6
それは唐突に来た。
その日の夜半、ユージンはベッドの上で突然目を覚ました。咄嗟に寝たふりをしたまま周囲を探り、不審な気配がないことを確認してから目を開ける。明確な異常があるわけではなかった。ただ、ユージンの思考の奥にある獣の本能が、僅かに漂う不穏な雰囲気を嗅ぎ取ってぴんと緊張の糸を張っていた。
窓の外を伺う。月は高く、大樹の枝葉の僅かな隙間を縫って光が差している。見慣れた景色というわけではないが、異常なものがあるとも感じられない。
それでも、言いようのない胸騒ぎがしてやまなかった。
――胸騒ぎ?
はたと、ユージンは思い至った。
自分は今、胸騒ぎを感じている。警戒心があり、不安があり、危惧がある。どれもここ数日全く感じなかったものだ。なぜならそれは負の感情であり、しかるにこの村では、あの大樹とマフィカの力が常に押さえ込んでいるもののはずで……。
それが今あるということは。
「――マフィカ?」
ぽつりと呟いた次の瞬間、ユージンは弾かれたように立ち上がった。最低限の身支度を整え、隣室に飛び込む。
その緊迫感とは裏腹に、マフィカとカフカは共にぐっすり眠っていた。実に穏やかな寝姿だ。
起こすかどうか迷って結局やめたユージンは気付かれないように二人の様子を見たが、呼吸や表情に不自然なところはない。マフィカはすうすうと寝息を立てているし、カフカに至っては寝返りを打ったかと思ったら徐に尻を掻き始めたので、ユージンは大いにげんなりした。
――だが。
「っ――!?」
悲鳴が聞こえた。
恐らくは男の――しかし一瞬判別がつかなかったほどの、身の毛もよだつような叫び。夜闇を劈いたそれは男とも女ともつかない絶叫から、人間とも獣ともつかないおぞましい咆哮へと瞬く間に変化した。脳の芯を掴まれるような恐怖と緊張に、ユージンは思わず身を低くして構えた。冷や汗がぜんしんの毛穴を開かせる。
あまりの異常事態に一瞬でカフカが跳ね起きた。枕元の予期せぬ人影にも驚いたらしいが、ユージンが咄嗟に両手を上げると敵意がないことは伝わったらしく、暗闇のなか目を凝らして人相を確認する。ユージンと分かると小さく息をついたのも束の間、視線は咆哮の源を探して窓の外へ走る。
「なんじゃ……? 何が起こっとる……!?」
咆哮はやまず、途切れてはまた起こる。
「……わからん」
ユージンは室内に目を戻した。先ほどまで見えていたマフィカの寝顔が布団のなかに消えている。
「マフィカ」
ぴく、と身体が跳ねた。布越しの体温が僅かに震えているのがわかった。様子がおかしいことに気付いたカフカが慌てて枕元に片膝をつく。
「マフィカ? どうした?」
返事はない。咆哮に重なるようにまた別の悲鳴が上がり、それも変質して、ふたつに増える。常闇に触れた人間がどうなるのかを思えば、何が起こっているかなどあまりにも明らかだった。
状況が刻々と悪化しているのを感じると、ユージンは僅かばかりの間目を閉じ、そして決めた。
「――じいさん、すぐ逃げられるようにしとけ。見てくる」
ぽかん、とカフカの口が開く。
「……み、見てくる?」
「見てくる。……いいか、理由は分からんが、あの木かマフィカかどっちかの力が弱まってる。暗闇と冷気からはなるべく距離を取れ。いいな」
言われたカフカが弾かれたようにマフィカを見た。その身に何が起こっているのかユージンには分からなかった。だが時間がない。躊躇いなく踵を返す。
「ナイフ借りてくぞ」
返答はなかった。肯定と判断し、台所で両刃の小さなナイフを拝借してユージンは飛び出した。音もなく駆け抜ける。咆哮は数を増していく。その全てが森の方から聞こえてくることに、ユージンは既に気付いていた。
家々から出てきた村人たちは一様に怯えを浮かべていた。
「にっ、兄ちゃん!」
大声で呼び止めてきたのは、昼間マフィカといるところに絡んできた男だった。恐怖に引き攣った表情は、ともすれば正常な判断を失いそうにも見える。
「あんた何が起きてるか知らないか!? ていうかあの声なんなんだよ……!?」
「落ち着け」
「落ち着いてられるかよ!! あっ、あいつらっ、どんどん増えてるんだぞ!? 増えてんだよ!!」
「分かったから落ち着け!」
「ほんとに分かってんのか――!?」
むぐ、と手で口をふさがれた男が唸る。男の大声で周囲の人々の恐怖が膨れ上がっているのはユージンにも伝わってきている。
「でかい声出すな。来るぞ」
極めて簡潔な脅しだったが、男を黙らせるにはそれで十分だった。
「……このまま走って逃げろ。とにかくあの声を背にして走るんだ。いいな」
「っ、あ……」
「いいな!!」
「ひっ――!」
がくがくと頷いた男を解放してやる。一目散に走り去ったのを確認してから、周囲の村人にも目を向けた。
「お前らもだ、あいつの行った方に走って逃げろ。見かけたやつらは全員逃がすんだ!」
「わ、わかったっ」
「行くぞ!」
「無理だよ!」
何人かがすぐに走り出したなか、悲鳴を上げたのはひとりの少年だった。
「じいちゃんもばあちゃんも足が悪いんだ、走ってなんて逃げられない!」
「馬は?」
今にも泣き出しそうな顔で首を横に振る。焦るユージンは周囲を見回し、頭上の深い闇を見上げて咄嗟に振り返った。
――あれはどうだ?
