これから
美術館は、週末だというのにやっぱりがらがらだった。
余計なお世話でしかないのだが、経営は大丈夫なのか少し心配になってしまう。
観光地値段の入館料を払い、浩輔と香澄は並んで館内に足を踏み入れた。
やっぱりどう見ても馬には見えない「馬」の前を通り過ぎて、しばらく薄暗い通路を歩くと、そこに例の作品はあった。
『これから』。
太いロープがとぐろを巻いたその中央で、ロープの先端が釘で打ち付けられている。
作者名は、「無駄なロボ屋」。作品同様、変な名前だ。
「この間これを見ていた時は、まさか次に来たときに自分が無職になってるなんて、思ってもみなかった」
香澄がそう言って、浩輔を振り返って笑う。
「人生って分からないものですね」
「確かに大きな変化ですけど」
何と答えればいいのか分からず、それでも浩輔は励ますように言った。
「でもきっといい方向に向かいますよ」
「ありがとうございます」
香澄は微笑んで、それから作品の前に立った。
周囲には、先日同様ほとんど人影はない。
二人の後から来た女性客は、作品とタイトルを一瞥して、首を捻りながら去っていった。
「じゃあ、どっちから話しますか?」
香澄が大きな目を向けてそう尋ねてきたので、浩輔はとっさに答えられず、「ええと」とどもった。
「どうしましょうか」
「じゃあ、私からいきますね」
香澄が笑顔で言った。
「はい」
浩輔は頷く。確かに彼女は、車の中にいるときからもう話したそうだった。
「じゃあ、どうぞ」
浩輔が言うと、香澄は作品に目を戻して、話し始めた。
「私が考えたのは、これからの世界です」
「これからの世界」
浩輔は目を瞬かせる。
「はい」
香澄は頷いた。
「さっきここに来る途中、車の中で美術史の話をしたじゃないですか」
「ああ、はい。香澄さんが危うく自分の解釈まで話し始めそうになった」
「そう、そう」
香澄は楽しそうに笑う。
「あの時つい言いかけちゃったんですけど、私たちは今、自分たちが時代の最先端に立っているつもりなわけじゃないですか。少なくとも、美術の教科書に載ってる絵画の描かれた時代よりもずっと未来にいる」
「はい」
「確かに私たちを取り巻く科学技術はその頃よりも遥かに発達してますけど、でも実は私たちが抱えている問題って、昔からそんなに変わってないんじゃないかなって思ったんです」
香澄はそう言いながら、太いロープを指差す。
「ロープって、たくさんの細い紐をより合わせて作ってあるじゃないですか。私たちの世界もそれと同じ、たくさんの人たちがより合わさって作られている」
その言葉の意味するものが、浩輔にもぼんやりとイメージできた。
多くの人の人生が、細い紐のように複雑に絡み合って、別々の方向に進んでいるように見えて、でも俯瞰的に見ればやはり一つの大きな流れの中にいる。それは、まるで太い一本のロープのように。
香澄は、とぐろを巻くようにして置かれたロープを見た。
「私たちは科学を発展させて、どんどん前へ進んでるように感じてるけど、でも実はそんなことはなくて。昔の人たちが通ったのとほとんど同じところを、それと気付かず歩いているのかもしれない」
「僕らはぐるぐると、ご先祖様たちと同じようなところをまわっているってわけですか」
そんな解釈は思い付きもしなかった。
浩輔は感心して、改めてロープを見た。
「……なるほど」
それから、とぐろの中央に打たれた釘を指差す。
「じゃあ、あの釘は?」
「あれは、終わりです」
「終わり?」
「ええ」
香澄は頷く。
「いつかは、人類の歴史も終わるでしょ? ぐるぐると、前進ともいえないような歩みを続けて、自分たちは前に進んでるつもりでも、原始人の頃から変わらない悩みを抱えて。そして、結局最後はその真ん中で終わるんです」
「結局、元のところから動かないままで、ですか」
「ええ」
「すごいな」
浩輔は腕を組んだ。
「なんだか、SF映画の解説を聞いてるみたいです」
