神様
夜の闇の中で赤く燃える炎。
そこを跳ね回る、異形の虫。
レヴィンの持つ剣が放つ白い光がその光景を照らし出す。
「あいつを止めるって言ったって」
フローネが叫んだ。
「レヴィンの剣、全然当たらないじゃない」
レヴィンはぐっと詰まる。
確かにその通りだ。
心の中で頷く。
フローネの言うことは、いつも正しい。
でも。
「だったら」
レヴィンはもう一度、跳ね回るフェルモに向かって駆けた。
「当たるまで振ればいいじゃないか!」
だがフェルモの無軌道な跳躍に、レヴィンの剣はやはり空を切った。
フェルモが、地面を抉るようにして斜めに落ちる。
「ほら、当たらないじゃない!」
フローネの声に、レヴィンは歯を食いしばった。
当たるさ。
剣を振りかざして、地面でもがくフェルモに飛びかかる。
分かってるよ。足りないのは、踏み込みだろ。
前よりも二歩。いや、三歩深く踏み込めば。
「レヴィン!」
フローネの悲鳴。
大きく踏み込んだレヴィンの目の前で、フェルモが跳ね上がった。
岩の塊のような巨体にまともにぶつかって、ひとたまりもなくレヴィンは吹き飛ばされる。
一瞬の浮遊感と、地面に叩きつけられる衝撃。
全身が痺れ、息ができずに喘ぐ。猛烈な痛みと血の味は、その後からやって来た。
「が、がはっ」
ようやく声が出た。
「レヴィン!」
駆け寄ったフローネがレヴィンの身体を抱き起こす。
「ばか、いくら何でも近付きすぎよ」
その声が悲痛に歪んでいた。
「うん」
頷いて咳き込むと、赤い血が飛んだ。
「フェルモは」
レヴィンはそれでも必死に目を凝らした。
少し離れたところで、木の揺れる大きな音がした。
フェルモは、あそこにいる。
立ち上がって剣を構えたレヴィンの左腕をフローネが引っ張った。
「これ以上やったら死んじゃうよ、レヴィン」
フローネの目に涙が溜まっていた。
「戻ろうよ、みんなのところへ。今なら逃げられるよ」
「今ここでやらなきゃ」
レヴィンの脳裏を昼間に見た負傷者たちの姿がよぎる。夜の闇を焦がすように燃えていた村の家々も。
「村にもっと被害が出ちゃうじゃないか」
「だからって」
フローネはなおもレヴィンを引っ張る。
「レヴィンがそんなに無理しなくてもいい」
「僕を応援して、フローネ」
レヴィンは乱暴に口元の血を拭って、フローネを見た。
「そうしたら、頑張れるから」
「応援って」
レヴィンの強い瞳にフローネの力が緩む。
「何を言えばいいのよ」
その瞬間、レヴィンは駆け出していた。慌ててその腕を掴もうとしたフローネの手が空を切る。
フェルモに向かって一直線に走りながら、レヴィンは叫んだ。
「何でもいいから、応援して!」
「ああ、もう」
フローネは両手を握りしめて叫んだ。
「頑張れ、レヴィン!」
「うん!」
跳ねたフェルモが上から降ってきた。
レヴィンの目の前、五歩の位置。
レヴィンはフェルモに向かって思い切り跳躍した。
両腕を振り上げ、飛びつくようにして剣を振り下ろす。
目の前にあるのは、フェルモの胴体。
大人の槍や斧も通用しなかった、岩のように硬い外殻。
だが、白く輝く剣はそれを易々と切り裂いた。
緑の体液が噴き出し、レヴィンの外套を汚す。
「当たった!」
フローネの声が弾む。
レヴィンはもう一度剣を振り上げた。
これで、とどめだ。
だが剣を振り下ろそうとした瞬間、急に目の前が暗くなった。
一瞬、自分の目が見えなくなったのかと思ったが、そうではなかった。
「レヴィン、光が!」
フローネの叫び声で、レヴィンは自分の持つ剣の光が消えていることに気付く。
錆の浮いたみすぼらしい刀身が露わになっていた。
だが、剣を振り下ろす腕は止まらなかった。
レヴィンは外殻に思い切り剣を叩きつけた。
乾いた音。
以前、タリスが折ったのと同じ位置で、剣は折れて飛んだ。
「ああっ」
レヴィンは絶望の呻きを上げる。
折れた刀身は、空中で炎を反射しながらくるくると回り、レヴィンの近くに落ちた。
