エミール
エミールが店に立ったのは十二のときだった。
その店は港街にあった。夜毎、いろいろな国からやってきた商人や船乗りたちで賑わいを見せる。多くの商館や交易所が軒を連ね、東と西の品物が街を行き来した。この西の果ての港街は、金髪碧眼の王を戴く国であったが、東からやってきた半月刀の武人たちに征服されて、今ではサラセン人の王が居城を構えている。
品物が行き交うと人も行き交う。
そこで、ちょっとした悦楽と休息を得るために男たちは娼妓館に足を運ぶ。店には客の好みを満足させるために、様々な国の女達がいた。髪の色も瞳の色もとりどりであった。
エミールは母親に似て、金髪に緑色の眼をしていた。父親の顔は知らない。確かなのは、父親というのは母親の客の誰かだろうということだけだった。遊女が子供を産むのは、ご法度である。なぜなら子供を宿している間、その女は稼ぎが無くなる。そのうえ、子供の分まで食べるのだから、店主にしてみれば持ち出しも甚だしい。だから、遊女が孕んだとわかったら、まず、堕ろさせる。それでも堕胎がならなかったら、しかたなく産ませるが、産まれたのが女の子なら有無を言わさず遊女とするべく取り上げるのだ。女児なら十年余りで店に出せる。少なくとも十五、六年は稼げるだろうから、店主は彼の損益を取り戻すことができる。だが、男の子であれば何の益もない。精々、奴隷商人にでも端金で売り払うしかない。
そういう意味では、エミールは女の子に産まれて幸せだったのかもしれない。少なくとも彼女は実母が死ぬまでの六年間を一緒に過ごすことができたのだから。エミールは運良く実母と暮らすことが出来たが、彼女の母は子供を食べさせるために夜毎、見知らぬ男に抱かれていた。母親の仕事の間、エミールはその寝台の足元に蹲って寝ていた。エミールは産まれてこのかた遊女以外の生活を知らなかった。
母親が死んだ後、彼女は他の遊女たちの使い走りなどをして食べさせてもらっていた。普通、遊女が店に出るときは少なくとも初潮を迎えて「女」になってからであったが、世の中には物好きも多く、時に童女を相手に望む客も少なくなかった。
エミールの初めての客は、太ったギリシャ服の商人だった。顔だけでなく身体中がシミだらけで、幼い彼女にはおとぎ話の悪魔にしか見えなかった。卑屈な顔の悪魔は、涎を流しながら幼い彼女を蹂躙した。母親と幾多の客の姿を見ていたせいか、エミール自身、そういう目にあっても何の感慨もなかった。それがどういうことなのか理解できなかったせいもあるだろう。だが、悪魔の手が這ったあとは気持ち悪くて我慢できなかった。夜が明けて客が帰るとエミールは井戸端に走った。毎朝、夜泊まりの客をとった女達がそこで身体を洗うのだ。
井戸端は女達で一杯だった。昨夜、客をとった女達が大きな顔で身体を洗っている。その側で昨夜あぶれた女が小さくなって、彼女たちの汚れ物の洗濯をしていた。エミールが洗う場所はない。あとから来た女がエミールを突き飛ばし、井戸端に潜り込んだ。何も言えず、彼女は待つしかなかった。薄い夜着をかき寄せると隅に蹲った。
誰かがエミールの肩を抱き上げた。黒い真っ直ぐな髪が顔にかかった。黒い瞳の美しい女が彼女の顔を覗き込んでいた。女は優しい笑みを見せた。女はエミールを立たせると井戸端に連れて行った。黒髪の女が現れると先に井戸端にいた女達が大きく場所を空けた。この店の稼ぎ頭の女だった。
黒髪の女は手桶の水で布を絞るとエミールの泣き出しそうな顔を拭った。そして、されるがまま立ち尽くしているエミールの首筋から肩から全身を清拭した。女はときどき心配そうにエミールを覗き込んだ。エミールの緑色の瞳から涙がこぼれた。次に肩が上下しだした。エミールは激しく嗚咽しながら泣き出した。
「ふん、いちいち、泣いてたらこの商売で生きていけないよ!」
いまいましそうな女の罵声がした。場が白けたような感じだった。黒髪の女は優しくエミールを抱きしめた。エミールと黒髪の女の出会いだった。
エミールのいる店は娼妓館としては小さい所で、女達の数も十と少ない。本当なら客が鼻も引っ掛けないというところだった。それでも流行っているのは、この黒髪の女所為だった。この女は、サラセンから売られてきたらしい。この街に流れ着いた時には病に倒れていて、その容姿も酷くなっていた。この店の店主は二束三文の安値でこの女を奴隷商人から買い取り、東の蛮族の女ということで客相手をさせた。サラセン人に国を取られた白人たちはその腹いせにこの女を買い付けたので、店は小さいながらも繁盛したのだった。
憂いを秘めた黒い瞳は、彼方の故郷を思ってかいつも遠くを見ていた。彼女は言葉がわからないせいか、口数も殆どなく、客にも反抗せず、いつも悲しげな微笑を見せて部屋にあがっていた。彼女の評判は、日を追うごとに拡がって、この国以外からもサラセン人の女を買うために男達がやってきた。不思議なことに彼女は、男に買われるたびにその美しさを増した。稼ぎが良くなれば店主の扱いも良くなる。粗末な食事は精のつくものになり、女に艶やかな黒髪が戻り色白の肌に柔らかな肉がついた。その姿は噂以上に男達の欲情を誘った。
その黒髪の女は、「シウリー」という名だった。シウリーはエミールの店で一番稼いでいた。だから、他の遊女達もシウリーに席を譲らなければならなかった。といって、シウリーはそれを鼻にかけるような女ではなかった。彼女は客が個人的に彼女に握らせた金品まで包み隠さず店主に届け出た。店主にしてみれば、いい買い物だったとほくそ笑むことしきりだった。
