第三十二話 リドウの望み
巨峰ホールディックを構成する山林の一角。広く開け、僅かに盆地の様相を呈しているそこに、リントブルムは居た。
伝説級という、伝承以外での目撃例は殆どない魔物。自ら未開の地域を探索に行くような、腕に特別覚えがあり、勇敢とも無謀とも言える冒険者が極稀にその遺骸から採れる素材を持ち帰ったり、手付かずの領土を広げようと画策した国が軍を派遣し、たった一体のそれによって全滅した例も過去にはあるという、まさに化け物の中の化け物。
まだ寝起きでだらけているのか、地面にうずくまっているリントブルムは、しかしその時点でも見上げるほどの巨体を誇り、全長は、鏃のような尻尾を除いても二十メートルは優に超えるだろう。背中には蝙蝠のような羽が、体躯に見合った巨大さで存在感を示している。
リントブルムは人間たちを認識すると共に、二本の前足で器用に地面を踏みしめながらのそりと立ち上がる。
ぐるるるるぁあああああああああああああああっ
天に向かって頤を開き、高く吼える。
そうするだけで威圧感が数倍に増し、討伐隊一行は自然と身を強張らせ、緊張感に冷や汗を滴らせていた。
リントブルムはその場を動かず、寝起きの体をほぐすかのように首を左右に振りながら人間たちを観察している。
――何だろう、このちっちゃい生き物たちは? 食べちゃっていいのかな? ――
まるでそうとでも考えているような、相手を食料としか見ていない無慈悲な眼であった。
「これ……が、リントブルム……」
迫力のあまりに呑み込まれてしまった上の空での声。発した恵子の足はがくがくと震えている。
威圧感という意味ではぶち切れた時のリドウや数ヶ月前に出くわした某魔王の方がよほど凄いと、彼女だけでなく千鶴や愛奈も同様に思う。しかし、相手は理性無き魔物。何の温かみも宿さないリントブルムの瞳に、彼女たちは初めて生物的恐怖心を煽られていた。
リドウはそんな中にあって、顔に僅かな感情も映さずに後ろを振り返る。
「騎士さん方よ」
「は?」
リントブルムのプレッシャーに呑み込まれていた騎士たちは一瞬呆けるが、
「あ、はっ。こちらのお嬢様はお任せ下さい」
リドウは無言で頷きながら、しかしその瞳に何らかの強い感情を宿す。
「何があろうと、お嬢のことだけ気を配ってりゃいい。いいな? 何があろうと、だ」
騎士たちは一様にごくりと喉を鳴らす。
自分たちが死のうが恵子の護衛を放棄するな。いざとなったら彼女を連れて逃げろ――そう言われたのだと、騎士たちは解釈する。
「一命を賭して」
誇りを持ってそう宣言する騎士たちに、リドウは再度頷く。
と――
彼はそのまま前を向くと、独り無造作にリントブルムへと歩む。まるで散歩でもするかのような、緊張感の欠片も感じられない動作であった。
「おい! 何を考えて」
作戦の相談もなく勝手に動こうとするリドウを諌めるユーキ。しかし、その言葉が最後まで発せられることはなかった。その前に彼が目にしたものが、それを許してくれなかった。
――己の首筋に刃の冷たい感触を得て身動きが取れなくなっているラクセスと、背中から心臓の位置に指先の感触を得て、こちらも身動きできなくなっているヴィレッタをその目にして。前者は千鶴の偃月刀で、後者は手のひらを抜き手の形にして殺気を迸らせるシャイリーの仕業であった。
「動かないでもらいましょうか」
「余計な邪魔さえしなければ何もしないよ」
「な、何を考えてるんだキミたちは!?」
冷徹に言葉を紡ぐ千鶴とシャイリーに、ユーキが動揺激しく一歩迫る。
だが、その歩みはその一歩だけで自ら止めることになる。
千鶴がラクセスの首筋に添えた刃をぐっと更に近付けていた。首へ微かに食い込んだそれは、少し動かすだけで頚動脈を食い千切るだろう。
ラクセスは息をするだけで慎重になりながら、ごくりと喉を鳴らす。
一方では、リドウの行動に混乱しながらも咎め立てている騎士たちの姿も見られる。
