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パナシアはイーアス大陸の北西に位置する小国である。水と森の豊かさでも知られるが、特筆すべきは今も生きる「星の伝説」だろう。
三百年前、突如大陸に現れた常闇。人々はその闇に侵され、あるものは精神を病み、あるいは自我を失い、果ては闇骸と呼ばれる化け物になってあらゆる命を手当たり次第に襲う。
文字通り闇に潜み、光を嫌うこの呪いは、不定形の上に目で見ることが難しい。明かりを絶やさないようにする以外に常闇を退けるすべを持たなかった人々は、不断の戦いの中で次第に疲弊していった。明かりを灯さずとも常闇を近づけないごくわずかな土地へ人々は移住し、それでも滲みだす呪いに怯えながら暮らしていた。
だがある時、光明が現れる。
パナシアのある小さな村に、白磁の肌と星のように煌めく髪を持つ少女が生まれた。生まれながらに声を発することができなかったが、気立てもよく、文字通りに村のすべての人から愛された。彼女の近くにいるものは常に安らぎを得た。たとえ、そこが心を侵す常闇のただ中であっても。
少女には常闇を祓う力があった。その力は祈りによって増幅し、ひとや場に留まって闇を退ける。時間とともに薄れていくものではあったが、常闇に対する確実な対抗策が見つかったことは人々を大いに元気づけた。少女はパナシアの全土を巡り、闇の中にひとつひとつ祝福の光を灯していった。
その力でパナシアの人々に安寧をもたらした少女は、崇敬の念を込めて星と呼ばれた。
リュミナの死後、その祝福を受けた土地には白磁の肌と煌めく髪の子供が生まれ、同じように常闇を祓う力を授かっていた。星の子と呼ばれる彼らはパナシアの外にも祝福の手を広げ、今や大陸全土にその系譜が根付いている。
だが、大陸に散った常闇を祓うには至っていない。
そして――。
***
やわらかい微睡みから浮かび上がるように、ユージンは目覚めた。
「……」
体は重く、頭も上手く回らない。なめらかながらもごつごつした感触――木の根だろうか――に背中を預けるようにして寝かされていることと、周囲が陽光と質の違う明るさに満ちていることは辛うじて分かった。周囲に動くものの気配がないことを確認してから、ユージンは目を開け、そして瞠った。
頭上高くに純白の天井がある。石造りらしいそれが全体に光を放っていることも驚きだったが、背を預けている巨木の幹が天井を貫いて伸びていることも衝撃的だった。木の幹にぴったりと合う穴が開けられている。先にあった巨木に合わせて天井を作ったものらしいが、そうして作られる空間はユージンの知る限りひとつだった。
墓地である。
冗談じゃない、と起き上がろうとしたが、支えにしようとした右腕にどうも力が入らない。首をひねってみると、肘と肩のちょうど真ん中で奇妙に折れ曲がっているのが見えた。ユージンはますます混乱する。どう考えても折れているが、痛みは全くない。記憶と衣服の血痕を頼りに左手で体を探る。左脚だけは感覚ごと失われていたが、それ以外はどこも傷だけがあり、痛みがない。
「死んだか……?」
思わず呟く。まだ体液が滲んでいる傷もある。昨夜の逃走劇と滑落を思えば命の危機にあることは明白なはずなのに、ユージンは焦燥感を全く感じていなかった。谷底に落ちる時に感じた強烈な恐怖も、今は残っていない。「恐怖がない」ことに対する混乱で一瞬生じたはずの恐れも、水が土に染み込むようにゆるくほどけて消えた。今までにない感覚だ。
「……怖ぁ」
自分でも緊張感がなさすぎると感じる声音でユージンはもうひとつ呟き、同時にどこからか近づいてくる微かな足音に気付いた。ぱたぱたと軽い音にゆっくりとした音が続いている。どうやら左手に見える階段を降りてくるらしい。
「も~……。ちょっと、待っとくれ、膝が……膝が爆ぜる……」
なんだジジイか?とユージンは拍子抜けした。誰かに急かされているらしい声が近づいてくる。隠そうという気配のない足音に呑気な泣き言と敵意はなさそうだが、とは思うものの、いずれにせよ身動きが取れないのでは大した抵抗もできない。覚悟を決めるしかないと悟ったユージンは、内心の身構えを解き、静かに待った。
ぱたぱたと足音が近づいてくる。
踊り場に現れたのは子供だった。
少年のような身なりだが、性別は分かりにくい。
「――!?」
ユージンが自分を見ていることに気付くと子供はわずかに目を見開き、来た方を振り返って必死に手招きをした。後ろで三つ編みにまとめている黒髪にところどころ煌めく房が交じっている。星の子か、とユージンは思ったが、確信には至らなかった。まだら髪の星の子というのは聞いたことがない。
人間と星の子の間に生まれた子供か……?
