第五章 それぞれの選択2/11
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後頭部でまとめたポニーテールを揺らして、当時十一歳だった少女――
ルーラ・バウマンが駆け出した。
神聖樹の暴走より六年が経ち、十七歳となったルーラ・バウマンは、迫りくる六年前の自分に、体を強張らせる。神聖樹暴走時に彼女を救ってくれたカイのナイフ。そのナイフの先端を、こちらの心臓めがけて突き出す過去の自分に、彼女は呆然としながらも――
反射的に刀を振るっていた。
鞘に納められたままの刀で、少女のナイフを受け止めるルーラ。彼女は全身に力を込めると、足に踏ん張りを利かせて、少女が突き出そうとするナイフを押しとどめた。だが子供とは思えないその少女の力に、受け止めたナイフの刃先が徐々に前進してくる。
突き出したナイフを受け止められ、少女がひどく不満げに、黒い瞳を細めていく。
「……どうして止めるの。あんなことして……どうして死のうとは思わないの?」
「……ッ! それは――」
「みんなあなたのせいで死んだんだよ。それなのに……自分だけ生きようとするの?」
「私は……私はただ……」
「そんなの――勝手じゃない!」
六年前のルーラが、六年後のルーラに非難の声を浴びせた。
少女が強く踏み込む。刀の鞘で受け止めていたナイフの先端が押し込まれ、ルーラは咄嗟に刀身を回転させて、少女が突き出したナイフを弾いた。軌道の逸れたナイフが、ルーラの右肩を掠めて通り過ぎる。浅く裂けた右肩の痛みに顔を歪めながらも、ルーラは素早く後退して少女との距離を空けた。
少女が突き出したナイフを脇に下ろし、軽蔑した瞳をこちらに投げてくる。
「……そうまでして死にたくないんだ。最悪……これが未来のあたしかと思うと……」
「ち……違う。そうじゃない。私は……私はまだ死ぬわけにはいかないだけだ」
過去の自分に向けて、ルーラは必死に弁明を口にした。
「私には……守らなければならない子供たちがいる。死ぬのが怖いんじゃない。犯した罪を忘れたわけじゃない。だが子供たちのためにも、私はまだ死ねないだけなんだ!」
「……何よそれ」
最後には声を荒げてまでそう釈明したルーラに、憎悪に歪んでいた少女の表情が――
嘲りの笑みに変わる。
「子供たちを守るため? だから死ぬわけにはいかない? 何よその独りよがりな言い分は。あなたまさか、そうやって自分を慰めて、ここまで生きてきたわけ? つくづく腐ってるわね。そんなことで、自分の犯した罪をなかったことにするなんて」
「別に……慰めても罪をなかったとこにもしていない! ただ私は――」
「きゃはははははは! ああ、可笑しい。あたしって六年前から何も成長してないのね。何の根拠もないくせに神聖樹に近づき、挙句に暴走させて多くの人を殺したくせに、今度は子供たちのせいにして、その罪を忘れようとするなんてね! きゃははははは!」
「私は……子供たちのせいになど――」
「ちょっと黙っててよ! この恥知らず!」
少女の怒声に、ルーラは出掛けた言葉を喉の奥に押しとどめた。少女の表情から嘲りの笑みが音もなく消えて、また憎悪と軽蔑が混在した暗い闇を覗かせる。
「子供たちのため? あんな当たり散らすようなやり方が、あなたの守りかたなの?」
「……それは」
ルーラは息を詰まらせて押し黙る。
過去の自分と出会う少し前、ルーラは孤児院の子供たち三人と、街の通りで神聖樹の調査を進めていた。だがその調査の最中で、子供たちの態度に苛立ちを覚えたルーラは、子供たちを感情的に怒鳴りつけてしまうという、失態を犯していた。子供たちを理不尽に傷付けるルーラのその姿を、この少女はどこからか見ていたのだろう。
応えに窮するルーラを見て、少女がさらに淡々と言葉を突き刺していく。
「感情的で……身勝手で……わがままで……泣き虫で……頭の悪いあなたが、子供たちを守れるわけがないじゃない。それを言い訳にして、罪から逃げているだけよ」
「……そんなこと……ない」
「あなたなんていなくても……カイお兄ちゃんがいるじゃない。カイお兄ちゃんなら、子供たちをちゃんと守ってくれる。あなたなんかよりも、よほど上手にね」
少女の投げられる鋭利な言葉に、ルーラは胸を抉られて声を失った。
過去の自分から告げられた、容赦のない言葉。だがその言い分は、息苦しいほどに正しい。ろくに感情の抑制もできず、自分の苛立ちを子供たちにぶつけるような、不完全な人間などより、カイのほうがよほど、子供たちを守るのに適している。自分なんかが気を張らずとも、カイが一人いれば、子供たちを守るには十分だろう。
そのようなこと言われるまでもなく――
ルーラは気付いているはずだった。
言い訳すら口にできなくなったルーラに、少女が呆れたように大きく溜息を吐く。
「子供たちを守る。違うでしょ? あなたが本当に守りたいのは……自分じゃない。自分の犯した罪を忘れるために、子供たちを利用しているだけじゃない」
「……わ……たしは……」
「あーあ……子供たちも可哀想。そんな自分勝手な理由で、守ってやるだなんて押しつけられてもさ。みんな内心、迷惑してるんじゃないかしら? きっとそうよ。さっきの子供の態度みれば一目瞭然じゃない。子供たちはあなたのことなんて――大っ嫌いなのよ」
その少女の指摘に――
ぐらりと景色が大きく揺れた。
(……みんな……私を……嫌ってる?)