「リドウ殿!?」
しかしリドウがその声に応えることはなく、リントブルムへの歩みを止めることもなく、悠然と向かう。
「あなたたちは黙って恵子ちゃんを護衛してなさい」
「し、しかし……」
「お願いします」
「リドウさんの好きにさせてあげて下さい」
恵子と、万一のために彼女に張り付いている愛奈が必死の様子で懇願する。
純情可憐で戦闘タイプではない二人からの言葉には、千鶴の言葉以上の説得力があったらしい。騎士たちは困惑こそ解けていないようではあったが、むぅと押し黙る。
「……どういった心算かしら?」
そう言ったのは、シャイリーによって制されているヴィレッタであった。
「殺さなくちゃならないのなら、せめて苦しむ暇も無く――それがあの人の望みだから」
「馬鹿なっ。相手は伝説級の魔物だぞ!? みんなで力を合わせて」
「必要ないわ」
ユーキの説得を千鶴は冷たく切り捨てた。
「周囲に気を配る必要のない闘争になってしまえば、あの男に私たちの助力なんて、有って無きに等しいのよ。黙って見ていなさい」
「だからと言って、なぜ彼女たちを人質になんて」
「あなたを言葉だけで説得しようと考えるほど、私たちはオメデタクはないのよ」
口を開こうとするユーキであったが、その前に千鶴が「ハッタリとは努々思わないことね」という冷たい声が遮った。
真実は全くのハッタリだ。現状、リドウは勇者一味の殺害を望んでなどいない。
しかし……
「あなたの恋人たちを殺して、私とシャイリーであなたを殺す。何も難しいことではないわ」
淡々と言葉を紡ぐ氷柱の如き冷やかさは、だからこそ彼女の本気を他者に印象付ける。
「想う男の望みを叶えるためなら、私は微塵の躊躇もしない」
ユーキはとうとう言葉を失い、ぎりっと歯をかみ締める。
その姿を見て、不意に千鶴が嘲りに唇を歪める。
「あの男が、そんなに羨ましいかしら?」
かぁっと顔を真っ赤にするユーキを見て、千鶴は嘲笑を深める。
「判り易い男だこと」
千鶴が何を指して言っているのか、他の者たちにはとんと理解できない内容だった。
歯をかみ締めたユーキを見て、従者にして恋人の二人の身を案じてのものだと誰もが思った。
(程度の浅い男。『優れている“はず”の己』が馬鹿にされることに慣れていないのね)
だが真実は違った。一条千鶴という、この世ならざる美貌を持つ女から、もはや狂気的とすら言ってしまえるほどの愛され方をしているリドウに嫉妬したのだ。
千鶴はそれを的確に見抜いて、侮蔑しつつ嘲笑ったのである。
それを明白な言葉にしてしまわなかったのは、ユーキのプライドを慮ったのではない。同じ女として、ヴィレッタやラクセスのプライドをこそ配慮してのことでしかない。ヴィレッタであれば百も承知だったろうが、彼女がそんな女であるという真実を千鶴は知らないため、ユーキやラクセスとはどこか違った人間であるとは漠然と思っていても、千鶴の認識においてはそう大きく違わないのもまた事実であった。
ヴィレッタに対する認識はシャイリーにとっても千鶴同様であり、だからこそ彼は、ヴィレッタを相手に本気で殺意を抱いたが故の殺気を纏っているのだ。シャイリーは今この時、この勇者を殺しておくべきだと未だ思っているのだから。そしてそれは、ほぼ必然的に彼の従者たちの抹殺にまで繋がってしまうだろうから。
……しかしこいつら、やってることは完全に悪役のそれである。
「ユーキ。好きにさせてやればいい」
「で、でもラクセス……」
「あの男が負ければ曇った目も晴れるだろう。自殺志願者の命まで深く思い遣ってやる必要はない。あの男が居ようが居まいが私たちなら勝てるのだから。そうじゃないか?」
千鶴たちに、即座に自分たちを害する気は無いようだと知ったラクセスが、薄笑いしながらユーキへと告げる。
彼は少しの間逡巡していたが、やがてふっと余裕の微笑を浮かべた。
「そうだね」
リドウが倒してくれると期待しての微笑か?
