「麗奈ちゃんで」──隠語が国を走らせた日
最初は、ごく一部の官庁内だけの話だった。
緊急で、説明を挟む余裕もなく、即断即決が必要な案件――
それを示す合言葉。
「麗奈ちゃん案件で」
意味は単純。
★三つ。祖母デザインの麗奈ちゃんクリアファイル。即日回覧。
理由は誰も説明しないし、説明すると遅くなる。
だが便利すぎた。
霞が関では、次第に使用範囲が広がった。
上級官僚が部下を叱る、あの重苦しい会議室。
低い声、腕組み、沈黙。
「……あの件は、麗奈ちゃんだって言っていただろう」
部下は背筋を伸ばす。
「し、失礼しました。
すぐ麗奈ちゃんで回します」
誰も笑わない。
誰もツッコまない。
“麗奈ちゃん”が、完全に公用語になった瞬間だった。
さらに恐ろしいことに、
ある省庁では政務次官が使い始めた。
「これは政治判断が要る。
……麗奈ちゃんで」
部屋の空気が一段引き締まる。
秘書官は無言で頷き、
ファイル棚からセーラー服の麗奈を取り出す。
国家が、完全に昭和の妖精に委ねられた。
噂は霞が関の外へも漏れ出す。
一般企業。
自治体。
町内会。
「今日中に決めなきゃ?」
「うん、麗奈ちゃんで」
意味はもう誰も説明しない。
“急いで、でも揉めずに、今すぐやる”
それが「麗奈ちゃん」だった。
そして――
ついに、女子高生の会話に侵入する。
放課後、駅前。
「今日のテスト勉強どうする?」
「やばい。これ麗奈ちゃん案件じゃん」
「マジで? じゃあカフェ直行、麗奈ちゃんで」
麗奈本人は、その様子を遠目に見ていた。
「……私、何を走らせてるの……」
年末。
テレビ各局が一斉にざわつき始めた。
ワイドショーの字幕が、妙に歯切れ悪い。
「今年の流行語大賞候補に……
『麗奈ちゃんで』が入っているようです……」
コメンテーターが解説する。
「意味はですね……
“急ぎで、説明省略で、今すぐやる”という意味ですね」
誰が言い出したのか、誰も答えられない。
だが、スタジオの空気はどこか納得している。
続いて、年末恒例の話題。
「今年を表す漢字ですが……
『麗』が候補に挙がったという話も、あるようです……」
理由は説明されない。
経済でもない。
政治でもない。
災害でもない。
ただ、
“今年はいろんなものが、麗奈ちゃんで進んだ”
という、説明にならない説明だけが残る。
ヒロ室のテレビを見ながら、麗奈は呟いた。
「……私、漢字一文字になった覚えないんだけど……」
その横で、
セーラー服の祖母絵イラストが描かれた
麗奈ちゃんクリアファイルが、
何も言わずに書類を抱えていた。
年末の街では、
今日も誰かが軽く言う。
「それ、麗奈ちゃんで」
——もう誰も、
元の意味を説明しなくなっていた。




