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今度はベッドの上だった。
目覚めたユージンの傍らには例の子供が待っていた。どうやら甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたものらしく、水が入っているであろう桶がベッド脇の小さな机に乗っている。
子供はユージンと目が合うと、徐にその手を取り、指先を掌に滑らせ始めた。文字を書いているらしいと気付くまでに時間がかかり、最初の数文字を見逃してしまう。どうやら口が利けないらしい。
「……すまん、もっかい頼む」
今度は少しゆっくりめに指先が動く。
『おはよう』
挨拶をしてくれたらしい。
「――ああ。おはよう」
子供が頷き、更に文字を書く。
『けが ない』
「あ? ……ああ。ご心配どうも」
子供は首を横に振る。
『あなた けが ない』
「?」
『あなた なおった げんき』
「……まさか」
こくんと頷かれる。試しに上体を起こしてみると、まだかなり重いながらもすんなり持ち上がった。支えにした右腕も動く。左足の感覚も戻っている。胸いっぱいに息を吸い込んでも肋骨の違和感はなかった。文字通りの全快だ。
「マジか……」
『とおか』
「……十日かかったって?」
『かかった ねてた』
「あれまあ」
随分よく寝たもんだ、とユージンは苦笑する。だが、あの怪我の程度を考えればとんでもない速さだ。よほど腕のいい癒術師が来たか、もしくは例の薄紫の薬がとんでもない効能だったか。――もしくはもっと別の力が働いたか。
例の髪が目の前で煌めいている。星の子に癒しの力があるという話は聞いたことがないが……。
「で? 坊っちゃんが面倒見てくれたのか?」
またしても首を横に振られる。
『まふぃか』
「……分からん、もっかい書いてくれ」
『まふぃか』
「……まふぃか?」
『わたし』
「ああ、あんたマフィカっていうのか」
子供――マフィカが首肯する。どうやら坊っちゃんという呼ばれ方が気に入らなかったらしい。
『まふぃか』
「わかったわかった。……ありがとうな」
マフィカはうんうんと頷き、ちらっとドアの向こうを見遣った。
『じい よぶ』
そう書き残して、ぱたぱたと部屋を出ていく。一緒に重たい足音が戻ってきたと思えば、例の老爺がユージンを見つけてほっと息を吐いた。
「おお、急に元気そうじゃないか。どうだね具合は」
「どうも。よすぎるくらいだ」
「そりゃ何より。……あんた名前は?」
「ユージン」
「はあ。聞かん名だな」
「ここはどこだ?」
「大樹の里エルパ。まあ、でっかい木以外はなんにもないとこじゃな」
「エルパ……」
名前は聞いたことがある、という程度のことしか思い出せない。
「まーしかし、あんたどっから来たんじゃ? マフィカは森で拾ってきたと言うが……あ、こっちがマフィカな。わしはカフカじゃ」
老爺――カフカは朗らかに言い、のんびりと頬を掻いた。
「いやー、森を抜けてきたんだとしたら大したもんじゃよ。ここらは闇骸なんかもうようよしとるようなところじゃから」
そう言えば、とユージンは思い至った。森の中を必死に走ったような記憶はある。だが、森に入る前に何をしていたのかが思い出せない。記憶を遡ればさらに前のことは思い出せるが、森に入る前の記憶だけがぽっかりと抜け落ちている。
「……さあ。忘れちまった」
「そうかね。なら訊かんでおくよ」
意外にもあっさりと引き下がったカフカに、ユージンは思わず眉をひそめた。
「いいのか? 俺が言うのもなんだが明らかに訳ありだぞ」
「構わんよ。この村ではな」
妙に楽しげに笑んだカフカの真意は読み取れない。隣で様子を見ていたマフィカも小さく頷く。
「……随分と怖いとこに来ちまったもんだ」
「『怖いとこ』? はーなんとまあ……心外じゃ〜、兎にも角にもでっかい木以外なんにもないとこだと言っておるのに……」
大袈裟に嘆いてみせるカフカに、マフィカが少し肩を揺らして笑っている。つられて微笑んだ自分のいつになく穏やかな胸中に、ユージンはやはりどこか違和感を拭えなかった。
違う。何かが。
「飯を食ったら出かけてみるかね?」
そんな心中を知ってか知らずか、カフカはそんな提案をした。
「でかい木しかない村にか?」
「そうとも。でかい木陰ででかい昼寝でもしたらいい」
実にこの上ないほどの緩く適当な扱いだった。だが、悪い気はしなかった。
「――楽しそうだ」