光
高台を駆け下りると、たちまち夜の風に全身を包まれた。
普段通りの風の中に、煙の臭いが混ざっている。
僕の村が、燃える臭いだ。
全力で坂を駆け下りながら、レヴィンは叫んだ。
「フローネ!」
「おい、レヴィン、待て」
「何をしているんだ」
背後の高台から、村人たちの慌てた声が聞こえた。
「危ない。早く戻りなさい」
その声の中に、母親の自分を呼ぶ声も混じっていた。
「レヴィン!」
ごめん、母さん。
レヴィンは焦げ臭い風を全身に受けて走りながら、思った。
僕だって、あんな化け物みたいなフェルモになんか近付きたくない。
でも、フローネを助けなきゃ。
坂の途中で、フローネの母親と祖母が、驚いた表情でレヴィンを見ていた。
「フローネは、僕が連れ戻すよ」
レヴィンは叫んだ。
目を見開いて固まったままの二人に、レヴィンはすれ違いざまに叫ぶ。
「だから、高台で待ってて」
足元も見ずに走っていたものだから、たちまち暗がりの草や石に足を取られて転びそうになる。
それでも、レヴィンは歯を食いしばってこらえた。
こんなところで転んだら、フローネに追いつけない。
フローネは僕なんかよりよっぽど足が速いから。
「フローネ!」
レヴィンはもう一度叫んだ。
眼前のフェルモの、火に包まれた長く節くれだった脚の間から見え隠れする、少女の背中。
フローネは振り向きもせずに走っていた。
だが、フェルモの方が速い。その後ろを懸命に追いかけるレヴィンよりも、必死で逃げるフローネよりも、巨大な甲虫の速度は速かった。
フローネの背中に、フェルモが迫った。レヴィンの目の先で、炎の向こうのフローネがぼやける。
「フローネ!」
レヴィンは叫んだ。
「そこを左だ!」
フローネは振り向かなかった。だが、レヴィンの言葉が聞こえたかのように、身体をぐん、と傾けて脇道にそれた。
フローネに迫っていたフェルモが、それを追おうとして本道と脇道を隔てる大きな木にぶつかった。
木が、熊の突進でも受けたようにずしん、と揺れる。
その地響きがレヴィンの足元までも揺らした。
フローネが脇道を駆け抜けていくその後ろで、フェルモは驚いたように大きく跳躍した。
自分が木にぶつかっただけなのに、誰かに攻撃されたとでも思ったのか。無軌道に二度、三度と跳躍し、フローネやレヴィンから離れていく。
レヴィンはほっとして、自分も脇道に逸れると、前を走るフローネにもう一度呼びかけた。
「フローネ」
ようやく振り向いたフローネは、レヴィンの予想に反してひどく怒った顔をしていた。
「レヴィンのばか」
フローネは叫んだ。
「どうして、来たの」
「君が心配だったから」
レヴィンは答えた。
「迎えに来たんだ」
「私より足、遅いくせに」
フローネがそう言いながら、それでも走る速度を落とした。
「私は一人で大丈夫なのに」
「分かってるよ、そんなこと」
レヴィンはフローネの隣に並んだ。
フローネの頬の涙が炎に照らされているのが、レヴィンにも見えた。
「分かってるから、早くみんなのところへ行こう。みんな、心配してる」
「うん」
頷いて、フローネは涙を手で拭った。
村の中心部の方へと戻っていったフェルモから大きく迂回するようにして高台に行こう、と二人は決めた。
村の中心部には、レヴィンの父親たち武装した大人がいる。去っていったフェルモはきっと何とかしてくれるだろう。
「黒蔦の沢に出て、そこから高台まで斜面を上がっていこう」
レヴィンは言った。
「正面から行くと、またフェルモに見つかるかもしれない。僕たちは大人の邪魔にならないようにしなきゃ」
「うん」
フローネは頷く。
「私の父さんも、遅刻だって大慌てして槍を持っていったわ。フェルモにやられないといいんだけど」
「大丈夫さ」
レヴィンはフローネの父の頑健な体を思い出す。
「君の父さんは強いもの」
「うん」
フローネがまた頷く。
「行くよ、ついてきて」
レヴィンが先に立って駆け出すと、フローネは黙ってその後ろをついてきた。
今夜のフローネは、何だかとても素直だった。
木々の生い茂った道は、炎の明かりも届かない。煙が遮ってしまっているせいだろう、空には星一つ見えない。
暗い中を二人は慎重に走った。
やがて、道の先から微かに水音が聞こえてきた。黒蔦の沢は、もうすぐそこだった。
「もう少しだね」
そう言って振り向いたレヴィンの顔を、不意に炎が照らした。
フローネも、弾かれたように振り返る。
いつの間にか背後に、黒い塊がうずくまっていた。
「どうして、こっちに」
フローネが恐怖に引き攣った声を出した。
フェルモ。
その脇腹に刺さった槍が、一本増えていた。
あれは父さんの槍だ、とレヴィンは思った。
大人に槍を刺されて、ここまで逃げてきたんだ。
炎が揺らめく。
フェルモの脚は、まだ燃えていた。
脚の関節の隙間から、てらてらとした液体が溢れている。
それは、フェルモの出す油だった。
村の篝火がフェルモの脚の油に引火し、それがずっと燃え続けているのだ。
油の表面が燃えているだけで、フェルモの脚までは炎の熱が届いていない。だから、足が燃えているのに変わらず動くことができるのだ。
そして、その炎で村の家々を次々に燃やしている。
フェルモが跳躍した。
二人の頭上を悠々と飛び越え、逃げ道を塞ぐように前方に着地する。
「逃げよう、フローネ」
「うん」
二人は振り向いて走り出した。
だが、速度の違いは明白だ。たちまちレヴィンのすぐ背後に凶悪な足音が迫った。
「広い道じゃだめよ」
フローネが叫ぶ。
「木のたくさん生えている方へ」
「うん」
二人は、道の脇の茂みに飛び込んだ。細かい枝や葉に遮られながらも、二人はなるべく木の密集した方へと走った。
その背後で、フェルモが二人を追って茂みに飛び込んできた音がする。
「フローネ」
レヴィンは叫んだ。
「はぐれちゃだめだ。離れないで」
「分かってる」
フローネが叫び返す。
レヴィンの声。フローネの声。
フェルモの足音。茂みをかき分けてくる音。
二人は必死に走った。ここで諦めれば助からないということだけははっきりしていた。
闇の中を、お互いの声だけを頼りにどれくらい走っただろうか。気付くと二人は見慣れた場所に出ていた。
そこは、村はずれの空き地の奥の、二人の秘密の場所だった。
木のうろが、光っていた。
まるで二人の到着を待っていたかのように。
夜の闇を焦がす炎の明るさとはまるで違う、静謐な月明かりのような光が、うろの中から発されていた。
背後からフェルモの足音が迫る。
半ば無意識に、レヴィンはうろに手を突っ込んだ。
それを取り出した途端、暖かい光がこぼれ出して、レヴィンの顔を白く照らす。
不思議な老人からの贈り物。
フローネが息を呑んだ。
レヴィンは奇妙な確信をもって、剣を抜き放つ。
刀身には、錆など一つもなかった。
それどころか、半ばからぽきりと折れたはずの剣は、いまや神話の英雄の佩剣のごとく神々しい光を放っていた。タリスに折られた跡は、もうどこにも見えない。
「レヴィン」
フローネが呆然と呟く。
「あなたの剣、まるで」
「うん」
レヴィンは頷いた。
「おじいさんがくれた剣。きっと、がらくたなんかじゃなかった」