「美術史、なんて難しいことを考え始めたものだから、どんどん考えが大きな方向に行っちゃって」
香澄は照れくさそうに言った。
「私たちが進歩していない、なんて夢も希望もない話なんですけど、この考えを思い付いた時、ちょうど仕事を辞めて一番落ち込んでいた時だったから」
「ああ……」
「浩輔さんに会いたくなって、答えを捻りださないとって考えたら、こんな暗い結論に至ってしまいました」
その言葉に、浩輔はどきりとして香澄を見た。
香澄も、頬を赤くして浩輔を見上げる。
「ぼ、僕も」
盛大にどもってしまった。
「僕も、香澄さんに会いたかったです」
「ありがとうございます」
香澄が恥ずかしそうに、でもとても嬉しそうにそう言って、二人の間に少しぎこちない沈黙が流れた。
「じゃあ、次は浩輔さんの番」
香澄が、空気を変えるように明るい声を出した。
「浩輔さんの答え、教えてください」
「分かりました」
浩輔は頷いて、ロープを見た。
「僕の答えは、香澄さんみたいな壮大な話じゃなくて、もっとごく小さな、僕一人のことです」
「私のは本当に、自分が落ち込んでたから考えが暴走してしまって」
香澄は苦笑いして、浩輔に続きを促す。
「変なこと言っちゃって、恥ずかしいです。聞かせてください」
「僕、昔から先のことを何にも考えないで生きてきたんです」
浩輔は言った。
「本当に目先のことだけしか考えてこなかったんです。長くてもせいぜい一か月先くらいまでかな、一年後二年後、ましてや遥か将来のことなんて、今まで全然考えたこともなくて」
香澄は浩輔の言葉に、一体何を言い始めたのだろうという戸惑った顔をちらりと見せたが、それでも小さく頷いてくれる。
「僕、高校も大学も、就職先も、全部その場しのぎで決めてきたんです。それでどうにかなると思ってやってきましたし、実際どうにかなってきたんだと思います。でも、そのつけが最近まわってきている気がして」
浩輔は声を落とした。
「お世話になった先輩が、今度転職するんです。その先輩に聞かれました。お前はこれからのこと、考えてるか? 将来はどうなりたいんだ?って」
「ああ……」
香澄が小さく吐息を漏らすようにして頷く。
「恥ずかしい話ですけど、全然答えが浮かびませんでした。僕は一体これからどうなりたいんだろうって。自分のことなのに、本当に、何にも。それで、自分の今までのことを後悔したんです」
「……そうなんですか」
「ええ。どうしてもっと真剣に考えて生きてこなかったんだろう。真面目に自分の人生に向き合ってこなかったんだろう。こんな僕が、これから先のことなんて分かるわけないじゃないかって」
その独白には、香澄の相槌はなかった。息を止めたように浩輔を見つめている。
「これから、これから、これから」
浩輔は小さな声で繰り返して、苦笑した。
「香澄さんに連絡をもらった日から今日まで、ずっと考えてたんです。この『これから』の答えも、僕のこれからの答えも。でも僕には、どちらも分からなかった。すみません、実は僕、今日まで何の答えも浮かんでいなかったんです」
「あ、それは」
香澄が慌てて手を振る。
「私が勝手に言い出したことですから、別に」
「でもさっき車の中で、香澄さんがこれまでの話をしてくれた」
浩輔は香澄を見た。
「これからじゃなくて、これまでの話を。そうしたら、僕なりの答えが浮かんだんです」
「えっ」
「あの釘は、“今”です」
浩輔は中央に刺さる釘を指差した。
「今という時間があそこで固定されて、僕の『これまで』はもう決して動かすことはできない。そして」
今度はロープを指差す。
「この巻かれたロープ、これが僕の『これから』そのものです」
「これから、そのもの」
香澄は浩輔の言葉を繰り返して、ロープを見つめた。
「もう僕は、プロ野球選手にもJリーガーにも、パイロットにもなれません」
浩輔は言った。
「すっかりいい大人ですから。でもそんな僕にだって、まだあとこれだけの長さのロープが残っている」
とぐろを巻いた、太く長いロープ。