エミールはシウリーのことを知っていたが、彼女と親しくするのは初めてだった。エミールは遊女達の使い走りをしていたが、シウリーについてはいつも店主が高級品を与えていたので用事を言いつけられることがなかったのだ。シウリーは自分の境遇も似たものであったのにも関わらず、エミールの事を気にかけていた。童女を指名する客は皆無でなかったので、エミールも時たま客をとった。そして、必ず、次の朝はシウリーが自分の身を清める前にエミールの世話を焼いてくれたのだった。エミールはあるとき、シウリーに尋ねてみた。どうして、彼女に優しくしてくれるのかを。
シウリーは優しい微笑を浮かべてこう言った。
「貴方の瞳が緑色だからよ。」
エミールには解せない言葉だった。緑色の瞳の女なんて彼女のほかにもいくらでもいるのだから。でも、シウリーに優しくしてもらうのは嬉しかった。店主もエミールがシウリーの身の回りの世話を買って出るのをしぶしぶ承知していた。店に出したと言っても年端のいかぬ子供である。役人にでも咎められたら、後の付け届けが大変だ。それにエミールは他の遊女達の使い走りもしていたし、命じればちゃんと客の相手もした。
エミールは、昼間の殆どをシウリーの部屋で過ごしていた。窓からは港の船が見える。
シウリーは初め、よく言葉がわからないらしく、エミールとも満足に話ができなかった。が、彼女はこの金髪の童女と話すために一生懸命に言葉を覚えた。元来、頭が良かったらしく、程なく彼女はエミール達の言葉を理解した。だが、相変わらず、他の者たちには言葉のわからないふりを通していたが。エミールはシウリーに言葉を教える代わりにシウリーから彼女の故郷の物語を聞かせてもらっていた。シウリーの赤い小さな唇からは摩訶不思議な物語が次から次へとこぼれ落ちた。そのなかでエミールが一番気に入ったのは、「井戸の話」だった。エミールは幾度となくシウリーに井戸の話をねだった。
◇◇◇
「…その井戸は神様が遣わしたものでした。断食月の最後の夜に砂漠の何処かに現れるのです。
その井戸に寄り添うのは<ハウリ>という名の女の妖霊でした。<ハウリ>は、預言者が神様からお言葉を賜ったとき、その足元にいて神様の言葉に帰依したのです。
神様はこの女妖霊に感心なさって、彼女に神様の井戸の番人をするようお命じになりました。神様は、女妖霊におっしゃいました。
『断食月の最後の日、日が沈んでから昇るまでの間、儂はこの井戸を人間達のいる地表に遣わす。その時、儂の言葉に帰依し、正しき心を持つ者が井戸を訪れるだろう。お前はその者の言葉を確かめ、真実ならば井戸の水を与えてよい。水は一滴で十分だ。井戸の水一滴は砂漠のオアシスと同等である。この水を得た井戸は未来永劫枯れることはない。』
女妖霊は神様に尋ねました。
『この井戸の水は何処から湧いてくるのでしょうか。』
神様は答えました。
『儂が人間に約束した「緑の国」からだ。いまはまだ未熟者の人間だが、いつか、心正しき緑の瞳を持つ者が現れ、「緑の国」の封印を解くであろう。女妖霊よ、その時は井戸の番人たるお前も晴れて我が僕の列に加えられるであろう。その時まで、心正しく精進するがよい。』
『私が彼らの真実を見分けるのでしょうか。もし、私に彼らの真実が見えなければ如何いたしましょう。』
『その時は、その者の言葉を井戸に落とすがよい。我が僕<イズライール>がその言葉を儂に届ける。アル・カドルの夜の裁きは我が胸の内にある。』
女妖霊は神様の言葉に畏まってひれ伏しました。
神様の井戸の話は砂漠の風に乗って人間達に広まりました。人間は永遠の水と神様に言葉を聞いていただくためにその井戸を探しました。神様は人間達のために井戸に目印をつけて下さいました。夜空に輝く星々に命じられて、断食月の最後の夜だけ星が天から井戸に降るようにいたしました。人間は『星の降る井戸』という呼び名を神様の井戸につけたのでした。」
「本当にそんな井戸があるの?」
エミールの問いにシウリーは悲しく微笑んだ。そして、彼女は言った。
「人間というのは、心弱いものだから神様の御手がないと生きていけないの。いつも、神様の名を讃え、私を心正しく強くして下さいと祈らなければならないの。
だから、人間は心が弱くなると神様の… 『星の降る井戸』を求めるのよ。神様に助けて戴きたくて、不毛の砂漠に足を踏み入れるの。」
「見つかるの?」
シウリーは首を横に振った。
「見つけた人はいません。『星の降る井戸』は人間が作り出した願望なの。ほんの少しでいいから『幸せ』になりたいと、そう神様に聞いて戴きたくて信じようとしているの。
そんな井戸があればいいなって。」
「シウリーは信じているの?」
シウリーは答えなかった。彼女の黒い瞳は窓の外に向けられていた。遠くまで続く青い海があった。シウリーの瞳はその海を通り越してもっと遠くを見ているようにエミールには思えた。きっと、砂の海の「砂漠」というところを見ているのだ。シウリーの生まれたところを。
◇◇◇
それから、一年余りが経った。
エミールは相変わらず娼妓館の使い走りをしていた。が、彼女も十三を過ぎ、身体つきも丸みが出てきて少女らしい雰囲気になっていた。「女」の印はまだだったが、少し膨らんだ胸が確実に童女から女への脱皮を窺わせていた。エミールの器量はそれぼど悪くなかったので、それなりに場数を踏めば稼げるようになるだろうと店主は踏んでいた。シウリーと接していることもエミールには幸運だった。シウリーを求める客は金持ちが多かったので、シウリーの小間使いのように見えるエミールにわずかばかりの小遣いをくれることもしばしばだった。初めはその小遣いをシウリーに渡したが、シウリーは首を振り、受け取らなかった。彼女はエミールに小遣いを取っておくように言った。いつか必ず役に立つだろうから大事にしておきなさいと小さな手に銅貨を握らせた。このお陰で、客が取れなくて食事ができなくてもエミールはひもじい思いをしなくて済んだ。
