中編
「可愛いリエリー。私の大事なお姫様」
メルゼーニ子爵の吐息がリエリーの白い柔肌をくすぐる。くすぐったくて、リエリーは無意識のうちに身をよじった。
「リエリー、君が今こうして幸せでいられるのは誰のおかげだい?」
「あなたのおかげです、ハルク様。あなたがわたくしを助けてくださったから、わたくしは何不自由なく暮らせます」
幾度となく繰り返されてきた問いかけ。リエリーは淀みなく答える。子爵が望む通りの完璧な笑みを浮かべて。
「呪いを振りまく君を愛してあげられるのは?」
「あなたしかいません、ハルク様。あなたがいなければ、わたくしはきっと生きていけないでしょう」
「その通りだ。いい子だね、リエリー。実に素直でとてもよい」
子爵はリエリーを抱き寄せて、ご褒美と言わんばかりにその小さな頭を撫でた。
彼に触られるのを気持ち悪いと思うようになったのはいつからだろう。
もしかしたら、ずっとそうだったのかもしれない。それを口に出せずにいただけで。
絹糸のように細くつややかな薄いピンク色のリエリーの髪を、彼は骨ばった指で優しく梳く。生まれつきさらさらの髪は指の間を通ってシーツへと垂れた。
(“これ”は、本当に幸せなのかしら)
子爵の体温がじかに伝わってくる。彼の腕の中にがっしりと捕らわれているから、体格差もあって離れられない。それでも思考は自由だった。
(だって、子爵に引き取られてからは……あの王子様に魔法を見せてもらった時みたいに心が弾んだことなんて、一度もないわ)
リエリーに頼れる人はいない。両親は事故で死んでしまったし、リエリーを毛嫌いしている叔母夫婦もすでに亡くなったと聞いている。
先代からの借金を抱えて没落した貴族の両親には、他に頼れるツテやまとまった遺産もなかった。
唯一リエリーにあったのは、メルゼーニ子爵とのつながりだけだ。
(いけない。余計なことは考えないようにしないと)
彼と初めて会ったのは、四歳だったか五歳だったか。とにかくそれぐらいの幼い頃、リエリーは彼と知り合った。
母が侍女として侍っていた公爵夫人の息子がハルク・トラステ、後のメルゼーニ子爵だ。
母恋しさにこっそり「こうしゃくさまのおやしき」に行ったリエリーを、庭園の柵越しに見つけたのが子爵だった。
彼はリエリーを内緒でお屋敷に入れてくれて、それ以降リエリーは彼のことを「おかあさまにあわせてくれるやさしいおじさま」として頼りにするようになったのだ。相手は二十半ばの青年とはいえ、小さなリエリーにとっては立派なおじさんだった。
母は忙しくて会えないので、いつも遠目で見せてもらうだけだった。寂しがるリエリーに、「おじさま」は一緒に遊んでくれた。
リエリーがここにいて、「わかさま」である自分と遊んでいることを「だんなさま」や「おくさま」に知られると、母に迷惑がかかってしまうらしい。だから、二人で会って遊んでいることはずっと秘密だった。
子爵はリエリーにたくさんハグやキスをして、膝の上に座らせながらお茶会をしてテーブルマナーを教えてくれたし、手取り足取りの指導で乗馬も体験させてくれた。
子爵とリエリーがそうやって遊んでいることは誰も知らなかったし、内緒だと言われたからリエリーは誰にも言わなかった。
たまに、ちょっとおかしいような……なんだか怖くて、よくわからない違和感を感じることもあったけれど、相談できる相手がいなかった。もしも内緒で「わかさま」と遊んでいたと知られたら、きっとすごく怒られると思ったからだ。
十二歳の時、リエリーは従兄と婚約することになった。
けれど婚約からしばらく経って、従兄は死んでしまった。彼はまだ十五歳で、宮廷の狩猟大会に従者として初めて参加した時のことだった。
その顛末が幼いリエリーに伝えられることはなかったが、何発も銃で撃ち抜かれてひどいありさまだったそうだ。
小柄ですばしっこかった従兄は、きっと獲物に間違えられてしまったのだろう。
高貴な方々がたくさん出席していた場での事故だ。誰の弾丸が従兄に当たってしまったのか、詳しい調査はされないままもみ消された。
それから叔母夫婦はおかしくなった。