「これだけの長さがあれば、まっすぐに伸ばしていけば、どこまで届くでしょうか」
「ええと……そうですね」
香澄はぐるりと周囲を見まわす。
「きっと、この部屋を出て、美術館の外まで届くと思います」
「ええ、僕もそう思います」
浩輔は微笑んだ。
「周囲の景色をがらっと変えられるくらいの長さは、まだ十分に残っています」
その言葉に、香澄もロープを見つめて口元を綻ばせる。
「そうですね」
「こんな僕でも、きっとそのくらいはできる」
浩輔の言葉に、香澄は頷く。
「これまでの過去は変えられないけれど、これからの未来は変えられる」
そう言って、香澄は浩輔を見上げた。
「そういうことですね」
「ええ。未来の可能性は無限だ、なんてかっこいいことは言えません。僕はただのサラリーマンですから」
浩輔もそう言って、香澄を見つめ返す。
「このくらいのロープが自分の身の丈に合っている気がします。でも、まだ僕にはこれだけの『これから』が残っている。まだできることはたくさんある。そう考えることにしたんです」
「素敵です」
香澄は言った。
「私の、暗い利口ぶった答えなんかよりもずっと」
「そんなことはないですよ」
浩輔は首を振る。
「香澄さんの答えだって素敵です。それに香澄さんの答えがなかったら、僕は自分の答えを出すこともできなかった」
「そんなこと」
照れたように笑った香澄は、ロープをちらりと見た。
「でも、こうやってここに積んだままで『これから』を浪費しちゃだめってことですよね」
「そうですね」
浩輔は頷く。
「これまでは変えられない。この作品と香澄さんのおかげで、それに気付くことはできました。これからだって無限じゃないけれど、まだ可能性はこんなに残っている」
「素敵です」
香澄はもう一度言った。
「ありがとうございます、ちょっと気障な答えだったかもしれませんが」
浩輔が照れ笑いを浮かべると、香澄は首を振る。
「いいえ。答えも素敵でしたけど、ただのロープの束からそんな答えを導き出せる浩輔さんが素敵だと思いました」
「えっ」
「かっこいいです」
「いや、そんな。あの」
浩輔が思わず大きな声を上げると、背後から咳払いが聞こえた。
振り向くと、巡回に来たのだろう、受付にいた職員の女性が二人を咎めるように見ていた。
「館内では、どうかお静かに」
「あ、はい」
「すみません」
二人は首をすくめて、顔を見合わせて微笑むと、足早に『これから』の前を後にした。
外に出ると、春の爽やかな風が二人の間を吹き抜けた。
「ああ、気持ちいい風」
香澄が大きく伸びをする。
「こんな日は、どんなこともうまくいきそうな気がします」
良く晴れた青い空を見上げて香澄がそう言うのを見て、浩輔はまた、きれいだな、と思った。
「もし何か悩んだら、またここに来ませんか」
浩輔は言った。
「また二人で『これから』を見ませんか」
「はい」
香澄の輝くような笑顔に、浩輔の胸は高鳴る。
香澄は、でも、と少し心配そうな顔をする。
「それまでこの美術館があればいいんですけど」
確かに、休日でこの客入りは心配だ。ここまで来る途中の道路脇に、いくつもの廃店舗も目にしてきた。
「もしなくなってしまったら」
浩輔は、冗談めかして言った。
「自分たちで『これから』を作っちゃえばいいんですよ」
「それ、いい!」
声を上げて、香澄は笑った。
「ロープと釘さえあれば、自分たちでも作れますもんね」
「でも材料費はそんなにかかりませんけど、場所は取りそうですね」
「専用の部屋を用意しないと」
二人でそんなことを言ってしばらく笑った後で、どちらからともなく真剣な顔で見つめ合った。
「差し当たって、僕たちのこれからのことなんですけど」
浩輔が言うと、香澄は頷いてから少し首を傾げる。
「それって、今日のことですか。それとも、もっと先までの?」
「どっちもです」
その答えに、香澄が微笑む。
ああ、きれいだな。
浩輔は思った。
それから深呼吸を一つして覚悟を決めると、浩輔は二人のこれからについて話し始める。