再会
「お久しぶりです。ちょうど、僕も連絡しようと思っていました」
言い訳がましいかな、と思いながら、それでも嘘ではないと思い直し、浩輔は急いでそう返信した。
「桜の頃とは景色が一変してしまいましたね。たった一か月足らずなのに」
街路樹の青葉を見上げつつ、そう打ち込む。
浩輔のその返信には、すぐに既読が付いた。
「本当ですね。景色だけじゃなくて、私の方も、状況が一変してしまいました」
香澄はそう送ってきた。
「実は仕事、辞めたんです」
え?
浩輔はスマホの画面を見つめたまま、一瞬固まった。
辞めた?
香澄は、あんなに楽しそうに仕事の話をしていたはずなのに。
「辞めちゃったんですか」
何と返して良いか分からず、とりあえずそう鸚鵡返しした。
それだけではそっけなさすぎるだろうか。何かもう一言くらい、いやせめてスタンプでも、と浩輔が考えていると、香澄からの返信が届いた。
「はい。四月から色々と上司とか体制とかが変わって、すごく私の負担が大きくなっちゃって。頑張ってみようと思ってたんですけど、一か月も持ちませんでした。情けないですね」
最後に照れ笑いのようなスタンプが付いていた。
けれど、あんなに楽しそうに話していた仕事を辞めてしまったほどに大変だったのだ。香澄の本当の気持ちが照れ笑いでは表せないことくらいは浩輔にも分かった。
「そんなことがあって引継ぎとかばたばたしてたもので、私の方からお誘いしてたのに連絡が遅くなっちゃいました。ごめんなさい」
「いえ。僕からも連絡すべきでした」
固い言い方だな、と思いながらも、浩輔はそう返した。
「それじゃあきっと今、大変ですよね。お会いできるような状況ではないんですか」
「いいえ。今は次の仕事を探してるところですけど、基本的に平日も週末も全部休みですから、私の方はいつでもお会いできるんです」
香澄はそう返信してきた。
あ、そうか。
浩輔は小さく拳を握った。
二人の休みが合わないので、会うならばお互いの仕事終わりに、と思っていたが、今ならそんな調整する必要がないのだ。
じゃあ、会いましょう。
そう打とうとした浩輔の指を、香澄の次のメッセージが止めた。
「『これから』の答え、分かりましたか?」
『これから』の答え。
浩輔は眉を寄せた。
会いましょう、のメッセージが送信欄で送信ボタンを押されるのを待っているが、浩輔の指は動かなかった。
……そこだよなあ。
それが一番のネックだった。
あのロープのとぐろの解釈について、浩輔はまだ何の答えも持っていなかった。
そんな状態で香澄に、会いましょう、と言っていいものか。
でも、会いたい。
会って、話をしたい。
いっそのこと、ネットであの作品のことを調べて、その解釈を自分で思い付いたみたいに話してしまおうか。そんな考えが頭をよぎったが、それをしてしまったが最後、あの日感じたときめきが失われてしまうような気がした。それに、香澄に対するひどい裏切りであるようにも思えた。
浩輔が返事をためらっていると、香澄のメッセージが続けて届いた。
「私は、こうかな?っていうのが自分なりに見付かったんです。もしよければ、浩輔さんに聞いてほしい」
浩輔さんに聞いてほしい。
その言葉に、浩輔の胸は高鳴った。
俺だって聞かせてほしい。香澄の答えを。
こんなスマホのアプリ越しではなく、直接、香澄の口から。
「僕も思い付いたんです。ぜひ、会って話しましょう」
とっさにそう送った後で、浩輔は激しく後悔した。
何も思い付かないまま、浩輔は香澄との約束を取り付けてしまった。
再会の段取り自体は、香澄が仕事を辞めて時間に余裕があることもあってスムーズに進んだ。
翌週の週末、またレンタカーを借りてあの美術館を再訪することになったのだ。
『これから』のロープの前でもう一度、自分の見付けた解釈を話し合おうというわけだ。
それは素晴らしい試みだろう。……自分の解釈が見付かってさえいれば。
それからというもの、浩輔は落ち着かない気持ちで毎日を過ごした。
仕事の合間合間に、『これから』について考えてみるのだが、それはもう分からないと諦めたパズルの問題をぼんやりと思い出すようなものだった。
結局、答えは何も浮かんでこなかった。
翌週、金曜日の夜遅く。
仕事を終えて会社を出た浩輔は、葉の繁る桜の街路樹を見上げながら駅へと向かって歩いていた。
香澄との約束は、明日だ。
もう仕方ない。正直に言うしかない。
