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エルパの村は森に面した小高い丘の上にあった。丘の頂上には例の「でっかい木」がある。ユージンが目覚めた時にもたれかかっていたあの木だ。誘われるまま外に出てユージンは驚いた。巨大な木の枝が屋根のように家々を覆っていたからだ。
例の墓地のすぐ近くにふたりの家はあり、ほんの少し歩けば見晴らしのいいところに着く。食事を終えた一行はまず癒術師の元を訪れ――いずれ礼はすると伝えたものの、「無一文の奴からなんぞ取れるか」と一蹴されてしまった――、来た道を戻って高台に向かった。
如何にも昼寝向きな草地から、斜面に沿って広がる町並みが見渡せる。ほう、と思わず感嘆の声を漏らしたユージンに、マフィカがすっと寄ってきた。
『はれたら やま みえる』
「ほう、そりゃすごい」
残念ながら今日は雲が多い。マフィカの言葉をカフカに伝えると、見える見える、とカフカも頷いた。
「山からも見えるのか? この木」
「おうとも。まーじゃから、山から来る旅人は一旦この木を目印にしたらしいの」
「なるほど」
「ここらを通る旅人がみんなこの木陰で休んだんじゃろな。そのうち宿なんか建つようになって、その延長で村になったらしい」
カフカは思案気にひげを撫でながら言った。曰く、旅人が道中で命を落とした仲間をこの木の根元に寝かせ、木とひとつになってこの場所を守るようにと祈りを込めるようになったらしい。それが続くうちに木そのものが力を得て、常闇を退けるようになった、という伝承らしい。
以来、森にほぼ接している立地ながら、常闇の被害に遭ったものはとんと見ないという。
ユージンは話半分に聞いていたが、それを聞いてふと思い出した。
「星の力をこの木が持ってるってことか?」
「まあそう考えてよかろうな。詳しいことはわしらも分かっとらんが」
「この子じゃなくて?」
「あーいや、マフィカも常闇を祓う力は持っておるよ」
カフカが言う。
「何の理由で入ったか知らんが、あんたが森に入るのはおすすめせんな。あの木の加護だけでどうこうなるもんでもないぞ」
「だろうな。俺もごめんだ」
常闇はひとの心を侵す。あの時感じた恐怖を二度味わいたいとはユージンも思わなかった。よほどの理由でもない限り踏み込むべきところではないことは身をもって知っている。
「……で、あんたはなんで森にいたんだ? マフィカさん」
深い青の瞳と目が合う。
「いくら常闇に対抗する力があるったって、目的もなく入るところじゃないだろ?」
カフカが何か言いかけたが、マフィカが少し首を傾げたのを見てそのまま口を噤んだ。一方のマフィカは言葉を探していたようだが、やがてユージンの手にさらさらと文字を連ねた。
『したいあつめ』
ユージンは思いきり虚を突かれて沈黙した。
「あー……いや、も、もっかい書いてくれるか?」
『したいあつめ』
「……坊っちゃん冗談はなしだぜ」
『まふぃか』
「分かってるっての! その『死体集め』ってのはどういう意味だって話だよ」
「いやーホントにのー」
ユージンの上ずった声に応じて、ほとほと困っている、という空気を隠そうともせずにカフカが嘆いた。
「程々にしてほしいもんじゃ……」
「じいさんおかしくなってるぞ、程々とかじゃないだろこんなもん」
「いや、これがちと厄介でな」
カフカは例の大木を見遣る。
「さっき言うた通り、この木は死者と死者への祈りを糧に育ってきたのよ。あんたをあそこに寝かしといたのもそういうわけでな」
「えっ、木の糧にしようとしたのか?」
マフィカがこくりと頷く。思っていたより危ういところだったらしい。
「それだけじゃない。死者の残す思念は常闇を集めてしまうのでな……放っておくと、それを依代にして闇骸が生まれることもある。そうでなくとも、無念や恨みつらみがあれば、それはそのまま常闇の一部になる……」
「ああ、弔いも目的なのか」
「そうじゃな。幸か不幸か分からんが、この子は他者の感情に敏い。常闇に満ちた森の中でも生き物の気配を嗅ぎ分けるくらいな。まあだから、あんたの気配を感じて迎えに行ったんじゃろ」
「死んだと思って?」
『あなた からっぽだった』
マフィカは淡々と綴った。
『あたま からっぽ』
「……悪口か?」
『かんがえ なかった』
「悪口だよな?」
「なんだって?」
「頭空っぽの考えなしだとさ」
わっはっは、とカフカは豪快に笑った。
