値上げしたはずが、どこからが値上げか分からない店 ――大宮ふとん店・価格上昇未遂事件――
昨今の物価高に、さすがの大宮ふとん店も耐えかねた。
「なんでも高くなったねぇ」
祖母が湯のみを置き、深いため息をつく。
テレビでは卵が高い、電気代が高い、ガソリンが高いと連呼している。
「これは……ウチも……」
祖母は言葉を選ぶ。
「……すこし、高くしないと」
この店で「値上げ」という単語が出たのは、実に数十年ぶりだった。
祖母は決断した。
そしてPOPを書く。
――すこし高くなります。
ひらがなで、やさしい。
脅しも煽りもない。
まるで「ごめんね」と言っているようなPOPだ。
だが問題は、ここからだった。
そもそも大宮ふとん店の商品は、仕入れ値が怪しい。
いつ仕入れたのか分からない。
誰が仕入れたのかも分からない。
昭和なのか平成なのか、あるいはもっと前なのか。
値札が付いていない商品も多い。
付いていても、剥がれかけ。
数字の一部が消えている。
祖母は考える。
「……これ、いくらだったっけ?」
母が首をかしげる。
「前はもう少し安かった気がする」
父は新聞をめくりながら言う。
「いや、もっと高かったんじゃないか?」
全員、確信がない。
それでもPOPは貼られた。
すこし高くなります。
翌日、常連客が来る。
「あら、値上げするの?」
祖母はにこやかに答える。
「たぶんねぇ」
この「たぶん」が曲者だった。
「じゃあ、この布団はいくら?」
祖母は一瞬考え、
「……前より、すこし」
具体性はない。
客は値札を見る。
消えかけた「8」と「0」。
8000円なのか、5000円なのか、もはや分からない。
「これは……上がってる?」
「……上がったような、そうでもないような」
祖母自身も把握していない。
別の客が聞く。
「値上げ前に買った方がいい?」
祖母は首を振る。
「急がなくていいよ」
商売として完全に逆だ。
結果、客は買わずにお茶を飲み、猫を撫でて帰った。
数日後。
「このPOP、どういう意味?」
若い観光客が尋ねる。
「すこし高くなるの?」
「もうなったの?」
「これから?」
祖母は答える。
「そのへん」
値上げの時系列が崩壊している。
さらに問題が発覚する。
値上げしようとした結果、
値下げになっている商品が出現したのだ。
「これ、前より安くない?」
母が言う。
「そうね……あれ?」
仕入れ値不明、元値不明、現値不明。
比較対象が存在しない。
父は言った。
「競輪と一緒だな」
「何が?」
「スタートが分からないと、上がったか下がったか分からない」
誰も反論しなかった。
数週間後。
すこし高くなりますのPOPはそのままだった。
実際に値上げされたのかどうか、
誰にも分からない。
だが不思議なことに、クレームは一切来ない。
「値上げ?まあ、しょうがないよね」
「でも、ここは気にしない店だし」
「むしろ正直でいい」
客は勝手に納得していく。
最終的に、祖母は言った。
「高くなったと思う人は、高くなったんだよ」
「そう思わない人は、そうでもない」
価格が主観になった瞬間だった。
今日も店内には、
値札が曖昧な布団と、
貼りっぱなしのPOPが並ぶ。
すこし高くなります。
いつからかも分からず、
どれが対象かも分からない。
だが誰も困っていない。
ここは上尾のミステリーゾーン。
値上げしようとして、現状維持に失敗しなかった店。




