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憂いの果てのマフィカ   作者: 並木祐太
7/12

5

 ――ネネ・テレッタから街道沿いに海へ向かう。

 目的地が見えない、と昨日のヨーコの言葉を反芻しながらユージンは思った。今しがた黒鹿毛の馬に跨った背中を見送ったところだ。荷物ひとつを馬の背に括った以外は何も持っていないというあまりにもな軽装だったが、虚空から出現したりんごのことを思えばそれでも問題がないのだろう。

 朝はあまり時間が取れないからと結局夜までご馳走を振る舞い続けたヨーコは村中をこれ以上ないというほど喜ばせ、村人総出での厚い見送りを受けて旅立っていった。その方角は確かにネネ・テレッタを目指す向きだったが、街道に出るだけであれば別の街に出た方が早い。

 それこそ森に沿って回り込めば、とまで考えて、ユージンははたと思い当たる。

 自分は森を抜けて逃げてきた。何からかは覚えていないが、少なくとも何かから逃げていたことは間違いない。

 ――避ける必要があるほどの何かが起きている……?

「……おう」

 ぴた、とマフィカが寄り添ってきて、ユージンは思考を中断した。

「どうした?」

 何も、というように小さく首を横に振る。そうかい、と呟いて辺りを見回したが、カフカの姿はなかった。ヨーコの見送りがてら回診に行きたいと言ってすぐ近くの家に入っていったのだが、まだ終わっていないらしい。

「よう」

 声をかけられた方に視線を戻すと、通りすがりらしい髭面の男と目が合った。嫌味はないもののやや下世話な笑みを浮かべているのは、思い起こせば昨日マフィカと同じテーブルで食事をしていたうちのひとりだ。

「すっかりなつかれたな、兄ちゃん」

「ああ。なんでこうなったかさっぱり分からん」

「そうかい? 俺は分かる気するけどな。なーマフィカちゃん?」

 男の言葉にマフィカは心なしか得意げにふんふんと頷いた。分かり合うものがあるらしい。ユージンは若干げんなりした。そういった機微に関してはあまりいい思い出がない。

「なんだよ。分かるんだったら教えてくれ」

「あーダメダメ! 自覚した途端になくなる魅力ってもんがひとにはあるんだよう。聞かない方が兄ちゃんのためさ」

「あんた俺のなんなんだ?」

「なんでもいいじゃねえか、兄ちゃんのこと気に入ってることには変わりないぜ」

 なー、と男はマフィカに笑いかけ、マフィカはまたふんふん頷く。

「勘弁してくれ……」

 辟易するユージンに男は心底楽しそうに笑った。

「なあ。なんならこのまま居ついちまったらどうだい?」

「断る」

「そう言うなよう、ここはいい村だぜ? でかい木があってマフィカちゃんがいて、常闇(ニュクス)は寄り付かないし、揉め事も起こらない。それに、男が男を嫁にもらっちゃなんないって決まりもないしよ」

「はあ?」

「マフィカちゃんは結構乗り気だと思うけどな。どうだ?」

 問われたマフィカはなんとも微妙な仏頂面で男を見つめ返した。少なくとも乗り気とは思えない反応に、まだ早いかあ、と男は苦笑いする。

「早いとかじゃねえだろ。まずそんな村の守り神みたいなやつをホイホイ嫁がせようとするな。こんなぽっと出の怪しい奴に」

「がはは! 自分で言うかね」

「事実なんでね」

「まあ確かにそうか。けどまあ、マフィカちゃんは神様じゃないからな」

 言うと、男は慈しみの籠った目でマフィカを見つめる。

「マフィカちゃんにはマフィカちゃんの人生と喜びがあるってもんさ。――だからよ。好きなら早いとこ付き合っちまえ?」

「おいしつこいぞおっさん」

「いや真剣なんだよ! 俺らみんなマフィカちゃんのことだーい好きなんだから!」

 なー!と、終いには周りで眺めていた人々にまで振り始めた。どうやら男のこれはいつものことらしく、同じ台詞を返してくる人もいれば、はいはいと苦笑いで受け流す人もいる。ただ、そうして応じる人の誰もが、どこまでも純粋で優しいまなざしをマフィカ達に向けていた。

 ――あの世だと言われた方がまだ納得できる。

 ユージンがいだく感想はやはり同じだった。

「……こんなところにいたら平和ボケしちまうよ」

「すりゃいいさ! 悪くないぞ?」

「おことわりだ」

「つれねえなあ」

 男は笑い、まあゆっくりしてけ、と片手を挙げて去っていった。ユージンが深々とため息をついたところに、折よくカフカが戻ってくる。

「いやすまん、待たせたな」

「悪いのか?」

「ん? ああいや、ピンピンしとるよ。ただその分話が長くてな……」

「あー……」

「子供の時からおしゃべりだったが、まー歳食ったらえらいもんで、延々おんなじ話をするようになってなあ。話題が尽きんから永遠に終わらん。ありゃ死ぬまで喋っとるな」

 苦笑するカフカは穏やかながら、それでも僅かに寂しげだった。

「幼なじみか?」

「まあな。……あいつが嫁に行かなきゃ、今頃はわしと沿うておったろうよ」

「うわぁ」

 ユージンはあからさまに顔を顰めた。

「ジジイの恋路なんか聞きたかねえよ」

「冷たいのー。年寄りは丁寧に扱え? どうせ老い先短いんじゃこっちは」

「だからってつまんねえ話していい理由にはなんねえの」

「はー! まったく血も涙もないわ!」

 大袈裟に憤慨してから可笑しそうに笑ったカフカだったが、そこでふと言葉を切った。何かを感じ取ったのか、少し驚いたようにマフィカを見る。ユージンは声をかけるか迷ったが、マフィカが何かに集中しようとしているらしいことに気付いて控えた。