足から力が抜けて、膝が崩れ落ちそうになる。咄嗟に体勢を立て直すも、まるで宙に浮いているように足元がおぼつかず、体が左右にふらつく。全身から汗が噴き出して、呼吸が自然と速くなる。ひどく息苦しい。だというのに実感が欠けている。まるで体から、魂だけが抜け出てしまったように、精神が俯瞰的に肉体を見下ろしていた。
焦点の定まらない視界の中で、ポニーテールの少女が動く。体勢を低くして一息に距離を詰めた少女が、棒立ちになったルーラに向けて、ナイフを突き出した。呆然自失ながらも、少女の殺意に体が反応。ルーラが刀を振るい、少女のナイフを受け止める。
だが――まるで力が入らない。少女が軽々と刀を弾いて、今度は横なぎにナイフを振るった。後方に跳んで躱すも僅かに遅く、ナイフの刃先がルーラの太腿を浅く引き裂く。
動きを明らかに鈍らせたルーラに、少女が凶暴な笑みを湛えながら絶叫する。
「六年前もそう! 神聖樹に近づいちゃいけないって分かってたのに、あなたは自分勝手な理由からそれを無視した! 孤児院のみんなから泣き虫だと馬鹿にされたのが悔しくて、皆を見返したかったから! そして何より――カイお兄ちゃんに認められたくて!」
虚ろな意識ながらも、ルーラは少女の語るその言葉を、素直に肯定する。
すぐに泣いてしまう自分は、孤児院の年下の子供たちからも、からかわれることが多かった。だからこそ、神聖樹に近づいたのだ。誰もが恐れている神聖樹に近づけば、誰も自分を泣き虫などと馬鹿にすることなどなくなる。そして何よりも、当時よりほのかに恋心を抱いていたカイに、自分が強い人間だと認めてほしくて、彼女はそれを実行した。
だがその下らない虚栄心が、取り返しのつかない悲劇を引き起こしてしまった。
少女が高速に奔らせたナイフを、受け止め続けるルーラ。だがそれは半ば無意識のもので、致命傷こそ避けているものの、彼女の全身には瞬く間に、無数の傷が刻まれていった。無残にも全身を赤く染めていくルーラに、少女が容赦なく罵声を浴びせる。
「大勢の人を殺したあげく、子供たちを守るだなんて言い訳して、犯した罪を償おうともしない! さらにその守るべき子供たちからも嫌われるんじゃあ、あまりにも無様じゃない! そんな生き恥を晒すようなこともう止めようよ! 自殺できないならあたしが殺してあげるからさ! ルーラの罪をルーラが罰してあげるから!」
少女の言う通りなのかも知れない。
子供たちを守る。それが取り返しのつかない罪を犯した自分の、これまで生きる理由であった。だがそんなものは幻想だ。自分が守らなければならない子供など、どこにもいなかった。自分はその幻想を子供たちに押し付けて、自分を許そうとしていただけだ。
地上世界を訪れてからの苛立ち。これもそれで説明が付く。カイの言う通り、自分が数日間留守にしただけで、子供たちが困ることなどない。それでも焦りを覚えていたのは、子供たちを守っていなければ、六年前に犯した罪に対する免罪符が得られないためだ。詰まるところ自分は、子供たちのことなど何も考えていなかった。全ては――
独りよがりの想い込みだ。
こんな浅ましい人間を、誰が慕うというのだろうか。自分のことしか考えていないくせに、守ってやるなどと押しつけがましいことを口にする人間を、子供たちは好いてくれるだろうか。否。そんなことはあり得ないだろう。子供たちも内心では――
自分を煙たがっているに違いない。
(……だったら――)
何のために生きるのか。今度はどのような言い訳をして生きろというのか。誰からも望まれていないのに生きる理由があるのか。そうまでして生きる意味があるのか。
(……そんなもの……あるわけがない)
重ねていた思考が、強烈な痛みにより唐突に引き裂かれる。紙一重で躱していた少女のナイフが、左肩に深々と突き刺さっていた。致命傷ではないが、これまでのような浅い傷でもない。すでにおぼつかなかった足が、強烈な痛みに崩れ落ち――
ルーラは少女の目の前に膝をついた。
「さようなら――六年後のあたし!」
ニンマリと微笑んだ少女が、頭上に掲げたナイフを振り下す。だが力んだためか、そのとどめの一撃には、これまでのような鋭さがない。躱そうと思えば躱せる。だが――
(もう……終わりにしよう)
ルーラは自身に突き下ろされるナイフを、ただぼんやりと見つめていた。




