第六弾:A narrow escape.
「み、水麗ッ!?」
長く伸ばされた黒髪を頭の後ろで撫で付けながら、その少女はインターホンのカメラを覗きこんだり、玄関の扉を見たりと落ち着きなくしていた。
「なんだ? どうした」
気がつくと俺の肩越しから観月もモニターの中身を見ていた。
「ふむ、誰だこの小娘は」
お前も充分、小娘だろう。
顎に手をやりながら眉をひそめて言う観月に、俺はそう言いたかったが、今は話が別だ。
とにかく、この状況をどうにかしなくては。
「在美夜水麗、俺の幼馴染み」
手短に彼女のプロフィールを観月に伝える。
「ほう、幼馴染みか。なるほど。今日、貴様は学校を休んだからな。恐らくプリントかなにかを届けに来たのだろう」
観月は冷静に分析しながらふと呟いた。
「…………それにしても、在美夜か」
「どうしたんだ?」
俺が聞くと、
「いや、なんでもない。それにしても、家にプリントを届けに来るような幼馴染みなど、本当にこの世に存在するのだな」
「そこまで言うか。まぁ、ここまで世話好きなのは確かに珍しいかもな。だが、だからこそ厄介なことがある」
観月が、どういうことだ。と言わんばかりに不思議そうにこちらを向いた。
「つまり、俺の私生活によく干渉してくるってことだ。とくに、女関係」
ガチャリ。
廊下からそんな音が聞こえた。
一瞬で玄関の鍵の開いた音だと理解した。
「やっべ」
『ちょっと、ハクア~! 居ないの?』
奥から、壁に反響した声が聞こえてくる。と同時に、階段の軋む音。
なんであいつはウチの鍵を持ってんだよ!
心の中で毒づきながら俺は観月に耳打ちをする。
「隠れろ」
「なぜだ?」
「言っただろ、女関係についての食い付きが異常なんだ。このままじゃ、厄介なことになる」
なるほど、と観月は呟く。
『もしもーし?』
と同時に、ドアの軋む音が聞こえる。
どうやら、リビングまでやって来たようだ。
俺たちは、近づいてくる水麗の声から逃げるように、リビングの奥にある両親の部屋へと隠れていた。
「なぁ、お前、幻影で姿を消したりできないのか?」
寝室の入り口の扉が作る死角で息を潜めながら聞いた。
「したいのは山々なんだが、この先生コスで力が足りなくなってしまった」
観月は眼鏡のブリッジをクイッと指で押し上げながら言った。
「使えない先生だな、おい!」
思わず語気が荒くなる。と言っても、水麗には聞こえないように配慮はしてあるが。
『なんか今、こっちから声が聞こえたような』
なんつう地獄耳だ!?
「どうするんだよ。なんとかしねぇと見つかっちまう」
「仕方ない、貴様が何とかしろ」
「どうしてそうなる!?」
「こういう極限状態の方が能力が覚醒しやすい。このピンチを切り抜けられて、その上、能力が覚醒したら一石二鳥だろう?」
「いやいやいや、無理だろう。そんな突然。しかも、どうやって能力を使うかも分からないし。それどころか、俺の能力がどんなものかも分からないんだぞ」
「あぁ、もう、つべこべうるさい。とにかく、自分の心の中にあるものに手を伸ばすんだ」
「自分の心の中って……」
「ほら、行ってこい」
俺が、考え始めた隙をついて、観月は俺の背中を突き飛ばした。
「うわっ」
思わず、声が出る。
俺は、丁度ドアの目の前に倒れ込んだ。と同時に、ドアが完全に開かれ、観月の姿が開いたドアに隠れて見えなくなった。
「みーっけ!」
見えなくなった観月とは逆に、俺の視界に完璧に入ったのは、
「あ、あれ? 水麗? どうして家の中に…………」
先ずは第一声。盛大にとぼけてみる。
ついでに、ウチの鍵を持っていた理由についても問いかける。
これで、うまく話題を逸らせれば
「さて、なんででしょう?」
不敵な笑みを浮かべて、水麗が一歩、俺へと近づいた。
……やっぱり無理か。
俺は逆にズルッと、三十センチほど後ろに後退した。
「それにしても、ハクア?」
「な、何かな? 水麗?」
「どうして逃げたの?」
無表情で尋ねる水麗の威圧感に、俺は何も言えなかった。
「……………………」
ヤバイ。
バレてる。
「ねぇ、どうして逃げたの? って聞いてるんだけど」
「逃げてなんか――」
「嘘」
無表情だった水麗の口元が、ヌラリと曲げられた。
その表情は、笑みなのだが、その裏にはもっと別の何かが潜んでいることが容易に見てとれる。
背筋にスーッと寒気が走った。
「それに、なんだか、女の子の匂いがするんだけど」
クンクンと目を閉じて辺りの匂いを嗅ぐ水麗。
いったい、どこまでお前は常人離れをしてるんだ。水麗よ。
あまりの恐怖に、若干顔をひきつる。
「ねぇ、ハクア」
水麗の口から冬の吹雪のように冷たい声が発された。
「な、なんだよ」
「どうして隠しごとするの? 私は悲しいよ。ハクアが学校を休んでまで他の女の子とイチャイチャしてたなんて……」
水麗が目を見開いたまま、乾いた笑みを浮かべた。
他って、誰から見た他だよ!
