ナンギルとサレーべル
薄暗いという言葉はあまり当てにならない。暗いのか、あるいは単に明るさを失っているのか、それともどっちつかずなのか、まあ、考えても仕方ないことなのだろう。
そんな中で歩き続けてナンギルは、紛うことなき言葉を失った。目印にしていたハンカチが目の前に現れてどう対処する?これは、双子の姉のサレーべルがお手洗いの友にしていた大事なハンカチだ。借りる時に苦労した。白くて赤いガーベラの刺繍が端に縫われている。母の形見と言ってもいいぐらいの大事なハンカチ…。
いきなり、鴉が鬱蒼と茂った森から出て行く音がする。不気味な声で死神を呼んでいる。と、ナンギルは思った。
「サレーべル!」
ナンギルは面白がるように鴉を指さした。
嫌なガキだ。
サレーベルは横目にじっとナンギルを睨んだ。ナンギルと同様、こんな状況でも落ち着いていた。自分がシッカリしないといけないとと昔から思っていた。あまり言葉にしたくないが、そうしないと社会的脱落者の烙印を押されるのだ。
「ナンギル、きっと道を少し間違えたんだろう。ほんの少しだ。後10回、同じ所に行き着いたら、少し休めば済む」
サレーべルはそう言った後、後悔した。少し休む?そう、自殺という言葉を優しく表現しただけだ。ナンギルに伝わると不味いと思い、ナンギルの顔色を伺う。
クソガキ並にナンギルはサレーべルを信頼仕切っている様子だった。同じDNAの持ち主とは思えない程、どこかサレーべルに依存していた。
空腹感が焦燥感に鞭打ちする。早く何か食料を調達しなくてはならない。
ナンギルは短い銀髪で赤眼の少年で、サレーべルは長い銀髪で赤眼の少女だった。彼らは(彼女らは)異様に整った顔立ちをしていた。
両親はあまりにものの貧困で、子供らを森に捨てなくてはならなかった。もちろん、奴隷商人に売ることも考えた。そうすれば微々たる生活費の足しになるだろう。しかし、奴隷の道を歩ませるぐらいなら、自分で死の道を歩めるようにした方が人情だと両親は頑なに信じた。この土地での奴隷は何とおぞましい…。性病だらけで死んでいくのだ。
娘や息子を汚したくなかった。
しかし、現状況、ナンギルとサレーべルはとにかく腹を空かしていた。木の皮に齧り付く程にまで追い込まれていた。
虫を食べて、少し気を良くしていた。
ナンギルは森の腐った木を跨いで、サレーべルの手を取った。
サレーべルの身体が引き摺られるようにナンギルの隣に行く。昔からナンギルはサレーべルと遊ぶのは得意だった。
だが、ここ最近、サレーべルが女になっていくのを感じていた。ナンギル自身も後3年もしたら、自分が声変わりすることを知っていた。
サレーべルをいつか自分が守らないといけないのだと思うと喜びをナンギルは思う。
いつまでも姉の尻を追いかけることはないのだ。
闇の帳が降りて来る。悪魔の囁き声のように、木々の隙間で風が泣いている。
背中に冷たい感触を感じて、ナンギルは舌打ちした。
かなり前に溜まった雨水がナンギルの通った衝撃で、滴って来たのだ。
ナンギルがフラフラとその場で倒れそうになる。
「ナンギル!」
サレーべルは咄嗟にナンギルが蹲るのを支えようとした。
「うんざりだ」ナンギルが呻くように呟く。
「俺ら、父さんと母さんに捨てられたんだろうぜ」
サレーべルの視線は冷たかった。分かり切ったことを告げられても、何も変わらない。
「おい、ナン。ここには君がいて私がいる。それだけだ」
しかし、ナンギルは我慢の限界だった。
「飯食いたい。虫じゃなくて、菓子が喰いてぇ。虫じゃなくて」
頭がおかしくなった演技をする双子の弟をサレーべルは哀れむ。変な虫を食べたのかもしれない。それで悲観して馬鹿なことを願っているのかもしれない。