「坊主、あの木を信じるか?」
不意を突かれた少年は一瞬きょとんとしたが、あの咆哮が起こるとまた怯えを浮かべ、こくこくと頷いた。
「信じる。……だって、ずっと守ってくれた木だから」
「……そうか」
絶対に選んではいけない選択肢だ、とユージンの理性は判断していた。変化術を使えることなど知られていいわけがないし、実際ここまでは徹底的に隠し通してきた。助けられないなら隠れていろとでも言ってあしらってしまえば済む話だ。マフィカやカフカと違ってこの子供に借りはない、三人ともどうなろうが知ったことではない。
知ったことではない、はずだが。
「――連れてこい」
見捨てられなかった。
「俺は行くところがある。代わりに、ここにでかい犬を待たせる」
「……でかい、犬?」
「そいつが木まで連れて行ってくれる。背中に乗っていけ、じいさんばあさんを落とすなよ」
「えっ、あ! ま、待って――」
「いいから行け!時間がねえ!」
怒鳴られて身を怯ませた少年だが、ガクガクと震えるように頷くと家の中に駆け込んだ。ユージンは家の裏手に入る。自分以外の気配はない。
喉を反らせるように梢を見上げて目を閉じる。三人乗せられるような、とユージンは意識した。
三人乗せられるような……。
肉体から自分の魂を引き剥がし、胸の辺りに押し込めるような感覚。或いは、肉体が魂のかたちを離れて、本来の姿を取り戻していくような、そんな感覚。
ユージンの姿は闇の中で溶け、代わりに体高だけでも大人の背を越さんばかりの巨大な狼が姿を現した。
「――」
久しぶりの感覚に、ユージンはぐっと伸びをしてから、見えない空に遠吠えをひとつ放った。状況は悪かったが、身体の調子はすこぶるいい。戸口の前に回り直し、腹這いに身を伏せる。
「うわあ!?」
出てくるなり腰を抜かしかけた三人を乗せると、獣は風のように走り出した。巨大な木を目指し、時折足元に忍び寄る冷気を振り切りながら。
「すごい……!」
少年の呟きを聞きながら、ユージンは足に力を込めた。地下墓地の入口は大樹のすぐ近くにある小屋の中だ。近づけば近づくほど例の咆哮は遠くなり、空気が軽くなるような感覚がある。木の力は生きているとユージンは安堵する。だが同時に、力を失っているのがマフィカであることが確実になった。
早く戻らなければ、何が起こるか分からない。
「――!」
同じように逃げてきたものらしい男が小屋の前に立っていたのをひと吼えで退かし、なるべく近いところで身を伏せた。
「だっ、誰だ!?」
男が怯えた声で問うた。
「ぼ、ぼくだよ! キリク!」
「キリク!? は、ええっ……!?」
「じいちゃんとばあちゃんも、この犬が逃がしてくれたんだ!」
「犬? ……い、犬っていうか狼なんじゃ――」
「いいよそんなの! 手伝って!」
早くしないとあいつらが、と少年――キリクが言いかけたところで、一段と大きな咆哮が夜闇を劈いた。全員がはっと顔を上げる。ユージンは素早く辺りを警戒し、次の瞬間驚きに目を見開いた。人間の目には捉えられない闇のかたちが、狼の目にははっきりと輪郭を伴って見えた。
ひとのような、二足歩行のなにかだ。肩が異様に大きい黒い岩のようなものに全身を覆われ、不格好に揺れながら近づいてくる。
闇骸だ、とユージンは判じた。判じた瞬間には、地を蹴って飛び出していた。キリクが呼び止めようとしたらしい声も聞こえた。だが、それに応えるより、目の前のそれをここへ到達させないことが最優先だと、ユージンは思った。
