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大樹の力を借りる。その考えは確かにあった。だが、具体的な方法など見当もつかない。
それでもやるしかないのだと、マフィカは思った。地下墓地には既に大勢の人がいたが、その誰もが祈りと期待のまなざしをマフィカに向けていた。
「マフィカちゃん、頼むよ……」
「もうあんたしか頼れん」
「お願い……」
ざわめきがさざ波のように寄せ、マフィカの意識に絡みつく。できなかったらこの人たちは死ぬんだと、その意識が思考と動きを鈍らせる。
やるしかない。……やるしか、ない。
マフィカは木の根元に歩み寄り、跪いてそっと手で触れた。乾いた樹皮の感触の下、煌めくような力の流れを僅かに感じる。普段に比べればずっと弱々しくか細いが、確かにある。
マフィカは大樹の力に触れ、自分の「器」に溜まっている人々の痛みをそこへ流し込んでいった。淀みが洗い流されていくように、己の内から重たいものが抜けていく。そうしてできたゆとりに、周囲の村人たちの不安や恐れを溜める。マフィカと大樹を介した浄化装置めいた力の流れは、静かながらも確実に場の空気を変えていった。
おお、とだれからともなくため息がこぼれる。気付けば、村人たちはそれぞれに膝をつき、マフィカと大樹に向かって拝礼していた。
「大丈夫だ。きっと助かる⋯⋯」
そんな呟きさえ聞こえてくる。だが、マフィカの背筋にはあまりにも冷たい汗が伝っていた。
足りない――弱すぎる。
これ以上の痛みを流し込めば大樹が傷ついてしまう。しかしこの調子では地下墓地を守るのが精いっぱいだ。村全体の痛みを引き受けることも不可能ではないが、無理やりに「器」を広げることになる以上、マフィカ自身がどこまで耐えられるか分からない。
耐えられなかった時は、自分で自分をなんとかするしかない。
化け物になってしまう前に。
「――っ」
いくつもの顔が過った。この村を救いたかった。出自も定かでない、星の子としての能力だって強くはないまだら髪の自分を、受け入れて慈しんでくれたこの土地と人々を、今度は自分が。
マフィカは、己の「器」を限界まで広げた。村の全てを背負い込むように、手の届く限り、大きく。
だが。
「――!!」
全身に、ひびの入るような激痛が走った。身体が引き攣り、視界が霞む。その痛みと同じ形をした黒いひびが自分の両手に、腕に入り、禍々しい紫の炎がそこから溢れるのを見る。
頭を垂れて祈っていた村人たちは、ばつんっ、という聞き慣れない音に目を上げ、そして絶句した。か細い身体のあちこちから紫炎を噴き出させたマフィカが声もなく悶え、苦痛を堪えて震えている。黒と銀の髪は吹き上げられるように天へと揺らめいていた。音はマフィカの髪を束ねていた髪紐が千切れ飛んだ時のそれだった。
「マフィカちゃんっ!?」
悲鳴が上がる。だが、誰も動けなかった。目の前で起きている現象がなんであるのか判別する術を誰一人持っていなかった。
「も、燃えて……っ」
「水……? ……水か!? 水かけろ! 水!」
「そういう炎じゃないわよ!」
「じゃあどうすんだよ!?」
「マフィカちゃん! 聞こえる!? マフィカちゃん!?」
「まさか、常闇が……」
誰かの呟きに、全員が息を呑んだ。
外で見た化け物――闇骸。それが常闇に呑まれた人間の成れの果てであることはこの世界に生きる誰もが知っている。まだら髪とはいえ、マフィカがそれに抗う術を持つ「星の子」であることも。
そのマフィカの身を蝕む黒いひび、紫の炎。自分にも同じものが迫っているかもしれないという不安、いや確実に迫っているという恐怖。心の闇に対する二重の守りの中で暮らし、突然それを失った人々の精神を蝕むには、十分だった。
一瞬の静寂、その後。
「いや――いやぁああああっ!!」
絶叫したひとりの女性が頭を抱えて蹲った瞬間、その背中に巨大なひびが入り、噴き上げた炎が瞬く間に全身を巻く。黒いひびは一瞬で肌を飲み込み、結晶のように直線的な形状に変わっていく。それを見た人々の身の内からも、次々と紫の炎が噴き上がった。