「レヴィン、よけて!」
フローネの叫びがなければ、今度こそレヴィンは命を落としていたかもしれない。
とっさに飛びのいたレヴィンの顔のすぐ横を、岩のようなフェルモの身体が通り過ぎていった。
体液を撒き散らしながら跳ね上がったフェルモは、大きな音を立てて地面に落ちると、そのまま残った脚を動かして体勢を立て直す。
炎に包まれかけながら、フェルモはレヴィンたちに背を向けた。
意外な速さで地面を這い、去っていく。その向かっていく先は。
「フェルモが高台の方に行く」
レヴィンはフローネを振り返った。
「止めないと」
「もう無理よ」
泣きそうな声で、フローネが言った。
「剣だって折れちゃったじゃない」
「そうだけど」
フェルモが逃げていく。
前脚、後脚、胴体。あれだけ斬ったのに、それでもまだ走っても追いつくのは難しいくらいの速さで這っている。
凄まじい生命力。
「くそ」
レヴィンは光を失った剣を見た。
初めて鞘から抜いた時と同じ、錆びて刃こぼれのした、がらくたのような剣。
これじゃあ戦えない。もう少しなのに。
火が、あちこちで燃え始めていた。
這っていくフェルモは、まるで動く火の玉だ。行く先々で火種を撒き散らしている。
このまま先へ行かせてはいけない。
そう思ったが、どうしようもない。
唇を噛みしめたレヴィンは、ふと地面に転がる刀身に気付く。
折れて飛んだ、剣の片割れ。
無意識に、それを拾い上げる。
その瞬間だった。
レヴィンの手の中で、刀身が爆発的な光を放った。
「光った」
フローネが目を丸くする。
「何よ、いまさら」
「ああ」
レヴィンはその意味を悟った。
「そういうことか」
「え?」
目を見張るフローネに答えず、レヴィンは刀身を右手に持ち替えた。
「レヴィン?」
「見てて」
レヴィンは刀身を持つ右腕を、ぐっと身体に引き付ける。
剣は、僕に教えてくれたんだ。折れる必要があるから、折れたんだってことを。
自分の中に残った力を、レヴィンは全て込めた。
「ええいっ」
気合もろとも、レヴィンは投げた。
光を放つ刀身は、闇を切り裂いて飛んだ。明らかにレヴィン以外の何者かの見えざる力を伴った光の刃が、そのままフェルモの身体を縦に貫く。
背から頭までを貫通されたフェルモは、それでもなお数歩這ったが、ついにその場に崩れるように音を立てて横たわった。その巨体はたちまち炎の塊と化す。
刀身はフェルモを貫いたままの勢いで、弧を描くように空に舞い上がった。
レヴィンとフローネがそれを目で追って空を見上げる。
刀身は空高くで止まると、まるで星のように強く輝いた。
次の瞬間。
刀身が氷のような音を立てて弾けた。
砕けた刀身は、無数の小さな水滴になって空に散っていく。
……ぽつり。
「……あっ」
呆然と空を見上げていたフローネが、自分の頭に手をやってレヴィンを見た。
レヴィンも、頷いてフローネを見る。
ぽつり、ぽつり、と天から降ってきた大きな水滴は、たちまちその数を増し、すぐに辺り一帯を包む雨となった。
「雨だよ、レヴィン」
フローネがそう叫ぶとレヴィンに抱き着いてきた。
「これで火も消える」
「うん」
レヴィンは頷いて、右手でフローネを抱きとめる。
「よかった」
心からそう言って、左手に持つ剣を見た。
錆びたままの剣には、もう何の光も残っていなかった。
「ねえ、フローネ」
レヴィンは言った。
「僕、思ったんだけど」
「なあに」
抱き着いたままのフローネが返事をする。
「僕にこの剣をくれたおじいさん、もしかしたら」
レヴィンは言った。
「山の神様だったんじゃないかな」
「山の神様」
呟いたフローネは、身体を離してレヴィンを見る。
「そうかもしれないね」
でも、とフローネは言った。
「フェルモにあの刀身を投げつけた時」
雨に打たれながら、フローネは微笑んだ。
「私にはあなたが村の守り神みたいに見えたわ」