ここのところ、シウリーの客はただ一人だけだった。その男は背が高くがっしりした身体に鉄の甲冑をまとっていた。歩くとカシャンという音がした。兜の下は赤毛の精悍な顔があった。店の女達はこの男がやってくると自分の客を放り出して見物に集まった。噂ではもっと西の島国の軍人らしいということだった。エミールはこの男が赤毛であるだけでなく、緑色の瞳をしていることを知っていた。歳のころは三十前後、彼は東の方へ彼らの神様の聖地を奪還するために戦いにいったと聞いていた。彼らが戦った相手はサセン人のはずだった。彼らはこの港から船を乗り継いで故国に帰るという。この国を治めているのもサラセン人のはずだが、この王は大枚の金貨に目がくらみ、本来なら敵であるはずの彼らに滞在を許可したのだった。シウリーの客はこの軍のなかでも偉い人らしく、軍が船を待つ間、金貨千枚でシウリーを買ってしまった。店主は客とシウリーのために離れを用意し、西の国の軍人はそこで過ごすことになった。彼もどこからかシウリーの話を聞いたらしく、物珍しさも手伝って彼女を買いに来たのだ。彼の甲冑の胸には十字架が刻まれていた。キリスト教会の印だ。エミールはキリスト教徒ではなかったが、日曜に教会に礼拝に行く人々のことは知っていた。赤毛の軍人も日曜には近くの教会へ礼拝に行った。キリスト教会は、サラセン人の王によって一旦は破壊されたが、いつのまにかサラセン人にはわからないような形で再建されていた。その上、白人の金持ち教徒が役人に小金を握らせていたので、ある程度の目こぼしがあったらしい。軍人はシウリーを教会に連れて行こうとしたが、シウリーは頑として応じなかった。赤毛の軍人は確かにシウリーの寝台の客であったが、彼はシウリーの身体を抱きながら、蛮族にキリストの教えを説くという崇高な使命を忘れなかった。シウリーは忠実に彼の相手を務めていたが、キリスト教徒になることだけは拒み続けた。シウリーは今まで隠れるようにしていたサラセンの神様に祈ることを赤毛の軍人の前で堂々と行った。キリストの神を唯一の神とする軍人はシウリーの行為に困惑していた。
「私が神様と信じる御方は、『アッラーの神』だけでございます。人様に身体を売る汚れた女でありましても心まで売るような真似はいたしません。それで、貴方様が許せぬとおっしゃいますなら、この場にてお切り捨てくださいませ。私は、貴方様の怨敵、サラセンの女にございます。」
シウリーは悪びれるでもなく胸を張って赤毛の軍人にきっぱりいった。軍人は彼女の言葉に一度は剣を抜いた。だが、彼はシウリーを切り捨てることはできなかった。赤毛の軍人は、いつのまにかこのサラセンの女を本気で愛していた。彼女のほうはどうであったかわからない。軍人はシウリーを斬るかわりに彼自身で激しく責めた。昼夜を問わず、シウリーは軍人の身体の下であった。エミールは彼らの近くにいたが、そんなシウリーがたまらなく気の毒だった。
やがて、赤毛の軍人は、大勢の兵達と自分の国へ帰っていった。が、彼はサラセンの女の胎内に自分の子がいたことを知る由もなかった。シウリーは身籠っていることを誰にも話さなかった。時々、具合の悪いような様子を見せたが、客の相手はちゃんと勤めた。だが、いつまでも隠しておけるわけでもなく、目立ち始めた腹部を店主はおぞましげに蹴り飛ばした。普通ならそれだけで子供は流れてしまうが、シウリーの子供はどんな目にあって母の胎内から離れようとしなかった。店主は一番の稼ぎ頭が駄目になったのに幻滅したが、産まれてくる子供が母親似の女の子ならいずれ元手も取れるだろうと腹を括った。シウリーは店の一番悪い部屋に移された。北向きの部屋で一日中、日の射さない暗い部屋だった。海からの湿気が部屋にこびり付いて嫌な臭いがする。シウリーはひとりでその部屋にいた。食事もろくな物が与えられなかった。彼女から美しさが消え、病人のように寝台に横たわっているだけだった。そして、彼女は故郷の砂漠の話をよくした。
エミールはシウリーのことが心配だったが、なかなか会いに行けなかった。エミール自身、一人前の稼ぎ手として店に出されていたのだから。客の合間をぬって、それでもエミールはシウリーの所へいった。彼女はもう起き上がる力さえないかのようだった。食事はエミールが食べさせた。ろくな食事ではなかったので、エミールは自分の分も彼女に運んだ。時には客からもらった小銭で市場へ行き、精のつくものを買ってシウリーに食べさせた。エミールは、自分でできる限りのことをしたが、シウリー自身は弱っていくばかりで、唯一の救いは、お腹の赤ん坊が順調に育ち、どうやら臨月を迎えたことだった。
◇◇◇
その日、エミールは客はあぶれた。
泊まりの客を取れなかったので、一日、皆の下働きをして食事を分けてもらわなくてはならなかった。朝は洗濯から始まって、食事抜きのまま昼の買い物に出された。街へ行って女達の買い物をしなければならない。遊女だとわかると商店は物を売りたがらないので、エミールのようにそれらしく見えない娘が買い物に走るのだ。
下町の娼妓館を出て、一旦、港に出た。遊郭のほうから来ると嫌がられるのでわざと回り道をする。エミールにとってはそれが楽しみだった。港の市場を通り抜け、にぎやかな街を歩ける絶好の機会だった。エミールは小奇麗な薬屋で女達の赤い紅を買った。それを大事そうに抱えて、港に戻ってきた。早く帰って、部屋の掃除をしなかればならなかったが、エミールは波止場の雑踏の中にいた。人の熱がたまらなく心地よかった。夜な夜な、彼女達を買いに来る男たちは欲望の塊でしかなく、生命力の欠けらも感じられない。なのに、昼間は溢れるばかりの力に満ちている。誰かが言っていた。夜の女は男の命の源だと。でも、エミールにはよくわからない。夜、客に恵まれるとたくさん食事があたるのであぶれたくなかった。客に変なことをされるのは嫌だったが、食事を貰えないのはもっといやだった。波止場の男達は肩に重そうな荷物を乗せて、大きな船に渡した板を上っていった。まるで蟻の行列のようだ。大きな船は中央にとても太い柱があって、横に渡らせた丸木には白い帆が巻きついている。中央の船柱の他にも二本の小さめな柱が帆を丸めて立っている。