息子が殺されたのはリエリーと婚約したせいだと言い出し、リエリーを目の敵にするようになったのだ。それまでは二人とも優しかったのに。
「息子を喪った悲しみの行き場がないからといって、憎しみをリエリーにぶつけるな!」
最初は悲劇に見舞われた叔母夫婦を哀れんでいた両親だったが、次第に彼らの態度に辟易して両家の仲は険悪になっていった。
叔母夫婦は心が壊れてしまったのだろうと両親は言い、叔母夫婦を刺激しないようリエリーを連れて王都を離れることにした。
母が事故に遭ったのは、母が遠方への引っ越しと辞職を「おくさま」に伝えた日のことだ。
その日の帰り道、母は暴れ馬に蹴飛ばされて、二度と家に帰ってこなかった。母を蹴り殺した馬車はそのまま逃げたらしい。夜遅い時間ということで目撃者も少なく、誰が犯人はわからなかった。
葬儀のために引っ越しは少し延期になったが、母が亡くなったのでリエリーがお屋敷に行く理由はなくなった。
葬儀には律儀にも子爵が参列してくれたが、彼と会うのはそれが最後だと思っていた。
リエリーを案じる子爵に、リエリーは気丈に微笑んだ。
「わたくしは平気です。だって、お父様がいるもの」
父は母を喪ってふさぎ込むリエリーを励まそうと、なけなしのお金でお菓子を買ってくれたり、散歩に連れ出したりしてくれた。
その父も、葬儀の直後に亡くなった。
場末の酒場の粗悪な酒で悪酔いした帰り道、石畳の階段で足を滑らせて頭を打ったらしい。目撃者はいなかった。
父はお酒が好きだった。いつも一口一口、小さなグラスで大事に大事に飲んでいた。
リエリーは夜眠れないと、静かにベッドから抜け出して、安いワインをこっそり味わう父の幸せそうな顔を見にいく。その時間が好きだった。
けれど父は、リエリーの知らない場所でお酒をたらふく飲んだ。母を喪ったことが、彼にとってもよほどつらいことだったのだろう。酔って娘に醜態を晒してしまわないように配慮したのかもしれないが、いっそ家で酔い潰れてほしかった。
「ああ、とうとうお前は兄さんも死なせたのね! そうよ、お前がすべての原因なの! 誰も彼もお前が殺したようなものだわ!」
叔母はそう言ってケタケタ笑った。父の葬儀でのことだ。葬儀は叔母夫婦が取り仕切り、リエリーはそのまま彼らに引き取られた。
「兄さんも義姉さんも、わたしの言うことを聞いてくれれば死ななくて済んだのに。お前は呪われているのだからさっさと遠くにやっておしまいって、わたしはあれほど忠告したのよ?」
「お前がいなければ、お前と婚約なんてしなければ、息子が死ぬこともなかったんだ。お前が死ねばよかったのに……」
呪詛を振り撒き、憎悪をぶつける叔母夫婦が怖かった。もうあの優しかった叔母夫婦はどこにもいないのだ。
そんな二人にはどれだけ謝っても届かないし、そもそも何に対して謝ればいいのかわからない。
けれど一つだけ、わかったことがあった。
(わたくしのせいで、大切な人が死んでしまうんだわ)
罵詈雑言をぶつけられるよりも。
力いっぱい頬をぶたれるよりも。
蹴飛ばされて踏みつけられるよりも。
ご飯を抜かれてひもじく丸まっているよりも。
ただその事実が苦しくて、心が何より痛かった。
叔母夫婦に引き取られてから一ヶ月も経たずに、リエリーを助けてくれる人が来た。正式にメルゼーニ子爵と名乗るようになった、「やさしいおじさま」ハルクだ。
「なんて極悪非道な連中だ! リエリーは私が引き取らせてもらう! 私が来たからにはもう君につらい思いなどさせないよ、リエリー」
叔母夫婦は、邪魔者のリエリーを遠い街にある劣悪な環境の工場に働きに行かせようとしていた。売り飛ばされるも同然だ。そんなさなかに颯爽と現れた子爵は、リエリーを新しいお屋敷に連れてきた。
このお屋敷に「おくさま」と「だんなさま」はいない。自分の家だから、リエリーがここにいても怒られることはないと彼は言った。
「でも、わたくしと一緒にいたら、ハルク様も呪われてしまいます」
「大丈夫さ、リエリー。私に呪いなど効かないよ。何故なら私は、君を心から愛しているのだから」
(じゃあ、お従兄様やお母様、お父様はわたくしを愛してくれていなかったの?)
