プロローグ
プロローグ
獣は深い闇の中を駆けていた。
月明かりの届かない森に駆け込めば人間の脚で捉えられることはまずない。さし当たっての窮地は脱したものの、獣は死にものぐるいとでも言うべき疾走を緩めようとはしなかった。追われていることには変わりがなかったのだ。死の運命に。もしくは、死そのものとでも言うべき存在に。
霧の満ちるように冷気が足元を這う。しくじった、と獣は恐慌に焼き切れる寸前の思考回路でそう思った。
冷気の正体は「常闇」──生きるものの心を侵し、蝕み、果てはその肉体をも異形に変える呪い。長く留まれば精神がかたちを失う猛毒である。追っ手の気配が途絶えたのは森に巣食う常闇に気付いたからだろう。常闇は高次の思考能力を持つ生き物ほどより強くその影響を受ける。ここで逃がすのは惜しかろうが、自分が化け物になるよりはマシだと見逃したのだ。
だが、彼らも一種の勝算を見込んで己を森に向かわせたのだろうということが、今になって獣にも分かってきた。
ユージンという名が獣にはあった。正確には獣の姿で森を駆けているひとりの男の名である。獣の姿になっても精神が変化するわけではない、故に森に入れば常闇の影響をまともに受けるということを追っ手は知っていたはずだ。それに気付かなかったのはただひとり、手負いの体で感覚が鈍っていたユージンのみ。
このまま常闇に晒されればやがて身動きが取れなくなる。一旦引き、頃合いを見計らって足跡を辿れば簡単に捕らえられる。あまりに容易にできる推測だった。
くそが。最悪だ。くそったれ。
脳裏で喘ぐように悪態をつきながら走る。常闇はユージンの足元から這うようにまとわりつき、思考を侵し始めた。身の内にある恐怖や怒り、絶望が、自らの意思や感覚を離れて徐々に膨れ上がっていく。うねる木の根や石ころに足を取られる度ユージンの意識は怯えに呑まれていき、最早何のために走っているかさえ分からなくなっていった。
怖い。身が竦む。脳が痺れ上がるような恐怖が自分を壊していく。
ダメだ。逃げるんだ。ここを抜け出すんだ。俺はこんなところで死ねない……行かなきゃならねえんだ、俺は……行かなきゃ……。
――どこへ、だ?
その一瞬の隙が判断を鈍らせた。
跳躍したその先に地面はなく、ユージンの体は数瞬の自由落下の後、斜面の中途にあった木の幹に激しく叩きつけられた。激痛に受け身を取ることができず、勢いそのままに斜面を転げ落ちていく。どちらが上かも分からなかった。転げ落ちていった先でまた地面が途切れ、回転する視界の端に鋭く尖った岩場を捉えた瞬間、ユージンの思考は飛んだ。死にたくない、その恐怖にぎゅっと目を閉じ、軋む身体を小さく小さく丸める。
全身が砕け散ったかと思うほどの衝撃が走り、続いて激しく流れる水の中に落ちる感覚があった。強張らせたはずの体から意志に反して力が抜けていく。最早獣の体も維持できない。青みがかかった銀の狼は、藍色の髪のくたびれた男に姿を変えながら急流に押し流されていった。
死にたくない。
ユージンは意識を手放す寸前にただそれだけを思った。
そして、死の瀬戸際に「星」を見た。