この船なら遠くに行けるだろうな、ふと、エミールは思った。きっと、うんとお金持ちの商人の船で、彼の家族は王様のような暮らしをしているだろう。娘さんはふわりとした絹のドレスをまとって、甘い砂糖菓子をお腹いっぱい食べる。世話をしてくれるのは上品な召使いのばあやで、欲しいものは何でも買って貰えて、幸せなお姫様なんだ…。
「!?」
エミールは、目の前を通り過ぎた人物の姿に目を奪われた。女のような長いスカート姿で頭に白い布を被っていた。背の高い男の姿だった。そう見かける姿ではない。
サラセンの人だ! エミールは男の後を追った。サラセンの人々がどんな服装でいるのかシウリーに聞いていた。同じサラセンでも海の方で住む人と砂漠で住む人の服装は違う。いつも港に来るサラセン人は、王宮にいる人々のように金糸銀糸のちりばめた上着を着て頭に蛇のとぐろのようにターバンという布を巻いている。でも、彼女の追いかけた人物はターバンではなくベールのような頭布を被っていた。シウリーから聞いたのは、砂漠に住むサラセン人は日除けのためにターバンをベールのようにして被るということだった。背の高い男は、広い歩幅で頭布を揺らしながら歩いた。エミールの眺めていた大きな船のところに来ると人夫頭の男と二言、三言、話をしていた。エミールはその頭布の男を見ていた。できれば話がしたかった。シウリーはずっと砂漠の国に帰りたがっていた。この男の人は砂漠の国から来たようだったから、シウリーが砂漠の国に帰る手立てを知っているかもしれない。
エミールは雑踏をかき分けてサラセンの男に近づこうとした。船の大柄な男達がエミールの身体を弾き出した。
「あっ。」
エミールの手から紅の箱が落ちた。丸い小箱は道を転がった。慌てて彼女は箱を追った。箱はどんどん先に転がり追いつけない。失うわけにはいかなかった。紅を買いなおすお金をエミールは持っていなかったのだから。箱は無情にもサラセンの男の足元を通り過ぎ、海の方へ向かっていった。エミールはサラセンの男にぶつかった。手を伸ばせば箱に届きそうだったのに。サラセンの男は自分にぶつかった金髪の子供に驚いた。彼は道に転びかけた子供を抱きとめた。金髪の子供は彼の手を振り払って桟橋のほうへ走った。小箱は港の縁から海に落ちた。ゆっくりと沈んで行こうとしていた。エミールは腕を伸ばした。小箱に届くと思ったから。エミールの小さな手が小箱に追いついた。だが、エミールの身体も海の中だった。海に落ちた恐怖よりも紅の小箱を失くさないで済んだという安堵感のほうが彼女の心を支配していた。エミールの身体は海に飲み込まれた。
「子供が落ちたぞ!」
桟橋に男達の声が響いた。皆が港の縁に黒だかりになった。その中から誰かが海に飛び込んだ。白い頭布が縁に残されていた。皆が見守るなか黒髪の男の頭と金髪の頭が海から出てきた。
「旦那様!」
人込みの中から海中の男へ声がかけられた。海中の男は、声の主を見つけると笑みを見せた。彼は、金髪の子供を抱えて岸に寄った。人夫達の腕が子供と男を引き上げた。子供は気を失っていた。
「旦那様!」
サラセン人の小柄な男が人をかき分けてやってきた。頭に赤白の格子模様の布を被り、黒の留紐を巻いていた。四十ぐらいの男だった。彼は自分より頭ひとつ以上背の高い青年に駆け寄った。青年は短い黒髪から雫を垂らしながら、たらふく含んだ服の海水を絞っていた。彼は右目に眼帯をしていた。
「ハールーン様! なんてことをなさいますか! お命を粗末になさって!」
「ムタウ、そう怒るな。人助けだよ。」
「だからといって、何も旦那様が飛び込むことはないでしょう。他の者にお命じになればよろしいではありませんか!」
「ムタウ、小言は後で聞くから、医者を呼んでくれないか。」
「もちろんです!」
「あの子を診てもらいたい。」
青年は金髪の子供の側に寄った。人夫達が介抱していたが、子供は気を失ったままだった。
「どうだね?」
青年が声をかけた。
「旦那さん、どうもねぇ。水は飲んじゃいないようですが、目を覚ましませんねぇ。」
「そうか…。
誰か、この子が何処の家の子供か知らないか?」
「そいつは、遊郭の使い走りのガキですぜ。」
人だかりの中から声がした。青年は少し考えてから子供を抱き上げた。金髪の子供は驚くほど軽かった。
「旦那様!?」
「船へ連れて行くよ。」
「全く物好きなんだから。」
執事のムタウは奴隷に命じて医者を手配し、船室の用意をし、彼の主人に着替えを用意した。彼らの船は港のなかで一番大きいものだった。桟橋から船に上がり、船主の私室の窓からは港が一望できた。ハールーンという名の青年はムタウの用意した衣服に着替え、医者と金髪の子供を見守っていた。金髪の子供といっても娘だった。娘は青い顔をして横たわっていた。彼女を抱き上げたとき、余りにも軽いので彼は心配になっていた。
「どうですか、医者殿?」
「海に落ちたことの影響はありませんな。しいて言えば、慢性的な栄養不足でしょう。ろくな食事をしていないようです。見たところ十二、三の娘です。その歳にしては発育不良ですな。おまけに遊女ときている。」
医者は最後の一言に侮蔑を込めていた。ハールーンは黙っていた。
「貴方のような立派な方が係わり合いになるような娘ではありませんよ。悪いことは申しません。誰かに命じてこの子を追い払いなさい。女になってないのに身体を売ってるような輩です。お気をつけなさい。」