見えたのだ。岩のような体の所々に、破れた布がまとわりついているのが。ごくありふれた織物だった。ユージンも慣れ親しんだものだ。布団やテーブルクロスや――あるいは、この村の人々が普段着ている服と同じような。
呑まれたのだ。
誰かが常闇に呑まれ、自我を保てなくなり、闇骸に成り果てた。
その事実自体は既に見当がついていたし、今更驚くこともない。胸の奥にある結晶を破壊すればほどけて常闇に戻るということも、その結晶が人間の力で破壊できるものだということも一般に知られている。
だが、実際にそれを目の当たりにしたことがある者は少ない。
この平和すぎる程平和な村に暮らしている人々が、こういった事態に対処できるとも思えなかった。
つまり、とユージンは最悪の結末を描く。
知り合いが闇骸になったと知れた瞬間、その場の全員が闇に呑まれ、同じ結末を辿りかねない。
布団を被って震えるマフィカの強張った輪郭を思い出す。
地を蹴る。あっという間に距離が詰まる。近づくほどに増す冷気、呼び起こされるように自分の内側から滲みだしてくる不安や恐怖を、ユージンは意識的に操り、熱に変える。
――怒りだ。
村を襲い、そこに暮らす人々を骸に変えてしまった闇への、強烈な怒り。それに、全てを変える。
「――!!」
ユージンの顎は大きく開かれた。小さな子供なら一飲みにしてしまえるほどのそれが、獲物の肩から背骨までを一撃で噛みちぎる。味はしなかった。舌に触れただけでも空虚に砕けていくそれの中に氷の砕けるような感触が交じった、と思った次の瞬間、口の中の物体は霧のように溶けだして瞬く間に失せていった。
あとには何も残らない。
だが、そこに凝縮されていた感情は、触れたユージンに否応なく伝わってしまう。
――どうして。こんなことに。
――いやだ。たすけてくれ、死にたくない。死にたくない。たすけて。こわい。
――クイニー⋯⋯。
最後の最後に聞こえた名に、ユージンは息を呑んだ。
クイニー。
クイニー、というのは。宿屋の、女将の名前じゃなかったか。
――まさか。
今、己が食らったのは……。
核を砕かれた闇骸の身体は灰のように崩れて消える。黒い霧のようなそれがユージンに流れ込んでくる。恐怖が、絶望が、猛毒のように精神を蝕む。
崩れていく体にまとわりついていた布の切れ端が、ひらひらと風に吹かれて飛んでいった。
「――――!!」
思考を追い払うように激しく首を振り、喉首を晒して遠く吼えた。慟哭にも似た絶叫だった。
くそったれ。
ユージンは吼える。くそったれ、と脳裏で繰り返す。そうする間にも闇骸の声が近づいてくる。マフィカがどうなったのかは分からない。解決の糸口も見えない。だがここで己が食い止めなければ、事態は転がるように破滅へ向かう。
震え出しそうになる体を本能に委ねて、ユージンは駆けた。向かってくる闇骸をことごとく喰らう。その度に口内で結晶が砕け、闇が溶け、絶望が身を侵す。
――ああ、こんなふうに死ぬなんて、俺は、俺はまだ……!
くそったれ。
――どうして……いたい、くるしい……どうして、どうして……!
くそったれ。
――どこ……? ママ、どこ……?
くそったれ、くそったれ、くそったれ……っ!!
幾人もの絶望を噛み砕きながら、ユージンの思考は次第に掠れていった。感情が混じり合い、判別がつかなくなっていく。その全てを怒りに変える。怒りを原動力に地を蹴り、牙を剝き、目の前のなにかを引き裂き、噛み砕いていく。
熱にうなされるような時間の末、ユージンは。
自分の爪が誰かの背中を捉えていることに気付いた。