そんなわけがない。けれど相手は立派な貴族で恩人だ。反論してもいいのか迷っているうちに、子爵の手がリエリーに伸びる。
「このままだと、君はどこに行っても厄介者だ。君の呪いで多くの人が死んでしまう。でも、そんな君を僕のお嫁さんにしてあげよう。私だけが君を生涯愛して守り抜けるからね。どうだい、嬉しいだろう?」
いつかのようにリエリーを膝の上に乗せ、子爵はねっとりと笑った。
「は……はい、ハルク様」
他によすがもない。呪いのせいでこれ以上人を死なせたくない。
こうして、十三歳の秋の日に、リエリーは二度目の婚約を結ぶことになった。
リエリーと出会った時から子爵はずっと独身で、浮いた話の一つもなかったらしい。古くから子爵を知る古参の上級使用人達と、早く身を固めろと彼をせっついていたという公爵夫妻は、あっさりと二人の婚約を認めた。
リエリーが迂闊に誰かを呪ってしまわないように、リエリー専用の離れが建てられた。
幼い頃に憧れていた、童話のお姫様が住むようなお城。小さいけれど可愛らしい城を建てることで、子爵はその夢を叶えてくれた。内装も、昔リエリーが好きだと言った、ふわふわで愛らしいもので統一されていた。
「君にはいつまでも無垢なままでいてほしい。きらきらした純粋な気持ちを忘れないでくれ。俗世の下卑た空気にあてられて心が濁りでもしたら、せっかくのお姫様が台無しだ。お姫様は常に可憐で清らかでいないとね」
「はい、ハルク様」
リエリーは何もかもを受け入れた。メルゼーニ子爵に捨てられたら、どうやって生きればいいのかわからない。
呪いを振り撒く自分なんて、いっそ死んでしまえばいいのかもと思うこともあったけれど……十三歳の女の子に、その先の決断は重すぎた。
「お姫様はいつも幸せで、王子様の隣で笑っているものさ。さぁリエリー、君の王子様は誰だい?」
「あなたです、ハルク様」
いつしかリエリーは、何も考えずに子爵の言葉に従うようになっていた。
だって、そうでなければ罪悪感で心が潰されてしまうから。
死にたくないけれど、死なせてしまった人達だってきっとまだ生きていたかったはずだ。
どうすればいいかわからない。ずっとずっと悩んで苦しむくらいなら、心なんてないほうがいい。どうすれば子爵の機嫌を損ねずに済むか、そのことで頭をいっぱいにして子爵に身を委ねている時は、嫌なことを全部遠くのほうに押しやることができた。
「私の言うことを聞いていれば、君でも完璧なお姫様になれるんだ。さぁ、可愛らしいお姫様は浅ましく食べ物を貪るような、卑しい真似をすると思うかい?」
「いいえ、ハルク様。お姫様はそんなこと、してはいけないわ」
子爵が運んでくる食事はいつも、小鳥がついばむ程度の量。あっという間に食べ終わってしまう。
でも、もっと食べたいとねだれば意地汚いと怒られる。紅茶だけは飲んでもいいから、それで空腹を紛らわせた。
子爵の膝の上にすっぽり収まるリエリーの身体が、それ以上に成長することはない。不足した栄養は幼い体躯を維持させて、判断力すら鈍らせる。
「あの使用人達は君の呪いについて面白おかしく吹聴していたからクビにしたよ。リエリー、君は自分のことは自分でできるね? 申し訳ないが、これからは身の回りのことはすべて自分でやってくれ。もちろん私も手伝うとも。君には私さえいればいいだろう?」
「大丈夫です、ハルク様。あなたがいれば、他に何もいりません」
まだお屋敷に来たばかりの頃、子爵は使用人を何人かつけてくれた。
けれど最初は親切にしてくれた使用人も、だんだんよそよそしくなってくる。「絶対におかしい」「あの子を傷つけてしまうかも」「それなら旦那様に直談判するしか」……夜更けにそう話し合っていた彼女達は、その日を境に姿を消した。以降、リエリーと直接会話するのは子爵だけになった。