医者はハールーンに耳打ちした。ハールーン青年は、親切な忠告をしてくれた医者に金貨を払うと早々に引き取らせた。彼は職業で人間の質を決めるのが嫌いだった。彼の神の言葉にも遊女を誹謗するものがないわけではなかったが、そういうことでしか生きていけない人間もいる。彼らより贅沢三昧で平気で人の心を傷つけている輩のほうがずっと醜いとハールーン青年は考えていた。
彼は金髪の娘の側に腰を下ろした。意識も戻らない子供を追い出すことなぞ考えていなかった。せめて、自然に目覚めるまで休ませてやりたかった。彼は、子供の手に握られている小箱に気がついた。余程、大事なものらしい。小さな手にしっかりと握られていた。が、海水に洗われて変色気味だった。これでは使い物になるまい。ハールーン青年は立ち上がって執事のムタウを呼んだ。ムタウは程なく主人の前に現れた。
「御用はなんでございましょう?」
「使いを頼むよ。お前自身で行ってきておくれ。これと同じものを買ってきて欲しい。」
ハールーンはムタウに小箱を渡した。
「同じものがなければ、これより高いものを買って来るんだよ。安いものではだめだからね。」
「はい、旦那様。」
「それから、何か食べるものを用意してくれ。軽いものでいいから。」
「あの子供のために、でしたら、およしなさいませ。
今日、旦那様が情けをおかけになっても明日には遊女に戻るのですからね。優しくなさるのも良し悪しでございます。」
ムタウの言うことは正論だった。だが、ハールーンはこういった。
「ムタウ、食事をするのは私だよ。」
ムタウは、はいはいと頷くと主人の前を辞した。彼は自分の主人の性格を良く知っていた。困った者や弱い者には限りなく優しく、反面、傍若無人の鼻つまみ者には、身分に関係なく厳しく接した。ムタウは彼より幾分若いそんな主人を好いていた。ムタウは、彼の主人のためにときどき厳しい事を言うのである。主人に言われたとおりのことを奴隷達に指示して、ムタウは出かけた。
暫くして、黒人奴隷が銀盆に果物やパン、飲み物を盛って運んできた。主人はそれを受け取った。
ハールーン青年は、金髪の子供の側に腰を下ろした。子供は柔らかい毛布のなかでよく眠っていた。子供が身動きした。ずれた毛布をそっと直してやる。彼は、自分がとても優しい気持ちになっているのに気がついていた。金髪の異国人の子供なのに、信じる神を異にしている者達の子供なのに…。小さく呻き声をあげて子供が目を開けた。ハールーンは、心配そうに子供の顔を覗き込んだ。
怯えた緑色の瞳に彼が映っていた。子供は飛び起きた。がたがた震えて、毛布の端を抱き込んでいた。
エミールの目の前で男が微笑んでいた。彼女が追いかけようとしたサラセン人の男だった。男は短い黒髪をしていて肌はエミールより少し黒い。右目に革の眼帯をしていた。片目の男はエミールたちの言葉で彼女に話しかけた。
「気分はどう?」
「…。」
「ここは、私の船だよ。君は海に落ちたんだ。覚えてないかい?」
「…。」
「そう、怖がらないで。私の姿がこうだからだろうけれど。」
片目の男は眼帯に手をやって苦笑した。エミールは、男の顔を室内を見回し、最後に自分の服に驚いた。白い絹の服だった。想像していたより柔らかくてふわりとした軽いものだった。
「君の服はまだ乾いてないんだ。気に入らないかもしれないが、良かったら着てもらえるかな。」
金髪の子供は、緑の瞳を見開いてサラセンの男を見ていた。サラセンの人とは、皆、こんなに優しいのだろうか。シウリーもこの男の人も。
「お腹、空いてないかい? 好きなだけ食べていいよ。」
片目の男は、彼女の前に銀盆を差し出した。エミールには見たこともないご馳走がのっていた。子供は、銀盆のご馳走を見て喉を鳴らした。その音が余りにも大きかったので、男は驚いた顔をし、エミールは赤面した。男は穏やかに微笑んで言った。
「遠慮しないでお食べ。」
エミールは、おそるおそる手を伸ばした。パンを掴んで半分にちぎった。柔らかくて中は白かった。こんな極上のは初めてだった。口に入れると甘くて溶けてしまうようだった。
エミールは、がつがつと食べ始めた。男は子供の勢いに半ばあっけに取られていたが、黙って見守っていた。余程、この子供はお腹が空いていたのだろう。
「旦那様。」
船室の扉が少し開いてムタウがハールーンに声をかけた。青年はムタウのほうに立ち上がった。ムタウは小箱を主人に手渡した。
「同じものが切れておりまして…。お言いつけのとおり高い物を買って参りました。」
「ご苦労だったね、ムタウ。」
ムタウは主人の言葉に一礼すると彼の前を辞した。ハールーンは子供の側に戻った。エミールは、銀盆の食事の大半を平らげていた。が、子供は盆の上に残っているのを残念そうに見ていた。青年はそんな子供をくすりと笑った。エミールは申し訳なさそうに下を向いた。
「さあ、これを持って行きなさい。」
片目の男はエミールの手に紅の箱を握らせた。エミールは唖然として男を見た。
「これがないと叱られるのだろう。」
エミールは頷いた。小箱を胸に抱きしめるとか細い声で言った。
「あ、ありがとうございます。ご親切な旦那さん。」
彼女は何度もそう言った。それから、小声で付け足した。
「私、ご親切にしてもらっても何もお礼が出来ないんです。あのう、私に出来るの、旦那さんに…。
えっと、旦那さんに満足していただく様に務めますから。あのう、私、遊女なんです。だから…。」
子供の申し出にハールーンは苦笑した。彼とて男であるから子供の申し出がどういうことか判っている。
「名前は?」
「エミール。」
「エミール、君の言うことは判るが、私は、故あってね、そういうことは遠慮させてもらっているんだ。」
「私ではだめですか。」
「そういうことではないよ。」
「…。」
「神様に誓いを立てているので。済まないね。」
エミールは俯いた。
「誰かに家まで送らせようね。」
「いいえ! いいです。一人で帰れます。」
「そう。」
男が寂しそうな顔をした気がした。
