第四章 過去の邂逅11/11
手袋へと伸ばした左手を引き、その手のひらを見つめる。人間のそれとは異なる、木肌の質感をした異形の左手。六年前よりカイに根付いた、魔法を行使する神聖樹の腕。
左手を凝視したまま沈黙するカイに、怪訝に首を傾げるマリエッタ。だが彼女のその視線には応えず、カイはつい先程閃いた考えを、頭の中で必死にまとめ上げていた。
左手の指先を握りしめて、カイは独りごちるように話し始める。
「俺の左手は……神聖樹の腕だ。魔法により生み出されたこの地上世界の物体に干渉することができず、仮に触れようとしてもすり抜けちまう……」
「え……ええ、そうですね。今まさにそれを実証したところでもありますが……」
カイの言わんとしていることが理解できないのか、マリエッタが躊躇いがちにそう答えた。カイは彼女の言葉に一つ頷いて、だがすぐに小さく頭を振った。
「だったらどうして、俺の左手は水に濡れたんだ。この地上世界の物体は、俺の左手に触れることができない。だったら水に濡れることだってないはずだ」
マリエッタの怪訝な表情が、残念な人を見るような、哀しげなものに変わる。
「……もしかして頭を強く打ちました? おかしなことを口にしていますよ? カイ自身が以前に仰っていたではありませんか。地下世界の物体……つまり手袋などをしていれば、それを仲介することで、神聖樹の腕でも地上世界の物体に触れることができると」
確かに、神聖樹の腕であろうと、地下世界から持ち込んだ手袋などを仲介すれば、地上世界の物に触れることができる。カイに水が掛けられた時、左手には手袋がはめられていた。ゆえに、左手が水に濡れることなど不思議ではないように思えるが――
それが落とし穴だった。
「それは違うだろ。確かに手袋越しに触る場合は、その理屈が成り立つ。だが濡れた手袋の内側から染み出てきた水はそうじゃない。手袋を仲介に挟んでなんかねえんだよ。だから地上世界にある水が、俺の左手を濡らすなんてことが、あるわけがねえんだ」
マリエッタの金色の瞳が大きく見開かれる。カイの意図することが伝わったのだろう。なぜこんな簡単なことに気付かなかったのか。鈍感な自分に愚痴をこぼしながら、カイはマリエッタに振り返り、口早に告げる。
「子供だ……水を持っていたあの子供が何か知っているはずだ! すぐに探して――」
「その必要はないよ」
唐突に――少年の声が割り込んだ。
カイは聞き覚えのある少年の声に、背中を粟立たせた。マリエッタもまたカイと同様に、突然の声に表情を強張らせている。カイはゆっくりと唾を呑み込むと、マリエッタと同時に、その声の出所に視線を向けた。
そこには――一人の少年が立っていた。
至って平凡な少年だ。年齢は十代半ば。体格は痩せてもなく太ってもいない。黒い髪に黒い瞳。地下世界の人間に比べて、肌の色はやや濃い。服装もまた特筆すべきことはなく、長袖にベスト、長ズボンにスニーカー、腕時計などの装飾品の類は見られない。
薄い笑みを表情に張り付けて、こちらを見据えている少年。どこにでもいそうな子供だが、その姿や声は間違いなく、先程カイに紙コップを叩き落とされて――
神聖樹の腕を水で濡らした少年だ。
カイとマリエッタ。二人の視線に見据えられて、少年がやれやれと頭を振る。
「やっぱり気付いちゃったね。不用意に近づきすぎちゃったのが不味かったな」
「……俺たちをつけていたのか?」
カイのその質問が下らないとばかりに、少年がクスクスと肩を震わせる。
「まあ……それしかないよね。というか、ずっと君たちの動向は見張ってたんだよ。だから君たちが何を探そうとしているかも、おおよそ見当がついている。だけど――」
少年がニンマリを黒い瞳を細めて、こちらを嘲るように肩をすくめた。
「間の抜けたことだよ。探しているはずのその存在に、逆に付けられているんだからね。それじゃあ何時まで経っても、探しものなんて見つかりっこないのにさ」
「探しものに……逆に付けられている?」
「これだけ言っても分からない? じゃあハッキリと言ってあげるよ」
少年が自身の胸に手を当てて――
「ボクが――神聖樹だよ」
そう淡々と言った。
息を呑む気配が、マリエッタから伝わってきた。カイもまた驚愕から呼吸が止まる。だが彼は無理にでも気を静めると、じんわりと全身に汗が滲むのを感じながら口を開いた。
「……それは……冗談の類か?」
「どうしてそう思うのかな?」
逆に聞き返してくる少年に、カイは苛立ちと緊張から大きく舌を鳴らす。
「俺の目が狂ってねえなら……お前は人間にしか見えねえんだけどな……」
「それはそうだよ。神聖樹はもともと人間――正確には魔術師なんだからね」
「なんだと?」
またも少年からあっさりと告げられた言葉に、声を上擦らせるカイ。その彼の反応が面白かったのか、少年が浮かべていた笑みを僅かに深くして、さらに言葉を続ける。
「君たちも知っている、品種改良生命体技術によるものだよ。魔術師と樹木の合成。まあでも、こんなこといくら口で説明しても証拠にはならないよね。さて困ったな……」
さして困ってもいないように、軽い口調でそう話した少年が、思案するように首を捻った。少年の言動が理解できず、少年を見据えたまま沈黙するカイとマリエッタ。二人の視線に晒されること約十秒、少年が捻った首を元の位置に戻して、ポンと手を打った。
「それじゃあこうしよう。神聖樹しか知り得ない昔話をここでしてあげるよ。昔話と言ってもたった六年前のことだから、三百年以上生きるボクには、つい最近のことだけど」
「……何の話をしてやがんだ?」
「だから言ってるだろ? 君たちにボクが神聖樹だと認めさせるためのものだよ。これを聞けば、君はボクを神聖樹と認めざるを得ないはずだ。何せこの話は君と――カイお兄ちゃんとルーラの二人を除いては、誰も知らない話のはずだからね」
少年が口にした名前に――
カイは表情を強張らせた。
怪訝な顔をしたマリエッタが、説明を求めてカイに視線を送ってくる。だが思考までも強張らせたカイには、マリエッタの疑問に答える余裕などなかった。しかしそんな彼でも、これから少年が話すだろう昔話とやらの内容は理解できる。それは恐らく――
少年と少女が犯した――罪の記録だ。
「それじゃあ話そうか。昔話のタイトルはそうだね……まあそれほど気取らずに――」
神聖樹を自称した少年が――
ニンマリと瞳を曲げた。
「神聖樹暴走の真実――かな?」