――否。
ならばラクセスのセリフに微笑と共に肯定などすまい。
ならば……。
いずれにせよ、ユーキは未だ理解に至っていない。
彼は強い。その力は人間に限れば、世界ランキングで千位以内には確実に入るだろう。普通に生きているだけならば、同じ勇者以外に同等以上の力の持ち主に出会ってしまうことなどそうはない。
だから、彼が見つめる先で悠然とリントブルムへと歩んでいる男はその稀有な例外であると、ユーキは端から考えてなどいなかった。
魔神の息子。その力は既にして、この世界の全存在の中でも十位前後を数えてしまうなどとは、思ってもいなかった。
リドウはリントブルムの十メートルほど手前まで歩んだ所で、大きく煙管を吸い込みながら、深く煙を吐き出して、地面に落とした灰を面倒そうに踏みつける。
リントブルムはそんなリドウを興味深そうに眺めていた。
エーテライスで生きる“彼ら”はこうではないとリドウは思う。超越種族が跳梁跋扈するエーテライスでは、どんな魔物だろうと、相手が自分よりも『小さな者』だからといって油断したりしない。ルスティニアにて生まれながらにして絶対的捕食者として君臨してきたが故の、これもある種、力を持つが故の弊害なのだろう。
「つまらねぇ場所に生まれちまったもんだな、お前さん。あそこなら暇しねぇで闘争本能を満たせただろうに、長いことそれを感じられずにいる内に、すっかり忘れっちまったのか」
きゅるるるるぐごぉおおおおおおおおおおおおっ
馬鹿にされたと理解できたのだろうか、リントブルムはいきり立って、リドウに向けて大口を開けて嘶く。
「それでも、お前さんに罪は何も無ぇ。俺はお前さんで空腹を満たしてぇわけじゃねぇ。闘争本能の疼きを満たしてぇわけでもねぇ。こっちの勝手なご都合だ。精々怨んでくれて構わんよ」
ごぁあああああああああああああああああああっ
頤を大きく開き、咆哮しながら、翼をはためかせる。
砂塵が舞い、風圧がリドウの身を襲うが、彼は涼しい顔でその場に立っている。
宙に飛び立ったリントブルムは、十メートルほどを浮き上がると、大きく口を開く。
その口から炎が噴射された。
人を焼き尽くすには十分すぎる業火であったが……
「っらぁっ」
抜刀したリドウの刀が生み出す衝撃波が、まるで神の使いが海を割ったかのように、炎の海を切り裂いた。
己の両脇を通り行く火炎は、直接に触れずとも凄まじい高温を発していたが、リドウの防御力の前では意味を成さない。
ぐるるるるるるるぅっ
自慢のファイアブレスが効果を発揮しなかったことに憤ったのか、リントブルムは悔しげにすら聞こえる呻き声を上げた。
やがて、ファイアブレスではこの小さな生き物を蹂躙するのは難しいと考えたらしいリントブルム。
がぁああああああああああああっ
嘶きと共に滑空を開始した。
同時に深く腰を落としたリドウが、刀を両の手に持ち替える。
「悪ぃな」
更に腰を落とし膝を曲げながら俯く彼の顔がどんな表情をしているのか、遥か後ろでその光景を眺めている少女たちや、そして目の前のリントブルムにも窺い知れなかった。
が、その顔を上げ、真っ直ぐにリントブルムの目を見つめるリドウの瞳は、その時には既に何者にも揺るがせない強い意思で満たされていた。
その目がぎんっと見開かれたその刹那――
リドウの足元を中心として砂埃が舞い上がる。
斬ッ!
