青葉
新年度が、慌ただしく始まった。
まだ二年目の浩輔が新人の教育係を担当することはなかったが、教育係の先輩の指導内容から漏れたこまごまとしたことについて新人に指導するのは浩輔たちの役目だった。
そして新人にとってはそちらの内容の方が役に立つことが往々にしてあった。
まだ何も分からず右往左往する新人を見ながら、ああ、自分も去年の今頃はそうだったな、と浩輔は思う。
浩輔の同期の中には、以前からこの業界で働いていたのかと疑いたくなるほど適応の早い者もいた。だが、浩輔はそうではない。初めての仕事も、初めての東京での生活も、いっぱいいっぱいでこなしてきた。
とりあえず一年が経ち、ようやく自分の立っている地面の感覚くらいは掴めた。
歩き出すのは、これからだ。
東京の桜がもう全部散ったのかどうかも分からないほど、毎日は飛ぶように過ぎた。
けれど忙しい中でも、浩輔の頭の中にはずっと香澄との約束が残っていた。
『これから』。
太いロープがぐるぐると巻かれ、その中央でロープの先端が釘で打ち付けられている。
ただ、それだけの作品。
そんなものに、どうして作家は『これから』なんてタイトルを付けたのだろうか。
もしも、自分があれにタイトルを付けるなら。
浩輔はしばらく考えて、出てきたタイトルが『ロープと釘』だった時には、つくづく自分はこういうことを考えるのに向いていないと痛感した。
連絡先を交換した香澄とは、初日にお礼のメッセージが届いただけで、その後は特に何のメッセージも送られてこなかった。
こちらからも何か送りたいと浩輔は思っていたが、日々の業務に忙殺されている中で、ずるずるとタイミングを失っていった。
『これから』についての答えが全く出る気配がなかったのも、連絡をためらわせる原因だった。
考えたけど全然答えは出ませんでした、と言ってもきっと香澄は怒ったりはしないだろうが、それでも、答えを探そうと提案をした時の香澄の嬉しそうな顔。あの笑顔を曇らせるようなことはしたくなかった。
それに香澄からも何の連絡もないということは、きっと彼女も忙しくしているのだろう。
下手に連絡しても迷惑なだけだ。
浩輔はそう自分に言い訳した。
そんなある日。
浩輔は、同じ課の先輩である朝倉が退職することを知った。
「朝倉、転職するんだってさ」
浩輔にそのことを教えてくれた別の先輩は、そう言って少し羨ましそうな顔をした。
「新しいことをやりたいって言ってたよ。次に行けるやつはいいよな」
朝倉は、浩輔の直接の教育係ではなかったが、穏やかで話しかけやすい雰囲気を持っていて、質問すれば自分の仕事の手を止めて何でも丁寧に教えてくれる人だった。
自分の教育係の先輩の、厳しくて感情的なところが苦手だった浩輔にとっては、職場で最も頼れる先輩と言ってよかった。
「朝倉さん」
浩輔は、ドリンクコーナーでコーヒーを注いでいる朝倉を見付けて、声をかけた。
「会社、辞めちゃうんですか」
ああ、と朝倉は口元を緩める。
「もう耳に入ったのか」
「驚きました」
浩輔は素直に言った。
「まだ朝倉さんに色々と教えていただきたかったのに。もっと一緒に仕事ができるものだと」
「ありがとう。今月末までは会社にいるから、何でも聞いてくれよ」
朝倉はそう言うと、浩輔を近くのテーブルに誘った。
「ほら」
そう言って差し出されたコーヒーを、お礼を言って受け取る。
「何か新しい仕事をされるって聞きましたけど」
「うん。俺、最終的には独立してやっていきたいからさ」
朝倉はコーヒーを一口すする。
「そのために必要なことを逆算していったら、この会社での仕事はこの辺にしてもう次へ進まなきゃって思ってさ」
「次へ、ですか」
「うん。そう言うと偉そうに聞こえちゃうけどね」
朝倉はそう言って笑う。
「次の会社でそっちの業界のことを勉強して、できれば独立までにもう一つ見ておきたい業界があるんだけど」