浩輔はそう覚悟を決めた。
実は、何も答えは出ませんでした。かっこつけて嘘をついてしまいました、と。
――香澄さん、きっとがっかりするだろうなあ。
浩輔には、それが気がかりだった。
きっと、香澄も浩輔の答えを楽しみにしているだろう。
一つの作品を見て、出てきたお互いの答えの違いを楽しもうというのが、香澄のそもそもの趣旨だったのだと思う。それが、香澄一人の答えの発表だけになってしまうのだ。もちろん浩輔は聞きたいが、香澄にとっては虚しい独演会ではないか。
『これから』の前に二人で並んだ時の味気ない空気が想像できて、浩輔はぶるりと身体を震わせた。
思い付いたなんて、最初から言わなきゃよかった。
浩輔はため息をつく。
俺って、大体いつもこうなんだよな。
そう自分を振り返る。
いつも適当に、その場の思い付きで動く。後になってから、必死で取り繕う。
そもそも今までの人生で、「これから」について真剣に考えたことなんてなかったんじゃないだろうか。
転職する朝倉に投げかけられた質問。
「将来の目標はないの」
……ないです、朝倉さん。
浩輔はため息をつく。
俺にはそういうの、何もありません。
高校も、大学も、今までずっとそうやって生きてきたんです。
そう考えると、自分が『これから』の答えを出せないのも当然という気がした。
一か月ぶりに会った香澄は、前に会ったときとはイメージが少し変わっていた。
前回は春にしてはかなり露出のある服を着ていたが、今日はあの日よりもずっと暖かいのにかなり大人しめな服を着ている。
それも清楚でいい、と浩輔はにやけそうな頬を必死に抑えた。
「新しい仕事決まったんです」
浩輔が駅前のロータリーに停めたレンタカーの助手席に乗り込んできた香澄は、笑顔でそう言った。
「浩輔さんに連絡した次の日の面接で」
「良かったじゃないですか」
浩輔は香澄が予想よりもずっと元気そうだったので、ほっとした。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます。それで、仕事は来月からなんですけど、次の仕事先、割と真面目そうなところなので」
香澄はそう言って、自分の服装を見る。
「ちょっと私服も変えてみました」
「いいと思います」
どう答えていいか分からず、車を出発させながら浩輔は言った。
「前の時の服も良かったですけど。あ、いや、あの変な意味じゃなくて」
「ありがとうございます」
香澄はにこにこと笑う。
「じゃあ今日は、香澄さんの新しい仕事が決まったお祝いですね」
浩輔は言った。
「僕がおごりますよ」
「いえいえ、そんな。そういうつもりで言ったわけじゃないです」
そんなやりとりをしながら車を走らせ、高速道路に入り、香澄の前の職場での話や、新しい仕事先の話を聞いているうちに、浩輔は『これから』の答えを見付けられなかったという話を香澄に伝えるタイミングを失ってしまった。
五月の爽やかな太陽の下、きれいな女性を隣に乗せて車を走らせているというそのことだけで、浩輔の気持ちは華やいでいた。
なので、香澄が不意にその話を始めた時に、しまった、と思った。
だがもう遅かった。
「すごく人気のある、誰でもストーリーを知っているようなドラマがあるとするじゃないですか」
香澄がそんな風に切り出したので、浩輔はまさかそれが『これから』の話に繋がるとは思わなかったのだ。
「そのドラマの中で人気のある登場人物のスピンオフ作品が作られて、そしたらそっちも人気が出ちゃって、スピンオフなのに二作目、三作目まで作られて、外伝みたいな派生作品もいっぱい出たとしますよね?」
「……はい」
何の話だろうと思いながら、浩輔は頷く。
「たとえば、浩輔さんが実はそのドラマを一本も観たことがなくて、タイトルくらいは知ってるけどストーリーもほとんど知らなかったとして、それで、じゃあそろそろ観てみようかなって思ったら、何から観ますか?」
「何からって」
浩輔は左にウインカーを出して、左車線に入る。高速道路を飛ばすのは気持ちいいが、あんまり早く目的地に着いてしまってもつまらない。
「やっぱり第一作目じゃないですかね。そこから観ないと分からないですもんね」
「そうですよね。私もそう思います」
香澄は微笑む。
「じゃあ、何にも分からないけどいきなり一番新しい番外編のこぼれ話みたいなエピソードを観たら、どうですか」
「それは全然分からないでしょうね」
浩輔は答える。