リントブルムが勢いのままに、リドウとすれ違う。
地面に降り立ち、そこで静止するリントブルムと、両の手で握り締めた刀を振り上げた状態で立ち尽くすリドウが、互いに身動き一つせず、背中合わせに佇んでいた。
「視えた?」
「三度までは何とか。あなたは?」
「確実なのは七回まで。多分、十五回くらい」
二人にしか意味不明なやり取りだった。
「恐ろしい人だね。まさか、ここまでとは……」
既にその必要がなくなりヴィレッタから身を離したシャイリーが冷や汗しながら独りごちる。しかし、心底楽しそうな表情は言葉面を完全に裏切っていた。
「なん……だ……今のは……?」
「斬ったのか……?」
顔を強張らせているラクセスにユーキ。リドウの動きが辛うじて目にできたらしいが、その全貌を目にするには至らなかったらしい。
「斬ったよ、間違いなく。僕らにも殆ど認識できないほど僅かな一瞬だけ闘気を全開にして、無駄なく、美しく、どこまでも優雅に」
シャイリーの言葉を証明するように、リドウが刀を鞘に納めたその瞬間、リントブルムの全身にざくっと黒い線が幾重にも刻まれたと思うと……
――崩壊が、始まった。
「うっ……」
「グロは……きついですね……」
細切れになった巨大生物に吐き気を催してしまう普通人少女二人。
だがリドウはそちらを見ることはなく、どことない彼方に視線を送りながら、おもむろに右手を横に掲げる。
そこから生じた魔力による炎が、リントブルムの死骸を円く囲んでいく。それはまるで、炎による壁であった。
「魔道士、だと……!?」
「あの子、ダブル・セイバーだったの!?」
ラクセスに続いてヴィレッタもが驚愕に目を見張った。
ヴィレッタも知らなかったのだ。そして、今の今まで魔道士としての『気配』を億尾にも出さなかった腕前と、現在展開されつつある業火の構成の見事さに、魔道士としての実力すらもが自分の想像が及ぶ範疇ではないと悟り、戦慄に心身を震わせてもいた。
「所詮は俺の自己満足だ。偽善にすらなってねぇ。分かってるさ。それでも……」
炎の壁が完成する。
「お前さんの体を、人間の欲が向くままに使わせたりは俺がさせねぇよ」
右手を高々と掲げる。
同時に、炎の壁がその勢いを激しく増し、
「眠れ、せめて安らかに――」
灼熱の炎がリントブルムの遺骸に向けて、まるで四方から津波が一点に押し寄せるかのように襲い掛かる。
「鳳凰昇天ッ!」
死骸へ向けて収束した炎から、一羽の鳥が生まれ出でた。
荘厳にして華麗な炎の化身。聖獣の名を冠するその鳥は、あたかも死した魂を聖なる炎で浄化しながら、天に送り届けようとするかのように、空高く飛翔する。
ある者は見惚れ、ある者は恐怖し、またある者は畏敬の念を抱くが、誰にも共通しているのは、一様に言葉も無かったというたった一つの事実。
鳳凰が去り、静寂を取り戻したその場には、全てを焼き尽くされて白骨体と化したリントブルムの成れの果てが残されているだけであった。
静寂のみが場を支配する。
その中をざっという音だけが小さく響き渡る。
リドウが戻って来る足音であった。
その感情を他者には窺わせない表情に、少女たちの傍からもざっと地面を擦る音が聞こえる。
何事かと思わず見てしまうが、そこでは騎士たちが強張った表情で足を引いていた。
彼らは恐怖してしまったのだ、リドウの力に。
彼らとて、気功士や魔道士の実物は知っているし、二年前の戦争にも参加した彼らは、その力を現実に目にしたことはあった。国に所属するそうした能力者は基本的にハイクラス以上の力は持っている。彼らハイクラス能力者の力がどれだけ非常識なものか、騎士たちは実体験として知っていた。
だが恐ろしいとは思わなかった。脅威であるとは思ったが、敵の能力者に自国の能力者は十二分に渡り合っていたし、自分たちが勇気を持って力を合わせて立ち向かえば、絶対に倒せない相手ではないという思いもあったからだ。
それでも、だ。
ハイエンド。ルスティニア人では一時代に多くても十数名程度と言われる超級実力者。中には魔王に匹敵し、一国をすら滅ぼし得る者すら居るとも伝えられる人外。