「はいはい、急いどるから急かしなさんな。あんまり急かすと落っこちるぞ。上から落っこちたらもー、お前さんぺしゃんこじゃ、ぺしゃんこ――おおっ!?」
さっきから嘆いていたのはこの老人らしい。胸にかかるような白ひげの、如何にもひとの良さそうな顔をした老爺だ。こちらもユージンと目が合うなり素っ頓狂な声を上げる。よほど想定外らしい。
「……!」
一瞬フリーズしたもののすぐ我に返った老爺は、どたばたと残りの階段を下りてくると躊躇いなくユージンの傍らに膝をつき、至近距離で顔を覗き込んだ。
「あんた、聞こえるかね?」
「……ああ」
「息は? 苦しくないか?」
「……こっちの肋骨が逝ってる。それより、左脚が……」
「痛むか?」
ユージンはかぶりを振った。こうも素直に自分の状態を話しているのが不思議でもあった。
「いや。感覚がないんだ。……むしろ、怖いくらい痛くない」
「じゃろうな。それはそういうもんじゃから気にせんでよい。……いやこりゃいかんな。間違えて拾ってくるわけじゃ」
手際よく怪我の具合を見ながらぶつぶつと呟くと、今度は少し離れたところで様子を見ていた子供を振り返る。
「すまん、わしの鞄を持ってきてくれ。薄い紫色の瓶があるから飲めるだけ飲んでもらうんじゃ。わし癒術師さん呼んでくるからな」
子供はこくんと頷くと、あっという間に階段を駆け上がっていった。
「……というわけじゃ。噎せないようにゆっくり飲んどくれ、すぐに癒術師が来るからな!」
ユージンの返事を待たずに老爺は踵を返し、どたどたと階段を上がっていった。それが聞こえなくなったかと思えば今度は子供の方が戻ってきて、言われた通りに持ってきたらしい革の鞄から薄紫の小瓶を取り出す。力が強くないのか少々苦戦しながらコルクを抜くと、そっと口元に近づけてくる。
「……なんの薬だ?」
瓶の口が触れる寸前で、ユージンは問うた。一応確認しておくか、という程度の気持ちで発した言葉だったが、どうやら想定外だったらしく子供の動きはぴたりと止まる。
「――」
表情はあまり動かないながら、あちこちへ視線を走らせているところを見ると大いに慌てていることは想像がついた。瓶を確認するが張り紙などはなく、鞄の中にもめぼしいものは見つけられない。真剣に問いに答えようとしているところから見ても、どうやら本当に敵意がないらしいことは察された。
別に構わない、とユージンが言ってやろうとした時だった。
「――!」
ひらめいた、とでも言うように子供は例の瓶を持ち上げると、躊躇いなくひと口含んだ。
ユージンが止める間もなくごくりと喉が動き、子供はぱっと口を開けて、含んだものをしっかり飲み込んだことを証明する。
「……おお」
なんと言うべきか迷って中途半端な声だけが漏れる。だが、とにかく瓶の中身が毒でないことは分かった。そして、目の前の子供がそれを証明してくれたことも事実だった。
「……腹、据わってんな」
言えば、子供は僅かに嬉しそうな雰囲気を滲ませる。もう一度差し出された瓶をユージンは拒まなかった。慎重に流し込まれる液体はほんのり甘く、薬草の類というよりは花に近い匂いがした。子供はユージンの動きに合わせて瓶を傾け、或いは離す。老爺の忠告通り噎せないように気をつけようとは思っていたものの、流れ込んでくる量が適切なおかげであまりその心配はなさそうだった。
が。
「――やべ」
ゆらあ、と視界が回り始める。一瞬、子供の心配そうな目が見えた気がしたが、瞬く間に視界は暗くなった。
「だいじょうぶ、だ」
辛うじて絞り出した言葉を最後に意識が遠のく。まぶたの裏に子供の髪の煌めきが残っていたが、それもすぐに薄れて、消えた。