寂しいと思ったかもしれない。でも、その感情こそが許されない。だから広がっていくのは安堵だった。これで彼女達を呪いで死なせないで済む。
それから三年間、リエリーの世界にはメルゼーニ子爵しかいない。
子爵が呪いで死ぬ気配もなかった。子爵の言葉通り、彼に呪いは効かないのだ。
「君はひとたび他人と関われば、相手を呪い殺してしまう。まさに恐ろしい魔女だ。そんな君を一体誰が愛してくれる? 私だけだよ、リエリー。私が君をお姫様にしてあげるから、君は余計なことを考えなくていい」
「ありがとうございます、ハルク様」
彼にだけ従っていれば、微笑んでいれば、彼はリエリーを優しく抱きしめて頭を撫でてくれる。
「この城を出てしまえば、君は何もできない。ただ呪いを撒き散らすだけの怪物だ。だから君は、ずぅっとここにいないといけない。私だけが君を愛し守ってあげられるんだから」
「その通りです、ハルク様」
独りになるのは怖い。かつて愛した人達の憎悪の叫びが聴こえてくるから。血に塗れたこの手で触れていいのは、リエリーを許してくれる子爵だけだ。
「悪い魔女である君は、幸せになろうとしてはいけない。魔女が幸せになれる童話があるかい? 幸せになっていいのはお姫様だけなんだよ。だけどそんな君でも、私がいればお姫様になれる。つまりどういうことかわかるかい?」
「ハルク様といれば、わたくしは幸せになれるということです」
間違えてしまうと怒られる。殴られたり叩かれたり。自分が悪い子なのがいけない。仕方ないことだ。
けれど、正しい答えを出し続けていれば、子爵はたくさん褒めてくれる。ご褒美として、おやつにクッキーを一枚出してくれることだってあった。
この暮らしはずっと続いて、結婚してからも変わらないのだろう。
それでよかった──はずだった。
お城での停滞した暮らしを壊したのは、異国の王子を名乗る魔法使い。
魔法使いだから呪いが効かないと宣言する彼を、リエリーはとうとう自分の世界に入れてしまった。
その王子様……ラスティアは巧みに子爵の目を盗み、リエリーに会いに来て、色々な魔法を見せてくれたり、たくさん話を聞かせてくれた。
リエリーがどんな返事をしても、ラスティアはそれを間違いだと言わない。
ラスティアの求める言葉を言えているか、いちいち気にしなくていい。
ラスティアと会っている時間は楽しかった。子爵の前で心をまっさらにしている時以外で、初めてつらいことを何もかも忘れられた。
大切な人が次々死んでしまってずっと心が灰色だったのに、やっと心から笑えるようになった。
この時間が永遠に続いてくれればいい。お城で過ごす時に感じる惰性的な願いとは違う。いつしかリエリーは、心からそう思うようになっていた。
(だけどラスティアは、わたくしだけの王子様ではないわ。悪い魔女のわたくしに、彼を王子様と呼ぶ資格なんて……)
これまでずっと守ってくれたメルゼーニ子爵。
新しい世界を教えてくれるラスティア。
二人の“王子様”、けれど“お姫様”は偽物が一人。リエリーの心は揺れ動く。
迷っているのは、どちらを選べばいいのか、ではない。
無力な偽物の自分はこれまで通りメルゼーニ子爵に依存していくしかないのに、ラスティアと共に自由に生きてみたいと願う気持ちを抑えられないことだった。
「リエリー様に夢はありますか?」
ラスティアの笑みに目を奪われる。その声を聞くだけで胸が高鳴る。こんな気持ちは生まれて初めてだった。
「夢……?」
「そう。いつかやってみたいことです。私は、寄宿学校を作ってみたいんですよ」
メルゼーニ子爵という絶対の庇護者の腕の中でハッピーエンドを迎えたリエリーに、変化の未来など訪れるはずがない。子爵はそれを許さない。だから、自分の力で何かを成し遂げるなど考えてはいけないことだった。
