に置いたその時、なぜか彼は不自然に言葉を切った。
「……いや、戦るか」
「え? 今何か言いかけなかった?」
「気にすんな」
「……うん」
「お嬢は俺の後ろ、5メートルくらいのとこに居りゃいい。俺より後ろにゃ行かせんよ」
「うん」
恵子は何となく納得いかなかったが、戦闘に関して自分がどうこうできるものではないとは理解しているので、素直に指示に従った。
そうして歩くこと僅か数秒。
リドウを知らない不幸な魔物たちが、横幅が10メートルほどもある、巨大な木の陰から三体、一斉に現れた。
その姿は小さな巨人と言うべきで、各々の手にはそれぞれ、形を整えただけの棍棒を携えている。
恵子は彼らを迎えるリドウの背を眺めながら、何かオーガっぽい? オーガかな? と胡乱に思ったりしていた。
正確に彼らが現れたタイミングを述べると、リドウにとっては殆どいきなり襲い掛かられたようなものである。
しかしそれは、所詮常人であればの話であり、超人にして、そもそも端から彼らの存在に気付いていたリドウにとっては何ら問題とはなりえない。
恵子はこの時、初めて彼がその刀を抜く瞬間をその目に……できなかった。
「は?」
今回に限り魔法で戦った、というわけでは特段ない。
まるで棒立ちの様を見せていたはずだったのに、リドウは既にして刀を振り切った様子で立っていた。その姿も未だ殆ど棒立ちである。
更に彼は、ようやく腰を若干落とすと、右手に振り切ったままだった刀を両手でに持ち直し、下から救い上げるように刀を一気に跳ね上げ、それを相手の首筋に叩き込むと、今度はそのまま少し左に体を移し、上段から斜めに打ち下ろすことで、こちらも首筋に叩き込む。
後半は恵子にも見えていたが、見えたというよりも、銀色の線が走ったような? とようやく思えた程度であったが。
リドウは刀の血を……そもそも一滴の血すら見当たらない刀を優雅に鞘に納めると……気持ち良いまでのドヤ顔をキメル。
「どうだ?」
「ど、どーって……いや、凄いけど……それが何よ」
ドラゴンの時を思い出させる、一泊の間をおいた惨殺死体の出来上がりを見て、その気色悪さに身震いしながら、彼女は何とか応じる。
「これで少しゃ信じる気になったか?」
「え……?」
恵子は疑問の声を上げる。
しかしその後、真剣な顔つきになったリドウに、恵子はドラゴンの時に注意された際の極低音の声を思い出し、もしかしてまた怒られるのかと身構えてしまう。
「お嬢、お前さん全然気付いてなかったみてぇだがな、足は小刻みに震えてやがったし、完全に顔が固まってたぜ? 俺の実力を心底信頼してりゃ、そんなことにゃならんだろ」
「じゃ、じゃあ今のってあたしにあんたの実力を認めさせるためだったの!?」
「できりゃ、したかなかったんだがな。だが今後を考えた時、いざって時にお嬢がぶるっちまうようじゃ、俺もかなり不安なんだよ。今の俺の最優先事項はお嬢の身の安全だ。今の連中には悪ぃが、元々は俺らを襲おうと向こうからやって来たんだ、殺されても文句は言えねぇ。今回は運が無かったと思って諦めてもらおう」
「…………」
しゅんとする恵子を見たリドウがため息をすると、彼はそれで力が抜けたのか声に篭っていた力も失ってくれたので、恵子は地面に落としていた視線を、慎重に窺うように上目遣いではあったが、ようやくリドウに戻せた。
その顔が特にイラついているようにも怒っている様子にも見えなかったので、彼女はどこかほっとする自分を感じる。
「足手纏いは別に構わねぇよ。けどな、いざって時に体を動かせるよう、せめて肉体と精神だけは常にリラックスさせておけ。俺に全部任せて油断しろってわけじゃねぇぞ? 絶えず状況を確認しつつ、いつでも動けるように、体に余裕を持たせろ。無駄な力は硬直を生み、硬直は初動を妨げる。魔物が出たからといって無駄に力むな。基本的には俺が居る。だがな、俺だって所詮は人間の範疇でしか生きてねぇんだ。いずれどんな大ポカをやらかすかも分からねぇ。もしその時お嬢が極々僅かの差で、早く動けただけで助かるって可能性は十分にありえるんだぜ?」
「あ――」
こいつ、心配してくれてる。
「その……ごめん……」
「違ぇだろ」
「え?」
「こういう時ゃ、謝罪じゃなくて、だろ?」
「あ! ありがとうっ」
「良し、上等だ」
今度もまた、ドラゴンの時の「頼りになるぜ」のように、ニヒルに笑ってみせるリドウ。
(か、カッコい―――――――――くなんてないないないないない! そんなの絶対ないもんっ! ごめんね芳樹ぃ……)
