婚約破棄されたので家の命運も手放しました 〜私を踏み台にした妹と婚約者は、すべてを失う〜
「あぁ、また赤字……」
深夜、羽ペンを握るアリシアの指先はインクで黒く汚れ、目の下には消えない隈が張り付いていた。
父の博打の借金、母の見栄のドレス代、そして妹ミリエルの贅沢。そのすべてを、長女のアリシア一人が泥臭い交渉と不眠不休の計算で支えていた。
アリシアの手元には、一般の帳簿とは別に、黒い革表紙の綴じ込みがある。
それは、数ヶ月前から届き始めた『王弟府からの資産監査状』だ。
(このままでは、家が潰れる前に、法に裁かれる……)
アリシアは家族に内緒で、王弟府の冷徹な官吏たちを相手に、精緻極まる再建計画書を提出し続けていた。彼女の「数字」だけが、この家を法の裁きから辛うじて繋ぎ止めていたのだ。
「お姉様、まだそんな汚らしい紙切れを触っているの?」
部屋に入ってきたのは、真新しいシルクのドレスを纏った妹のミリエルだ。これから夜会へ向かう彼女は、香水の香りを振りまきながら、アリシアの机にある唯一の茶菓子――空腹を紛らわすための粗末なビスケット――をわざと指で粉々に砕いて口に運んだ。
「お父様もお母様も言っていたわ。『家を支えるのが長女の義務だ。お前はミリエルの踏み台として、泥を啜って働け』って。お姉様には、この薄暗い部屋がお似合いよ。私みたいに、華やかな場所で人脈を作る『教養』はないものね」
ミリエルは鏡の前でポーズを決め、アリシアの傍らに置かれた封筒をひったくった。
「これ、もらうわね。今夜のサロンの会費にするわ」
「待って、ミリエル! それは……明日の朝一番で、差し押さえを待ってもらうために銀行へ入れる利息分なの。それがないと、この家は――」
「うるさいわね。私が高位貴族と繋がれば、そんな端金すぐ返せるわよ。お姉様が無能だから、私が代わりに『投資』してあげるの。感謝しなさい」
妹は嘲笑い、アリシアの三日三晩にわたる死に物狂いの交渉成果を奪って、夜の街へと消えていった。
本来、貴族の社交場であるサロンは知性と教養を競う場だというのに、彼女はそこをただの「財布」と「遊び場」だと信じて疑っていないようだった。
アリシアは、空になった封筒と砕かれたビスケットを見つめ、震える手でペンを握り直した。
「アリシア、あまり詰め込みすぎないで。君の体が心配だよ」
翌日。重い足取りで銀行へ向かおうとしたアリシアを呼び止めたのは、婚約者アルベールだった。
彼が現れるのは、いつもアリシアが最も追い詰められた時だった。優しさゆえではない。期限の迫った借金の進み具合を、最も正確に見極められる瞬間だからだ。
「アルベール様……お会いできて嬉しいです」
荒れた指先を、彼の温かな掌が包み込む。その体温に、アリシアの視界がわずかに潤んだ。家族の誰からも向けられない「労わり」が、彼からだけは与えられると信じていた。
「家のことは聞いている。本来なら、君のような淑女が背負うべき泥ではない」
耳元で囁かれる甘い言葉。けれど――その後に続くはずの「僕が肩代わりしよう」という言葉は、今日もついに聞こえてこない。
「僕もいずれは力になりたいと思っているよ。今は、僕の家も『準備』が必要な時期でね。君がこの難局を乗り越え、家を立て直した暁には、誰よりも誇らしい僕の妻として迎えよう」
(……準備? 私がすべてを片付けた『後』でなければ、あなたは動かないのですか?)