「といっても、学問を教えるところではありません。親のいない子供や学のない子供でも、自分の力だけで稼げるようになる技術を教えるんです。つまり魔法使いの養成学校ですね」
ラスティアは、何もないところから木製の細長いクラブをいくつも取り出す。それを器用に宙に投げ、円を描くように回し始めた。
クラブを投げるスピードは徐々に速くなっていく。やがてそれをいっぺんに放り投げると、なんとその場で片腕逆立ちをして残りの手足と頭ですべてのクラブを受け止めてしまった。
「魔法使いになれば、こうやって人に喜んでもらえるんですよ。素敵な仕事でしょう?」
思わず拍手するリエリーに、ラスティアはにやりと笑った。
「ちなみに夢はもう一つありまして、両手を広げても届かないぐらい大きなケーキを食べてみたいんです。私、甘いものには目がないので。……いや、お菓子の家も捨てがたいな……」
「まあ。童話みたいでとっても素敵だけれど、一人で食べきれるのかしら」
「うーん、難しいかもしれませんね。でも、二人でならできるかも」
ラスティアは大きくジャンプして立ち上がる。クラブが床に落ちきる前に、彼はすべてのクラブを空中で受け止めた。次の瞬間にはもうクラブはどこにもなくて、代わりにカップケーキが両手のひらの上に一つずつ現れる。
「とりあえず練習として、まずはこのサイズから食べてみませんか?」
リエリーは目を見開いた。それは一体どういう意味で言っているのだろう。
「あなたの夢に、わたくしがいてもいいの?」
ラスティアは笑顔で頷く。
一緒に食べたカップケーキは、リエリーがこれまで食べてきたどんな食べ物よりも美味しかった。
*
ラスティアの身体能力は見た目を遥かに凌駕する。高いところにぶら下がったりよじ登ったり、細い棒の上をひょいひょい飛び移ったりなんてお手の物だ。曲芸師としても、彼のスキルは一流だった。
一般人からしたらただの風景と思うようなところすら、ラスティアは自分の道にしてしまえる。
だから、人の目を盗んで屋敷を抜け出し、離れにいくのは簡単だった。
屋敷の主人の婚約者との密会は、誰にも知られていない──これまではそうだった。
ラスティアはすべての準備を終わらせ、無事に晩餐会の当日を迎えた。
朝から降っていた雨も、昼過ぎにはやっと止んでくれた。晩餐会の開始まではまだ時間がある。ラスティアはいつものように客室の窓から屋根の上に這い上がり、庭園の木々から木々へ飛び移ることでリエリーのいる離れまで行こうとした。
その途中、とっさに進路を変えて別の木へと腕を伸ばして捕まったのは、研ぎ澄まされた直感と優れた運動神経のなせる技だ。
響く銃声。脇腹を抉るような痛み。考えるよりも前に身体が動く。次の弾丸が放たれる前に枝の上へと飛び移り、生い茂る葉をカモフラージュにして身を隠す。
「蛆虫以下の穢らわしい盗っ人め。もう一度だけ問おう。お前の性別は男か、それとも女か?」
幹の陰から地上を見下ろせば、そこにいるのは怒りに顔を赤く染めるメルゼーニ子爵だった。
「男なら生きたまま八つ裂きにする。女なら舌を抜いて両手を斬り落とすだけで許してやろう」
マスケットの銃口は中々定まらない。ラスティアを探しているのだろう。元々狙いのつけづらい銃だから、まだラスティアにもチャンスはあるはずだ。
「どちらも困りますねぇ。八つ裂きにされれば死んでしまいますし、この手と舌は私の大事な商売道具ですから!」
撃たれた脇腹を手で押さえ、ラスティアは脂汗をぬぐった。かすめただけのようだが、それでも十分痛い。
(致命傷は避けられたが、このままこうしててもラチがあかねぇな)
この広大な庭園には小川が流れている。少し離れてはいるが、少し移動すれば水流に飛び込めるだろう。
「お前に決められないなら私が決める──下劣なオスが私のリエリーに近づくな!」