つっこみたい気持ちを抑えて、俺は何とか、その事実を否定しようとした。
「ち、ちが――いや、違わない、けど。俺は少なくともイチャイチャとかはしていない」
あ~、やっちまった。
俺は、自分のアドリブスキルの無さを恨む。
「へぇ、肯定はするんだ。てっきり隠すと思ったのに。
じゃあ、今、ここに他の女がいるってことね? まぁ、場所は大体目星はついてるんだけど」
顔全体的には笑ったまま、目をスッと細めて、水麗は部屋の中を見回した。
そして、視線が止まる。あの場所で。
「ここ」
観月が後ろに隠れているドアを水麗は指差し、ドアノブに手をかけた。
「おい、水麗?」
ドアが再び閉められる寸前に俺は言った。
「なに?」
「もし、そこに誰かがいたら、どうするつも――」
「殺す」
躊躇のない言葉だった。
「い、いや、でも、犯罪はよくないだろ」
「大丈夫。そのあと、私も死ぬから。もちろん、ハクア、あなたを殺してからだけど」
…………いやでござる。
ついに、俺の精神は現実逃避に走った。
というか、何が大丈夫なんだ。誤解で殺されるとかシャレにもならない。
ギィ……。
ドアの軋む音。
カウンターだった。俺が水麗と話している間は、水麗は動かないと思っていた。
まずい、見つかる。
なんとかしなくては。
俺はどうすればいいかと脳をフル回転させた。
だが、無情にもドアの陰から観月の姿が徐々に……。
「え?」
思わず声が漏れた。
「うっ、うっ、…………ひっく。ズズッ。ひっく。ゴホッゴホ。う、うえ~~~~ん! おにぃちゃーんっ!!」
軽い衝撃。俺は後ろへと倒れ込む。
一瞬の出来事だったため、頭の中では脳がオーバーヒートを起こしていた。
冷静に一から考え直していこう。
まず、水麗が観月の隠れてる扉をどかした。
そのとき俺は、てっきり観月のことだから扉がどけられた瞬間に水麗に襲いかかるかもしれないと体勢を整えていたのだが――
「うわ~ん。うぇ~ん。あの、――ひっく。おねぇちゃんが、――ひっく。むぅを、ひっくっ――ゴホッゴホ。ころすって言った~」
俺の腕の中に、この小さな女の子が飛び込んできたのだった。
見た目、小学生。低学年。
幼児期に見られる、若さとはまた違う別の要素から来る軟らかな弾力。本当の意味で透き通るような白い肌。
大きなビー玉のような瞳には、いっぱいにためられた大粒の涙。そして、忙しなく続く嗚咽。
で、この子誰!? むぅって何? この子がむぅなの!?
ってか、俺の服が、この子の鼻水で……
「ろ……ろ……」
「ろ?」
状況整理が一段落つくと、水麗が何か言っているのが聞こえた。
「ロリコーンッ!」
「ちっっっげぇよ!!」
全身全霊を込めて否定した。
ってか、この子。誰かに似ているような。
「まさか、ハクアが幼児性愛者だったなんて……。じゃあ、きっと、私なんか年増のババァとしか思ってなかったのね」
「やめぇいっ!! それ以上、どうでもいいことを考えるな!」
誤解が加速していた。
このままだと本当に誤解で殺されそうだった。社会的に。
「それ以前に、この子が泣いてるのってお前のせ――」
「う、うっ……」
「なんでお前も泣くんだよ」
水麗が整った顔をぐちゃぐちゃにしながら、瞳に涙を溜めていた。
「うぅ。だっでぇ、いままではぐあがそんなふうにわだしをみてだっでおもっだら……」
「見てない。見てないってば」
ってか、俺が泣きたかった。
「今、ごのばばあ面倒だっておもっだでじょ………………う、うえーん」
「思ってないってば~!」
「想ってない!?」
「勝手に字を変換すなーっ!!」
疲れた。いや、マジで……。
俺は、この状況をどこか自分の身に起きていることとは思えなかった。
すると、突然、水麗が一際大きな声で泣き出し、
「うえーん!!」
ギィ、バタンッ!
部屋から出ていってしまった。
「なんだったんだ……」
茫然と呟く。
今や、部屋の中で聞こえるのは、俺の腕の中からの、グズッ、グズッと鼻をすする音だけになった。
「あ~、その、なんだ? もう大丈夫だぞ……むぅちゃん?」
「ぞ、ぞの名前で呼ぶな」
涙をポロポロと溢しながらむぅちゃんは言った。未だに鼻声である。
「君が言ったんだろ。自分のことをむぅちゃんって」
「自分で言ったのはいいんだ、ズズッ」
むぅちゃんはそう言って鼻をすすり、涙を拭き、俺の腕の中から抜け出す。そして、俺の目の前に腕を組んで仁王立ちをした。
ちっちゃい姿でやられると、全く威圧感の欠片もないが。
「それにしても、貴様には真性のボケの才能が宿っているようだな」
「……うっせぇ」
貴様という二人称で確信した。
「そんなこと、俺だって分かってる。だから、今さら言われる筋合いはねぇよ。観月」
「…………そうか」
ポンッ。という軽い破裂音と共に、観月が元の姿に戻る。
「それはすまなかった。
だが、一つ言わせてくれ。
何があったか知らないが、貴様も何か思い詰めすぎなんじゃないか?」
観月は、部屋を出ていった。
……うっせぇ。
今度は、誰にも聞かれないように心の中で呟く。
何も知らないくせに。
今日、初めて会ったような奴なのに。
俺のことなんか、単なる護衛対象とか、自分より下だとかしか思ってないくせに。
どうして、そんなことが言えるんだ。
俺は、床に座り込みながら、遠い昔のことを思い出していた。