いきなりしゃがみ込んで頭を抱え、全力で左右に振っている恵子。
リドウは「こいつ大丈夫か? と、ホントたまに思っちまうんだが……」とか、再び今後がちょっと心配になってきたりしたが、まあ徐々に改善していけばいいさと、恵子を見下ろしながら肩を竦め、そしてやっぱり煙管を取り出すのであった。
それから更にちょうど一週間後。
「やったぁっ!」
何を喜んでいるのかと言えば、久しぶりにまともにお日様を拝めたことがまず第一、続いてそれに付随する、これからは平原を行けるし、途中に村くらいはあるだろうし、最悪はアクレイアまで、流石にこれから更に一月以上などということはないだろうと、まあそういった諸々である。
オーガの一件後、妙にやる気を出した恵子のおかげ……とはいえリドウにとってみればそれでも遅々としたものであったが、比較的それ以前より彼女が根性を見せたため、彼が予想したよりは少し早く魔の森を抜け、平原へと辿り着いたのであった。
「さて、こっからはまず公道を目指す。道のりは兄貴から聞いてっから安心しな」
「公道……そんなのあるんだ」
「そう上等なもんじゃねぇらしいからな、何についても外界に過度な期待はするな。後でがっくし落ち込む羽目になるぜ」
「はーい」
「それと、平原の魔物は俺を知らねぇからな、平気で襲ってきやがると思うぜ。よしんば俺を知ったとしても、俺を俺と認識できるだけの知能は望み薄だ。とにかくお嬢は気をつけろ」
「うん。頑張るわ」
両手を胸の前まで持ってきてぐっと握るその姿は、やはりリドウにしてみると子供っぽくて、不安を感じてしまうのを彼は否めない。
なので少し保険をかけてみることにする。
「いいか? 力むんじゃねぇぞ。全身をリラックスさせて、できれば少し腰を落として、膝も曲げてろ。人間、歩くにしても走るにしても跳ぶにしても、直立した状態からいきなり行けるわけじゃねぇ。必ず一度膝を曲げる必要がある。初めから腰と膝を落としてりゃ、筋肉の収縮による反発力は稼げねぇが、一つ動作を省略できるから、その分初動を稼げる。戦闘においてその刹那は命を左右するに十分だ」
「あー、だから武道とか剣道とか、みんなそうやって構えてるんだ。初めて知ったわ」
「戦闘技能ってのは究極的には論理が全てを支配している。いずれの武技であっても最終的に辿り着くところは、実のところさして変わりはねぇんだ。経過途中であっても似てくるのは道理だろ」
「へぇ……ホントにあんたたちって、単純に大きな力を使ってるだけじゃないのね」
「それだけでもある程度まではいけるのは間違いねぇ。だがその先には到れねえな。精々一流半かよほど稀有な才能があって一流が限界だ。超一流には成れんよ」
「リラックスして、腰を落として、膝を曲げるのね。うん、やってみる」
「あまり深くはするな。ほんの少し、気持ち落とすだけでいい。『構え』って言えるようなレベルで落とすと、それはそれで、そこからその先の動作を扱う的確な技術が要求されてくるからな」
「こんな感じ?」
恵子は軽く膝を曲げてみせる。
するとリドウは一つ頷いてみせた。
「それでいい。ただし、そこからただ膝を伸ばしゃいいってもんでもねぇ。一度やはりもう少し深く膝を曲げる動作は必要だ。だが、『膝を曲げよう』じゃなく、『地面を踏みしめよう』と意識しろ。すりゃ、きっと大地がお嬢の味方になってくれるさ」
「……ん。信じる」
「おうよ、信じとけ。弟子は師を疑うべからずっつうしな。まあ最後は、お嬢の段階にゃわりと高度なことを言ったつもりだ。いきなり『できろ』とは言わん。だが常に頭の隅に置いておけ。意識し過ぎて肝心の護身が疎かになっちまったら本末転倒だが、いずれ板につきゃ、大分違ってくる」
「分かった」
「良し。じゃあ行くか」
「おー!」
「おうおう。元気なこって、結構なこった」
何となく、ちょっと前までよりリドウへの当たりが柔らかくなったような気がする恵子である。
二人は一月余りの時をかけ、ようやく魔の森を出ることは適った。
取り合えずの目的地はここユリアス王国の支配する地の中でも有数の都市アクレイア。
中継地点ですらない殆ど出発地点と言っても過言ではない目的地だが、先が見えたことでモチベーションの上がった恵子である。
しかしリドウからしてみれば、今日明日にでも到着するわけでもないのに、今からそんな気負ってどうするんだと思わないでもなかったが、やはりそこはこの男、「ま、いいさな」と煙管を銜えるのであった。