ここアイルゼン大陸において、いずれかの国家に所属している能力者で、かつハイエンド級と自他共に認められている使い手は皆無。国が対外政策としてハイエンドを強調している何某は何名かおり、確かに彼らは能力者の中でも上位の実力を誇るだろうし、ハイエンドに近いのも事実なのだろうが……本当に『一国に匹敵する』使い手かは定かではないというのが一般論だ。
むしろハイエンド級ともなると、国に仕えている方が珍しかったりするのだが……。
しかしいずれにしても、彼らは肌身で感じ取っていた。
――これが、ハイエンド――と。
真正面からぶつかり合った場合、一国を相手にするのと同等の戦力を発揮し、一国の王ですら侮ることは許されない絶対的実力者。
現実に救われてきた少女たちとは根本的に違い、彼らは所詮、リドウとの関係は赤の他人だ。よほどの胆力の持ち主でもない限り、恐れてしまうのは無理もなかった。
だがしかし……
「何だ、それは……」
そんな中にあって、最初に言葉を発したのは、
「何なんだその力は!」
あたかも親の仇を見るような憎悪すら滲ませている勇者ユーキであった。
リドウは反射的に足を止めて無感情にユーキを見据えるが、何も口を開こうとはしない。
「聞いてないぞ!」
「なに……?」
リドウは訝しげに眉をひそめた。
「お前はルスティニア人のはずなのに、何でそんな力を持っているんだ!?」
「おかしなことを言う男だな、あんた」
「ふざけるな!」
何をふざけていると言うのかリドウにはさっぱり分からなかった。
「ユーキ、お願い、止めて」
「ヴィレッタは黙ってろ!」
リドウを見るそのままの目で睨まれたヴィレッタは何も口を開けなくなってしまう。
「何で勇者でも魔王でもないお前がそんな力を……」
「その答えが欲しいのかい?」
「答えろ!」
リドウは面倒くさそうな顔で、己の首に手をやって、ぐるっと首を回してから、改めてユーキを酷く面倒くさそうに見る。
「これほど単純な話もねぇと思うがな」
「さっさと答えろと言ってるだろうが!」
はいよ、と肩をすくめるリドウであった。
「俺には才能があった。才能を十全に発揮できるだけの修練も積んできた。それだけの話だろうが」
「ふざけるな! ルスティニア人のお前にそんな才能が」
ユーキは自ずからセリフの途中でそれを切る。
――気配が、変わった。
リドウの纏っていた雰囲気は、これまでは酷く気だるげなものだった。多分、不要に命を刈ってしまった所以だろう。
それが唐突に……まるで薄皮一枚地面の下に、何者をも溶かしてしまうマグマが蠢いているかのような、筆舌に尽くし難い雰囲気へと一変していた。
「てめぇ自身じゃそんな自覚無かったんだがなぁ……」
「な、何を……」
空を仰いで言う様はまるで独り言だった。
しかし、だるそうな態度とは裏腹に、とてつもない危険性を孕んだその気配が、とうとうユーキにすら恐怖心を抱かせる。
「やっぱ俺は甘いのかね」
嘆息しながら先ほどのように首へ手をやって、今回は左右に振って音を鳴らす。
「正直な、なあなあで済ませちまうか、とも思ってた」
らしくねぇがな、と自嘲気味に言う。
「もしかしたら、あんたを信じたかったのかもしれねぇ。日本人ってのは程度の差こそあれ、平和な世界で生きてきた分、ルスティニア人よりも性根が優しい人間だってよ。所詮どこで生まれ育とうが、人間は人間ってことか」
「何を言って……」
「そうでなくても、勝てっこねぇ圧倒的力を目にすれば諦める気になるかと期待してたんだ」
顔を落として頭をかきながら、深々とため息をつく。
「あるいは、“俺ら”の領域まで力を高めようと思うようなら、最高だった。ソコまで辿り着くにゃ、他人と比較して一喜一憂してられるような“余裕”なんざ持てねぇからな。自然と意識も改善されるだろうと思ってた」
結局ダメだったがな、とまたまたため息を吐き出す。
力を抜くような行為ばかりしているリドウであったが、しかしその気配は依然として、暗黒色の何かが蠢いているような、非常に危険な雰囲気だ。
「結局、それかよ」
微かに俯いていた顔を上げたが、その視線はユーキを通り過ぎ、今度を空へと見上げる。
「結局、それなのかよ」
ゆらーっと視線をユーキに固定する。
瞬間、ユーキはびくっと全身を震わせた。その時彼は、自分が怯えてしまったのが信じられないという顔をし、そんなわけがないと否定するように首を左右に振った。
「あんたの人生はあんたのもんだが、他人の人生まであんたのもんだなんて道理はどこにも無ぇ」
