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憂いの果てのマフィカ   作者: 並木祐太
序章
11/14

8

 家を出たマフィカが咆哮の聞こえる方角に向かって走り出したのでカフカは驚いた。躊躇いのない速さだった。

「マフィカ!」

 呼び止めようとしたが振り返らない。あの大樹を目指していることはすぐに分かった。自分と大樹の力を合わせて村から怪物を退けようというマフィカの考えも、そう考えるであろうマフィカの性格も、カフカには痛いほどわかった。

 ――定めか。

 カフカは僅かに苦悩を滲ませた。その選択が招く結末はおおよそ予想がつく。というより、その選択がどんな結末に終わるかをカフカは見たことがある。

 あの時も受け入れがたかった。――今回も、受け入れがたい。

 頭をひとつ振り、カフカは老体に鞭を打って先を行く銀のきらめきを追った。物々しい咆哮は今や波のように絶え間なく押し寄せる。途中出くわした、取り敢えず家から出たもののどこへ逃げるか定まらなかったらしい村人たちは、大樹に向かってまっしぐらに走るマフィカを見ると、そのまま後に続いた。

「どこ行くんだ!?」

 誰かが叫ぶ。

「木だ! 墓地に逃げ込むんだ!」

 別の誰かが応じる。目の前に大樹の淡い光が迫ってくる。いよいよ走れなくなってきた。それでも逃げ込んでしまえば或いは、と思った矢先、カフカの脳裏に昼の出来事が蘇った。


――あいつが嫁に行かなきゃ、今頃はわしと添うておったろうよ。


「――っ」


 イーファ。その名前に脳裏を埋め尽くされて呆然と来た方を振り返る。獣の群れのように走る村人たちがそれを置いて行き過ぎる。

 マフィカやユージンには言えなかった。記憶を失っていく彼女が何度も何度も繰り返す話の内容。幼かった頃の思い出。薬でどうすることもできない症状を示す彼女のもとに通い続けた心境。今日も彼女は、目の前にいるのが誰かさえ忘れてしまう身体で、大樹の葉を編んで作った小さな食器や人形でごっこ遊びをしたことをつい昨日のように語ったのだ。

 うれしそうに。

 限りなく、しあわせそうに。

「イーファ」

 ぽろりと言葉が落ちた。もう長く床から出られていない。歩くこともおぼつかないかもしれない。もし化け物が来たら、どう考えたって間に合わない。

「イーファ――」


 ふら、と一歩踏み出しかけたカフカの足元に、本能が恐怖するほどの鋭い寒気が這い上がってくる。反射的に後ろへ飛び退いた。足がもつれ、派手に尻もちをつく。手元の光源が宙を舞ってどこかへ消えた。

 人のかたちをした闇が、数瞬前までカフカが立っていたその空間を切り裂く。

 抱擁だ、とカフカは思った。

 理屈ではない。思考の奥にある直感が、それを「抱擁」だと判じた。

「――!!」

 闇が吼える。来るなら言ってちょうだいよ化粧くらいしたのに、と、彼女がいつも言ったように。

 呆然と立ち尽くすカフカに向かうそれの背丈は見上げるほど大きかった。

 これをマフィカのもとへ行かせてはいけない。だが化け物相手にどこまでやれる? ここで相手をして時間は稼げるのか? そうなったとして一体何秒――いや何秒稼げたとしてもマフィカは、いや、マフィカには――。


 答えなどない。

 それでもせめてこいつだけはと、腹を括り、右手の手のひらを前へ突き出した、そこへ。


「――!!」


 獣だ。

 その巨大な顎に闇骸(エリニュス)の腹部を捉え、ひと噛みのもとに易々と砕く。狼はその巨躯を夜の中に躍らせ、更に後から現れた闇骸(エリニュス)を次々と噛み殺していった。呆気に取られていたカフカは一瞬遅れて気がついた。狼の輪郭がはっきりと視認できる。その毛並みは、まるで紫の炎にまかれているように淡く光を帯びて揺らいでいた。

 狼が吼える。それは猛々しい遠吠えではなく、苦痛に悶える悲鳴の響きを帯びている。

 肺腑の底まで吐き出すように長く声を響かせると、狼は激しく体を引き攣らせ、その炎を振り払おうとでもするように出鱈目に暴れ回った。家々を縫って紫炎が舞う。既に狼自身には制御しきれないのか、遂には家屋に激突してその壁を破った。木材の軋む音で我に返ったカフカが這うように逃げ、潰れるようにひしゃげた外壁の向こうに炎が揺れた。橙色の、本物の火だ。

 村が燃える、とカフカは思った。不思議と感情は動かなかった。既にあまりにも多くのことが起き過ぎていた。狼が身を翻らせて大樹の方へ駆けて行く。その顎が砕いた闇骸(エリニュス)のことを思った。真偽は分からない。だが、きっとあれは。

 あれは「イーファ」だった。


「――」


 そうか、と。カフカは久しぶりに思い出した。

 これが、絶望か。


「――マフィカ」


 希望の名を口にする。最早、それ以外に願いを託す先はない。

 よろめきながらもカフカは、頭上に聳える大樹に向かってふらふらと歩み始めた。


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