発砲音が響く。興奮した子爵がでたらめに乱射しているのだ。
「なるほど。それが貴方の怒りの理由ですか!」
装填の隙をつき、ラスティアは隠し持っていたナイフを子爵に向かって投げつけた。
その狙いは正確で、ナイフは吸い込まれるように子爵の手に突き刺さる。子爵は悲鳴を上げてマスケットを取り落とした。ラスティアはもう別の木に飛び移っている。
「逃がすかぁ!」
命中精度の低いマスケット。恋敵を生け捕りにしてじわじわと生き地獄を味わわせたいという欲望。その二つが合わさり、弾丸はラスティアの命を奪えない。
けれど当たった手応えはあった。木から飛び出したラスティアが苦悶の声と共に大きくのけぞり、小川へと落ちていったからだ。
子爵は急いで小川の様子を見に行ったが、朝の大雨のせいで川は濁って流れも速くなっている。ラスティアの亡骸は見当たらなかった。
どこかで岩陰にでも引っかかっているのかもしれない。何も知らない庭師達に見つかる前に、執事に命じて回収しなければ。古参の上級使用人達は、メルゼーニ子爵が抱える闇を知っていた。
たかが旅芸人の死なんて揉み消すのはたわいない。
すでに何人も殺しているのに、その罪が暴かれたことは一度たりともないのだから。
メルゼーニ子爵はマスケットを片付けて、最愛の婚約者が待つ牢獄へと足早に向かった。
ノックだけしてドアを開ける。リエリーのすべては自分のものなのだから、入室の許可など必要ない。
「可愛いリエリー、愚かなリエリー、私だけのお姫様」
子爵は歌いながらリエリーに歩み寄る。戸惑いながらもいつも通りに笑みを浮かべるリエリーの美しい髪を、彼は力強く引っ張った。
「自分の正体が堕落をもたらす忌まわしき魔女だと、いつになったら理解するんだ?」
「痛っ! やっ、やめてくださいまし、ハルク様……!」
「君の軽率な行動のせいで、また一人死んでしまったよ──君をたぶらかすあの道化師は、もう二度と現れない」
「!」
リエリーの顔から血の気が失せていく。寄り添うどころかその傷を抉るように、子爵はリエリーを寝台の上に突き飛ばした。
「お姫様は常に清楚で貞淑でいなくては。王子様以外の男に尻尾を振るなんてもってのほかだ。君をそんな尻軽に育てた覚えはない!」
「ごっ……ごめ……なさ……」
馬乗りになった子爵は、リエリーの髪を乱暴に掴み、彼女の頭を柔らかい敷寝具の上に何度も押しつける。
リエリーはむせび泣いていた。彼女の涙の理由は、自分に叱られているからだ。そうでなければいけなかった。
だってあの下衆男の死を悲しんでいるなんて、それではまるであの男がリエリーにとって大切な存在のようではないか。
「いい加減理解したまえ。君は、私の力がなければお姫様でいられないのだと。それどころか、私がいなければ君は路頭に迷い、悲惨な淪落の道を辿ることになるだろう」
今日は大事な晩餐会がある。次期公爵夫人としてリエリーも披露する予定だ。跡の目立つ場所にしつけはできない。だからその代わり、組み伏せて耳元でネチネチと囁いた。
「嫌われ者の君をこれまで大切に守ってきたのは誰だ? みなしごの君に何不自由ない暮らしを与え、無償の愛を注いでやったのは誰だ!」
「ハルク様……ハルク様……です……」
怒鳴りつけると、リエリーの華奢な肩がびくりと跳ねた。怯えて泣きじゃくる無垢な姫を見下ろしていると、征服欲が満たされていく。
「そう、その通りだ。わかってくれたかい? 大きな声を出してすまなかったね。でも、君のことが心配だったからなんだよ。もう他の男に惑わされないと誓えるね?」
震えながらこくこく頷くリエリーを、子爵は優しく抱きしめた。
未成熟な果実が放つ、甘く青い芳香を胸いっぱいに吸い込む。子爵がずっと夢に見続けてきた永遠の少女が、彼の腕の中にいた。