「はあ」
浩輔は、目を瞬かせた。
目の前の仕事だけで四苦八苦している浩輔には、話が大きすぎてあまりぴんと来ない話だった。
「お前は、そういう将来の目標はないの」
朝倉はそう言って浩輔の顔を見た。
「将来はこうしたいとか、ああしたいとか」
「いやあ」
浩輔は首を傾げた。
「今やってる仕事だけで、いっぱいいっぱいで」
事実、浩輔は先のことをあまり考えないたちだった。
幼稚園や小学校のときの将来の夢は、その時の気分でプロ野球選手とか宇宙飛行士とか、それっぽいかっこいいものを挙げていた気がする。
中学では高校のことくらいは少し考えたが、大学に行くかどうかも考えていなかった。
高校では一応かなりぎりぎりになって、親と教師にせっつかれてようやく地元の大学を目指すことを決めたが、その大学に入ってどうしようなどというビジョンは何もなかった。
大学在学中は遊びとバイトに忙しくて、就職をどうしようかなどということはろくに考えなかった。早い者はもう一年生の頃から動き始めていたというのに。
そんな浩輔だが、幸い東京の今の会社にもぐりこむことができた。
「もぐりこめた」というのは、本当に浩輔にとっては言葉の綾でも何でもなく、実感を伴う言葉だった。
真面目に就職活動をしていたほかの生徒たちに紛れて、何とか急ごしらえで形を取り繕って就職活動の真似事をした。そして、どうにかほかの優秀な同期に紛れてもぐりこむことができた。それが偽りない浩輔の実感だ。
仕事を始めてからは、とりあえず目の前の仕事を覚えること、上司に怒られないこと、大きなミスをしないことを考えて仕事に励んだ。
だから、今の仕事を続けてどうなりたいというような当てもなかったし、とにかく毎月一万円くらいは貯金しよう、と、せいぜい考えているのはその程度のことだった。
「まあ確かに、まだやっと一年経ったところだもんな」
朝倉は頷く。
「でも、そのうちどうせ考えなきゃならなくなるから、それなら早い方がいいと思うよ、これからのこと」
これから。
浩輔は、朝倉の言った「これから」という言葉に、また香澄との約束を思い出した。
「これから、ですか」
「そう、これから」
朝倉は頷いた。
「別にこの会社にずっといたっていいんだろうけど、もしほかに何かやりたいことがあるなら、あんまり遅くなるとだんだん身動き取れなくなってくるからな」
朝倉はそう言うと、浩輔の肩を軽く叩いて立ち上がった。
「早めにイメージしておくのも重要ってことさ」
その日の仕事帰り、ぼんやりと駅までの道を歩いていた浩輔は、ふと何気なく傍らに植えられた街路樹を見て、それから目を見張った。
ソメイヨシノ。
その木の幹にはそう書かれたプレートが掲げられていた。
ソメイヨシノ。
桜なのか、この木は。
浩輔は脚を止めて、街路樹を見上げた。
街灯に照らされ、葉っぱが青々と茂っている。
桜の季節とはまるで違う。
植物に関心のない浩輔にとっては、これはもうただの「木」でしかなかった。
プレートがなければこれがソメイヨシノであるということも分からなかった。
浩輔はしばらく、その木を見上げた。
緑の葉っぱに隠れるようにして、桜の花弁の残りかすのようなものが枝に少しだけ見えた。
この桜が散って、また青葉になる頃に。
香澄との約束が蘇る。
突然香澄の声が聞きたくなって、浩輔はほとんど無意識にスマホを取り出した。
あれ以来やり取りのなかった香澄の連絡先は、もうとっくに仕事上のたくさんの連絡先の下に埋もれてしまっていた。
香澄の名前を見つけ出そうと画面に指を滑らせ始めた時、不意にスマホが震えた。
それを見た瞬間、浩輔はあの日の桜の色を鮮やかに思い出した。
『お久しぶりです。もうすっかり、青葉になりましたね。』
それは、香澄からのメッセージだった。