胸をよぎった微かな違和感は、冷ややかな声によって現実へと引きずり出された。
「あら、アルベール様。お姉様に構っていても、時間の無駄ですわよ?」
香水の香りを撒き散らし、ミリエルが二人の間に割り込んだ。当然のような顔をして、アルベールの腕を自分の胸に抱き寄せる。
「ミリエル、やめなさい。彼女はこれから銀行へ行かなければならないんだ」
「ええ、知っていますわ。お姉様は『お仕事』がお忙しいのでしょう? 小難しい帳簿、薄汚れた借金、そして身分を弁えない泥臭い交渉……。それはお姉様が選んだ、お姉様にしかできない『役割』ですもの」
ミリエルはくすりと笑い、アルベールの肩に頭を預けた。
「その点、私は違いますわ。貴方と同じ場所で、同じ高貴な空気を吸い、同じ景色が見られる。音楽も、詩も、サロンでの高尚な話題も……すべて、貴方と共有できるんですの。インクで指を汚すことに必死な誰かさんとは違って」
ミリエルの視線が、アリシアの袖口へ落ちる。隠しようのないインクの染みと、寒さでひび割れた指先。それを見て、ミリエルは勝ち誇ったように口元を歪めた。
「ねぇアルベール様。貴方は、どちらの隣に立ちたいの? 常に金の無心をされる苦労人の隣か、貴方を輝かせる華やかな隣か……今、選んで差し上げて?」
――選ばせる気だ。
アリシアの背筋が、氷を這わされたように冷たくなる。アルベールの掌が、ゆっくりとアリシアの手を離していく。その温度が消えていく過程が、永遠のように長く感じられた。
「……アリシア」
呼ばれた声に、縋るような期待が滲む。一言でいい、「僕の婚約者は彼女だ」と言ってほしかった。
けれど、アルベールの視線は、アリシアの汚れた手から、ミリエルの艶やかなシルクのドレスへと移った。
「今日は……ミリエルと少し、話をしていくよ」
迷いはなかった。むしろ、重荷を下ろしたような安堵さえその瞳に浮かんでいた。
「君は、その……やるべき『仕事』があるだろう? 僕がいても邪魔になるだけだ。君が頑張ってくれるからこそ、僕たちの未来がある。……そうだろう?」
それは、アリシアへの信頼ではない。
「お前は黙って泥を啜って、俺たちのための資産を整えておけ」という、残酷なまでの突き放しだった。
「……お気をつけて」
絞り出した声は、自分でも驚くほど乾燥していた。
振り返ることなく、アリシアは雨の降る外へと踏み出し、冷たい雫が頬を伝う。
それが雨なのか、それとも自分の目から溢れたものなのか。
確かめる気力も、拭うための指先の感覚も、もう残っていなかった。
一週間後。アリシアを待っていたのは、家族とアルベールによる「婚約破棄」と「追放」の宣告だった。
「アルベール君との婚約は解消とする。新たな婚約者は、ミリエルだ」
父の冷酷な言葉に、アルベールが勝ち誇ったように続く。
「君の献身には感謝しているが、君と一緒にいても金の話ばかりで心が安まらないんだ。おかげで僕とミリエルが愛を育む『下準備』が整ったよ。役目は終わりだ」
「家を支えるのは長女の義務。だが、家の『顔』として相応しいのはミリエルだ。お前のような薄汚れた娘は、さっさと出ていけ」
母が扇子でアリシアを追い払う。
ミリエルが、勝ち誇った顔で手を差し出した。
「さあ、その汚らしい帳簿と鍵、全部置いていってね?」
アリシアは、差し出されたミリエルの手のひらを見つめた。
その帳簿には、明日までに返済しなければならない裏金や、彼女の『人格』が介在しなければ即刻破棄される取引先との密約、そして何より——王弟府へ提出するはずだった、最後の監査報告が記されている。
これを渡す。それは、この家を崖から突き落とすに等しい。
アリシアの中で、何かがぷつりと音を立てて切れた。
「……分かりました」
アリシアは静かに、帳簿と鍵を机に置いた。