あっという間に、化け物の群れができ上がる。
マフィカはそれを見ていなかった。周りを見る余裕などなかった。ただ、苦痛に耐えながら大樹と繋がり、必死に村を救おうとしていた。その背後の人々が既に常闇に呑まれてしまったことには気づかずに。
懸命に祈るマフィカの左肩。ひときわ大きな炎を噴き上げているひびを、硬質な結晶の「手」が掴んだ。
「――!?」
ぞく、とマフィカの背筋に冷たいものが走る。振り返る間もなく次々と伸びてきたそれはマフィカを掴み、身体が軋むほどの強さでしがみついてきた。人間の力ではない。大樹から引き剥がすでもなく襲ってくるでもなく、それらはただマフィカを掴み、己を埋め尽くす闇をマフィカに託そうと縋りついた。全身の激痛に視界が明滅しはじめる。あのおぞましい咆哮が鼓膜に触れるような距離で聞こえてマフィカは目を見開いた。今何が起きたのかが分かった。分かってしまった。
救えなかった。
もがくこともままならないマフィカの両目を、温度のない手が覆う。その指に、力が入る。
――刹那。
強い力で横ざまに振り飛ばされ、マフィカは宙を舞った。一瞬後にはごつごつした何かの上に叩きつけられ、衝撃に目をぎゅっと瞑る。まとわりついている「手」は離れておらず、それ諸共飛ばされたのだと分かった直後、まるで巨大な骨を噛み砕いたかのような凄まじい音がした。
ごきごきごきっ。ばきっ。
轟音は、ひとつ、ふたつ、みっつ、と重なる。その度に、マフィカの身体は右へ左へ引っ張られ、掴む「手」が明らかに消えていく。
マフィカはどうにか薄く目を開け、そして、驚きに目を見開いた。
狼だ。
巨大な、禍々しい紫炎を纏った狼が、自分に縋りつく闇骸を猛然と噛み砕いている。
マフィカはこの狼に全く見覚えがなかった。が、間断なく闇骸を襲い続けるそれからあふれる感情はマフィカに伝わっている。個人によって異なるその波形とでも言うべきものをマフィカは読み取っていた。取り違えるはずがない。他の人ではありえない、確かに知っているそれは。
ユージン、とマフィカは心の中でそう叫んだ。
砕いてはいけない、それは元々村の仲間だったものたちだと、そう叫んだ。
身体は竦んでいる。恐ろしい獰猛さで乱舞する狼を止めるようなことはできない。狼が闇骸を狙ってここに来なければ自分が死んでいたなんてことは火を見るより明らかで、それを殺すななどというのはあまりにもな綺麗事だと自分でも分かっていた。
それでも叫ばずにいられなかった。
ユージン、それは。
――それは、自分が救えなかったひとたちだ。
だから。
「――――!!」
声は届かない。
高く吼えた狼が、瞬く間に最後のひとりを塵にする。
僅かに上体を起こしただけのマフィカは、ただ呆然と見ていることしかできなかった。その見開かれた目を、狼の双眸が捉える。淡い望みはすぐに絶たれた。肩に湿った肉球が触れた次の瞬間には背中が床にぶつかり、鋭い牙の揃った死の顎が目の前に開かれていた。喉の奥まで紫の炎に侵されたそれはあまりにも濃厚な獣の臭いがした。
それでも。
牙は、堪えるように震えながらその位置に留まっている。
怒り。荒れ狂う怒りの奥に、鋭い針にも似た恐怖がある。
それが、この顎を閉じまいと死に物狂いで抗っている。
ユージン、と。マフィカは呼び掛けたかった。その恐怖が最後に残ったユージンの理性なのだと確信していた。その心に触れたい。なんとかして自分のことを思い出させたい。
死にたくない。
マフィカは自分の肩を押さえつけている狼の前脚を掴み、その甲に指を立てた。マフィカ、と自分の名前を書く。マフィカ、マフィカ、と何度も書く。狼が震え、激しく首を振る。開いたままの口から唾液が垂れてマフィカの喉首に落ちる。
マフィカ。マフィカ。――マフィカ。
「~~~~!!!」
