第五章 それぞれの選択4/11
神聖樹に奪われた土地を取り返し、この地上世界から地下世界に帰還する。その目的を果たすには、神聖樹の腕である左手で神聖樹本体に触れて、魔法により神聖樹を六年前の暴走以前の姿に戻す必要がある。少年が神聖樹だというのなら――
(このクソ野郎の喉元に、左手を喰らいつかせてやる!)
孤児院の最年長である自分が動揺すれば、子供たちにもその動揺が伝わる。ゆえにカイは、日頃から冷静であることを心掛けていた。だがこの瞬間に限り――
カイは怒りのままに行動する。
神聖樹の暴走。それを引き起こした原因は、紛れもなくルーラだ。それは決して許されることではない。だがそれを一番に自覚しているのもまた――ルーラ自身だ。
彼女が罪悪感に苛まれていることは、彼女のそばにいた自分がよく理解している。泣き虫であった彼女が、六年前の出来事から一切の涙を流すことがなくなった。暴力を嫌っていた彼女が、血を吐きながらでも強さを求めた。誰よりも真っ直ぐだった彼女が、汚れた犯罪者になる決意をした。彼女はこの六年間――
自身を顧みることなく、子供たちを守るための選択をし続けてきた。
子供たちを守りたい。その彼女の気持ちは本物だろう。だがその深層心理に、六年前の罪悪感が僅かにもないということはないはずだ。彼女は強くあることを自身に課している。 彼女は誰かの役に立つことを自身に課している。その強迫観念にも似た決意が――
彼女をどれほど苦しめていただろうか。
その彼女の六年間にも及ぶ想いに――
(土足で踏み込んでんじゃねえ!)
神聖樹との距離が縮まり、残り五メートルほどとなる。さらに足先に力を込めて加速するカイ。その彼に向けて、神聖樹がおもむろに右手を突き出し――
そこから無数の枝葉を伸ばした。
「――ッ!?」
カイは驚愕しながらも、咄嗟に地面を蹴りつけて体を横に投げ出した。先端を鋭利に尖らせた枝葉が、頬を掠めて通り過ぎる。一度縮めた神聖樹との距離を、大きく後退することでまた広げるカイ。裂かれた頬から流れる血を袖で拭い、彼は神聖樹を見据えた。
右手から伸ばした枝葉を手元に戻し、神聖樹がニヤリと笑みを浮かべる。
「神聖樹であるボクは、魔法とは関係なくこんな芸当もできる。驚いてくれた?」
「……さあな」
ベルトから肉厚のナイフを引き抜くと、右手に構えて僅かに腰を落とした。戦闘態勢を整えるカイに、神聖樹が笑みを浮かべたまま、両腕を左右に広げる。するとその直後――
神聖樹の全身から無数の枝葉が突き出した。
触手のように枝葉をうごめかせて、神聖樹の笑みに凶暴な気配が混ぜられる。
「これじゃあまともに話もできない。君には少し大人しくしてもらおうかな」
神聖樹の全身から伸ばされた枝葉が、一斉にカイへと迫りくる。カイは小さく舌打ちをすると、大きく横に飛び退いて、鋭利に尖る枝葉の先端を躱した。
枝葉の一部が先端を曲げて、カイを追い掛けてくる。カイは後退しながらも、高速に迫りくる枝葉にナイフを振るう。鋭利に尖る枝葉の先端が切断され、その動きを僅かに鈍らせる。だが切断面から新たな枝葉が伸ばされて、再びその先端を突き出してきた。
(――キリがねえ!)
何度ナイフで切り裂こうとも、グネグネと曲がりくねりながら追いすがる枝葉に、苛立ちを覚える。このままではいずれは枝葉の先端に体を貫かれることだろう。こちらの眼球を突こうとした枝葉を左手で払いつつ、カイは思考を瞬時に巡らせる。
(末端の枝を幾ら傷つけようと、神聖樹の野郎にはダメージがない。だったら――)
本体を狙うしかないだろう。
カイはそう決意を固めると、迫りくる枝葉を無視して、その枝葉の大元となる神聖樹に向けて、肉厚のナイフを投擲した。投げるに適さないナイフだが、その刃は空中を滑るようにして、神聖樹のもとまで正確に駆けていく。
微笑みを不快げにひそめて、神聖樹が自身に迫りきたナイフを左腕で受け止めた。ナイフの刀身が半ばまで腕に突き刺さるも、神聖樹にダメージはないのか、腕から血を流すことも、痛みに表情を歪めることもなかった。
だが神聖樹本体に攻撃が及んだためか、伸ばされていた枝葉の動きが大きく鈍る。カイはその隙を突き、神聖樹へと全力で駆け出した。たとえ枝葉が追いすがろうとも、その前に神聖樹に肉迫することができる。カイはそれを確信して、左手に意識を集中した。
しかし――
「――ちっ!」
神聖樹まであと二歩と迫ったところで、足元から気配を感じて体を横に投げた。カイが身を躱した直後、地面が爆発したように砕けて、カイの腕ほどの太さもある巨大な根が、地中より勢いよく突き出した。
またも詰めた距離を広げざるを得ないカイに、神聖樹がクスクスと肩を揺らす。
「惜しかったね。まあでも、よく気付いたよ。完璧に不意を突けたと思ったんだけどね」
どうやらこの根も神聖樹の一部らしい。カイは心内で毒づきながらも、迫りくる根から必死に身を躱す。枝葉と根を同時に動かすことはできないのか――或いは舐めているだけか――、神聖樹の全身から伸ばされた枝葉はこの間、動きを止めていた。それは助かるのだが、ナイフを手放した状態で、枝葉よりも太い根をいつまでも捌くことは難しい。
鞭のようにしなった根が、耳元を掠めて地面をバチンと叩いた。その風切り音と砕かれた地面に、ぞっと背筋を凍えさせるカイ。だがその時、ふと彼はとある事実に気付く。
(そうか……この根が神聖樹の一部なら、こいつに魔法を使っちまえばいいんだ)
神聖樹本体である少年に接近せずとも、神聖樹から伸ばされた根を掴むことができれば、魔法を行使することができる。むろんのこと、高速に振り回されるその根を掴むことなど容易ではなく、大きな危険を伴う行為でもある。だが――
(奴に近づけねえ以上、それ以外に魔法をぶち込む方法はない!)
覚悟を決めて身構える。空間を引き裂くようにして高速に振られる根を、最小限の動きで躱していく。根が体を掠めるたびに、皮膚が剥がされて、小さな痛みが脳を突き刺す。だがその痛みを頑なに無視して、カイは慎重にタイミングを見定めた。
頭上から振り下ろされた根を、半身になって躱す。体を掠めて振り抜かれた根が、地面を叩いてその動きを僅かに止めた。その瞬間を見逃さず、カイは左手を伸ばし――
神聖樹の根を掴んだ。