「これを渡すということは、この家の命運をすべて渡すということですよ」
「ふん、私を誰だと思ってるの? 私には『才能』があるんだから!」
ミリエルは爆弾とも知らずにそれをひったくった。
アリシアは一度も振り返ることなく、最低限の荷物だけを持って、夜の雨の中へと消えていった。
雨の中、一人歩くアリシアの前に、一台の漆黒の馬車が音もなく止まった。
降り立ったのは、国王に次ぐ権力者であり「血も涙もない王弟」と恐れられるゼノス・フォン・アストレアだった。
「ようやく、その重荷を捨てたか」
彼は、アリシアが数ヶ月間、一人で家の不整合を隠し、王弟府に報告を送り続けていた事実を知る唯一の人物だった。
「……ゼノス殿下」
「君から届く再建案は、王立銀行の老練な顧問たちも舌を巻く出来だった。……だが、今日届いた報告書は実に『潔い』。あれでは、明日には、あの家は跡形もなく崩れるだろう?」
ゼノスは、アリシアのインクで汚れた手を、尊いものに触れるように取り、唇を寄せた。
「アリシア。君のその『数字を操る指先』は、泥を啜るためのものではない。……私の隣で、この国の未来を計算するためにある」
ゼノスは彼女を馬車へと招き入れた。
「君を虐げた者たちの『精算』は、法と私の名において、最高に冷酷に行おう」
一ヶ月後。
アリシアを追い出した家は、一夜にして地獄へと変わっていた。
「話が違う! アリシア嬢がいないなら、今日中に全額返せと言ったはずだ!」
「王弟府からの監査官だ! 虚偽の資産報告、および公金横領の罪で家宅捜索を行う!」
ミリエルが「才能」と信じていた帳簿は、アリシアの解説なしには解読不能な「罪の証拠」でしかなかった。アルベールの実家も、アリシアが秘密裏に管理していた利権がすべて「王弟府」に回収されたことで、負債だけを残して破産した。
路頭に迷い、ボロ布を纏って王都の端で震えていた彼らの前に、王家の紋章を刻んだ黄金の馬車が止まる。
降り立ったのは、かつての疲れ果てた姿が嘘のように、凛とした美しさを放つアリシア。そして、その腰を抱き、絶対的な威圧感を放つゼノスだった。
「ア、アリシア……! 助けてくれ! 君なら、この借金をなんとかできるだろう!?」
「お姉様! 私が悪かったわ! その帳簿、もう一度お姉様に返すから! ねぇ!」
泥に塗れた足で縋り付こうとする彼らを、ゼノスの冷徹な声が制した。
「……汚らわしい。我が最愛の婚約者であり、王国の最高経済顧問である彼女に、その汚れた手で触れるな」
ゼノスは、アリシアを守るように一歩前に出た。
「お前たちが彼女の労働を搾取し、不当に使い込んだ金の総額は、一生かけても返せる額ではない。……よって、お前たち全員の身柄を、国営の北方極寒鉱山へ送ることに決定した。終身、陽の光を見ることはないと思え」
「そんな……嘘だ、アルベール、君からも言ってくれ!」
しかし、アルベールもまた、自分の家を破滅させた元凶として、騎士たちに引きずられていく。
アリシアは、絶望に叫び声を上げる彼らを、ただの「処理済みの数字」を見るような、穏やかな無関心で見下ろした。
「私、言いましたよね? 『これを渡すということは、この家の命運をすべて渡すということですよ』と。……さようなら。もう二度と、お会いすることはありません」
馬車が走り出す。誰も、アリシアを引き止めることはできなかった。
窓から見える景色は、もう薄暗い事務室ではない。
アリシアの視線の先には、ゼノスと共に築き上げる、どこまでも広大で輝かしい王国の未来だけが広がっていた。
その日、アリシアはようやく、本当の意味で「自分の人生」の帳簿を開いた。
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