載せるのか、載せないのか──辞書編集部を揺るがした「麗奈ちゃん案件」騒動
「麗奈ちゃん案件」が、まさかここまで来るとは、誰が想像しただろう。
国会答弁で官房長官の口から飛び出し、
スポーツ中継で解説者が当然のように使い、
街の寄合や学校の会話にまで浸透したその言葉は、
ついに――国語辞典編集部の会議室に召喚された。
場所は都内某所。
分厚い資料と赤鉛筆が並ぶ、重厚で静謐な空間。
そこに掲げられた議題はこうだ。
「新語候補:麗奈ちゃん案件」
沈黙が流れた。
編集長が咳払いを一つして口を開く。
「……では、定義案から確認しましょう」
若手編集者が資料を読み上げる。
「麗奈ちゃん案件:
① 緊急性が高く
② 即断即決を要し
③ 説明を省略しても通じると“思われている”案件」
この“思われている”という一文に、
会議室がざわついた。
「“思われている”は辞書的にどうなんだ」
「主観が強すぎないか」
「そもそも“案件”は名詞でいいのか」
「“ちゃん”は敬称なのか語尾なのか」
中堅編集者が腕を組む。
「例文が必要ですな。
『この件は麗奈ちゃん案件なので省略する』
……省略してはいけないのでは?」
別の編集者が反論する。
「しかし実際には省略されている。
国会でも、省略された」
「それは問題では?」
「でも、止まらなかった」
ここで編集長が低く唸った。
「……言葉としては、
意味が分からないのに通じてしまう。
これは非常に厄介で、そして魅力的だ」
空気が一変した。
ベテラン編集者が恐る恐る言う。
「用法が広すぎます。
官庁、スポーツ、商店街、地域猫……」
「地域猫!?」
「はい、資料16ページです」
資料をめくる音が一斉に響く。
「定義が安定していない」
「しかし使用頻度は高い」
「意味が固定されていないのに、
“空気”で理解されている」
誰かがぽつりと言った。
「……辞書泣かせですね」
最終的に、編集長は結論を下した。
「本語は、
“言葉として成熟しすぎていない”。
今回は――継続審議とする」
全員が深くうなずいた。
その日の議事録の最後には、
小さくこう書き添えられていたという。
※なお、本会議の結論決定は
いわば――
麗奈ちゃん案件ではなかった
こうして、
「麗奈ちゃん案件」は辞書に載らなかった。
だが――
載らなかったことで、
この言葉はさらに強く、
あいまいに、
そして自由に生き続けることになった。
疑惑は深まり、
定義は逃げ、
今日もどこかで誰かが言う。
「……これは、麗奈ちゃん案件だな」
辞書には載らない。
だが、現場では最強。
それが、
麗奈ちゃん案件。




