果実なくとも、禁忌あり
注意事項1
起承転結はありません。
短編詐欺に思われたら申し訳御座いません。
注意事項2
好きな生き物は、猫と兎と蛇なんですよ。
それはさておき、
アダムとイブは本当に善悪の基準がなかったのか。
という疑問。
旧約聖書、新約聖書。両者、この世界に根を降ろした聖典で、違いはイエスの誕生前か後かの違いである。何方も大変馴染み深い話ではあるが、旧約聖書の方がモデルになる事が多く、連想もしやすい事であろう。
そして旧約聖書の失楽園を拝読する度に思うのだ。善悪の分からないアダムとイブは果たして本当に、善悪の基準がなかったのか、と。
とある純喫茶の珈琲を嗜みながら、彼女は失楽園を読む。ぱらり、ぱらりと頁を捲る音だけが、ひっそりと耳を打つ。しかしあるとき顔を上げて、口を開いた。
「何時も珈琲を飲む度に、失楽園を拝読する度に思うんだ。アダムとイブは本当に善悪の基準がなかったのかと。本当は禁断の果実を食さずとも、基準があったのではないかと」
「……今の君は、明確な善悪の基準が無いように思えるね」
大きく開かれた、まるで深淵の様な瞳孔。珈琲由来の興奮作用によるものだろう。だからこそ、善悪の基準が曖昧になって、罪の意識が無いままに、悪徳を犯せる。
彼女はギラギラとした瞳のままに、また珈琲に口を付けた。目を閉ざして、ゆっくりと味わった後、また目を開く。
「分かるかい? 分かってしまうのかい? 今の私は禁忌が何か分からないんだ。分からないからこそ、無邪気さのままに禁忌を犯せる。
狂信者をご覧? 神の御心のままに、殺戮さえ厭わない。宗教の本質は一人残らず幸せになる事なのに。
これが本当に『善悪の基準がない状態』だよ。
アダムとイブは禁断の果実を食すまで、善悪の基準がなかったそうじゃないか。だから神からの教えだって、禁忌と知らずに手を伸ばせる。蛇が唆さずとも、ね」
食べても良い。食べてはいけない。禁忌を判断出来るのは、善悪の基準が存在しているから。だから最初から禁断の果実を食べる必要なんてない。食べなくても神は我々を追放出来る。だからこれは、偏に茶番。理由付けが欲しいだけの芝居に過ぎない。あぁ、神とはとても、残酷で、狡猾だ。そう、彼女の口が嘯いた。
この言い回し、蜜のように耳に流れ込み、人を唆す。
「今の君は蛇のようだ。禁断の果実に手を伸ばしてしまいそうだよ」
ふと脳裏に果実に絡み付く蛇の姿が浮かんだ。『唆さずとも、お前はこの実を口にする』と。
「そう。そして誘惑に負けて、先に果実を口にしたのはイブの方」
神話通りだ。寸分の狂いなく。
珈琲飲んで、思い切りハイになれる作者です。
そうなると善悪の基準が曖昧になって、何し出すか分からないんですよ。
壁に鼻押し付けて、匂いを嗅ぐ。
奇声発して転げ回る。
やりかねません。大まじです。
これしたら、ただの狂人ですよ。
でもこれは善悪の基準がないからこそ、為せる技です。
あったら出来るわけありません。
そこで失楽園を思い返して思った事。
善悪の基準があるから、禁断の果実に手を伸ばさなかった。
神が『駄目』と仰った事を『悪い』と認識した上で、手を伸ばさなかった。
これは善悪の基準があるから為せる技だと思います。
だったら、最初から追放は決まっていたし、蛇が唆かさなくても、運命は変わらないよね? という話。
こういう屁理屈をごねまくるから、教会は好きだけど苦手なのかも知れません。素直さが足りない。
キリスト教の宗派によっては、珈琲、紅茶を禁止にするところもあるそうで。
手を伸ばした時点で、禁忌ですね。
禁忌犯してエデン見れるのが何とも皮肉。