「だ、だから、何を言って」
「この世の全てがてめぇに愉悦を与えるために存在してるわけじゃねぇってことだっ!」
凄まじい怒号であった。自分が怒られたわけではない他の者たちまで身を竦ませている。
「ルスティニア人があんたの想定外の力を持っていたとして何が悪い? この世界の人間はあんたのために生きてるわけじゃねぇんだぜ」
すっと音もなく足を進めるリドウに、ユーキは知らず一歩自分の足を引いてしまうが、それが逆に、その事実を認めまいと勇気を振り絞るための要素になったらしい。きっと眼差し鋭くリドウへ反論する。
「魔王に匹敵するほどの力を得てしまったルスティニア人は魔王へ覚醒してしまう可能性があるんだ。これ以上魔王を増やしてしまわないためにも、ルスティニア人が必要以上に力を求めるなんて間違っている。どうしても力が必要な場面があったら、僕ら勇者がその代わりを努めればいい」
中々にユニークな理屈だ。
ただし、彼の理屈には一つだけ致命的な欠点があった。
「あんた、何も知らねぇんだな」
「何だと!?」
哀れみすら浮かべて言うリドウに、自分が哀れまれる覚えなどないユーキが激昂する。
が、彼は次のリドウのセリフに愕然とする。
「狂嵐は勇者出身の魔王だぞ?」
目を見張ったユーキは、慌ててラクセスやヴィレッタに視線をやる。
「し、知らんぞ。聞いたことはない」
「あたしも初耳だわ」
こちらの二人も慌てた様子で首を横に振っている。驚いた様子も見せているあたり、誤魔化しではなさそうだ。
危うく騙されるところだったという、どこか得意げな顔でリドウの方へ向き直るユーキであったが、
「なるほどねぇ。ロンダイク聖教圏じゃ誰でもそう教えられてんのか」
その前にリドウが独りでに納得した様子を見せながら言ったセリフの内容に、顔を強張らせる。誰かを説得しようとしての言い訳染みたものではなく、ただの独り言に近い響きが、こちらも誤魔化しではなさそうだと思わせるのに十分だった。
「まあリリス教圏でも一般人がおいそれと知ってる話でもねぇが、ちょいと魔王事情に詳しい人間なら普通に知られてる話なんだがね」
「ば、馬鹿な……」
気圧されてはいるものの、嘘を言うなという思いも同時に表れた顔であった。
「ま、別に信じたくなきゃ信じねぇでもいい」
リドウは煙管を取り出して口に銜えた。
火を点し、明後日の方へ向けてふぅっと深く煙を吐き出し、
「もうお互い、七面倒くせぇ御託は止めておこうぜ」
煙管の先をユーキに向ける。
「あんたは俺が気に入らねぇんだろ? 魔王候補って理由だろうが、それとも裏の理由があるのかは俺の知ったこっちゃねぇが……」
その瞳に壮絶な色を浮かべながらユーキを射抜く。
「本物の力ってもんを教えてやるぜ。死ぬ気で――来い」
「う……」
折角の奮い立たせた気力を失い、更に一歩を後ずさる。
その姿を叱責しようとするラクセスが居た。彼女の信じた勇者は決して臆さないのだから。
しかしその前に動き出す者が居た。
「お願い、待って!」
ヴィレッタだった。
彼女は必死になってユーキの前に立ち、彼をリドウから庇うようにして両手を広げる。
「ユーキのことならあたしに任せて。あたしが必ず立派な勇者にしてみせる!」
『勇者』の部分を『人間』とも『男』とも言い換えられるのだろう。彼女の声に篭る真摯な響きは、それだけにヴィレッタの本気を窺わせるが……
「ヴィレッタ!?」
ラクセスが相棒の行動を咎める声を発する。敵に謙るような発言が、しかも今のユーキではまだ『立派な勇者』ではないような言い方を看過できなかったらしい。
が、ヴィレッタは厳しい眼差しで言った。
「勝てると思うの? 彼に」
「そ……」
それは、とすら全て言い切れないで押し黙りながら歯を噛み締める。
(次元が違いすぎる……ッ)
初めて目にした時からずっと、強そうだとは思っていた。在野の若手気功士にしては隙の無い物腰や落ち着いた雰囲気など、実力者には違いないだろうとは思っていた。あの千鶴が明らかに格上に対する態度を取るところからしてみても、相当にやるだろうとは思っていた。
しかし、ここまで桁違いだとは思ってもみなかった。
自分があと百人くらい居れば少しは勝ち目も見えてくるだろうか? 自国の勇者の総員が力を合わせれば抗い得るだろうか?