「だって本編も知らないのに番外編を見せられたって、ストーリーも登場人物の名前も分からないですし。それに、もしそれ単品で面白く観ることができたとしても、きっとそういう作品って本編に絡む色々な示唆とかオマージュとか、遊びみたいなものとか、色々と散りばめてあると思うんですよ。台詞一つとっても、あ、あの時のあいつの台詞だ、とか、何気なく背景になってる場面が、実は本編でも使われてるあそこだ、とか。だから、せっかく見るのに本当の面白さが理解できないのってもったいないですよね」
「さすが浩輔さん」
香澄が小さく手を叩くので、浩輔は思わず照れてしまった。
「え、何ですか。そんなドラマでも観たんですか」
「今から見る『これから』の話ですよ」
「え」
「私たちが『これから』みたいな作品を見ても理解できないのって、そういうことなのかなって思ったんです」
「ど、どういうことですか」
思ってもみなかった展開になって、浩輔は戸惑った。
ええとですね、と香澄はちょっと得意そうに胸の前で手を組む。
「美術作品を作る人って、そういう学校を出てるかどうかまで知らないですけど、でも美術に対する知識があって、その上で作品を作るわけじゃないですか。中には全く何の知識もなくて本当にセンスだけで作る人もいるのかもしれないけど、でもそういう人の作品を評価するのって間違いなく美術の専門家の人たちじゃないですか」
「はい」
「つまりみんな、今まで積み上げられてきた美術の知識がベースにあって、その上で製作したり鑑賞したりするんですよね。だから理解できるんだと思うんです。普通はこうするべきなのに、こうしてきたか!とか、誰それがああ表現したこれをこう表現するとは!みたいな。そもそも私たちにはその常識が分かってないから、理解できないんじゃないかなって。教科書で見た昔の絵画とかの方が、まだ私たちには分かりやすいじゃないですか。あれってドラマでいえばまだ“本編”みたいなものだからで、そういうところを全部飛ばして、最先端のものだけを見せられても分からないのは当たり前なんじゃないかと思ったんです」
「ああ」
そこに繋がるのか。
浩輔は小さく頷く。
「つまり、今までのエピソードを全部踏まえた上で作られたファン向けの濃いディスクだけ、いきなり何の説明もなく見せられても意味が分からないっていうのと一緒ってことですね」
「そう、そう」
香澄は嬉しそうに頷く。
「それを踏まえての私の答えなんですけど」
「えっ、今言っちゃうんですか」
思わず浩輔がそう言うと、香澄は、あっ、と声を上げて口を押さえた。
「いけない。そうですよね、美術館で話すんだった。勢いが付いちゃって」
そう言って苦笑いする香澄を横目に見て、浩輔は言う。
「でもすごいですよね、ちゃんとそこまで考えて」
「ちゃんと考えたわけじゃないですよ」
香澄は笑う。
「別に、だから美術史を学び直そう、とか考えたわけじゃないですし。ただ、あの作品が理解できないのは作った人が悪いわけでも私たちが悪いわけでもなくて、立ってる場所が違うんだってそう自分を納得させただけです」
「なるほど」
「だから、自由に解釈しようと思ったんです」
その横顔がさっぱりとしていて、浩輔は素直に、きれいだな、と思った。
香澄の答えを、聞いてみたい。
でも自分は答えを持ち合わせていない。
言うなら、今だ。
答え、思いつきませんでしたって。
浩輔は唾を飲み込んだ。
言おうとしたら、不意に目の前に大きなトラックが入ってきて、浩輔はブレーキを踏んだ。
「おっと、ごめんなさい」
「大丈夫です」
危ない。安全運転、安全運転。
そう自分に言い聞かせる。
また言うタイミングを失ってしまった。
それにしても、香澄はすごい。
浩輔はちらりと香澄を横目に見る。
これまでの美術史を踏まえて、なんてそんな発想はまるでなかった。
確かに俺、高校の美術の授業なんてまともに聞いてなかったし、これまでの歴史なんて分からないもんな。
そう考えた時、ふと浩輔の頭にひらめくものがあった。
これまで。
それは、「これから」という言葉と対になる言葉だった。
これから、これから、と浩輔は毎日考えていたが、これまでについて考えたことはなかった。
でも。
これまで。
これから。
その二つの言葉が、あのロープのとぐろのイメージと重なって、浩輔の頭の中でばちっと音を立てた。
あ、これだ。
その瞬間、浩輔にも自分の答えが見つかった。