「あのう、いつまでここにいるんですか? 私、この服を返さないと。」
「今夜、出港なんだよ。残念だね、知り合いになれたのに。
服はいいよ。取っておきなさい。エミールに良く似合っているから。」
金髪の子供は頬を赤くした。娘らしい恥じらいの色を見せた。
ハールーンは、エミールの服と少しばかりのご馳走をひと包みにして子供に持たせた。包みの中に小金を入れてやるのも忘れなかった。金髪の子供は、何も知らずに包みを抱えて何度も親切な旦那さんに頭を下げ、西に傾きかけた日の中を駆けていった。ハールーンは子供の姿が見えなくなるまで桟橋に立っていた。
「まったく、旦那様は物好きなんですから。あんな子供に情けをおかけになっても何の徳にもなりませんでしょうに。」
主人に寄り添うムタウは不快を露にして言った。
「神様は、貧しき者に施すようにとおっしゃっているよ。」
「異国人でございます。」
「あの娘は、緑色の瞳をしていたんだ。」
ハールーンの片目が遠くを見ていた。ムタウはそれ以上、主人に話しかけなかった。
◇◇◇
エミールが店に戻ったのは、暗くなる直前だった。店の開く時間は過ぎていた。店主はエミールを蹴飛ばした。エミールは、井戸の石組みに背中を打ちつけて呻いた。
「こんな時間までどこをほっつき歩いてやがった! 誰様のお陰でおマンマが食えると思ってんだ! このガキが!」
店主は容赦なくエミールを折檻した。エミールは顔や腕に赤紫の痣を作ったが、サラセン人からもらった包みはしっかり抱いていた。店主はそれに気づくと包みを取り上げようとした。エミールは取られまいとして離さなかったので、包みが破れて中のものが地面に散らばった。エミールの服とあの美味しいパンとキラキラ光る金貨が数枚出てきた。
「こりゃたまげた! このガキ、どこでくすねてきた!? 」
店主がエミールの髪を引っ張った。彼女の着ている物を眺め回して言った。
「それにこりゃ、絹だ。どこから盗んできた?」
「もらったんです。」
泣きながらエミールが言った。
「嘘、つくんじゃねえ! お前みたいなガキに物を恵んでくれる奇特なお方がいるわけないだろう!
は、はぁーん、お前、俺に隠れて、身体を売ったな。そうだろう? どっかで、客を引っ掛けて、内緒で銭を稼ごうって魂胆か! 大したガキだな!」
店主は絹の服を剥ぎ取って、エミールを地面に叩きつけるとしたたかに腹を蹴り上げた。
「本当にもらったんです。本当なんです…。」
エミールは訴えたが聞いて貰えなかった。店主はエミールの耳元でいやらしく囁いた。
「じゃ、お前にこれを恵んでくださったお大尽さまは、どこにいらっしゃるんだ?」
「え?」
「お礼にいかなきゃならんだろう?」
エミールは店主の魂胆を一瞬のうちに悟った。彼はエミールをだしに金をゆすり取ろうというのだ。日頃、酷い扱いをしておきながら、こういうときは店の宝物だなんだといって相手に法外な料金を吹っかけるのだ。エミールは唇をかみ締めた。あの旦那さんに迷惑をかけちゃいけない。
「言え!」
「知らないんです。」
「知らんわけないだろう、え、また、身体を売る約束をしたんじゃないのか?」
「本当に知らないんです。」
店主は散々、エミールを折檻して聞きだそうとしたが、彼女は知らぬ存ぜぬで押し通した。店主はエミールの強情さにあきれると舌打ちして言った。
「当分、飯は抜きだからな。お前には、このパンで十分だろう。」
店主は、パンを踏みつけにすると、金貨と絹服を持って立ち去った。エミールは傷だらけの身体に貧しい服を羽織り、潰れたパンを拾い上げた。閉じた唇から情けなく嗚咽が洩れた。
ひとしきり泣いてから、エミールは立ち上がった。彼女の足はシウリーのところに向かっていた。シウリーに知らせよう、エミールは思った。あの優しいサラセンの人の話。商人のようだったから、またこの港に来てくれるかも知れない。そうしたら、シウリーも砂漠の国に帰れる。あの旦那さんにシウリーの話はできなかったけど、その次だって会ってもらえるかもしれない。きっと、会って下さるにちがいない。
エミールはシウリーの部屋に入った。日の落ちた部屋は真っ暗で、床は湿気を帯びてねっとりしていた。シウリーは、ここのところ大きなお腹を抱えているのが辛いのか、一日中、寝台に横になっていた。明かりのない部屋でエミールは苦しげなシウリーの声を聞いた。
「シウリー、シウリー、どうしたの?」
エミールは枕元の型崩れした蝋燭に火打石で火を灯した。少し、部屋が明るくなり、シウリーの顔も見えた。サラセン人の女は、脂汗を顔中ににじませてあえいでいた。
「お腹、痛いの? 誰か呼んで来ようか。」
シウリーの白い手がエミールの手を掴んだ。薄目を開けてシウリーは言った。
「赤ちゃん、生まれるの…」
「シウリー!? 誰か呼んで来なくちゃ!」
「だめ… 間に合わない…」
シウリーが身体を反らせて呻いた。
「シウリー!」
「ひとりで… お願い、水を汲んできて… 赤ちゃんの…」
「うん!」
エミールは井戸へ走った。エミールはサラセン人の男のことも身体中の折檻された痛みも全て忘れていた。井戸の水を手桶に汲んだが、冷たい井戸水では赤ちゃんがかわいそうだ。ふと、エミールは井戸の話を思い出した。井戸に願い事を言えば神様が叶えてくれるかもしれない。エミールは井戸の中に小さく呟いた。
「どうか、シウリーが元気な赤ちゃんを産めますように。」
そのあと、エミールは台所の裏から中に入った。いつもなら客にあぶれた女達がたむろしているのだが、今日に限って誰もいない。シウリーのお産を手伝ってくれる女が誰かいないかと探しに来たのだ。エミールはがっかりしたが湯沸しにお湯を見つけた。まだ温かい。その湯を手桶に混ぜ、冷たさをやわらげた。そして、近くに干してあった白布のきれいなのを取るとシウリーのところに急いだ。