狼の声に混じる苦悩が、苦痛が、痛いほど伝わってきて感情が乱れる。胸が締め付けられるように苦しい。もう希望はないのかもしれないと、にじり寄るように僅かずつ迫ってくる牙を凝視しながらマフィカは思った。見開いた目の端から涙がこぼれる。
せめて。
せめて自分に声があれば。
「――」
声があれば。言葉があれば。力があれば。
「――!!」
マフィカの叫びは届かない。僅かに残っていたユージンの意識が薄れて消えていく。
狂乱のさなかに絶叫を放って、狼の牙はマフィカの首を丸ごと嚙み切ろうとし――。
次の瞬間、突っ込んできた何かに弾き飛ばされて体勢を崩した。
「マフィカ!!」
慣れ親しんだ声が自分を呼ぶ。分厚く頼りがいのある体が自分を抱く。父代わりの、何度も何度も自分を守ってくれた腕、胸。すっぽりと覆いかぶさられて、何も見えなくなって、ひと肌のぬくもりに緊張が緩んだのは一瞬だった。
間髪容れずに体が揺れたのは、何かが目の前の体の背中を叩いたからで。恐らくは叩いたのではなく爪を立てたはずで、或いは牙も立てられているかもしれなくて。濃厚な血の匂いがどこからか漂ってくるのが分かってマフィカはもう何も考えられなかった。庇われたのだと、ただそれだけを、遠いことのように思った。
「――マフィカ」
低く、魂の底にまで降りていくような声だった。
「逆じゃ。木に渡すのではない。木が預かってくれているものを受け取って、天に返すのよ」
祈れ、とカフカは言った。
「祈れマフィカ。己の中に貯えるのではなく、その全てが救われるように、透き通って消えてゆけるように、祈るんじゃ」
カフカは、マフィカの右手を取って己の胸に当てた。その脈は速く、浅かった。マフィカは顔を上げた。慈愛の笑みを浮かべたカフカの口の端からつうと血が落ちた。
「見ておけ。こうだ」
赤子を寝かしつけるような声音でカフカは言い、そして、静かに目を閉じた。
祈るように。
「――尽きよ」
瞬間、光が爆ぜた。
あたたかな、抱擁の光だ。
光は透き通った風のようにマフィカの中を通り抜け、流れ込んでいた常闇を洗い流すかのように奪っていった。狼を蝕んでいた紫炎も、辺りに満ちていた冷気も、村中を彷徨っていた闇骸たちも、一様に吸い上げられてカフカに流れ込み、光の奔流となって上空に噴き上がっていく。マフィカは光の柱の中にいた。その中心で全てを身に受けたカフカは自身も眩い光を放ちながら、少しずつその輪郭を失いつつあった。
「伝わるかね」
ゆっくりと目を開けたカフカが静かに言い、マフィカは思考の追いつかないままかすかに頷いた。不安も、恐れもない。自分が身の内に抱えるしかなかった常闇が吸い取られ、星に還されているのだと分かった。そのために身を挺しているカフカが、自らも少しずつ星に還っているのだということも。
そうか、とカフカは言い、目を伏せた。
「――すまん、マフィカ。誰にも託したくはなかったんじゃが」
崩れゆくカフカから、何かが流れ込んでくる。傷口に沁みるようなひりつく痛み。心に重く沈んでいく感情。誰かの、誰かたちの記憶。
「持っていってくれ。わしらの《憂い》を。――星は、必ず道を示す」
カフカの胸に触れていたマフィカの手から、感触が消えていく。光の奔流は滝のように天に向かって落ちていき、カフカは最後に優しく微笑んだ。
「では、またな」
その微笑みも崩れて消えた。
カフカの輪郭が消滅した向こうに、くったりと倒れ伏した狼がいる。常闇の抜けた体は次第に小さくなっていき、最後にはやつれた男ひとりが残された。
ユージンだった。
マフィカは未だ呆然と気の抜けたまま、吸い寄せられるようにその傍らへ膝をついた。穏やかな呼吸に上下する胸をじっと見下ろす。ふっと緊張の糸が切れて、視界がかすむ。マフィカの体はゆっくりと傾ぎ、ユージンの胸に頭を乗せて力を抜いた。光の柱は未だ二人を取り巻いてあったが、次第に細くなりつつあった。内側から見上げるそれは美しかった。ユージンの呼吸が波のようにマフィカの意識を誘い、やがて深い眠りに落ちていく。
この日、平和を謳歌していたひとつの村が消え。
宿命が廻りだした。