突然の休み
「次に会うときまでに、お互いの答えを見つけてくるの。そうしましょう」
香澄は、そう言った。
「ほんとの正解がもしあるんだとしても、そんなの関係ない。それぞれが、自分で正しいと思う答えを見つけるの。ね」
それは浩輔にとっても、ひどく魅力的な提案に聞こえた。
――場違いだな。
浩輔は思った。
どうやら、完全に場違いないところに来てしまったようだ。
ここは、都心から少し離れた観光地の、小さな美術館だった。
壁沿いに、浩輔には全くその意味の分からない作品がずらりと並んでいる。
改めて浩輔は目の前のオブジェをまじまじと見た。
タイトルは、『馬』。
意味が分からない。
この、キューブと針金を適当に組み合わせただけにしか見えないもののタイトルが、どうして『馬』なんだ?
馬ならもっと馬らしく作ればいいじゃないか。
脚はどこだ。鼻は? たてがみは?
百歩譲ってこれが『馬』だとして、で、それがいったい何だって言うんだ?
だが、浩輔の後から入ってきた老夫婦や女性の二人連れなどは、それを見て、ほお、とため息をついたり、じっと細部に見入ったりしている。
若い女性が連れの女性にそっと「すごいね」と囁くのが聞こえた。
すごいのか、これが。
俺がおかしいのだろうか。
他の人には、これが立派な馬に見えるのか。
浩輔は困惑を顔に出さないよう努め、自分もこれが馬に見える人間の振りをして小さく頷いた。
就職のために上京して、一年が経つ。
のんびりとした大学生活から一転して、目まぐるしい分刻みの毎日。
覚えなければならない業務上の諸々の事柄。
それ以上に気を遣わなければならない人間関係上のあれやこれや。
学生から社会人にうまくクラスチェンジできずに、一年もたずに辞めていった同期もいた。
なんとか一年踏みとどまり、これから先輩と呼ばれる立場になるのだという小さな自信と、社会人という器にすぽりと収まった自分に対する小さな絶望。
けれど東京での二年目の春は、そんな浩輔の感傷などまるでお構いなしにやって来て、さあこれが春だと言わんばかりに鮮やかに桜を咲かせた。
そんな時、不意に平日の休みをもらえた。
年末年始に出勤した分の代休だという。
新年度になる前に消化させないといけないんだってさ、と上司は迷惑そうに言った。
「急に休みをもらっても君も困るだろうが、明日休んでくれ」
「はあ」
休みをやると言われれば、断る理由もない。明日やる予定だった仕事を頭の中でその翌日にスライドできるかどうか考えながら、浩輔は頷いた。
突然、ぽっかりと空いた時間。
さて何をするかと考えたが、特に何も思い浮かばなかった。
東京に来て一年。仕事に慣れることに必死で、休日はいつもぐったりとしていた。
遅くに起きて、ぼんやりとネットを見て、学生時代から惰性で続けているゲームを少しいじったりしているうちにあっという間に夜が更け、翌日の仕事のためにベッドにもぐりこむ。
そんな過ごし方しかしていなかった。
大学までずっと地元で過ごしていた浩輔には、休日に一緒に遊ぶような友人が近くに住んでいなかったせいもある。
もちろん彼女なんて、夢のまた夢だ。
休みの日は、家でじっとしているに限る。
だから、その時も帰宅し、ベッドに入るまではそう思っていた。
だが、翌日。
カーテンの隙間から差し込む光が眩しくて、思い切って普段は開けないカーテンを開けてみた。
春。
窓の外に、春の朝があった。
狭いベランダに出て、春の暖かい陽気と明るい陽射しに包まれたら、一人暮らしの暗い部屋を飛び出してどこかに行かなければもったいないという前向きな気持ちになった。
それで、思い付きで近くのレンタカー屋に飛び込み、小回りの利きそうな小型車を借りた。
ちょっと近くを一回りドライブするだけのつもりが、青い空の下を思い切り走りたくなって、勢いで高速に乗ってしまい、気付いたら都心からけっこう離れた観光地にいた。
遠くへ来たんだな、という実感は浩輔をさらに開放的にした。
せっかくこんなところまで来たんだから、社会人らしくちょっと大人っぽいことでもしてみようか。
そう思い付いて選んだのが、通りがかりに見付けた小さな美術館だった。
絵だの彫刻だのという芸術には全く縁のない暮らしをしてきた浩輔だったが、もう社会人になって一年も経つんだから、一人で芸術を鑑賞するのも悪くないだろう。
気まぐれにそんなことを考えたのだ。
しかし、ずぶの素人の浩輔は気付かなかったのだが、そこはいわゆる現代アートを展示する美術館だった。
観光地値段の入館料を払って館内に足を踏み入れた浩輔はすぐに、しまった、と思った。
ああ、こういうやつかぁ、という気持ちになった。
分かんないんだよな、こういうの。
それでも一通りきちんと見て回ろうと思ったのは、せっかく高い入館料を払ったのだから、というしみったれた気持ちもあったが、とはいっても自分でも分かる作品があるかもしれない、という淡い期待からであった。
だが、だめだった。
『馬』でつまずいている浩輔には、そこに並ぶ『追憶、あるいは助走』も『孤独の明確な実在』も、その題名と作品との繋がりがさっぱり分からなかった。
題名にせめてもの手がかりを求めていた浩輔は、『無題』と題された作品には、もはや完全に取り付く島のないつるつるの卵のような潔い敗北感を味わわされた。
『これから』と題された大きなオブジェの前で、もうすっかりここに並ぶ作品群の理解を諦めて、さてここを出たらどうしようか、とその後の予定を考えていた時だった。
「あの」
女性にしては低い声で背後からそう声をかけられた。
「はい」
ずっとその作品の前に立っていたせいで、邪魔だったのだろう。
そう思った浩輔は、返事をしてその作品の前を後ろの女性に譲った。
「どうぞ」
けれど、女性は浩輔の空けたスペースに入ってこなかった。
ちょっと奇妙に感じて振り返ると、女性は浩輔に声をかけた位置からオブジェを睨んでいた。
若い女性だった。浩輔と同じか、少し年上くらい。
春にはまだ少し寒いんじゃないか、というくらいの薄着で、それが浩輔をどきりとさせた。
「これ、どういう意味なんですか」
女性はなぜか怒ったような口調で浩輔に言った。
「これから、ってタイトルですけど。どうしてこれがこれからなんでしょう」
すでに現代アートとの戦いを諦めていた浩輔に、予想外の方向からまさかのクエスチョンが襲ってきた。
「え?」
浩輔は驚いて女性を見て、それからきょろきょろと周囲を見まわした。
俺、ここの職員か何かに見えただろうか。
ジャケットでも着ていたら間違われる可能性もゼロとは言えなかったが、今日の浩輔は春らしいポロシャツにジーンズだ。さすがに美術館の職員には見えなかった。
「ええと」
周囲に職員の姿はない。この女性は、間違いなく俺に尋ねてきている。
何でだよ。
それでも浩輔は、さっきまでかぶっていた「アートも嗜む社会人」の仮面をうまく脱げずに、慌ててもう一度目の前の作品を見直した。
タイトルは『これから』。
だが、浩輔にはその作品から何のこれからも見えては来なかった。