そんなに手間取ったつもりはなかったが、エミールが手桶を抱えて戻ってみるとシウリーは寝台でぐったりしていた。彼女の足元に血で少し汚れた小さな塊が震えていた。
エミールは驚いて、小さな塊に駆け寄った。赤ん坊の首にへその緒が巻き付いている。エミールは震える手でへその緒を取った。赤ん坊がくうと息を吐き、小さなか細い声で泣き出した。
「赤ちゃん…」
エミールに握られたへその緒が赤ん坊のへそから離れた。エミールは無意識のうちに胎盤と緒を白布で包んだ。赤ん坊は男の子だった。
「シウリー、シウリー、赤ちゃん、産まれたよ。男の子だよ。」
エミールはシウリーに話しかけた。シウリーは微かに目を開けた。彼女は消え入りそうな声で言った。
「ユリウス…」
「シウリー、『ユリウス』って、赤ちゃんの名前なの?」
シウリーは口許に慈母の笑みを浮かべたまま答えなかった。閉じられた瞳は開かれなかった。
「シウリー、シウリー!」
エミールはシウリーの身体を揺すったが、彼女は動かなかった。
「シウリー?」
エミールは、シウリーの胸に耳をあてた。心音が聞こえなかった。
「そんな…」
エミールは蒼白な顔で立ち尽くした。目の前が真っ白になって、途方にくれた。真っ白な時間の中で赤ん坊の泣き声だけが聞こえた。
どうしよう。エミールは赤ん坊にそっと触れた。ねっとりしていた。エミールは、手桶の水で白布を絞ると赤ん坊の身体を拭いた。赤ん坊は、気持ちよくなったのか眠り込んだ。エミールは裸の赤ん坊をきれいな毛布で包んで抱きかかえた。赤ん坊はちょっと力を入れると壊れそうなくらい軽くて小さかった。
男の子だった。店主に見つかったら、奴隷商人に売られてしまう。エミールは、シウリーに毛布をかけると部屋を出た。赤ん坊を抱いたまま、ふらふらと歩き出していた。
歓楽街の嬌声を無意識のうちに避けて、エミールは港に来ていた。夜風が傷口にしみた。彼女は、赤ん坊に風が当たらないように抱きなおした。
サラセン人の船はまだ埠頭にいた。カンテラが灯され、出港準備が進められている。船には乗せてもらえないだろう。お金もない。店にも帰れない。店主に折檻されるのは慣れっこだったが、赤ん坊は売られるだろうし、シウリーは死んでしまった。もう、どうしていいか、エミールにはわからなかった。人夫達は忙しくしていたが、誰もエミールに気づかなかった。エミールは幽霊のように歩き出した。桟橋を静かに上がり、側の穴蔵に下りた。穀物の袋がうず高く積み上げられていた。その陰にエミールは赤ん坊を抱いて座り込んだ。誰も彼女に気がつかなかった。エミールは隠れるように乗り込んだのではない。だが、本当に、誰も彼女に気がつかなかったのだった。
◇◇◇
ハールーンは、寝入ってから暫くで起こされた。夜の出港で、港を出て沖に出るまで立ち詰めだったし、昼間の一件もあって、若い彼もいささか疲れを感じていた。ハールーンは夜着に長衣のガウンを羽織った姿で甲板に出た。ムタウが人夫達の輪の中で困惑していた。
「ムタウ、何があったのかね?」
「旦那様!」
ムタウが困惑した顔で主人を見た。ハールーンは、ムタウの向こうに子供の姿を見つけた。見知った金髪の子供が、その緑の瞳を見開いて彼を見ていた。カンテラに照らし出された子供の顔は不安と怖れに駆られていた。
「旦那様、密航にございます。」
ムタウが主人に耳打ちした。
「誰も気がつかなかったのか?」
ハールーンは小声でムタウに応じた。子供は怯えきって震えている。胸に毛布の塊を抱えていた。
「いかがいたしますか。密航は死罪ということになっておりますが。」
「船に乗った理由は何か言ったか?」
「いえ、何も、一言もモノをしゃべりません。」
「この子は何を抱えているんだ?」
「見せようとしないのです。
旦那様?」
ハールーンは金髪の子供の側に腰を落とした。
「…エミール、だったね…?」
「…。」
金髪の子供は緑の瞳から星を落とした。彼女の腕が緩んだ。ハールーンはエミールの腕のものを取り上げた。毛布の中に産まれたばかりの赤ん坊がいた。
「これは?」
ムタウが絶句した。赤毛の赤ん坊がハールーンの腕の中で眠っていた。ハールーンは困惑顔を隠せなかったが、彼はひとつ息をついて言った。
「この二人は、私の客だよ。わかったかね。
さあ、皆、持ち場に戻ってくれ。」
人夫達は、主人の言葉に黙って持ち場に戻った。夜風が帆の音を立てた。ハールーンは、赤ん坊を抱きなおした。小さな生命が彼の腕の中で息をしていた。泣きもせず、安心しきった顔をしていた。ムタウが彼に声をかけた。
「旦那様、どういたしましょうか?」
ムタウは、エミールの身体を毛布で包んでいた。ムタウは主人に伺いを立てたが、すでにエミールを保護する用意を見せていた。彼の主人がこの少女を見捨てるわけがないのを承知していたのだ。
「この子達は、私の部屋へ連れて行こう。すっかり、冷え切ってしまって。」
ハールーンが立ち上がった。
「あーあ、ダメですよ、旦那様。そんな抱き方をしたら、赤子の息が詰まってしまう。」
ムタウがハールーンから赤ん坊を取り上げた。
「まったく、こういうことはダメなお人だから。」
ムタウが慣れた様子で赤ん坊をあやした。ハールーンが苦笑した。
「さすがに五人の子持ちだけあるな。」
「だったら、旦那様も子供を作りなさいまし。」
ムタウは、先に歩き出した。ハールーンは、エミールの肩を抱き寄せた。金髪の子供は、背の高いサラセン人を見上げた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
か細い声が涙と一緒に出た。
「密航するつもりじゃなかったんです。あの、皆、忙しそうだったので。声、かけられなくて。あの、ふらふらとして気がついたら、船に乗ってしまってたんです。
お金、少しだけあります。サラセンまで連れて行ってもらいたかったんです。」