死ぬなら死ぬでいいではないか。
サレーべルにはナンギルは一緒に死ぬのに値する人物に思えていた。近所の子供達の中で1番、ナンギルはハンサムだった。
小さい頃はよく夫婦ごっこをやったものだ。ナンギルは弁護士でサレーべルはキャビンアテンダントだった。2人共、家を空けることがちょくちょくあった。
それでも幸せだった。
夫婦ごっこの時に一緒に食べたケーキを思い出した。その時は、普通のケーキだったが、今では幻のケーキと言って過言ではないような気がして来ていた。
あれ程、美味しい物はなかった。例え、粘土やクレヨンでできていたとしても、だ。
妄想は現実化する。
ナンギルがそろりそろりと歩き出した。
「サレーべル、マジか」
サレーべルも目を見開いた。
「いやあ、マジだ」
いつの間にか目の前にお菓子の家が建っていた。
暗闇の中、そこだけ月の光を帯びて神々しく映る。
甘そうな生クリームにしっとりとしたクッキー。チョコレートの煙突にドーナツの窓。ホワイトチョコの扉。
ナンギルもサレーべルも危機感を放り出して、貪り始めた。
10分は軽く越えていただろう。お菓子の家のほんの一部分を食べただけで、極度の空腹は免れ、胃の中に食べ物が詰め込まれたというサインを脳が受け取っていた。今までの空腹が嘘のように腹が重い。「食べ過ぎた」と言ってもいいぐらいだ。
双子は満腹感に酔いしれた。
ナンギルはビスケット風のクッキーを気に入っていた。一方、サレーベルはホワイトチョコに目がなかった。
その夜は不気味であったが、それ以上に幸せだった。貧困に悩まされて産まれてこの方、存分に食べるということを経験したことがなかったのだ。
罪は両親にあったかもしれない。子供に飢えと渇きを常に爆弾のように持たせたまま、10歳まで育てて来たのだ。
しかし、生理的欲望に彼ら(彼女ら)は従順であったのに過ぎないのだ。自分達の食料を削ってまでして、子供らに食事を与えた両親を怒ることができるのは神であっても許されないと言えるのではないだろうか。
ナンギルとサレーベルは最高に嬉しくてキチガイのように笑っていた。
「サレーベル」
「ナンギル」
「これって夢じゃないよな」
「夢でもいい」
ナンギルは容姿に相応しい白い歯を見せて笑った。
「だな」
月光とお菓子の家は異端な世界を作っていた。
双子は眠りに就いた。
誰かの鼻歌でサレーベルは目を覚ました。
巨体の肥えた怪しい老婆が大釜を茹でていた。ゆっくりとした動作で大釜のスープを混ぜ合わせている。
全身黒ずくめでナンギルとサレーベルの礼服とはセンスが似ていた。
サレーベルは自分が拘束されているのに気付き、ナンギルを見た。ナンギルもまた、がんじがらめに拘束されていた。
サレーベルは老婆に気付かれないようにナンギルを揺する。ヤバい状況なのは痛い程、承知していた。
「起きて、ナン」
サレーベルの小声でナンギルがしばらくして目を開ける。起きて早々、困惑の目でサレーベルを見つめていた。
「何で捕まってるんだ」
「アイツがお菓子の家の家主だ、きっとそう」
気付かれないようにナンギルもサレーベルも喋ったつもりだった。しかし、老婆は体に耳が大量に付いているように双子を視界に入れた。
「ワシの家を喰ろうたガキ共、名を名乗れ」
サレーベルが咄嗟にナンギルを庇おうとする。
「私一人でアンタの家を食べたんだ。弟は逃してくれ」
老婆がヤレヤレと首を振る。
「貴様の弟の口元に付いているのはワシの家のクッキーの欠片じゃ。老いているが、朦朧としてはおらんぞ」
張り詰めた沈黙が訪れる。暖炉の炎と茹で釜の音が辺りを支配する。
「名を名乗るのが怖いのか」と言い、老婆は奇怪な笑い声をけたたましくあげた。
「ワシの名はムーニーゴリラじゃ」