「……」

 その僅かに緊張を帯びた雰囲気はしばらく続いたものの、やがてマフィカ自身がすっと目を伏せたことで途切れた。

 カフカはふっと息をつき、穏やかに微笑んだ。

「……気にするな。これはわしのもんだ」

 マフィカは未だ納得がいっていない様子だったが、カフカの手を取ろうとする気配はない。ユージンはカフカに目で問うた。

「ああ知らんか」

 すまんな、と軽く詫びて歩き出す。

「慣れたよ。知らないことしか起こらねえんだから」

「そうかね? 余所者は大変だ」

「おっと。危うく手が出るところだった」

「ははは。まあ冗談は置いといてだ」

 マフィカの力はな、とカフカは続けた。

「人間の中にある痛みを吸い上げる。……洗い流す、と言った方がいいかもしれんな。身体の痛みもそうだが、心の痛みも扱うことができる。恐れや怒り、敵意、害意、悲しみや寂しさ……なんでもな」

常闇(ニュクス)の源になるものならなんでも、か」

「そうなるのう」

「なるほど。で?」

「あんた一番鮮明に覚えてる記憶はあるかね?」

「え?」

 突然の問いに、ユージンは思わず呼び覚ましてしまった記憶を抑えきれなかった。

 幼少期の記憶。自分の倍ほども大きな影。死闘。生死の境を彷徨っては強制的に引き戻され、幻覚だけを頼りになんとか自我を保っていたあの日々。


 ――すべての骨を折れ。


「たぶん強い感情と結びついた記憶じゃろ」

 カフカの声は少し遠くから聞こえた。

「……ああ。しっかり嫌な気分になった」

「ありゃ。それはすまん」

 一応は詫びを入れつつ、とはいえ深く詮索しようとする様子もなく。つまりな、とカフカはそのまま続けた。

「強い感情を伴う記憶は残るが、そうでないものは忘れられる。そして、思い出せるかどうかは別として、その残った記憶が今の自分を形作るわけじゃ。……マフィカは記憶に伴う痛みも癒すことができる。が、痛みという感情が薄れれば、その記憶は失われる。そうなるとまあ……薪の積み上げたのを真ん中から抜いていくようなもんでな」

「……崩れる?」

「極端な場合はそうじゃ」

 まあ実際に見たことはないが、とカフカは断りを入れた。ユージンとしてもいまひとつ想像のつかない現象だった。が、自分を構成するものが失われていくというのは如何にも不穏そうな響きを帯びている。

「……そりゃ怖い」

「じゃろ? 特にこうも年取るともー、ほっといても忘れるんじゃ。そんなことされたら全部忘れてしまう」

「年寄りは大変だな」

「いやもうその通りじゃよ。……というわけでの。マフィカはわしらの痛みをなるべく全部消そうとしてくれるが、そういう理由で消せないものもある。ただ、そういうもんはもう、わしにとって失ってはならんものだからな。そこは諦めとくれと言うしかない」

「ああ、それであのやりとりか」

「そうそう」

 カフカは極めて軽い調子で言った。だが、それに答える者はなく、やや気まずい沈黙が降る。

 ユージンはちらりとマフィカを盗み見たが、やはりどこか憂わしげな面持ちでいた。不甲斐ないのだろう、とは思ったが、かける言葉が上手く見つからない。

「……まあ」

 随分無駄な気休めだな、と自分でも思いながら口を開いた。

「いいだろ、別に。じいさんのもんはじいさんに持たしときゃいいさ。――あんた、優しすぎだ」

 すかさず手が伸びてきて、はいはいマフィカマフィカ、と大仰に言ってやる。カフカがからかうように鼻で笑ったのは無視した。雰囲気が僅かに上向いたのが分かった。それで十分だった。

 そういえば、とカフカがすっとぼけ始める。

「お前さん怪我の方はもういいんだろう?」

「ん? ……ああ、まあ。お陰様で」

「そりゃよかった。そんじゃまー、働かざるものなんとやらじゃな」

「……何させようってんだ?」

「そうさなあ。まずうちの掃除じゃろ? あと家事全般は手伝ってもらうとして……ついでにお使いも行ってほしいのう~」

「おい」

「あそうじゃ! 水車小屋の雨漏りもあってだな――」

「おい!」

「はっはっは!」

 先ほどまでの緊張はゆるりとほどけ、相変わらずののんびりした穏やかさがいつの間にか戻ってきている。


 その間、マフィカはユージンの手首を決して離さなかった。


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