エミールは、傷だらけの手で銅貨を三枚、差し出した。ハールーンがこっそり与えた金貨とは全く違う薄汚れた銅貨だった。エミールの着ているものも絹の服ではなかった。全部、取り上げられたのだろう。ハールーンは、エミールの手をそっと握った。
「なぜ、サラセンに行きたいの?」
「シウリーは、サラセンの人なの。」
「シウリー?」
「赤ちゃんのお母さん。あの、」
「ん?」
「死んだと思います…」
「私、お店を黙って出てきたんです。あの、叱られるのは慣れてます。
でも、お店にいたら、赤ちゃんが売られてしまうんです。男の子だから。店では、男の子はいらないんです。あの、シウリーは、サラセンの砂漠の国に帰りたかったんです。だから、私、赤ちゃんを連れて行こうと思って。
私、お金の足りない分、何でもしますから、船から降ろさないでください。」
エミールは、ハールーンの足元にひれ伏した。彼は子供を抱きしめた。痩せぎすの子供の身体が震えていた。
「…船は海の真ん中だし、次の港までだいぶあるし。降ろしたくてもできないんだよ。安心しなさい。」
ハールーンは、エミールに微笑んだ。エミールの不安げな表情が少し和らいだ。
「さ、赤ちゃんのところに行こう。甲板は寒いから。」
「はい。」
エミールが小さい声で返事をした。
「そうだ、あの赤ちゃんの名前は?」
ハールーンの問いにエミールが考えた。エミールは暫く黙ってから答えた。
「『ユリウス』…。」
「いい名前だね。」
「と思います…。」
エミールが小声で応じた。エミールは、ハールーン青年に支えられて歩き出した。
程なく、異国人の子供二人は、サラセン商人の部屋で寝息を立て始めた。その幸せそうで安心しきった寝顔を見届けて、ハールーンは、甲板に戻った。夜はまだ明けていない。闇は色濃く船にまとわりついていた。船は緩めの風を受けて、際立った揺れもなく、静かに航行していた。
天の星が海に映っていた。
穏やかな波間に光がさざめいていた。
幾つかの星が海へ落ちた。
ハールーンは風に身体を預けて、海を眺めていた。かつて、こんな天を仰いだことがあった。砂の海は、今夜のように静かだった。砂漠にいるのが辛くて海に出たというのに、同じ天を見上げている。あの夜も幾つもの星が水面へ降り注いでいた。
ふと、彼の肩に毛布が掛けられた。
「旦那様がいくら、お若いといっても海風はいけません。」
ムタウがたしなめた。ハールーンは苦笑を執事に見せた。
「お子達は、よく眠っておりました。」
「気を遣わせて済まないね。」
「いーえ。でも、どうなさるのです? 次の港で降ろしますか?」
「あの娘、私を頼ってきたんだ。銅貨三枚で、サラセンに連れて行って欲しいって。」
「異国人なのにですか?」
「肌の色や髪の色は、関係ないのかもしれない。」
「はあ。」
「あの娘達の幸せは、サラセンにあるのかもしれないよ。」
「おっしゃる意味がよくわかりませんな。
…ただ、次の港で降ろすということであれば、あの娘は、やっぱり、遊女をしなくちゃいかんということは思いますが。」
「ねえ、ムタウ、子供を育てるっていうのは楽しいのかい?」
ハールーンが話を変えた。
「難しい質問ですな。
子育ての大半は母親の仕事で、父親の楽しみといえば、いつ、この子が自分の背丈を追い越していくのかな、とワクワクすることですかな。
子供を育てるのは、苦労が多いものです。
ですがね、無邪気な顔をされて『父さん』と呼ばれた日には、子供作ってよかったと思いますよ。」
ムタウが嬉しそうに話した。子供の話をするときのムタウは格別機嫌がいい。
「ここだけの話ですがね、家に帰ったとき、カミさんより子供を抱くのが先なんですよ。」
ハールーンは、クスクス笑い出した。
「父親とは、そんなもんです。
大旦那様もハールーン様が元気なお姿で戻られたときは、本当に嬉しそうな顔をなさるでしょう。日一日と大きくなる子供を見るのは、楽しいものです。」
「ムタウは、反対しないみたいだね。」
「反対ですよ。あんな子供を奥に迎えるのは。反対しないのは、育てることです。」
「…。」
「旦那様、失ったものに似たものを見つけたからといっても、所詮、似ているだけなのです。
失ったものを再び、手に入れることはできません。
それを承知していらっしゃるならいいのですが。」
「そうだね。」
「今のご様子では、旦那様の自己満足だけという気がいたします。
それだけなら、あの子供は次の港で降ろしなさいませ。
育てるということは、あの子供達の幸せを第一に考えることです。
子供は、親の自己満足を得るための道具ではないのです。」
「ムタウの言うことは厳しいね。」
「…。」
「わかっているよ。ムタウの言葉は正しい。
あの子達が私のところに来たのは、私の自己満足を充たすためでなく、あの子達が幸せになるために私の力が入り用だってことだ。」
「神様は、公正なお方です。」
「うん。」ハールーンが素直に頷いた。
「しかし、大旦那様も驚かれるでしょうな。孫が一度に二人も現れるのですから。
それに、金髪に赤毛でございますからね。」
「きっと、賑やかになったと喜んで下さるさ。」
「お休みになられませ。お隣りに寝所を用意してございます。」
「ありがとう、そうさせてもらうよ。」
ムタウは、彼の主人の後姿を見送った。ハールーンに使えるようになってもう四、五年経つ。明るい表情のなかに陰りを落としている若い主人にいつも心を砕いていた。主人の陰りの理由を彼は知っていた。だから、主人が生命あるものに関心をもつのは大歓迎だったのだ。あの異国人の子供達がハールーン・ラジドを変えるかもしれない。かつて、若者らしく生命力に溢れたあの彼へと。
ムタウは、ひとつ息をつくと部屋へと歩き出した。
彼の背中で優しく星が流れた。
シリーズ「星の降る井戸」です。
「サイプラス」の前日譚となります。