約束
『これから』。
この作品は、一言で言ってしまえば、「太いロープの束」だ。
浩輔に言わせれば、それに尽きる。
運動会の綱引きで使うような。
はたまた、神社の御神木に巻いてあるような。
そんな、かなりの太さのロープが、とぐろを巻く蛇のような形でぐるりと丸く置かれている。
巻かれているせいではっきりとは分からないが、ロープ自体の長さはかなりあるようだ。
ぴんと伸ばしたら、この展示室どころか館外まで出てしまうのではないか。
けれど、それよりも目を引くのは、中央に打ち込まれた釘だ。
とぐろの中央にロープの先端が見えているのだが、それが一本の黒々とした大きな釘で床板に打ち込まれて固定されていた。
ロープの反対のもう一端は、とぐろの先ですぱりと切られていた。
……何だ、これ。
改めて見てみても、それは浩輔には全く理解不能な代物だった。
けれど背後の女性は、なぜか浩輔をじっと睨んで回答を待っている。
「つまりこれは」
少しでもそれらしいことを捻りだそうとしたが、やはり無から有は生まれなかった。
浩輔は諦めて、苦笑した。
「ごめんなさい。僕にもよく分かりません」
「え」
女性が目を見開く。
「分からないんですか」
軽蔑の視線を向けられるのかと思ったが、その途端、女性の雰囲気が和らいだ。
「よかった」
その女性は嬉しそうに笑顔を見せた。
「分からないの、私だけかと思った」
「難しいですよね」
ほっとして、浩輔は言った。
「僕もこういうの、全然分からなくて」
「ごめんなさい、突然話しかけちゃって」
女性は申し訳なさそうに小さく頭を下げる。
「ずっとこの作品に見入ってるから、きっと感銘を受けてるんだろうと思って」
「ああ、いや」
この作品の作者には非常に申し訳ないが、浩輔はすぐにそれを否定した。
「ただぼんやりと別のことを考えてただけなんです。すみません、邪魔でしたよね」
「いえ、そんなこと」
女性は小さく首を振る。
「私、普段こういうところ全然来ないんです」
「ああ、僕もですよ」
浩輔は頷いた。
「ドライブのついでに、たまたま見かけたから入ってみただけで」
「そうなんですね」
頷いた女性を、浩輔は見るとはなしに見る。
観察していると思われるのは嫌だったが、どうしても目が行ってしまう。
その少し気の強そうな顔や、暗めの照明でもはっきりと映えるピンクの口紅、それに、春にしてはかなり露出が多めの服装に。
「ええと、そちらもここに入ったのは偶然ですか」
浩輔が自分の視線をごまかすように尋ねると、女性は笑顔で、いえ、と首を振る。
「私は違うんです、偶然じゃないんです」
気の強そうな顔が、笑顔になると途端にふわりと柔らかい雰囲気をまとう。
ああ、こういう顔好きだな、などと浩輔が思っていると、女性はとんでもないことを言い出した。
「一年前に別れた彼氏が、新しい彼女とデートでここに来たって聞いたから、それで来てみたんです。あ、もちろんそいつに未練があるとかそういうのじゃ全然ないんですけど、なんだかすごく興味が湧いちゃって。だって私と付き合ってるときはそいつ、休みに外出するのなんてパチンコくらいだったんですよ? そんなやつが、どの面下げて美術館だ、と思って。あいつがわざわざ来るような、そんなに面白いところなのかなって」
「え」
浩輔は目を丸くする。
「変ですか? 変ですよね」
そう言って、女性は自分でもおかしそうに笑った。
「でも、来てみてよかった。あいつ、絶対ここの作品のことなんかまるで分からないで、適当にぶらぶらして帰ったに決まってる」
「それで気が済んだんですか?」
「ええ」
女性は頷く。
「まるで分からないのは、私も同じですけど」
「それなら、僕も同じです」
浩輔が言うと、女性はくすりと笑った。
平日ということもあって、もともと美術館の人の入りは少なく、係員も時折巡回に回ってくる程度の緩めの管理だったせいもあって、二人は『これから』の展示の前で、しばし話し込んだ。
女性は、香澄と名乗った。苗字は名乗らなかったので、浩輔も自分の名前だけを伝えた。
浩輔さん、と香澄が口にすると、少し照れくさく、今会ったばかりの女性を自分が、香澄さん、と呼ぶのも何だか特別な感じがして、ふわふわと浮き立つ気持ちにさせた。
こんな場所で名前だけをいきなり伝え合うのが、何だかおしゃれな大人の付き合い方のような気もした。
都内で店員として働く香澄は、普段から平日が休みなのだという。
浩輔が、僕は平日の休みは働き出してから初めてかもしれない、と言うと、香澄は笑顔で言った。
「平日休みっていいですよ。どこも空いてるし、いろんな手続きもしやすいし」
「ああ、確かに」
浩輔は頷く。
「週末は混みますからね。スマホを買い替えた時なんか、日曜日が丸一日潰れちゃいましたよ」
「そうでしょう」
香澄は微笑む。
「ただ、友達とみんなで旅行に行く、とかはできないんですけどね。週末のみんなが休みの時には仕事だから」
