断章
その子供がどこからやってきたのか、誰も知らなかった。
いつの間にかそこにいて、いつの間にか村の一員になっていた。
煌めく髪は星の子の証。黒髪にそれが交じっている理由は分からないが、その力は間違いなく村を常闇から守っている。
それだけ分かっていれば十分だと、子供の出自を知らないことに対してみな深く考えはしなかった。そのうち、子供は森から来た孤児だという話がどこからともなく広まり、そのまま村人たちの共通了解になっていった。
マフィカという名は、村の木が選んだ。
村人たちが考えた名を思い思いの木の葉に刻み、最初に落ちたものを選んだのだ。
名付け親となったのはカフカだった。診療所の空きベッドを仮の寝床としていたマフィカに新しく木を伐り出してベッドを拵え、自分の家に置いて招いた。それ以来、二人は共に暮らしている。
マフィカは名を持ったことを大いに喜んだ。その葉を大事に持ち帰っただけでなく、二人称においては特に、名前で呼ばれることを求めた。名を得るまでは話しかけても目線を向けるのがせいぜいと言った感情の乏しさだったが、そうして呼ばれるうち徐々に機微が見えるようになり、僅かながら笑いさえするようになった。
文字を覚えたのも名を持ったことがきっかけだった。名前によって形を得、育ち始めた自我が、自己主張を求めるようになったのだ。
声を持たなかったマフィカは文字を求めた。地道に練習を重ね、相手の手に文字を書きつけて会話もできるようになった。
無論、村人はマフィカのそんな変化をことごとく喜んだ。星の子の力も作用して村はますます平和になり、その穏やかな世界にマフィカは受け入れられた。幸福の一言で済ますには、あまりにも恵まれた日々を過ごしていた。
最早マフィカはひとりではなかった。
温かく接してくれる村人のひとりひとりを愛し、その誰もが苦しまないようにと願いながら力を使った。自分の力はそのためにあるのだと、それ以外の可能性を見ようともせずにひたすら信じてきたから。
――だから。
そうして成り立っている村の平和なのだとユージンが知った時、マフィカは動けなかったのだ。
自分に流れ込んでくるユージンの「闇」が、あまりにもはっきりとその平和を拒んでいたから。
『痛みのない人生など、ぬるい』。
そんなことがあるだろうか、とマフィカは考え込んでしまう。痛みなど、感じないに越したことはないのではないか。現に今、きっと他にはないくらいの平和がこの村にあるのだから、このやり方は間違っていないんじゃないか。
マフィカはユージンの考えが分からなかった。今流れ込んでくる「闇」を辿ればその答えには辿り着けるだろうが、それは同時に、ユージンの過去の記憶を勝手に盗み見ることになる。
僅かに迷った後、マフィカはそれ以上の詮索を避けた。ひとの持ち物を勝手に見てはいけないとカフカからも教わっている。
脳裏にはふたつの問いが残った。煌めく髪を風に揺らしながらマフィカはそれらを反芻した。
どうして痛みのない人生を否定するのだろうか。
もし、痛みのある人生に価値があるなら。
他人の痛みを取り込んでいる自分もいつか、この平和に近しい何かを手に入れられるのだろうか?