そう考えてしまうほどに圧倒的な力だった。
相手が魔王であるならば、たとえ一厘をすら優に下回る勝率しか見込めなかろうが、ラクセスにとっても命を賭して挑むのに躊躇いは無い。たとえ自分たちが倒しきれなかろうが、そうして魔王へ果敢に挑む者たちへの指標となることができれば、いつかは誰かが魔王を滅ぼしてくれるはずだ。絶対的強者とはいえ、魔王とは無敵では決してないのだから。
だが相手は魔王級と思しき使い手とはいえ魔王ではないのだ。魔王化の可能性は考えられるが、どちらかと言えば低いのは過去存在した数多のハイエンドが証明している。ここで無謀に挑むのは避けるべき。彼女もそう判断する。
自分が土下座するだけで済むのならばするし、もしゲスにも肉体を要求してくるようならば、ユーキの命と引き換えにする決意すら既に固めていた。
しかし、事態はラクセスやヴィレッタの思惑を嘲笑う。
彼女たちが見つめる先で無感情に事の成り行きを眺めていたリドウが、すぅっと眼差しを鋭くした。その視線が射抜くのはヴィレッタの背後。
「ふ……ふふふ……」
「ゆ、ユーキ……?」
「あはははははははっ」
ヴィレッタが思わず背後を振り返ると、ユーキが狂ったように笑い声を上げていた。
「分かったぞ! お前、魔王なんだな!」
ヴィレッタを押し退けて前に出たユーキは、指を突き付けてリドウに相対する。
「落ち着きなさい!」
ヴィレッタはユーキの肩を横から掴んで、彼の首筋にかかるチェーンに手をかけて引っ張る。ネックレスだったそれは、先端に青く輝く美しい石が填まっている。
「魔王なら聖令石が反応するわ」
勇者召喚術式を開発した天才ヴェインが同時に開発した魔王探知術式、それが聖令石であった。効果範囲はそう広くないが、魔王がどのような手段で気配を隠していようと、これにかかっては確実に見つかってしまうという代物だ。これも生成には莫大な資金が必要とされるため、旅立つ勇者の分しか用意はされない。
「なら中ボスなんだ!」
「ちゅ……?」
「ボス……?」
何のことだとヴィレッタとラクセスが訝しげにユーキを見るが、二人の瞳が愕然と見開かれる。
「そうだ。そうだよ。はは。きっと僕はここで新しい力に目覚めるんだ。勝てっこない相手に勇気を振り絞って挑んでピンチになるけど、新たに目覚めた力はその敵を圧倒するんだ!」
完全に正気を逸した目で笑いながら紡がれるセリフは、ルスティニア人には意味不明だった。そんな都合のいい力なんて存在しないと彼らは知っている。唯一、闘気がそれっぽい力ではあるものの、ユーキは既に覚醒しており、その力が一気に膨れ上がるようなことは有り得ない。
ユーキにとって勇者としての圧倒的力は己の存在価値その物だった。それが敵に怯え、あまつさえ自分が守るべき女性たちに逆に守られるなど、あってはならない。その現実を受け入れられなかったが故に、とうとう心の奥底に封じられていた願望が溢れ出してきてしまったようであった。
「いくぞ! ヴィレッタ、ラクセス!」
戸惑っている二人を見てから、答えを待たずにユーキはリドウへ踊りかかった。
剣を抜き、上段から力の限りに思い切り振り下ろす。
正気を失ってしまったが故に手加減の無い攻撃は存外に鋭く、反応を見せないリドウの体へいとも容易く吸い込まれていった。