「なるほど」
浩輔には、週末一緒に旅行に行くような友人はいない。地元に帰れば友人はいくらでもいるが、東京には会社の同僚しかいない。
それに、同僚たちは一緒に遊びに行くような関係とは少し違うように感じていた。
浩輔と香澄は、お互いの行動範囲がかぶる街の、共通して知っているスポットや店などの話から、気付くとお互いの生活のことまで話し込んでいた。
飾らない香澄の話は浩輔にはひどく新鮮で心地よく、香澄も浩輔に対して同じような印象を抱いているらしいことがさらに浩輔の気持ちを浮き立たせた。
けれど夢中になって話しているうちに、いつの間にか時間が過ぎていた。がらがらの美術館とはいえ、さすがにここでこれ以上話すのは良くないだろう、という程度の常識は二人にもあった。
『これから』の前を離れ歩き出したところで、香澄が思い出したように時計を見て、あ、いけない、と呟いた。
「私、電車で来たんです。すっかり話し込んじゃった。もう行かないと、電車の時間が」
「送りましょうか」
ごく自然に、浩輔はそう口にしていた。
「駅までで良ければ」
本当は東京まで一緒に帰っても全く差し支えなかったが、それはさすがに踏み込み過ぎな気もした。
「いいんですか?」
香澄の顔が輝く。
「ええ。どうせ急がない旅ですから」
浩輔は答えた。
「乗っていってください」
「ああ、助かります。ありがとうございます」
香澄はほっとしたように言った。
「お話が楽しくて、つい時間を忘れちゃって」
「僕もです」
自分だけが愉しかったわけではないということが、浩輔には嬉しかった。
こんな何でもない会話を他人と楽しんだのは、いつ以来だろうという気もした。
二人は並んで美術館の外に出た。
『これから』以降の作品は全く見ることなく通り過ぎてしまったが、浩輔はもう入館料がもったいないとは思わなかった。
やはり、たまには慣れないこともしてみるものだ。
駐車場へ向かう途中、美術館の敷地にも桜がきれいに咲き誇っていた。
「ああ、きれい」
香澄がそう言って、桜を見上げる。
「本当ですね。東京はもう散り始めてるけど、こっちの桜はきれいだ」
そう言いながら、浩輔は、連絡先を聞くなら今だ、と思った。
このまま駅まで彼女を送ってそのまま別れてしまったら、おそらく広い東京で偶然巡り会うことなど二度とないだろう。
この出会いを一過性のものにしないためには、今きちんと連絡先を聞いておかなければ。
頭をフル回転させて、自然な切り出し方を考えていた浩輔を、急に香澄が振り向いた。
「そうだ、浩輔さん」
「あ、はい」
「この桜が散って、青葉になる頃に、また会いませんか」
「え?」
彼女の方から言われてしまった。
少々情けないが、また彼女と会える。それは願ってもないことだった。
「ええ、もちろん」
浩輔が頷くと、香澄は嬉しそうに目を細めて浩輔を見た。
「さっき私たちがずっと話していたところにあった作品、覚えてますか?」
「ああ、『これから』ですか。ロープが巻いてあるだけの」
「そう、それ」
香澄は笑顔で頷く。
「あれ、どういう意味か分からないって話になりましたよね」
「ええ」
そう返事をした浩輔は、次の彼女の言葉の意味がよく分からず、きょとんとした。
「その答えを、見つけましょう」
彼女はそう言ったのだ。
「答え、ですか」
「ええ。答え」
香澄は頷いて、もう一度桜を見上げる。
「せっかく美術館に来て、作品の意味が一つも分からなかったなんて悔しいじゃないですか。だから、私たちだけの答えを見付けましょうよ」
桜を見上げる香澄の横顔が綺麗で、浩輔は思わず見とれてしまいそうになる。
「あの『これから』っていう作品、今の私にはただロープを巻いてあるだけにしか思えないけど。でもそれがどういう意味を持っているのか、次に会うときまでにお互いの答えを見つけてくるの。そうしましょう」
香澄は言った。
「ほんとの正解がもしあるんだとしても、そんなの関係ない。それぞれが、自分で正しいと思う答えを見つけるの。ね」
そう言って、浩輔に笑顔を向ける。
「どうですか」
「いいと思います。面白いです」
浩輔は答えた。
「ネットで調べたりしないようにしないと」
「ネットを見ればきっと作った人の答えは見付かると思いますけど」
楽しそうに、香澄は言う。
「自分だけの答えは、ネットにも載ってないと思います」
「そうですね」
香澄の提案は、浩輔にも魅力的に響いた。
次に繋がったことで、連絡先を聞くいい口実になった、という打算ももちろんある。だが、それ以上に、女性と二人だけで秘密の課題を共有して、その答えをまた後日持ち寄るという試み自体がとても新鮮だった。
「『これから』の答え、見付けてみます」
浩輔の言葉に、香澄も嬉しそうに頷いた。
「ええ。私もじっくり考えてみます。それまでお互い、お仕事頑張りましょう」