「あーいや、違うぞ。多分、向かってる途中であんたの意識が途切れたんじゃろ。それで何も感じ取れなかったんじゃ。思考や感情の類いを」
「ああそういうことか?」
マフィカがこくこくと頷く。それで死体と勘違いしたわけか、とユージンは納得した。
「で、死体だと思ってたら動き出したと」
「いやー初めてのことでな、びっくりしたわ。危うく腰をやるところじゃった。まーあの傷の具合では死人と間違えるのも分かるが……とかなんとか鑑みてもやっぱり程々にはしてほしいもんじゃが……」
流石に気味悪がる者もおらんではないからな、とカフカは言った。
普通、星の子ともなれば仰々しく崇め奉るような扱いをされることの方が多いはずだが、意外にもエルパの村人たちはマフィカを普通の子供として扱っていた。出会えばごく普通に挨拶をし、雑談などもする。その上カフカの言い方から察するに「死体集め」の件も承知しているらしい、とあまりの明け透けさにユージンは大きめのため息をついた。
「死体を拾ってきて聖なる木に餌やりする星の子、ねえ」
『だいじなしごと』
「そうかい。やりがいがあるって?」
一瞬、マフィカの指先は躊躇った。
『みんなのため』
それに気付いたユージンだが、反射的に見なかったふりをした。根拠はなかったが、何かそこはかとなくきな臭い気配がした。
「……まったく、変な村だぜ。あの世だと言われた方がまだ納得できる」
「はっはっは! なるほどのう、中らずとも遠からずかもしれんぞ」
カフカは可笑しそうに言った。
「何しろ祝福がふたつ重なっとる村だからなあ。よそとは前提から違う」
あんたも薄々気付いておるかもしれんが、と前置きしつつ、カフカはユージンがここまでに感じていた違和感に明白な解を与えた。
「この村には、あらゆる苦しみが存在せんのよ」
「……苦しみがない?」
「あの木の力とマフィカの力で、この村の常闇は全て祓われておる。常闇を呼びかねん負の感情や肉体的な苦痛に至るまでな」
さらりと告げられた内容に、一拍遅れて直近の記憶が蘇る。
痛みのない怪我。生じたそばから消滅した恐怖心。怪しすぎる余所者であることを意に介さない対応に、自分自身でも不思議に思うほどの穏やかな心境――。
言われてみれば確かに、この村に来てからの自分には「苦しみ」がなかった。精神的にも、肉体的にも。
「よそから来ると信じがたいかもしれんがな。あんたみたいな余所者が来ても用心する必要がない、なんしろ悪さをしようという心をそもそも持てん、なんてのはここ以外になかろう」
しみじみとカフカは言い、やわらかな眼差しをマフィカに向ける。
「……本当に、守り神みたいなものじゃよ」
マフィカは真剣な表情でカフカの視線を受け止めていた。そよ風が抜け、三人をやわらかく撫ぜて行き過ぎる。
ユージンは顎に手をやった。無精髭が手のひらに刺さればちくちくと軽い痛みがあったが、自分の日常からすれば痛みとも呼べないようなものでしかない。この程度のものですら、それが不快感を生じるようなものであれば二つの祝福に掻き消されるのだろう。手負いの身で森を駆けることが生活の延長にあった身からすれば信じがたい世界だ。
苦しみのない生活、とユージンは思う。
――すべての骨を折れ。
遠い昔の記憶が眼前にちらつく。
「……そうかい」
「なんじゃその反応は」
「まあその、なんだ。好きにすりゃいいさ」
「気に入らんかね」
ユージンは慎重に言葉を選びながら答えた。
「――強いて言うなら、心配だな」
「心配?」
「ああ。なんせ、仕組みの分からんものはあまり得意じゃないんでね」
癖でポケットに手を突っ込んだユージンだったが、指先は空を搔いた。愛用の煙草はどこかへ落としてしまったものらしい。
「……大した理由じゃない。随分いいことばかりだからなんだか碌でもないことが起こりそうな気がする、っていう余所者の感想だ。忘れてくれ」
明け透けに言ったユージンに、カフカは若干苦笑いしただけだった。
「いやいや、その感想はもっともじゃよ。……となると、そうじゃな。もしよそへ移りたいなら馬を一頭譲れるぞ」
「ええ? じいさん流石にそれは――」
「なんの。これも何かの縁よ」
「いやそういうことじゃねえ。対応がエルパすぎるんだって」
「おっ、なら皆に声をかけて――」
「じいさん!」
「はっはっは」
暢気な言いあいをするふたりの傍ら、マフィカはひとりぽつんと立っていた。葉擦れの音にそっと目を閉じながら。